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資料1 林博史「沖縄戦『集団自決』への教科書検定」

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検定審第2部会日本史小委員会の報告

『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』
平成19年12月25日
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html


資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)

林博史関東学院大学教授


【添付参考資料】資料1
林博史「沖縄戦『集団自決』への教科書検定」
『歴史学研究』第831号、2007年9月

はじめに

2006年度より使用されている中学歴史教科書から一斉に日本軍「慰安婦」についての記述が消えたことはよく知られている。これは教科書検定で削除するように指示されたからではなく、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)やそれを支持する国会議員らの運動(その中心には安倍晋三や中川昭一らがいた)、それをバックにした文部科学省(以下、文科省)からの教科書会社への圧力によって、各教科書会社が「自主規制」したからである。「つくる会」の教科書の採択率そのものは歴史でも0.4パーセントと低かったが、かれらの運動が与えた影響は大きかった。

2007年3月30日に発表された高校教科書の検定結果を見ると、ほとんどの教科書は、検定申請段階で「慰安婦」という言葉は書いていても、日本軍による強制あるいは関与には触れずにあいまいにしている。その結果、検定意見はつかなかった。アジアへの加害行為についての記述に検定意見をつけると国際問題化してしまうので、さまざまな圧力をかけて申請段階で叙述を減らす巧妙なやり方がとられ、それが「効果」を収めつつある。

その一方で、今回の検定では沖縄戦の「集団自決」について検定意見がつけられた。新たに仕掛けられた攻撃の対象が沖縄戦に関する記述だった。本稿では、この問題について考えたい。

Ⅰ 検定内容

まず検定内容について見ておきたい。5社7冊の日本史教科書に対して、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」という検定意見がつけられた。いくつかの事例を紹介しよう(次項の表を参照)。

【検定意見による沖縄「集団自決」の記述変更】

申請段階 検定意見により修正、合格したもの
山川出版社
日本史A
日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。 その中には日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた。
東京書籍
日本史A
日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった。 「集団自決」に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。
三省堂
日本史A
日本軍に「集団自決」を強いられた り、 追いつめられて「集団自決」した人や、
清水書院
日本史B
なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。
実教出版
日本史B
日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、 県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、

修正された点を見ると、実教出版がかなり抵抗していることがわかるが、いずれにせよすべて、「集団自決」を強いた、あるいは追いやったものとしての“日本軍”が削除されていることがわかる。その結果、なぜ、なにによって追い込まれたのかがわからない表現になっている。読み方によっては、米軍が迫ってきたので追いつめられた、だから住民が自ら自決したのだという解釈もなりたちうるだろう。日本軍の加害性を削除させ、日本軍への否定的なイメージをなくすこと、そのための突破口として「集団自決」がねらわれた印象を受ける。「集団自決『軍の強制』削除」(『東京新聞』)、「『集団自決』軍関与を否定」(『沖縄タイムス』2紙ともに2007年3月31日)という新聞の見出しは、検定の特徴を端的に表わしている。

こうした検定意見をつけたことについて、文科省は、「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」「今回の検定から、集団自決を日本軍が強要した、命令したという記述については検定意見を付し、記述の修正を求めることとした」などと説明している。

ここで大きな問題は、地裁で係争中の訴訟の一方の側の主張を根拠にしていることである。文科省が報道機関に配布した沖縄戦関連の「著作物等一覧」では、原告側の使用する「沖縄集団自決冤罪訴訟」という呼称を使用し、明確に原告側を支持する姿勢を示している。伊吹文明文科相はその呼称を使ったことについて「極めて不適切だった」と衆議院文部科学委員会で陳謝する一方、検定では「日本軍の強制がなかったとは言っていない」と弁明した(4月11日)。また衆議院教育再生特別委員会での質問に対して伊吹文科相は、「すべて手りゅう弾で自決をされたとは言い切れない」と検定を弁護した(4月20日)。

日本語を普通に読めば、申請本のどこにも、部隊長の命令によって「集団自決」がなされたとは書かれていない。後でくわしく述べるように、これらの教科書記述はこれまでの沖縄戦研究の成果を適切に表現したものであり、これまで検定に合格していたものである。検定意見の理由は支離滅裂なものであり、文科相の言うとおり日本軍の強制を認めるのであれば、申請本の記述で何も問題はないだろう。また申請本では、そういう例もあったという表現をしており、すべてがそうだと断定した叙述ではない。伊吹文科相の説明は詭弁としか言いようがない。これほどまでに詭弁がまかり通ると、まともな議論はとてもできる状況ではない。日本軍の強制を削除させるという政治的判断が最初にあったとしか考えられない物の言い方である。「つくる会」などの主張がストレートに反映された検定意見である。

Ⅱ つくる会の策動

この検定の背後には「つくる会」があると言ってよいだろう。「つくる会」の歴史教科書では沖縄戦について、旧版(2001年検定合格)では、戦艦大和の海上特攻の話や「鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って」というような叙述がなされていた。女子学徒隊までもが「勇敢に戦って」と歪曲もはなはだしく、間違いだらけのものだった。それが現行版(2005年検定合格)では「4月、米軍は沖縄本島に上陸し、日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヶ月半のちに沖縄を占領した」と味も素っ気もない叙述になっている。採択率を上げるために、批判されるような叙述を控えたのかもしれない。

しかし2006年度から使用される中学教科書の採択が本格化していた時期に、沖縄戦についての教科書記述を書きかえるべく、「つくる会」は新たな動きを始めた。2005年4月、「つくる会」の中心人物であった藤岡信勝氏は自由主義史観研究会の機関誌『歴史と教育』において、「沖縄プロジェクト」への参加をよびかけるアピールを発表し、5月に「沖縄戦慰霊と検証の旅」と称するツアーをおこなった。藤岡氏は、「過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて」、児童・生徒に「失望感」や「絶望感」を持たせようとする傾向があるとし、その「事例の一つ」が「沖縄戦で民間人が軍の命令で集団自決させられた」ということであると指摘している。

この呼びかけと一緒に同誌に掲載された沖縄戦についての「歴史授業案無念の授業『沖縄戦集団自決の真実』」では、この問題が「日本軍の名誉に関わるものであり、児童生徒の健全な歴史認識及び国防意識の育成にとって見過ごすことができない」とし、「皇軍および無念の冤罪を着せられた軍人の名誉を回復する授業を提案したい」としている。皇軍の名誉回復と国防意識の育成が教育の目標であると公然と主張される。その内容を整理すると、渡嘉敷島と座間味島における「集団自決」では、「自決せよ」という軍命令は出されていなかった、軍が命令したというのは、「国から補償金をもらうために」村の幹部がついたウソだと決めつけている。そのうえで、「授業案」では、<国からの補償金を得るため(「援護」)→ウソの証言→証言の拡大・定着>と「板書」し、教師が「このようにして、ウソが『事実』として拡大し、定着していったのです。恐ろしいですね」とまとめることとされている。

この動きを受けて、同年8月、「つくる会」などの支援の下に、座間味島の元日本軍部隊長と、渡嘉敷島の元部隊長の弟が、軍命令がなかったのにあったと書いたのは名誉毀損だとして大江健三郎氏と岩波書店を相手取って、「集団自決」に関する出版差し止めと損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

そもそもこの二つの島での「集団自決」を最初に書いたのは、沖縄タイムス社編『鉄の暴風』(朝日新聞社、1950年、のちに沖縄タイムス社から刊行)だったにも関わらず、大江健三郎『沖縄ノート』(岩波書店〔新書〕、1970年)を訴訟の対象にしたのは、著名ではあるが研究者ではない大江氏を攻撃し、沖縄戦での策動の突破口にしようとしたものと思われる。またかれらは同時に、岩波書店から出版されている、家永三郎『太平洋戦争』(初版1967年、第2版1986年)と中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』(1965年)の出版販売差し止めも請求している。この訴訟の弁護士らは、日本軍が南京攻略にいたる過程での百人斬りはなかったとして、本多勝一氏や毎日新聞社、朝日新聞社を訴えていたメンバーと重なっている(当然のことながらかれらは敗訴した)。

本来であれば、沖縄タイムス社を訴えるべきだろうが、そうすると沖縄全体を敵に回すことになるので、ヤマトンチューを相手に大阪で訴訟をおこなうという策に出たのかもしれない。

Ⅲ 1980年代の教科書問題

ここでこれまでの沖縄戦に関する教科書検定の歴史をふりかえっておこう。歴史教科書の中で沖縄戦の具体的な叙述はほとんどなかったが、1974年に家永三郎『新日本史』(三省堂)の脚注に「沖縄県は地上戦の戦場となり、10万をこえる多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた」という叙述が書き加えられたのがほぼ唯一だった。その背景には、住民の視点から膨大な証言を集め、その後の沖縄戦研究・記録の出発点となった『沖縄県史第9巻沖縄戦記録1』(1971年)が刊行されたことがあったのではないかと思われる。

その後、大きな社会問題になるのが1982年の検定だった。アジアへの「侵略」を「進出」などに書きかえさせる検定が国際問題化し、いわゆる教科書問題がおきた。このとき、高校教科書『日本史』(実教出版)の脚注において、江口圭一氏が日本軍による住民殺害について記述したところ、検定意見がつき、結局、削除せざるをえなくなった。文部省は、江口氏が示した沖縄県立平和祈念資料館のパネル資料は根拠にならないときめつけ、さらに『沖縄県史』は「体験談を集めたもので一級の資料ではない」とこれも認めなかった。

この検定について沖縄のメディアが批判しただけでなく、沖縄県議会は全会一致で、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり……、削除されることはとうてい容認しがたい」とし、「同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する」という意見書を採択した(1982年9月4日)。その結果、文部省は次の改定検定の際に配慮すると譲歩せざるを得なくなり、その後は日本軍による住民殺害の記述が教科書に載るようになった。

しかし、翌年1983年の検定において、家永三郎『新日本史』で日本軍の住民殺害を記述したところ、文部省はその点は認めざるを得なかったが、集団自決の人数の方が多かったのだから、集団自決をまず書けとの検定意見(修正意見)がつけられた。それに対して、家永三郎氏は1984年に提訴した。この第3次教科書訴訟では南京虐殺や731部隊などと並んで、沖縄戦における「集団自決」が争点となった。

1988年には沖縄出張法廷まで開かれた。国側は曽野綾子氏らを証人として出し、「集団自決」を日本軍による犠牲ではなく、自ら国家のために殉じた崇高な死として描こうとした。「戦闘に寄与できない者は、小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた」と書いた防衛庁の戦史『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)と同じであった。つまり住民殺害を認めざるを得ない代わりに、自ら国家に殉じた崇高な死を書かせることにより、日本軍の加害を薄めようとしたと言える。

このときも「集団自決」の命令の有無をめぐって論議があったが、家永側からは沖縄戦研究者の安仁屋政昭氏や石原昌家氏、渡嘉敷島の「集団自決」から生き残った金城重明氏らが証人に立ち、渡嘉敷島では米軍上陸前の3月20日、あらかじめ日本軍の兵器軍曹が村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集め、手りゅう弾を一人2個ずつ配り、いざという場合はこれで自決せよと命令していた事実が明らかにされた。そして米軍上陸後、防衛隊員たち(防衛召集で召集された正規の軍人)が島民に合流し、かれらによって持ち込まれた手りゅう弾も使われて「自決」がおこなわれた。判決では、集団自決を記述せよとの検定意見は違法とまでは言えないとして家永側の敗訴となったが、事実関係については家永側の調査研究にもとづく立証が明らかに勝っていた。

この第3次訴訟の最高裁判決(1997年8月29日、いわゆる大野判決)では、「原審の認定したところによれば、本件検定当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍によりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく(略)、県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解」であるとし、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」としている。さらに「集団自決を記載する場合には、それを美化することのないよう適切な表現を加えることによって他の要因とは関係なしに県民が自発的に自殺したものとの誤解を避けることも可能」であるとも述べられている。最後の部分は、家永側の訴えを却下する理屈であるが、「集団自決」が日本軍によって強いられた、あるいは追い込まれたという叙述を容認するものでもあり、その後、教科書でもこうした書き方が一般化していくのである。

Ⅳ 沖縄戦研究が明らかにしてきたこと

*1 住民たちの証言

ここで「集団自決」に関わる住民の証言を見てみよう。座間味島での事例をいくつか紹介すると、何人かの島民は米軍上陸の直前に日本兵から「明日は上陸だから民間人は生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」と言われて手りゅう弾を渡されている。それとは別に、弾薬運びを手伝っていた若い女性たちには、軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手りゅう弾が渡されていた。彼女たちは、日本軍が斬り込みに行くと言って、いなくなってから、みんな死んでしまったと思い、もらった手りゅう弾で自決を図るが、幸い不発に終わって助かっている。壕の中で日本兵から「捕まらないように潔く死んでください」と言われた若い女性の証言もある。山の中に逃げ込んだある女性は、ある中尉が近くにいた島民たちを集め、「敵に見つか
ったら舌をかみ切って死になさい」と言ったと証言している。

別の女性のグループは島内を逃げ回っているうちにほかの住民に出会ったが、そのとき、「あなた方はアメリカーに強かんされて、二本松に吊るされていたと兵隊さんたちが言っていたけど、なににあなた方、生きていたの」と驚かれた。つまり日本兵たちは、若い女性は強かんされ、木に吊るされているとウソをついて島民の恐怖心を煽っていたのである。

また座間味島でも渡嘉敷島でも何人もの島民が日本軍に殺されている。米軍に捕まったが殺されることもなく、かえって治療をうけ食糧をもらえたので、山中に隠れている島民に、米軍は悪いことをしないし食糧もたくさんあるから出てくるように呼びかけた島民は、自宅で寝ていたところを日本軍に殺された。また米軍が投降を呼びかけたのに対して、周りの人たちに出て行こうと促した二人の島民は日本兵に背後から撃ち殺された。

慶良間諸島に上陸した米軍作成の文書によれば(『沖縄タイムス』2006年10月3日)、「集団自決」のおきた慶留間島では、あらかじめ複数の日本兵から米軍が上陸してきたときには自決せよと命じられたと、生き残った島民が米軍に語っている。米軍上陸前に隣の阿嘉島にいた海上挺進第2戦隊長がやってきて演説をおこなったが、島民はいざというときは自決せよということだと理解していた。また「日本兵たちから、米軍が上陸してきたときには、家族を殺せと諭されていたという。民間人たちはいま、その指導に従ったことを非常に憤慨しており、ある民間人は恨みを晴らそうとある日本兵捕虜を殺そうとしたほどである」と米軍の報告書に書かれている。米軍が負傷している島民を親切に治療し、食糧などを与えて島民を保護した結果、人々は騙されていたことに気づいた。「幾人かは、捕らえられないように家族を殺したことを隠さずに後悔し、多くの者が山にもどってほかの民間人に真実を
話し、かれらもまた生きて家に帰れるようにしたいと頼んできた」という。

座間味島で負傷者の治療にあたっていた米軍政府のスタッフは、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように勧告されていた」と報告している。慶留間島のある島民は、島に駐屯していた海上挺進第2戦隊第1中隊から「死ぬ場合には前もって1中隊に連絡しなさい。一緒に死ぬから」と言われていた。そこで米軍が上陸したので1中隊と連絡を取ろうとしたができず、それから「自決」がおこった。島民たちも日本軍と一緒に死ぬということは日本軍から既定のこととして言われていたのである。

こうした状況のなかで、米軍が上陸し、小さな島で逃げ場もほとんどない状況に追い詰められた島民は、「自決」するほかに選択肢はないと思い込まされていたのである。日本軍によって生きるという選択肢を封じられていたのである。

「軍命」について言えば、日本軍がくりかえし宣伝していた「軍官民共生共死」という思想が浸透していたなかで、村役場の通達はイコール軍命令と受けとめられる状況にあった。当時の沖縄は軍政下でも戒厳令下でもなく、日本軍が直接住民に命令を出すことは法的にはできなかった。物資の徴発にしても人の徴用・動員にしても行政機関を通しておこなわれていた(実際にはそうした法的な手続きを無視して軍による直接の乱暴な徴発・徴用さらには召集がおこなわれていたが)。軍の命令は村役場を通じて伝わるのが通常であった。したがって役場吏員から「軍命」が出たと言われれば、みんな信じるのは自然だった。

なお米軍上陸後の時点では、「合囲地境」つまり実質的に軍の戒厳令下におかれていたとも理解される。その場合には軍が直接、住民に命令を下すことも可能になるし、役場からの指示は軍命令と見なされることになる。

いずれにせよ日本軍と一緒に住民もみな「玉砕」するのが当然だと思われていた。そして「集団自決」は、日本軍もこれで玉砕するのだと思われたときにおきている。まとめて言えば、日本軍や各級行政機関ら日本国家全体が、住民をそうした「集団自決」に追いやったのである。だから、「集団自決」で死に切れず生き延びた住民が、後になって、日本軍が山中にこもって生き残っていることを知ると、裏切られたという思いをもち、もはや自決しようとはしなかった。つまり「軍官民共生共死」の思想を叩き込みながら、日本軍は山に隠れて生き残りを図る一方で、その思想を信じ込まされていた住民は、日本軍も玉砕すると信じて自らも「集団自決」をはかるという結果になったのである。渡嘉敷島でも座間味島でも、米軍に保護された者をスパイだとして殺害しながらも、日本軍の幹部たちは生き延び、のちに山から降りて米軍に武装解除されるのである。

かりに「集団自決」の問題を脇に置いたとしても、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた日本軍は多くの住民や朝鮮人軍夫を虐殺しており、その部隊長の残虐行為に対する責任は免れない。その点だけでも「皇軍の名誉」などとうてい回復できるものではない。

ところで、沖縄各地の状況を見てみると、日本軍がいなかったところでは、地域のリーダーの判断によって集団で投降して助かっているケースが少なくない。そうした事例は私の著書『沖縄戦と民衆』のなかでたくさん紹介しているのでここでは省略するが、日本軍の宣伝のウソを見抜き、住民の助けを求めて米軍と直接交渉し、集団で投降したケースもたくさんある。それらはいずれも日本軍がいなかったから可能だった。

*2 「集団自決」を引き起こした要因

なぜ「集団自決」がおきたのか、という要因を整理しておきたい。「集団自決」が沖縄のどこでどのようにして起きたのか、については私の著書で詳しく検討している。同書では、地域の階級階層構造のなかで原因を整理する議論をおこなっているが、ここでは詳述するスペースがないので、箇条書きにして整理してみたい。詳細は同書を参照していただきたい。

第1に、住民に対しても、捕虜になることは恥であり、捕虜になるくらいなら一人でも敵を殺して自らも死ぬか自決せよという宣伝・教育・語りがくりかえされていた。本来、捕虜になるのは軍人であって非戦闘員である住民は捕虜にはならないはずだが、住民も捕虜になるのは恥辱であるということが、教育や行政機関、新聞、さらには日本軍将兵からくりかえし叩き込まれた。皇民化教育はまさにこれにあたる。

第2に、米軍に捕らえられると、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けたうえでひどい殺され方をするとくりかえし宣伝・教育されていたことである。民家に分宿していた日本軍将兵たちは、日本軍が中国で自らおこなった強かんやさまざまな残虐行為を語った。住民にとっては、皇軍でさえそれほどひどいことをするのならば、鬼畜である米軍はどんなひどいことをするかわからないという恐怖心を煽る絶好の機会となった。若い女性には、とりわけ深刻な影響を与えたと見られる。

第3に、上記の点とも重なるが、米軍に投降しようとする者は非国民、裏切り者と見なされ、殺されても当然であるという意識が植えつけられ、しかもそれは単なる脅しではなく、実際の戦場の中で、投降しようとする者を日本軍が殺害することがあちこちでおこなわれたことである。

第4に、「軍官民共生共死の一体化」が叫ばれ、日本軍とともに住民も玉砕するのだという意識が叩き込まれていたことである。慶良間諸島での「集団自決」に共通してみられるのは、これで日本軍は玉砕するのだからわれわれ住民も一緒に玉砕するのだという意識である。「集団自決」という言葉は戦後の造語であり、当時の人々は「玉砕」と言っており、軍隊と民間人の区別がない使い方をしていたことからも、その一体化の状況がわかる。

第5に、慶良間諸島で見られるのは、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将兵が住民に自決用の手りゅう弾を配布し、いざというときはこれで自決せよと命令あるいは指示・勧告していることである。日本軍の権威が絶大であった沖縄、特に慶良間のような離島では、日本軍将兵から言われることは命令以外の何物でもなかった。住民にとっては村役場の吏員でも「とても怖い存在でしたので、絶対服従」であったが、軍人の権威はそれよりはるかに高かった。この手りゅう弾が多くの場合、「集団自決」の引き金として使われている。さまざまな機会に多数の手りゅう弾が住民に配られていたということは、日本軍の承認あるいは容認なしには不可能である。当然、指揮官としての部隊長の責任は免れないと言うべきだろう。

第6に、慶良間の住民が「集団自決」するきっかけとなっているのが、「軍命」が下されたと聞いたことである。もちろん日本軍の部隊長がその命令を出すのを直接聞いたのか、という点についてはわからない。ただ確実に言えることは、「軍命」が下されたと伝えられたとき、その軍命に従って自決するのが当然であると信じ込まされていた。それは文科省が言うように住民が勝手に思い込んだのではなく、長い期間をかけて叩きこまれていたのである。

いくつかの要因を見てきたが、住民たちは米軍に保護されて親切な扱いを受けると、自分たちが騙されていたことがわかり、もはや自決しようとはしなかった。あるいは玉砕したはずの日本軍が生き残っていることがわかると自決をやめ生き延びようとし始めるのである。そうした実態を見ると、皇民化教育などの第1の要因の影響はかなり限定的であり、むしろ第2以下の要因が大きいことがわかる。

こうしたことから「集団自決」は住民たちが日本軍によって追い込まれ、強いられたものであることが沖縄戦研究の共通認識となっており、そのことが最初に挙げたような教科書記述にも反映されていたのである。

なお「集団自決」という用語については議論がある。しかし用語が問題ではなく、いずれにせよ、その実態が日本軍とその当時の国家の強制・誘導・脅迫・教育などによって住民が死を強いられたものであること、それがはっきりと理解される文脈のなかで説明されることが肝要であると考える。

*3 援護との関連

戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下、援護法)の問題について触れると、軍に協力したものしか援護の対象にならないという原則がある。軍に食糧を強奪されても「食糧提供」、壕を追い出されても「壕提供」と申請しなければ援護を受けられない。日本軍に殺されたという理由では援護の対象にされない。「集団自決」でも日本軍によって強いられたという理由では認められないので、軍命令に従って軍の足手まといにならないように軍に協力して「集団自決」したのだと、「戦闘協力者」として申請しなければならなかった。この援護法の発想は、日本がおこした誤った戦争の被害者に償うというものではなく、軍に協力した者に報償として与えるというものであり、侵略戦争への反省のまったくないものである。こうした日本政府の姿勢こそが、問題にされなければならない。

いわゆる「戦闘協力者」の援護申請は沖縄では1957年からおこなわれているが、渡嘉敷島や座間味島の「集団自決」遺族の申請に対して、当初から短期間で厚生省が援護対象として認定していたことが『沖縄タイムス』(2007年1月15日)報道の文書から判明した。当時の琉球政府援護課は1953年に設置されてからすぐに慶良間諸島の調査をおこない、「軍命」があったことは当時から聞いていたことを関係者は証言している。

もともと軍命について書いた『鉄の暴風』は援護法が制定される前の1950年に刊行されたものであり、住民の証言でも、当時、軍命が下ったということは広く語られていたことである。あとになって援護の金ほしさに軍命を作り上げたと攻撃するのは、悪質なウソと言うほかない。

今回の検定に対して、沖縄県では全41市町村議会すべてで「『集団自決』が日本軍による命令、強制、誘導などなしに起こりえなかったことは紛れもない事実」(座間味村議会)などと検定意見の撤回を求める意見書を採択した。県議会では自民党が動揺したが、保守の仲井真弘多知事も検定に異議を唱え、さらに世論に圧されて6月22日、県議会は全会一致で検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書を採択した。沖縄の力で検定を覆しつつあるのが現段階での状況である。

Ⅴ 歴史学界になげかけるもの

「つくる会」や文科省のやり方は、全体的な状況を一切捨象して、当日、直接の軍命令があったかどうかだけに争点を絞り、そこを否定することによって、皇軍の名誉回復、さらには沖縄戦における日本軍の加害行為、沖縄戦自体が沖縄住民を犠牲にするものだったことを否定しようとするものである。こうした方法は、南京事件でも「慰安婦」問題でもとられている常套手段である。

「集団自決」をめぐって命令があったという文書は残っていないという言い方もされる。その理屈は日本軍「慰安婦」への日本軍による強制はなかったという言い方と共通している。実際には「慰安婦」についての日本軍文書はたくさん残されており、その理屈は通用しないのだが、安倍首相のように「官憲が家に押し入って、人さらいのごとく連れて行く」狭義の強制はなかったと、極端に狭い解釈を持ち出して強制性を否認しようとしている。中国の山西省のケースでは、東京高裁でそうした拉致が事実認定されていることはまったく無視される。安倍首相の理屈で言えば、北朝鮮に拉致されたケースで狭義の強制はなかったということになるだろうし、拉致したという北朝鮮の公文書が出てこない限り、拉致を事実と認めることはできないはずだが。

それはさておき、『沖縄県史』は証言を集めただけで信用できないという理屈は、元「慰安婦」の証言は信用できないという理屈と共通している。自決せよと手りゅう弾を渡されたという住民の多くの証言は切り捨てられる。「慰安婦」は金ほしさにウソを言って賠償を要求しているという中傷も、「集団自決」での言い方と一緒である。彼らは人は金目当てでしか動かないと思い込んでいる心貧しき人々なのだろう。金をちらつかせれば基地を受け入れるだろうと高飛車な日本政府や自民党の指導者たちと同じだろう。

こうした論法を許してしまうならば、次は、沖縄戦での日本軍による住民虐殺を否定することにつながるだろう。日本軍が住民を虐殺したことを示す公文書や命令書はどこにあるのか、公文書である援護関係書類によると、住民自ら日本軍に協力したという内容ばかりではないか。だから公文書に基づくと、沖縄県民はみな自ら進んで日本軍のためお国のために命を捧げたのだ、という理屈が出てきてもおかしくない。公文書には現れない、民衆の営み、人々の証言でしか示すことのできない歴史は、信用できないものとして葬られていくことになる。

1990年代の戦争責任研究や戦後補償運動が、何よりも元「慰安婦」の女性たちの名乗り出とその証言のインパクトによって始まったことをあらためて思いおこす必要がある。それを根本から否定する動きが日本全体で広がっている。今回の検定は、沖縄戦にとどまらず、さまざまな分野にも波及する、きわめて大きな問題なのである。歴史学でいえば、民衆史や社会史、女性史をはじめ民衆の視点からなされてきた蓄積がある。しかし民衆の証言や記録など民衆の語ってきたことは信用できないと切り捨てようとする乱暴な手法が権力者たちによって公然とおこなわれている。これは沖縄戦研究や戦争責任研究だけにとどまらない、歴史学界全体が問われている深刻な問題ではないのだろうか。

しかし、沖縄戦や「慰安婦」問題でのこうした攻撃に対する歴史学界の反応は鈍いと言わざるを得ない。なぜなのか、その問題を考えてみると、これまでの歴史学界のあり方が問題となる。

1990年代以降について見てみると、1990年代初めより日本軍「慰安婦」など戦争犯罪に関する調査研究が進展し、同時に多くの市民、弁護士、研究者らが戦後補償を求める運動に取り組み始めた。多くの訴訟が提起されたことも周知の通りである。日本の戦争責任と戦後補償をめぐって国内外で運動が展開され、それに反発する右派との間で、激しい議論が展開されてきている。

そうしたなかで歴史学研究会(以下、歴研)は一貫して「慰安婦」問題を黙殺してきた。「慰安婦」問題にとどまらず戦争犯罪・戦争責任問題についてもほとんど見て見ぬ振りをしてきた。学会の姿勢を示すのは、大会テーマ・報告や機関誌の特集であろうが、今日にいたるまで「慰安婦」問題が取り上げられたことは一度もないし、戦争犯罪・戦争責任問題も無視されてきた。

『歴史学研究』のバックナンバーを見てみても、90年代においては、史料・文献紹介で「慰安婦」問題の共同研究の成果が1冊紹介されているだけで、数多くの成果が出されていたにも関わらず、書評で取り上げられた文献は皆無である。2004年になってようやく1冊が書評で取り上げられただけである。ほかの分野で見ると、天皇の戦争責任と南京虐殺事件についての本はいくつか取り上げられているが、ほかの戦争犯罪・戦争責任分野については成果に比して非常に少ない。

沖縄戦について言えば、2000年の大会の特設部会で沖縄戦の記憶についての報告がなされ、ほかに時評で少し沖縄の問題が取り上げられているが、沖縄戦の研究成果については書評でも取り上げられたことはない。沖縄戦研究に対しても歴研はきわめて冷淡であることがうかがわれる。

さきに、民衆の視点からの沖縄戦調査研究の出発点となった『沖縄県史』について触れたが、このとき、『歴史学研究』第379号(1971年12月)に荒井信一氏が「二つの沖縄戦史―防衛庁戦史と『沖縄県史』―」を執筆し、その意義を高く評価している。沖縄で沖縄戦に取り組んでいた研究者たちにとって、この荒井氏の論文が非常に励ましになり、自分たちがやってきたことが正しかったと自信になったという話を聞かされたことがある。防衛庁の戦史と対比して県史の意義を取り上げた視点は、その後の教科書検定をめぐる基本的な対立点をこの段階で浮き彫りにした先駆的なものだった。

また南京事件をはじめとする、日本の戦争犯罪研究を考える上で、1982年の教科書問題をうけて江口圭一氏が『歴史学研究』第511号(1982年12月)に書いた「十五年戦争史研究の課題」が、私を含めた研究者に与えたインパクトは大きかった。侵略戦争のなかでおこなわれた具体的な戦争犯罪研究はこれ以降、現代史研究の重要な課題となり研究者もこの問題に取り組み始めた。またそのときの教科書問題に対しても、歴研は1982年12月に『歴史家はなぜ“侵略”にこだわるか』を編集出版した(発売は青木書店)。私自身、歴研委員としてこの編集にかかわり、自らも東南アジアへの侵略についての項を担当した。この経験が、後にマレー半島などでの戦争犯罪研究をおこなうようになることにつながっていった。このときの歴研委員長が後に「日本の戦争責任資料センター」代表となる荒井信一氏であるし、また私がそのセンターの研究事務局長になったことも、このときの歴研の取組みが原点とな
ったとも言える。

このように沖縄戦研究においても戦争犯罪研究においても歴研は大きな役割を果たしてきた。しかしそれは1980年代までのことで、90年代に入ると一転してこうした問題には冷淡になり、「慰安婦」問題が日本社会に与えた大きな衝撃に対しても、「見ざる聞かざる言わざる」という姿勢を貫いてきた。

歴研さえもがこうした姿勢に終始するなかで、「慰安婦」問題や沖縄戦を研究しようとする新たな担い手が果たして育つのだろうか。戦争犯罪や戦争責任研究は、政治の問題であって学問にはなじまないというような風聞が時々伝わってくる。歴研のこうした姿勢は、そうした風聞を裏づけしていると理解されても仕方がないだろう。

「慰安婦」問題にしても沖縄戦にしても、日本政府や右派の暴言がまかり通っている日本社会の寒々とした状況(唯一の例外は沖縄であるが)は、歴史学界にも共通しているように見える。歴史学界のどこかに、この現状に立ち向かおうとする力があるのだろうか。


【参考文献】

沖縄県歴史教育者協議会『歴史と実践』第26号(2005年7月)、第28号(2007年7月)
林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年
宮城晴美『母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言―』高文研、2000年
安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』晩聲社、1989年
藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』立風書房、1987年
『沖縄タイムス』『琉球新報』の記事

なおここで紹介した住民の証言はすべて『沖縄戦と民衆』に収録されているものか、その後の『沖縄タイムス』『琉球新報』『朝日新聞』から採ったものである。


筆者のウェブサイト「日本の現代史と戦争責任についてのホームページ」にも関連する論文が多数ある(http://www32.ocn.ne.jp/~modernh)。
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