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様相と概要の異同の実際

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様相と概要の異同の実際


迫手門学院大手前中・高等学校
紀要第五号 1986年3月30日
『渡嘉敷島における戦争の様相』と
    『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同
伊敷 清太郎



段落ごとに『様相』を黒字で、その下に『概要』を青字で記しました。
( )付き小見出しは原論文にはなく、転載者が付けたものです。

まえがき


【様相】この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。

【概要】この記録は今次大戦における沖縄戦の一端渡嘉敷島における戦聞の概要を収録したのであるが 沖縄本島と切離された孤島の戦線には幾多様相を異にするものがある

【様相】当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由の中に樹立して行くよう願って止まない。

【概要】当時村長米田惟好氏 役所職員 防衛隊長屋比久孟祥氏等の協力を得て纒めたものでありますが 過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し そして今後幾多反省すべきことがあること(※1)を痛感した

将来この社会において再びこの様な事を繰返すことのないよう 永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由世界に樹立することを願って止まない 
一九五三年三月二十八日渡嘉敷村遺族会


(軍部隊の進駐)


【様相】昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐた。その船を目標に友軍戦闘機が三機編隊で毎日急降下演習が続けられてゐる。

この汽船は兵器弾薬を南方へ輪送するものと住民は相像してゐた。

【概要】昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐたその船を目標に友軍戦闘機三機が編隊で毎日急降下演習が続けられていた(※2)、この汽船は兵器弾薬を南方方面へ輪送途中寄航したものと住民は想像していた。

  • (引用者注)阿佐港は座間味島東側の湾内

【様相】同 九月七日沖縄憲兵隊某軍曹が突然来島した。用件は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用の目的であった。

鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出発した。

【概要】同 九月七日 沖縄憲兵隊の軍曹が来島した。その目的は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用することである。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出港した

【様相】旬日を出でずして村営航路嘉進丸も軍需運搬の目的で徴用され、那覇、久米島間の輸送任務についた。軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港の出入を堅く禁じていた。

【概要】旬日を過ぎずして村営航路嘉進丸も軍需物資輸送の目的で徴用され那覇、久米島間の輸送任務についた、軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港への出入を堅く禁止した為渡嘉敷住民は全く孤立状態に置かれた、

【様相】同 九月九日午前八時南方行きと思はれた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た。驚いたことには、武装した陸軍の兵隊が上陸してきたからである。或る兵に尋ねたら渡嘉敷に駐屯するとのことである。部隊は鈴木部隊で兵員一千名、基地隊と呼ぱれた。鈴木部隊は渡嘉志久に上陸を完了し渡嘉敷部落へ前進した村国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待をし軍の慰労に努めた。兵員の中には長途の輸送で疲労した為か下痢患者を続出する有様であった。部隊の宿舎には住民の住家があてがわれ、村民は部隊長鈴木少佐の要請により男子十六才から六〇才まで、女子十六才から六〇才までが部隊に協力九月十日から陣地構築作業に従事した。

【概要】同 九月九日午前八時南方行きと思ってゐた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た 驚いたことは(※3)武装した陸軍の兵隊が上陸したのである。或る兵隊に尋ねたら渡嘉敷駐屯するとのことである 部隊は鈴木部隊で兵員一千名基地隊と呼ぱてゐた 鈴木部隊は渡嘉志久へ上陸を完了し同日渡嘉敷部落へ移動した、

村の国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待や慰労に努めた、 兵員の中には長途の輸送で疲労した為に数多くの下痢患者(※4)を続出する有様であった、部隊の宿舎には住民の住家があてがわれた早速鈴木少佐の要請により男女十六才から六〇才までが軍に協力することになり九月十日から陣地構築作業に従事せしめられた、

  • (引用者注)7,000トンもの大型輸送船が突然やってきたとは驚きです。1千名もの海上挺進第三基地大隊の将兵を、沖合い停泊で1週間も待たせ、泥縄の上陸準備をした上で、渡嘉敷島西側の渡嘉志久に上陸してきたということです。この部隊はいったいどこで編成され将兵はどこから乗船してきたのでしょうか? 

【様相】同 九月二十日特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻をもって来島渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜猛烈な攻撃演習が秘密裡に行われていた。

数日後徴用された漁船は漁業の根拠地を渡嘉敷港に変更された為、全漁船帰港連日鰹漁業に従事軍需獲得に従事した。

【概要】同 九月二十日、特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻を以って来島 渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後には本村から徴用された漁船は漁業根拠地を渡嘉敷港に変更された為全船帰港し連日軍の需要獲得に従事した、



(10・10空襲以降)


【様相】同 十月十日那覇上空は爆音と共に平素と異った様子が見られた。時には高射砲の弾雲も見受けられるので鈴木部隊本部に問ひ合わすと友軍の対空射撃演習だとのことで村民は安心して何時もの通り陣地作業へついた。漁撈班においても嘉豊丸は出漁し源三丸神祐丸は港内に繋留してゐた。その頃前島前方の上空では数百の飛行機が乱舞してゐたが間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が見られ異様な爆音に不案を抱きながら眺めてゐると飛行機は機首を下げて底空すると同時にダヾヽヽと機銃掃射を始めた。はじめて敵機の空襲と知り村民は上を下への大混乱に陥った大人は陣地作業のため留守であり老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往待避に長時間を要した 

【概要】同 十月十日那覇上空は、絶好の秋日和である慶良間から沖縄本島が手に取る様に見渡しことができる

午前九時頃平素と異った様子が見受けられた、時には高射砲の弾雲が見られるので鈴木部隊本部に問い合すと友軍の対空射撃演習だとのことである、 村民は安心して平素のように陣地構築に従事した、

漁撈班においても嘉豊丸が出漁した、源三丸神祐丸、が出漁準備を整えている頃前島前方の上空で数百の飛行機が乱舞するの(※5)が見られたかと思うと間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が現れた、何時もとは異った爆音に不案を抱き乍ら眺めていると 飛行機は機首を下げて底空すると(※6)同時にダヽヽヽと機銃掃射が始まった はじめて敵機の空襲と知った村民は足の踏み場を知らず上を下への大混乱に陥った、殆どの大人が陣地構築のため留守である、老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往(※7)であるために待避に長時間を要した 

【様相】敵機の空襲は益々猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下され、何回となく波状空襲が繰り返へされた。

嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中、爆沈され、機関長古波蔵鉄彦氏は戦死し、他の乗組員はかろうじて生命を得た。源三丸、神祐丸、は港内に於て炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も港内待避中爆破され、戦死者二名を出した。村営航路嘉進丸は軍需物資輸送久米島からの帰途渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され機関長金城連平事務長小嶺賀明の命を奪った。船長古波蔵良秀は三日漂流の後渡名喜島へ上陸生還した。全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ接近浮上した敵潜水艦の姿が度々見受けられた。

【概要】敵機の空襲はますヽヽ猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下された、幾度となく波状空襲が繰返へされる中に嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中に爆沈され機関長古波蔵鉄彦は戦死し他の乗組員は辛うじて生命を得ることができた、

源三丸神祐丸は出漁することができず港内において炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も爆破炎上し二名の戦死者を出した

村営航路嘉進丸は軍需物資を輸送しての久米島からの帰路、渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され 機関長金城連平、事務長小嶺賀明の命を奪った、船長古波蔵良秀は三日間漂流の末渡名喜島へ辿り着き生還した、

全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事する者や各高地に設けられた監視哨勤務等日夜軍務に就くことになったが 状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ敵潜水艦の接近浮上する姿が度々見受けられるようになった

  • (引用者注)10.10空襲で全漁船を失ったとは驚く。島は産業を失ったに等しい。情報の入手ができない完全に孤立した存在となった。以後物資は軍の補給に頼ったのだろうか。しかし軍の物資補給がやがてなくなれば、駐留部隊の将兵の分まで細々と自活を強いられる村民に負担がのしかかる。

【様相】同十月下旬、
今まで自家通勤で軍陣地作業に従事していた村民に防衛隊として七十九名の召集が下令された。兵舎には村の国民学校が充てられ初年兵勤務が続けられたが教練ではなく壕掘作業に従事し、昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた。

【概要】同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた

  • (引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。

【様相】サイパン島陥落後状況は益々悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵を送り出すにも困難を極めた。学童も率先して軍に協力し婦人会、青年団員も軍の炊事班に徴用された。その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。

【概要】サイパン島陥落後戦況は益ヽ悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵の送り出しにも困難を極めた 学童も率先して軍の作業従事し 婦人会や女子青年会員は軍の炊事班に徴用された、

いよヽヽ軍の防衛陣地や壕も大方完成し舟艇の待避壕や海岸に至る枕木も施設も終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は完了した。

【様相】昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築は殆んど完成したが基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部及赤松隊特幹隊を残し、沖縄本土防衛のため島尻地区へ移駐した。それと前後し水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫三百二十名が楠原中尉を隊長として来島し、その任務についた。鈴木部隊移駐後は村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した。

【概要】昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築が完成すると間もなく基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部(※10)と赤松隊長が率いる特幹隊を残して沖縄本島防衛のため島尻地区へ移動のであるが これと前後して水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫二二○名が楠原中尉を隊長として来島し任務についた、

鈴木部隊移動後 村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した、

  • (引用者注)「村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した」という表現は、軍隊組織としては当然のこと(赤松元戦隊長自身も自認している)。しかし集団自決裁判の原告とその代理人弁護士或いは秦郁彦氏などは、防衛隊があたかも戦隊とは指揮命令系統が違う「民兵」であるかのような荒唐無稽な主張をしている。

(3・23~26米軍襲来、出撃か?)


【様相】同 三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された。事態は悪化し早朝からグラマン機の波状空襲が間断なく燥り返された。

B二十九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし、耳をつんざく凄しさである。午前八時半村役所、郵便局が犠牲となり続いて防衛隊の兵舎である国民学校の爆破炎上し部落も大半焼失した。伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕で待避中重症を負ふた。

【概要】昭和20年三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された、事態は愈々悪化し早朝からグラマン機の波状攻撃が間断なく続けられた B二九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし耳をつんざく凄しさ(※11)である。午前八時半村役所郵便局が爆撃され 続いて防衛隊の兵舎である国民学校が爆破炎上した村民の住家も大半焼失した 伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕に待避中至近弾のために重症を負ふた。

【様相】空襲は一時止んだ。住民は事前に構築してある谷間の待避所へと避難を急いだ。平素の防空訓練も実戦には全く駄目であった。明けて二十四日、二十五日も空襲は続き美しき山河は火の海と化し、夜空を真赤に染めた。永年住みな{(引用者注)奈の仮名}れた故里も今は戦場と化したかと思へば涙すら出ない程であった。

【概要】空襲が一時止んだので住民は兼ねて構築した谷間の待避所へ避難を急いだ 平素の防空訓練も実戦にはその甲斐なく 敵機の独占場となり明けて二十四日 二十五日も空襲は続き美しき緑の山河は火の海と化し 夜空を真紅に染めた、 祖先伝来幾百年住みついた吾が郷里も今は戦場と化したことを思う時唯胸に迫るものを感じ涙さえ出すことの出来なものがある(※12)

【様相】同三月二十五日未明米軍は艦砲の援護射蟹の下に阿嘉島に上陸を開始したが間もな{(引用者注)奈の仮名}く慶良間海峡に潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも日本軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地を攻撃し、山谷や部落はまたヽく間に昔日の面影を止めざる焼土と化した。午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の令命を発した。

夜空に敵艦砲の落下もものかわと防衛隊七十余名、男女青年団員一〇〇名壮年団員三〇名、婦人会四十名が軍に協力、舟艇百隻は待避壕より引き出され二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃へた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は勇躍乗船しヱンヂンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて出撃の命令を今かヽヽと待っていた。

【概要】三月二十五日(※13)未明米軍は阿嘉島に上陸を開始したが間もな&く慶良間海峡には潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも友軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地への攻撃を開始し またヽく間に山谷や部落は昔の面影を止めざる焼土と化した、

午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の命令を発した 夜空に敵艦砲の落下も、ものかわと防衛隊員七十余名、男女青年団員百余名壮年団員、婦人会約七十名が協力し、舟艇百隻は待避壕から引き出され 二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海岸にその勇姿を揃へることができた 気の早い元気旺盛な特幹隊員の中には勇躍乗船しエンヂン音も高々と敵艦撃沈に胸を躍らせ出撃の命令をいまかヽヽと待った(※14)ゐた

  • (引用者注)出撃準備は島民も総動員であったことがわかる。曽野綾子『ある神話の背景』では、島民の奮闘はボヤケた表現だ。

【様相】防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえ援護射撃の陣地へついた。東の空は白みつつあり出撃の機を失しつヽありな{(引用者注)奈の仮名}がら赤松隊長は出撃命令を下さず壕の奥に待避し戦闘意識を全く失っていた。

百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとな{(引用者注)奈の仮名}り敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考へてか、或は気が狂ったのか。全舟艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが。上官の命令に抗することも出来ず既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山の奥深く待避し赤松隊の生き伸ぴ作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた。

【概要】防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえて援護射撃の陣地についた、

東の空は白みつつあり出撃の機を失ひつヽありながら赤松隊長は出撃命令を下さず 壕の奥深く待避したまヽ全く戦闘意識を全く失ったかに思われ百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った、

隊長赤松大尉は何を考へたか まるで気でも狂ったのか 突然全舟艇破壊命令を下した 特幹隊員はたヾ呆然としてゐたが 至上命令に抗することも出来ず既に出撃の時期を失しては如何ともし難く隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した 舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を完うすることができない為 兼ねて予定された西山の奥深く待避し赤松隊の持久作戦が始まったのであるが 陸士出の赤松隊長は卑怯者の汚名を着せられても致し方ない状況である

  • (引用者注)出撃準備に総動員で協力奮闘しただけに、出撃中止は島民にとっても大きな落胆だったのだろう

【様相】船舶団長三宅少佐も座間味島を抜け出し赤松大尉と行動を共にした。

【概要】当時船舶団長三宅少佐も座間味村を抜け出し渡嘉敷へ退避し赤松隊長と行動を共にした

  • (引用者注)船舶団長は大町茂大佐。随行者に三池少佐という人物がいて彼は渡嘉敷島からの脱出に失敗して赤松大尉と同道してたので勘違いしたのだろう。部隊幹部の名前は島民らには知らされてないようだ。

【様相】同三月二十六日敵は海空援護射撃の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始した。が赤松隊は応戦の意志は勿論、武器、弾薬を放棄し隊長以下全将兵の生き伸び作戦が西山陣地に於て始められ敵は完全にこの島を無血占領した。

【概要】昭和二十年三月二十六日 敵は海空援護の下に渡嘉志久 阿波連より上陸を開始したが(※15)赤松隊は応戦の意志は勿論なく、武器 弾薬を放棄したまヽ隊長以下全将兵が西山陣地に引っ込んた為敵は完全にこの島を無血占領することになった、

(3・27~玉砕場)


【様相】同三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された。その夜は物凄い豪雨であった。米軍の上陸は住民に生きるに安全な{(引用者注)奈の仮名}場所を失はしめ、ひたすらに頼るは赤松隊のみである。ハブの棲む真暗な山道を猛雨と戦いつヽ、子を持つ親は背に嬰児を負い、三ツ児の手を引き、合羽の代りに叺や莚を覆ひ、老人の足を助けながら砲弾の中を統制もなく西山へたどりついた。雨の谷間は親子、兄弟を見失った人々の叫声がこだまし、全く生地獄の感である。西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ徹退せよとの命令である。

【概要】昭和二十年三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた、その夜は物凄い豪雨である 米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつヽ 子を持つ親は嬰児を背に負い 三ツ子の手を引づりながら合羽の代りに叺や莚をまとい 老人の足を助け乍ら弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた、暗闇の谷間は親、兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし、全く生地嶽(※16)の感である 

間もなく兵事主任新城真順をして住民の結集場所連絡せしめたのであるが 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外(※17)へ徹退せよとの命令である 何の為に住民を集結命令したのかその意図は全く知らないまヽに恐怖の一夜を明かすことが出来た


【様相】同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事こヽに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった。

【概要】昭和二十年同三月二十八日午前十時頃住民は友軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集ったが島を占領した米軍は友軍陣(※18)北方の約二、三百米の高地に陣地を構へ完全に包囲態勢を整え 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の終結場も砲撃を受けるに至った 時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、

危機は刻々と迫りつヽあり 事こヽに至っては如何ともし難く全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死なう(※19)と悲壮な決意を固めた、 かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった

【様相】各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った。手榴弾がそこ、こヽで発火したかと思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは梶棒で頭を打ち合ひ、剃刀で自らの頸部を切り、鍬で親しい者の頭をたヽき割る等世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして三二九人の生命を奪った。その憎みの盆地を村民は今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕へ入ってはいけない速に軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた。

住民はすごヽヽと軍陣地東方の盆地に集り一夜を明した。

【概要】各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った、 瞬間手榴弾がそここヽに爆発したかと(※20)思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め 瞬時にして老幼男女の肉は四散し 阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された

死にそこなった者は梶棒で頭を打ち合い 剃刀で自らの頸部を切り 鍬や刀で親しい者の頭をたヽき割る等世にも おそろしい情景がくり拡げられた 谷川の清水はまたヽくまに血の流れと化した 寸時にして三九四人(※21)の生命が奪い去られた、

その憎みの盆地を村民は今なほ玉砕場と呼んでいる、 手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時 赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕は一歩も入ってはいけない、速に軍陣地近郊(※22)を去れと厳しく構へ住民をにらみつけた 住民は致し方なくすごヽヽと友軍陣地東方盆地に集ひ無意識の一夜を過ごした

【様相】同二十九日米軍の迫撃砲は執拗にも集民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪ひ去り防衛隊数名の戦死者を出した。

【概要】昭和二十年三月二十九日、 米軍の砲撃は執拗にも住民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪い去ると共に防衛隊数名の戦死者を出した。



(3・31~食糧難と残虐行為)


(5月・刳舟脱出行)


(米軍再上陸と住民処刑)


(住民離脱と降伏直前の処刑)





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