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II-03<首里城から摩文仁まで>

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし

II-03<首里城から摩文仁まで>





(奥)で、首里城からですね、撤退して摩文仁の壕に行って、

(伊波)5月の1日にはですね、もう敵もですね、与那原からあがってきてね*10a、こうこうしているから、本部にいる軍属も兵隊もですね、わたしたちも、医務室がみんな、5月1日にですよ、出ました*11。金城町*12向かってですね、うらの大壕入り口にね、本部のね、首里の本部の大壕入り口からね、金城町に向かってね、識名*13のほうに行って、一日橋*14通ってですね、南部の山(部隊)本部に行きました、私たちは*15。ほかの人はあっちこっちに分散しましたけど。私たちはですね、山・本部。南部の、ゆうじゃ(与座?)岳*16の上です。それから豊見(小)城*17の野戦病院に私たちは行きました。ほかの人はね志多伯*18とかに行きました。豊見(小)城からね、もう働いてひと月ぐらい働いたですよ、そんで私の手もね、病院で怪我したけど、もう負傷兵がね何千人もいますからね、あの壕には、石部隊、山部隊、本部隊、もうあっちこっちから、みんな合床になってるでしょ、野戦病院は。 私は傷してもねぇ、せんせい室*19の係してるでしよ。こうしながら、左の手でねー、うんと働きました。(05 41)

動画https://youtu.be/8wUmR4bO_gQ?t=05m41s
(奥)その手は豊見城の野戦病院*20で怪我したんですね。

(伊波)はい、これは自分の紐にくくってですね、こうしながら左でねー、もう負傷兵も担ぐ、医務室も、医務これもみんな担いでですよ、そうしながらね、6月の3日の日にね、戦争はもう解散になりましたと*21、牛島閣下殿はね、5月28日にね*22、摩文仁の壕の方に向かいましたから、皆さまはもう自由にしてねぇ、行くところに行きなさいとおっしゃったから、私たちはね、じゃあ閣下殿がね、摩文仁の方にね、いらしゃるんだったらね、私たちも摩文仁の壕の方に行きますって*23、だけどあっちはみんな岩でね大変ですよーって、あの、兵隊が言ったけど、よろしいと、最後までお勤めはといって、摩文仁の方に6月の5日に着きました*24。そんで、今の健児の塔のところね、こっちはあの時分は医務室だったんです。

(奥)はい、はい (07 02)

  • *10a 米軍が東方の与那原(よなばる)からも首里の丘めがけてくるのではないか、そうすると首里は挟み撃ちになってしまうと、32軍司令部は戦々恐々としていた。(5月4日と5日の大攻勢失敗による)
  • *11 5月1日とは、伊波さんの勘違いだろう。5月4日と5日に32軍は反転大攻勢を仕掛けたが失敗におわった。いよいよ米軍による首里陣地包囲が厳しくなろうとしていた情勢のなかで、女性たちが先に南下することが命令された(八原博通『沖縄決戦』VI-A 海鳴り資料1)。残存する命令書によれば、女性たちが首里の地下司令部壕を出たのは、5月10日である。(IV.伊波苗子証言(2) の注*16を参照)
  • *12 金城町は首里城がある町名
  • *13 識名 しきな(現・那覇市識名)
  • *14 一日橋 いちにちばし(那覇市字上間)
  • *15 5月10日の命令書「球軍日々命令 第107号」にある第3梯団の私たち、のことか。(IV.伊波苗子証言(2) の注*16を参照)
  • *16 与座岳に山部隊すなわち第24師団の司令部があった。
   米軍上陸時の沖縄守備隊の配置、
    ・首里の第32軍(球)司令部を要とした米軍正面には、第62師団(石)
    ・南部島尻には、第24師団(山)
    ・知念半島付近には、独立混成第44旅団(球)
  • *17 「とーみこぐすく」と聞こえる。豊見古城?
  • *18 志多伯 したはく(現・八重瀬町志多伯)
  • *19 せんせい室? 製品室?(製品室は包帯やガーゼなど看護用品管理) 
  • *20 豊見城市の豊見城城祉公園、那覇市を一望する高台に総延長300mの「陸軍24師団第2野戦病院壕」があった
    (NHK戦跡と証言 豊見城野戦病院壕http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/senseki/detail62.html
  • *21 それまでは「軍・民共に撤退」という命令であったが、ここで「民間人は勝手に散れ」という命令に変わった。「足手まとい」だとして放り出された。砲弾飛び交う戦場、民間人には逃げる場はなかった。
  • *22 32軍司令部は5月27日に、難攻不落を誇った首里の地下司令部壕を放棄し、摩文仁に向けて撤退した。


砲弾があけた無数の穴(首里)


  • *23 自己責任で逃げようにも、逃げ込んだガマから、兵隊によって砲弾飛び交う壕の外に追い出される人々もいた。この「壕追い出し」で多くの人が命を落とした。伊波さんたち女性たちは、自分たちを首里の壕に呼んでくれた司令部を頼るしかなかったのだろう。(壕追い出しについては、体験を描いた数々が『沖縄戦の絵』NHK出版に載っている。VI-B 46)

    また、伊波さんが1ヶ月近く働いていたという豊見城の野戦病院でも、歩くことができず南部撤退ができない傷病兵には、自決用の青酸カリが配られた。伊波さんの証言にはそれに関することはないが、命を大事にする軍隊ならば、事ここに至れば、無駄な犠牲を増やさないために降伏するはずである。天皇を護るいくさであるが故に、降伏は許されず、多くの尊い命が無駄に失われていった。
  • *24 彼女たちにとっては、司令官閣下殿に頼ることが、「安全」であったのだろう。また、食糧にありつけるかどうかは、生きるうえでの最大の問題だった。高級参謀八原博通大佐の手記『沖縄決戦』には、6月7日と8日に女性たちが摩文仁の司令部壕に到着したという記述がある。

(右端の見切れにご用心!)図のみ
日本兵に壕に入るのを拒まれる 上空を米軍機が旋回すると必ず、沖合の軍艦から砲弾が雨のように降り注いだ。新里さんたちは遺体の間を縫うように逃げ惑った。命からがらたどりついた壕。中に入れてほしいと父親は懇願したが、日本兵が刀を振り上げた。「出て行かなければ殺す」。家族は再び、砲弾の雨の中に放り出された。身を隠す場所を失った新里さん家族。母親が砲弾の破片の直撃を受けて亡くなった。NHK『沖縄戦の絵』VI-B46








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