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日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第1部 近代日中関係の発端と変遷
第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動

日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2>

服部龍二: 中央大学総合政策学部准教授(外部執筆委員)


4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交


1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約


若槻内閣は1927 年4 月20 日に退陣し、政友会の田中義一内閣が発足した。政権交代の主因は金融恐慌であったが、政友会は幣原の外交にも不満をつのらせていた。北伐が華中から華北に差し掛かると、田中内閣は5 月下旬に居留民保護のため山東出兵を行った。山東省には、日本陸軍の1 個旅団が派遣された。国民革命軍は山東省から撤退し、蒋介石が8 月に武漢政府と南京政府の妥協策として下野すると、第1 次北伐は中断された。来日した蒋介石は11 月に田中を私邸に訪問したものの、田中と蒋介石の溝は埋まらなかった22。

この間の1927 年6 月下旬から7 月上旬に田中内閣は、芳沢謙吉駐華公使や武藤信義関東軍司令官らを招集し、東方会議という大規模な会議を開催した。ここで田中は、包括的な方針として「対支政策綱領」を訓示した。田中にとって理想的なのは、反共的な傾向にある蒋介石や張作霖が中国の南北を分割して統治することであった。田中は、蒋介石による統一を認めつつ、張作霖を東三省に帰還させ地方政権としての安定を図ろうとした。

もっとも田中の構想は、日本外務省や陸軍の方策を集約していなかった。東方会議の総決算であるはずの「対支政策綱領」には雑多な主張が盛り込まれており、前文では「日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ支那本土ト満蒙トニ自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス」としながらも、第6 項では「満蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機会均等ノ主義ニ依リ内外人ノ経済的活動ヲ促ス」とされた。「対支政策綱領」には矛盾する部分が少なくないのである23。

東方会議に関連して、「田中上奏文」と呼ばれる怪文書がある。この「田中上奏文」とは、田中首相が昭和天皇に上奏したとされるものである。その内容は、東方会議に依拠した中国への侵略計画であった。だが「田中上奏文」は、実際の東方会議と大きく離反していた24。

22 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究──田中内閣の対満蒙政策』(原書房、1992 年)
23-76 頁、小林道彦「田中政友会と山東出兵──1927-1928 (1)(2)」(『北九州市立大学法政論集』第32 巻第2・3 号、第33 巻第1 号、2004-2005 年)1-33、1-52 頁。
23 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究』77-164 頁。
24 重光葵駐華臨時代理公使らが国民政府外交部に「田中上奏文」の根本的な誤りを説いており、満州事変前の中国は日本の取り締まり要請にある程度応じていた。このため国民政府外交部は、「田中上奏文」を偽書と知っていた可能性が少なくないと思われる。その史料的根拠などについては、服部龍二「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年)455-493 頁、同「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006 年)84-110 頁、同「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』)199-275 頁を参照されたい。


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田中内閣は、満州における鉄道政策を重視していた。田中内閣は同年10 月、満鉄社長の山本条太郎を介して張作霖と満蒙5 鉄道の協約を成立させた。山本・張鉄道協約と呼ばれるものであり、田中外交は張作霖との関係を柱の1 つとしていた。さらに田中内閣は、敦化―老頭溝―図們線、長春―大賚線、吉林―五常線、.南―索倫線、および延吉―海林線の5 鉄道建設請負を骨子とする山本・張鉄道協約の細目を交渉し、1928 年5 月には吉林―五常線を除いて各鉄道の建設請負契約を成立させた。

2) 済南事件と張作霖爆殺事件


蒋介石が1928 年4 月に北伐を再開すると、田中内閣は第2 次山東出兵を行った。済南で居留民保護に携わった日本軍は、支那駐屯軍臨時済南派遣隊と第6 師団であった。日本軍と国民革命軍は、5 月3 日に済南で衝突した。藤田栄介駐青島総領事は、「三日午前十時頃邦人家屋内ニ支那兵ノ掠奪アリトノ報ニ我軍四名救護ノ為赴キタルニ対シ発砲負傷セシメタルニ付我軍已ムナク応戦」と伝えた25。ただし、多くの事件と同様に、済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない。

この済南事件に際して田中内閣は、第3 次山東出兵に踏み切った。正確な数字を挙げるのは困難であるが、済南事件では日本側よりも中国側に多数の死傷者を出している。このころ吉野作造は、「今度の様な形で支那と戦ふは我国に取て一大不祥事である」と論じていた26。済南事件の事後処理をめぐって、日中交渉は難航していった。

それでも、済南での松井石根参謀本部第2 部長―張群間交渉、南京での矢田七太郎駐上海総領事―王正廷外交部長間交渉、上海での芳沢謙吉公使―王正廷外交部長間交渉、および重光葵駐上海新総領事―周龍光外交部第2 司長間交渉を経て、ようやく1929 年3 月に芳沢公使と王正廷外交部長が済南事件解決文書に調印した。すなわち、「該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一掃シ以テ将来両国国交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル」との共同声明、共同調査委員会の損害調査による双方への賠償、国民政府による日本人保護の保証、および山東派遣軍の2 カ月以内の撤退などによって済南事件は解決されたのである27。

他方で田中首相は1928 年5 月、東三省治安維持への積極的関与を全面に押し出した閣

25 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第2 巻(外務省、1990 年)344 頁。なお、北伐期日中関係についての中国側研究として、邵建国『北伐戦争時期的中日関係研究』(北京:新華出版社、2006 年)がある。
26 吉野作造『吉野作造選集』第9 巻(岩波書店、1995 年)345 頁。
27 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第3 巻(外務省、1993 年)501-507 頁。


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議決定を踏まえ、奉天軍が東三省へ早期撤退した場合には国民革命軍の追撃を阻止するものの、交戦状態にて退却した場合には両軍ともに武装解除を要求すると芳沢公使に訓令していた。田中としては奉天軍を早期撤退させることを意図し、最後的手段としてのみ武装解除を想定していたのである。

国民政府は田中内閣の方策を内政干渉と批判する一方で、奉天軍撤退の際には追跡せず、閻錫山に京津地区の治安を担当させる意向を日本側へ示した。張作霖も奉天に向けて出発することを町野武馬顧問に伝えており、田中首相の構想は表向きには批判を浴びながらも、実際には中国南北の両勢力に了承されつつあるかにみえた。

田中構想に対する痛烈な批判は、むしろ日本陸軍から寄せられた。白川義則陸相は従来の張作霖援助論から一転して張作霖下野を主張するようになっていたし、荒木貞夫第1 部長も奉天軍の武装解除を目的とした満鉄付属地外への派兵を熱心に説いていた。陸軍中央は、村岡長太郎司令官が率いる関東軍の立場に接近していたのである。

関東軍の謀略によって6 月4 日に発生した張作霖爆殺事件は、田中首相の構想を現実に葬り去るものであった。すなわち、張作霖が北京から奉天へと向かうと、関東軍高級参謀の河本大作大佐らは張作霖を列車ごと爆殺した。この張作霖爆殺事件は、当時、満州某重大事件とも称された。この事件で田中内閣は、対満州政策の柱と位置づけてきた張作霖を失った。張作霖没後の満州では、息子の張学良が実権を掌握した。

張学良政権は、12 月に蒋介石の南京国民政府と合流した。このことは、中国の再統一を意味した。中国史上に易幟と呼ばれるものである。張学良政権が満州問題の外交権を国民政府に移管すると、田中内閣の重視する満州での鉄道政策は停滞した。


3) 国民政府「革命外交」


中国南方では国民政府が、正式に承認される前から積極的な対外政策を展開していた。その手法は実力行使をも視野に入れた国権回収策であり、しばしば「革命外交」と称された。国民政府「革命外交」の典型は、1927 年1 月の漢口・九江イギリス租界回収であろう。最初に「革命外交」を唱えたのは陳友仁であった。陳友仁は広州国民政府の外交部長代理を経て、武漢国民政府の外交部長となった。1928 年になると南京国民政府外交部長の黄郛や王正廷が、中国の関税自主権を欧米列国に承認させた。

欧米列国に関税自主権を承認させたのは国民政府初期外交の主たる成果であり、通商条約改正、差等税率の暫定的導入、外資系輸出に対する付加税導入、および陸境特恵関税廃止といった通商問題でも、国民政府は成果を収め始めていた。もっとも、そうした外交的成果は、黄郛や王正廷による政治指導だけに還元されるべきではない。アメリカなどの中国寄りな対応は、すでに北京政府末期の「修約外交」によって相当程度まで準備されていたし、国民政府の通商政策も北京政府の「修約外交」を大筋において継承したものだからである。このような中国の方針は、日本にも対応を迫るものであった。関税自主権承認で遅れをとった田中内閣は、差等税率や輸出付加税への対処をめぐってイギリスとの共同歩調を模索したが、うまくいかなかった。

田中内閣は、国民政府による漢冶萍公司や南潯鉄道の接収を阻止したものの守勢に立たされており、満蒙鉄道交渉も頓挫していった。張学良の政権が、易幟に際して中国東北を

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めぐる外交権を国民政府に移管したためである28。後年に王正廷は、「アメリカ政府、とり
わけアメリカの国民は、常に大いなる友情を中国に示していた」し、ランプソン駐華イギ
リス公使は「知的かつ多才であり、完全なる対等を求める中国に同情的であった」と回想
している。他方で王は、「対日政策には細心の注意を払った」という29。

このように田中外交は、次第に手づまりの状態となっていた。1928 年から1929 年ごろ
の国民政府「革命外交」と田中内閣の対応については、以下の表を参照されたい。日本国
内では野党の民政党が、田中外交への批判を強めた。張作霖爆殺事件の真相を知った田中
首相は一旦、昭和天皇に厳罰を約束した。だが、陸軍の圧力が高まったため、関係者の行
政処分にとどまった。これによって河本大作は停職となり、関東軍司令官の村岡長太郎は
予備役になった。昭和天皇が田中の変節を叱責すると、田中内閣は1929 年7 月に総辞職
した。民政党の浜口雄幸内閣が誕生し、外相には幣原が復帰したのである。

国民政府「革命外交」と田中内閣の対応(1928-1929 年)
「革命外交」の3 類型 細目 田中内閣の対応
不平等条約改正策 関税自主権の回復 次期内閣に持ち越し
通商政策 新通商条約締結 交渉には合意
差等税率暫定導入 差等税率導入を承認したうえで
外債整理への充当を追求して失敗
外資系輸出に対する付加税 徴収阻止に失敗
陸境特恵関税廃止 抗議によって延期せしめた
重要産業接収策 漢冶萍公司接収 抗議して接収を放棄させた
南潯鉄道国有化 債権保持に成功
出典:服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)222 頁


4) 奉ソ戦争と経済関係


1929 年の下半期には、中ソ間に紛争が起こった。その発端は、中国による東支鉄道の回収策であった。当初、中国側の当事者が張学良政権であったことから、この中ソ紛争は奉ソ戦争とも呼ばれる。日本では浜口内閣で幣原が外相に復帰しており、次の第2 次若槻内閣にも幣原は外相として留任する。幣原は、奉ソ戦争について汪栄宝駐日中国公使やトロヤノフスキー(Aleksandr A. Troianovskii)駐日ソ連大使と個別に会談し、中ソ間の直接交渉を斡旋するように努めた。

28 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉──関税通貨政策と経済発展』(東京大学出版会、1999 年)23-49 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』218-226頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003 年)115-127 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年──日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会、2006年)98-99、154 頁。「革命外交」については、李恩涵『北伐前後的「革命外交」(1925-1931)』(台北:中央研究院近代史研究所、1993 年)も参照。
29 服部龍二編『王正廷回顧録 Looking Back and Looking Forward』(中央大学出版部、2008 年)131-132 頁。


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幣原の発想は、ソ連側の要求が原状回復である限り、中国側はこれを認めねばならないというものであった。他方で、アメリカのスティムソン(Henry L. Stimson)国務長官は、日米英仏など不戦条約の批准国で委員会を構成しようとした。しかし、王正廷外交部長は、スティムソンの試みを有効とみなさなかった。やがて張学良は、東支鉄道の復旧や検挙者の即時解放というソ連側要求をほぼ全面的に承認する意向を示した。このため、ハバロフスクを舞台とする中ソ交渉は急速に妥結へ向かった。東北政権とソ連政府は12 月に東支鉄道の原状回復についての議定書に調印し、国民政府とソ連政府の間でも同様の議定書が調印された。奉ソ戦争はようやく終結したのである30。

同年11 月には佐分利貞男駐華公使が、箱根のホテルで怪死を遂げた。そこで日本は、小幡酉吉を後任の駐華公使に任命した。すると中国は、小幡へのアグレマンに難色を示した。アグレマンとは、大使や公使の任命に先立って、派遣先の国家が与える承認のことである。かつて対華21 カ条要求のときに小幡が駐華日本公使館の1 等書記官であったことを理由に、国民政府は小幡へのアグレマンに難色を示したのである。しかも王正廷外交部
長は、小幡にアグレマンを与える交換条件として、公使館を大使館に昇格することを日本に提起した。だが小幡は、すでに対華21 カ条要求後の1918 年から1923 年に駐華公使を務めており、その後も駐トルコ大使などになっていた。幣原外相は、中国の求める交換条件を理不尽なものとして退けた。結局のところ中国は、小幡へのアグレマンを拒否した。

浜口内閣は、経済不況の克服を政策の目標に掲げており、井上準之助蔵相のもとで金解禁を断行した。のみならず、中国への経済進出は重要課題の1 つであった。1930 年1 月から幣原は、駐華臨時代理公使の重光葵を関税自主権の交渉に当たらせた。中国で日中関税協定の推進に積極的なのは、財政の安定化を図る宋子文財政部長であった。王正廷外交部長は、むしろ治外法権の撤廃に関心を寄せていた。そこで重光は宋子文財政部長と関税自主権交渉を進め、日中関税協定が5 月に調印された。この協定で中国に関税自主権が認められ、その交換公文では、綿製品や海産物の現行税率を3 年間据え置きとするほか、関税協定実施の4 カ月後に特恵関税を廃止するなどと規定された。

さらに日中関係では、治外法権撤廃問題や外債整理問題が中心的な課題となった。王正廷外交部長が治外法権の即時撤廃を強く求めたのに対して、列国の足並みはそろわなかった。治外法権撤廃とともに焦点となったのは、中国の外債をいかに償還せしめるかという問題であった。日本は西原借款などの不確実債権を保有しており、以前から外債整理交渉を行っていた。国民政府内では、宋子文が対外的信頼を回復して中国への投資を活性化させようとしたのに対して、王正廷は西原借款償還の否認を公言した。中国において西原借款は、軍閥間の内争に利用されたものとして悪名高かったからである。そこで重光は、宋子文や蒋介石と提携するように努めた。だが、1931 年9 月には満州事変が勃発し、外債

30 土田哲夫「1929 年の中ソ紛争と『地方外交』」(『東京学芸大学紀要 第3 部門 社会科学』第48 集、1996 年)173-207 頁、同「1929 年の中ソ紛争と日本」(『中央大学論集』第22 号、2001 年)17-27 頁、服部龍二/雷鳴訳・米慶余校正「中国革命外交的挫折――中東鉄路事件与国際政治(1929 年)」(米慶余主編/宋志勇・藏佩紅副主編『国際関係与東亜安全』天津:天津人民出版社、2001 年)294-308 頁。


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整理交渉は頓挫した31。

5) 中国における日本人コミュニティ


最後に、中国における日本人コミュニティを論じておきたい。日本外務省亜細亜局の調書によると、1930 年末の時点で中国には「本邦人」が90 万3311 人いたという。この「本邦人」とは、「内地人」「朝鮮人」「台湾人」を合わせた概念である。90 万3311 人の内訳は、「内地人」28 万3870 人、「朝鮮人」60 万9712 人、「台湾人」9729 人となっている。

「内地人」の分布は、関東州11 万6052 人、満州11 万2732 人、「支那本部」5 万3212人、香港1868 人、マカオ6 人となっている。したがって、「内地人」約28 万人のうち、関東州および満州に約23 万人が在留していたことになる。

「内地人」の居住する「支那本部」5 万3212 人のうち、半数近い2 万4182 人が上海に暮らしていた。2 万4182 人の内訳は、上海の共同租界に1 万8607 人、フランス租界に392 人、「付近支那街」に5183 人となっている。上海以外では、青島1 万1211 人、天津5760 人、漢口2137 人、済南2048 人、北平1208 人などとなっている。「朝鮮人」60 万9712 人のうち、60 万5325 人までが満州に居住していた。なお、関東州の中国人人口は、82 万534 人であったという32。

このうち在満日本人の居住地は、9 割がた関東州と満鉄付属地に偏っていた。在満日本人の半数近くは満鉄社員や関東庁官吏およびそれらの家族であり、そのほかに日本企業の支店関係者、貿易業者、在満日本人を顧客とする商工業者・サービス業者などがいた。このため満州の日本人社会は、満鉄社員と関東庁官吏を中心として、その周辺に日本人向けの商工業者やサービス業者が存在していた。1920 年代に在満日本人による経済活動は、満鉄の人員整理などによって低迷した。日本人の居住地は、関東州と満鉄付属地に固まるようになっていた。張学良政権と日本の間には、「満鉄包囲鉄道網」や商租をめぐるせめぎ合いもあった33。

列国の権益が集中する上海には、1930 年代初頭の時点で約2 万4000 人の日本人がおり、多くは共同租界の北部に居住していた。上海の日本人は、よりよい生活を求めて主に西日本から移住した「土着派」と、商社や銀行の支店、紡績会社などで働く「会社派」に大別された。したがって、上海の日本人社会は、上海のイギリス人コミュニティなどと同じく階層社会であった。1931 年7 月の万宝山事件で日貨排斥が高まると、上海の日本人居留民は、日本総領事館にではなく日本海軍に期待するようになった。日本外務省と日本海軍

31 Edmund S. K. Fung, The Diplomacy of Imperial Retreat: Britain's South China Policy, 1924-1931 (Hong Kong, Oxford, New York: Oxford University Press, 1991), pp.184-189; 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉』51-71 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』263-278 頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』127-218 頁。
32 外務省亜細亜局「支那在留本邦人及外国人人口統計表(第23 回)」1930 年12 月末日現在(木村健二・幸野保典解題『戦前期中国在留日本人統計』第4 巻、不二出版、2004年)1、96、106、108、110-111、119-120 頁。
33 塚瀬進『満洲の日本人』(吉川弘文館、2004 年)46-51、120-121、161-170 頁。


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は、意思の疎通に支障をきたしていた34。

天津には、1898 年から日本租界が置かれており、中国における日本の専管租界としては最大のものであった。居留民の数は、満州、上海、青島に次ぐ多さであった。上海や漢口などと同様に、天津には居留民団が設置され、水道や電気などの行政を担った。租界の運営には、議決機関の居留民会や執行機関の行政委員会が当たった。天津の日本人は、貿易業を中心としていた。その日本人社会の上層には、大企業の支店長や貿易商、運輸・通信業者、金融業者、医者、弁護士などがいて、その下に中流の地元商人がおり、さらに下層には零細な雑貨商や料理屋などがいた。1920 年代末に天津の日本人は、中国の日貨排斥、治外法権の撤廃、租界回収の動きに対応するため、中国各地の居留民団や商工会議所と糾合して日本政府に訴願しようとしたものの、うまくはいかなかった35。

このように中国各地の日本人と中国の間では、摩擦も少なからずあった。満州事変後に日本外務省は、リットン調査団を意識しながら権益侵害について報告書をまとめた。外務省の報告書には、中国における日貨排斥などについて記されている36。のちのリットン報告書も、中国のボイコットは合法的に行われたという中国側の主張を支持していなかった37。


おわりに


本章では、第1 次世界大戦から満州事変直前までの日中関係をたどってきた。主な争点でいうなら、対華21 カ条要求、西原借款、新4 国借款団、パリ講和会議と5.4 運動、ワシントン会議における9 カ国条約や山東条約、「東方文化事業」、5.30 事件、北京関税特別会議、北伐と南京事件、山東出兵、張作霖爆殺事件、奉ソ戦争、小幡アグレマン拒否、日中関税協定、中国の治外法権撤廃問題と外債整理問題、日本人コミュニティなどである。

34 上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』(上海居留民団、1942 年)、高綱博文「西洋人の上海、日本人の上海」(高橋孝助・古厩忠夫編『上海史 巨大都市の形成と人々の営み』東方書店、1995 年)123-131 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年』45-48、217-243 頁。上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』1101 頁によると、「土着派と会社派といふやうな分野が居留民の間に出来て、さうして相当激烈な競争があり民会も紛糾したらしい」のであり、「土着派」と「会社派」の対立は上海だけでなく天津や漢口でも同様だったという。
35 臼井忠三編『天津居留民団三十周年記念誌』(天津居留民団、1941 年)、小林元裕「天津のなかの日本租界」(天津地域史研究会編『天津史──再生する都市のトポロジー』東方書店、1999 年)185-207 頁。なお、重慶、漢口、杭州などの租界については、大里浩秋・孫安石編『中国における日本租界──重慶・漢口・杭州・上海』(御茶の水書房、2006 年)がある。
36 服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002 年)。
37 外務省編『日本外交文書 満州事変』別巻(外務省、1981 年)227-229 頁、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)141-142 頁。


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そして、1920 年代の東アジアをめぐる国際秩序となったのがワシントン体制だった。

第1 次世界大戦期に日本は、対華21 カ条要求という過大な要求を最後通牒で突きつけるという失策を犯した。とはいえ、そこから日本が一貫して大陸への膨張に突き進んだわけではない。重要なのは、21 カ条要求の経験に加藤高明や幣原喜重郎らが学ぼうとしたことであろう。のちに首相となった加藤は幣原外相に外交を任せるようになり、加藤の憲政会が体制内化することで、日本は政党政治の時代を迎えたのである。原内閣を含めて第 1 次大戦後の日本は、概して対米英協調の枠組みを守ろうとした。

1920 年代を通じて日本外交の中心的役割を担ったのが幣原であり、幣原は駐米大使としてワシントン会議に参加したうえで、5 年以上も外相を務めた。ワシントン体制を最も体現していたのが、幣原にほかならない。ワシントン会議の精神のもとで幣原外交は、統一へと向かう中国に理解を示した。だが、とりわけ南京事件後に国内では、「軟弱外交」という幣原批判が高まった。山東出兵を行った田中外交も、ワシントン体制を脱しようとするものではなかったが、田中の意図に反して関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こしてしまった。

一方の中国は、この間に北伐と易幟によって再統一を果たした。袁世凱没後に政局が混乱することもあったが、中国は北京政府の「修約外交」や国民政府の「革命外交」などを通じて、政治的安定と国権回復を期していたといえよう。日本と中国の間では、「日中提携」構想や文化交流などを含めてさまざまな可能性と試みがあったことも、この時代の大きな特徴である。

1920 年代の国際秩序となったワシントン体制は、中国関係のみならず海軍軍縮、太平洋を含む多面的なものであった。日中関係についていうなら、ワシントン体制は2 つの面を備えていた。第1 に、ワシントン会議の精神に基づいて日本が米英との協調を基軸としたため、日本の大陸進出は比較的に抑制された。第2 に、列国の在華権益はワシントン会議によっても基本的には維持されており、日米英の協調は中国における現状維持を前提としていたところがある。中国にとってワシントン体制は、不平等条約を容認していたことでは不利な半面で、日本に対する抑止としては有益でもあったことになる。ワシントン体制の二重性といってもよい。

このようなワシントン体制は、固定的なものではなく次第に変容をとげていった。中国が国権回収と統一に向かったときの対処について、日米英に十分な合意はなかった。それだけに、中国が「修約外交」や「革命外交」を進めると、日米英は足並みを乱して秩序構想を分化させた。とりわけ田中外交期の日本は、国民政府との関係構築に取り残されることになった。やがて満州事変では、幣原外相までもが中国との直接交渉に挫折し、日本陸軍主導の傀儡政権構想に妥協するようになった。幣原外交の変質と崩壊によって、ワシントン体制の終幕は日本側から引かれたといわねばならない。



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