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IV 女子勤労挺身令

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)



Ⅳ 女子勤労挺身令




1 女子勤労挺身令


 1944年6月6日、国家総動員審議会で、「女子挺身隊に依る勤労協力に関する勅令案要綱」が可決された(大原社会問題研究所、13。佐藤、253)。おそらくはそれをうけて、8月22日、女子挺身勤労令が勅令519号として公布され、即日施行された。これは、地方長官が市町村長、その他の団体の長または学校長に対して「隊員ト為ルベキ者ヲ選抜スベキコトヲ命ズルモノトス」などとしたもので(労働省、1132~34)、「これまで上流階級に多いなどといはれてゐたいはゆる『挺身隊のがれ』」を「一掃」することを期待された(『写真週報』1944年9月13日号、2)、事実上の徴用であった。実際、『写真週報』1944年9月13日号は次のように書いている。

 「地方長官は適格者と認めた者に挺身勤労令書を交付する。これは男子の徴用令書と同様であり、これが交付されても出動しない者があれば、さらに就業命令が発動される。就業命令に違反すると、国家総動員法に問はれて、一年以下の懲役または千円以下の罰金に処せられる」(2)

 罰則規定が設けられたのは、このときが初めてであった。公布にあわせて、『毎日新報』8月23日付けには「女子勤労挺身隊の歌:みいくさに仕ふ」が発表され、26日付けと27日付けでは、女子挺身勤労令が朝鮮にも実施されることが報道されている。

 こうして、2学期になったころ、女子実業学校であった秋渓学園などに、各校2名ずつ挺身隊に送るようにという「命令」がくだった。「送らなければ学校を閉鎖する」という脅しがついていたという。秋渓学園からは1945年5月に1名が日本の軍需工場へ向かったという(中央女子中高等学校同窓会、168~171)。


2 「美談」と「現地報告」


 1944年8月上旬、富山の不二越に挺身隊を送り届けて朝鮮に戻った野田・京畿道労務課長は、現地報告会を開いた(毎8・8)。続いて、京城府は8月22日、「女子勤労挺身隊の近況を語る座談会」を開催した。不二越の大内・竹島両顧問と父兄ら30名が出席している(毎8・22)。そのようすは翌日の『毎日新報』に「敢闘の近況を聞いて感激」として報道されている。挺身隊隊員の父母を慰撫し、挺身隊を宣伝するためであろう。

 挺身隊に志願した本人や家族の談話が「美談」としてしばしば『毎日新報』に報道されるようになるのは、女子挺身勤労令が実施されることになった8月22日すぎから約1か月の間である。同紙は8月26日付けで向上女子実業学校卒業生の、29日付けで彰徳家庭女学校生の志願などを報道している。

 9月に入ると、3日付けで3名、7日付けで3名の挺身隊志願者を紹介している。そして、8日付けには、「皆さんも早くいらっしゃい」という隊員の手紙を載せ、初めてもらった「手当て」から20円を飛行機献納寄金として送ってきた人を讃揚している(10日付けの日本語欄でも繰り返されている)。14日付けは、咸鏡南道から挺身隊を志願して京城まで来た女性を紹介している。20日付けには、「血書で女子挺身隊を嘆願した」女性のことが出ている。彼女は、航空隊に入った兄に従いたいというのである。そして、23日付けには、「勤労で新しい教養」を積んでいます、「安心してください」という大成女子商科学院生の院長への手紙を、30日付けには、「楽しい勤労生活」を送っているという挺身隊隊員から『毎日新報』社へきた手紙を掲載している。

 10月以降、関連記事は急減するが、それでも、10月29日から31日にかけて、「闘う半島女子挺身隊 現地報告」が連載されている。小見出しには「幸福な寮生活」とあり、本文には「生け花、習字、茶道、裁縫、何をしてもよい」と書かれている。そして、「よく食べ、よく遊んで、仕事もよくやっています」という隊員の声が紹介されている。11月28日付けには、開城国民学校の生徒6名が志願した記事が、12月16日付けには、夫を亡くした女性が子供を実母に預けて挺身隊に志願した記事が出ている。

 1945年1月24日に第2回京畿隊の募集が始まると、『毎日新報』は再び「美談」を復活させた。2月9日付けでは「血書を書いて」志願した女性を紹介している。また、特攻隊員として戦死した「松井少尉」の妹が挺身隊を志願したことを報道し(2・15)、「増産の特攻隊として」活躍する彼女の手紙を繰り返し掲載している(4・23、5・27、6・5)。

 4月3日、「第3回〔京畿道〕部隊」(「第2回部隊」の誤りであろう)とともに不二越の見学にいった父兄代表4名と生田・京城府勤労課長が「帰還報告」を行った。「〔挺身隊隊員は〕皆、楽しく精進している」との報告があった、と宣伝されている(毎4・5)。


3 帰国


 東麻沼津工場で働いていた挺身隊隊員を含む富士紡績の246人は、1945年9月7日、新潟から船に乗って(いのうえ、212)、同月30日に帰国した(小池、120)。

 富山の不二越で働いていた挺身隊員約420名は、6月から7月にかけて3回にわけて朝鮮の沙里院に移動した。彼女らは、沙里院新工場の完成日まで一時帰郷して、解放(日本の敗戦)の日を迎えた(不二越五十年史編集委員会、68)。沙里院工場へ転属するにあたって、李鐘淑らは7月17日付けで貯金通帳を渡された。それには、87円76銭と記入されていた。前年7月以来働いた代償である(金・飛田、213)。しかし、それを引き出すことはできなかった。

 また、7月には富山市がアメリカ軍によって爆撃され、朝鮮人多数が死亡した(同上)。挺身隊員からも「犠牲者が多く出た」(伊藤b、39)。戦争が終わる前に、全羅南道からの2回目の隊の引率者は、「空襲で工場が爆撃され、犠牲者が多く出たから」「子どもたち全員を連れて朝鮮に戻った」という(同上)。仁川隊の場合は、隊員の乗った船が撃沈され、彼女らは朝鮮へ帰ることができなかった(望月、201)。

 不二越に残っていた隊員たちは、1945年8月以降に分散して帰国した。全羅北道隊の崔孝順は、10月16日、帰国の途につき、24日、群山に帰ってきた。その際、8か月分の賃金として170円が支払われたという(李泳禧a)。

 かつて三菱名航道徳工場で働いていた人のうち、病気になった者十数名は、1944年の秋、引率してきた孫相玉に連れられて帰国した。また、6名は、1944年12月の東南海地震で死亡した。その後も道徳工場で働き続け、1945年の正月に富山の大門工場へ転属した全羅南道隊は1945年10月に帰国した。梁錦徳の場合、故郷の全羅南道羅州に10月22日に帰還している(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、6)。

 一方、三菱名航大江工場で働き、後に富山の福野工場で働いていた忠清南道隊は8月15日には神戸に向けて出発している(洪、129)。しかし、それまでに、「爆弾の破片にあたって死」んだ子どももいる(三菱名古屋・朝鮮女子勤労挺身隊問題を考える会、15)。

参考文献