日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―
山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン
オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表
1998年6週間に亘り実施したオランダ3公文書館――国立戦争資料研究所、国立公文書館、外務省公文書室――調査で検証した資料のうち、慰安婦に関連した記述があるものを公文書の種類ごとにまとめ一覧表にした。表は、国立戦争資料研究所、国立公文書館(①蘭印高等裁判所検察局公文書1945―1949、②蘭軍情報局、③A.F.X.Vos de Wael)、外務省公文書室の順番でまとめた。
全表を通して、( )には筆者の補足説明を、[ ]には原文の綴りを記載した。綴りは、市町村以上の行政区域、抑留所名以外の固有名詞に付記した。
全表を通して、( )には筆者の補足説明を、[ ]には原文の綴りを記載した。綴りは、市町村以上の行政区域、抑留所名以外の固有名詞に付記した。
国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD]
※表には請求番号、公文書作成日、ケース発生年、場所の他、短い説明を記載した。
請求No. | 頁 | 作成日(年.月.日) | 発生年 | 場 所 | 内 容 |
000003 | 8 | 1946.1.8 | 1944 | クンジャラン・キドゥル抑留所 | スマラン慰安所への強制徴募。アンバラワ抑留所について。カナリ通り[Kenarilaan]での経験と将校倶楽部について。 |
000010 | 2 | 1946.1.8 | 1944 | 同上 | 同上 |
000012 | 9 | 1946.1.7 | 1944 | スマラン抑留所 | 慰安所日の丸について。 |
000026 | 3 | 1946.1.12 | 1944 | スマラン | スマランの慰安所にいたオランダ人婦女子について。 |
000238 | 11 | 1944 | スマラン | 抑留所婦女子がスマラン慰安所へ強制的に連れて行かれたことについて。 | |
3 | 記載なし | 1944 | 同上 | 同上 | |
2 | 1945.12.14 | 1944 | 同上 | 同上 | |
2 | 1945.12.13 | 1944 | 同上 | 同上 | |
1 | 記載なし | 1944 | 同上 | 同上 | |
1 | 1945.12.17 | 1944 | 同上 | 同上 | |
1 | 1945.12.16 | 1944 | 同上 | 同上 | |
000263 | 3 | 1946.4.3 | 1943-4 | ムンティラン | ムンティランとマゲランの慰安所へ強制徴募。 |
000270 | 2 | 1944 | スマラン | 慰安婦用婦女子の選考について。ブラカン・ケブン[Belakang Kebon]通りの中華ビルについて。 | |
003437 | 4 | 記載なし | ソロ | 軍慰安所「フジ・リオカン」(富士旅館?)について。 | |
004006 | 9 | 1944 | スマラン | 慰安所にいる婦女子への手助けについて。 | |
009792 | 4 | 1946.3.18 | 1943-5 | ポンティアナック | ポンティアナック慰安所設置の情報。数人の証言を抜粋。 |
016380 | 2 | 1946.2.1 | モア島 | モア島の慰安所へ女性の補充。女性たちは父親の行動に対する処罰を理由にされ慰安所へ連れて行かれた。 | |
016382 | 2 | 1946.1.13 | 1944-5 | モア島 | モア島慰安所計画者の説明と5人の強制慰安婦と1人の志願者慰安婦に関する情報。 |
016410 | 2 | 1946.7.24 | 記載なし | バリ | 地元女性を募集する数々の手法について。 |
017145 | 4 | 1946.6.18 | 1943 | 東南セレベス | ポマラアとコラカの慰安所にいた女性に関する情報。東京に留学させてあげるとだまされて慰安婦に。 |
017161 | 2 | 1944 | マカッサル? | 1944年にできた新しい慰安所について。 | |
017333 | 1 | 1946.3.19 | 1944 | ジャンビ | 女中のインドネシア女性が日本人男性と寝ることを強制されたこと。 |
018117 | 1946.11.5 | 1944-5 | スマラン | スマランで集められフロレス島へ慰安婦として送られた婦女子について。 | |
018118 | 1946.12.11 | 1942 | パダン? | NEFIS日々報告: 慰安婦に強制的にさせられたオランダ男性の姪についての説明。 | |
018206 | 2 | 1947.6.21 | 1942-5 | パダン・パンジャン | 1942年発生の少女強姦について。抑留所にて日本人が嫌がらせをおこなう。 パダン・パンジャンにある日本軍レストランでヨーロッパ人が強制され酌婦に。 |
018346 | パダン | インド人が慰安所としての機能があったサカリオ・レストラン、旧ソシエテイト・ドゥ・エインドラクト[SocieteitDe Eendracht]で慰安婦周旋。 | |||
019186 | 2 | 1945.12.15 | 記載なし | マラン地区 | レストラン、クラブへメナド人女性を周旋するメナド人とアンボン人の役割。印欧混血人、アンボン人、メナド人25人を使っているメナド人所有の慰安所。 |
019362 | 4 | 1946.7.18 | 1944 | バタビアとクラマット抑留所 | スマランからの女性到着。 |
019424 | 3 | 1946.3.27 | 記載なし | スマラン | 双葉荘/青雲荘、旧ホテル・ファン・ブラッセル[Hotel van Brussel]軍慰安所にいた1人の女性への救助について。 |
019429 | 1946.5.15 | 記載なし | スマラン | スマランのレストラン/慰安所について。医療状況。印欧混血婦女子を使い再開。 | |
019448 | 3 | 1946.6.15 | 1943 | バンニュワンギとボンドウォソ | ボンドウォソにある数軒のホテルやバーを含む慰安所への募集。 |
019499 | 1945.11.16 | 記載なし | スラバヤとムンティラン | スラバヤの(ヨーロッパ人?) ダンスバンドリーダーが日本人のための「歓楽娘」提供に関与したことについて。ムンティランのケースについて言及あり。 | |
019636 | 5 | 1946.3.1 | 記載なし | ポンティアナック | 女性関係に関する特警隊規則と慰安所の設置について。当初4軒、後6軒になる。内2軒は軍専用。 |
019902 | 2 | 1946.3.29 | 1943-5 | ポンティアナック | 特警隊、海軍慰安所のために女性を逮捕。住宅地に近接したパビリオン[pavilion]にあった慰安所について。インドネシア人女性、中国人女性との結婚禁止について。 |
020061 | 3 | 1945.12.22 | スマラン | ヨーロッパ人や中国人その他の男女の慰安婦周旋について。慰安所へ連れて行かれた女性について。 | |
022053 | 28 | 1946.12.22 | 1943-5 | バタビア | 戦犯委員資料。バタビアのガン・ホーニング[GangHorning]慰安所の支配人裁判から裁判資料4点。 |
025545 | 3 | 1946.10.16 | 1944 | スマラン | 慰安所への女性選び。 |
025557 | 2 | 1946.6.9 | 1944 | ハルマヘラ抑留所 | 「志願」と強制慰安婦。 |
025583 | 2 | 1946.3.22 | 1944 | ハルマヘラ抑留所 | オランダ人婦女子のスマラン慰安所への徴募 |
025640 | 1 | 1946.2.7 | 1943 | ムンティラン | 強制と「志願」慰安婦。 |
025646 | 1 | 1945.12.10 | 1944 | アンバラワ6 | 婦女子慰安所へ連れて行かれる。 |
025647 | 1 | 1945.12.13 | 1943 | アンバラワ [6] | 慰安婦募集について。 |
025665 | 3 | 1946.3.8 | 1944 | アンバラワ6 | 慰安婦に「選ばれた」女性に関する詳細説明。 |
025681 | 2 | 1946.7.6 | 1943 | アンバラワ6 | 作成年月日は翻訳年月日であり証言の日ではない。慰安所への女性募集と抑留所の管理。 |
026502 | 1945.10.20 | 1944 | アンバラワ4 | 慰安所ホテル・スプレンディッド[Hotel Splendid]とペンション・ファン・ブラッセル[Pension van Brussel]について。 | |
027091 | 19 | 1949.2.18 | 1944 | スマランとムンティラン | 判決34/48。抑留所からスマランとムンティランの慰安所へ女性たちが連れて行かれた件に関する裁判。 |
032514 | 2 | 1946.5.11 | 1944 | アンバラワ6 | スマラン慰安所への徴募と、慰安所の状況、コタ・パリス抑留所、クラマット抑留所について。 |
034224 | 3 | 1948.2.24 | 1944 | ムンティラン | 慰安婦の募集について。 |
034228 | 3 | 1948.2.24 | 1944 | ムンティラン | 同上 |
034232 | 2 | 1948.2.25 | 1944 | ムンティラン | 同上 |
034235 | 4 | 1948.2.17 | 1943? | ムンティラン | 同上 |
034239 | 3 | 1948.2.18 | 1944 | ムンティラン | 同上 |
034348 | 1948.3.10 | 1944 | ムンティラン | 同上 | |
034251 | 4 | 1948.2.13 | 1943-4 | ムンティラン | 同上 |
034255 | 3 | 1948.3.17 | 1943 | ムンティラン | 同上 |
034258 | 3 | 1948.3.16 | 1943-4 | ムンティラン | 同上 |
035054 | 3 | 1946.2.13 | 1944 | アンバラワ4 | ケブン・ブラカン[Keboen Belakang]の中華ビル慰安所について。慰安所への女性募集について。 |
035943 | 27 | 1948.3.24 | 1944 | アンバラワとスマラン | 判決文72/47。抑留所からスマラン慰安所へ女性徴募に関する裁判ケース。 |
046996 | 7 | 1948.9.11 | 1944 | アンバラワとスマラン | 判決文72a/47。抑留所からスマラン慰安所への女性徴募に関する裁判ケース。 |
060921 | 1944.8.28 | 1942-3 | マランとカリジャティ | NEFIS報告書。慰安所について。 | |
060928 | スラバヤ | NEFIS報告書。慰安所について。 | |||
061830 | 1946.11.11 | 1942-4 | バンドゥン | バンドゥンにあった日本人将校用の慰安所とチハッピト抑留所?からの女性たちについて。将校倶楽部に関する記述。 | |
080125 | 1946.10.21 | 1944 | アンバラワ8 | 慰安婦募集について。 |
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国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA]
Ⅰ. 蘭印高等裁判所検察局公文書 1945-1949
[Het Archief van de Procureur-Generaal bij het Hooggerechtshof van Nederlands-Indie,1945-1949:PG]
[Het Archief van de Procureur-Generaal bij het Hooggerechtshof van Nederlands-Indie,1945-1949:PG]
※ 頁の左側に位置する番号は公文書請求番号を示す。一つ一つのファイルには、多数の資料がまとめて入っているため、便宜上a.b.c.等のローマ字を付記した。短文は公文書の内容要約、或いは引用文の日本語訳である。プライバシーの保護を考え名前は伏せ字にした。
情報請求No. | 場所 | 内 容 |
28 | 1945年8月までの地域ごとの「容疑者」一覧。英語。含む下記の資料。 | |
28-a | ジョグジャカルタ | 1人のジャワ人慰安婦/スパイ。1943年の避難報告書から。 |
28-b | スラバヤ | 日本人将校用の印欧人女性とインドネシア人女性の周旋をした2人の兄弟について。情報は避難報告書から。 |
29 | 地区ごとの「容疑者」一覧。引用文の原文は英語。資料は下記の情報を含む。 | |
29-a | マカッサル | ある著名なインドネシア人民族主義者。日本当局に協力するため設立した「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の書記官であった。彼は慰安婦として女性を斡旋した。この情報は1945年6月5日の避難報告書をもとに作成された。 |
29-b | マカッサル | 前出の「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の指導者と市助役について。共済会は女性を慰安婦に提供した。情報は1944年11月28日のもの。 |
29-c | アンボニア | ワヤン・スタンブルの元喜劇役者だった容疑者●●●●●●●婦人はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者として日本から任されていた。婦人は、この人身売買のため地元の少女を調達しただけではなく、このような目的にジャワ人の少女を向わせたことへの責任はあった。情報は1943年10月の避難報告書より。 |
29-d | アンボン | 容疑者はボルネオ島酋長[the headman]の娘。彼女はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者●●●●●●●婦人の手伝いをしていた。彼女は、アンボニアの憲兵隊日本人将校●●●●●●●の愛人であった。情報は1943年12月のもの。 |
30-a | 1946年5月10日付けの文書には、日本人男性と関係のあった女性数人に関する情報が掲載。少なくとも1人の女性は、女性たちを日本人将校の手に渡した。 | |
31-a | ファイルには、ジャカルタの慰安所にいた女性たちを含め、戦争中の一部の女性達に関する情報が入っている。 | |
31-b | ヨーロッパ人女性を調達した2人のヨーロッパ人女性に関する情報。この2人は、ガン・ホーニング慰安所とペトジョ[Petodjo]のハンウェグ[Hanweg]の慰安所の支配人として活動していた。 | |
32-a | 日本人に女性を調達した女性達について。モーレン抑留所班長で、バタビアにあったキャピトル[Capitol](劇場?)の支配人について。 | |
32-b | 元警察官からのバンドゥンの状況報告。わずかながら慰安婦に関する記述もある。 | |
32-c | 既に拘留されている個人の情報。この資料は、強制的に女性を慰安所に提供したことで告発されている2名に関する記述も含む。 | |
65-a | 資料Nr.182、(1945年10月26日付け) 記述の一部引用。原文はオランダ語。「私は女性達が家からそして夜劇場から特警[PID]に連れて行かれたこと、また特警の関与で女性を慰安所に補充していたことも知っています。このようなことにあった女性のうちの1人●●●●●●●さんは、その頃この町のコリア通り[Koreaweg]に住んでいました。」 | |
290-a | 個々人に関する短い記述を集めたもの。記述の中には、4人のメナド人が周旋屋として(特に慰安所への斡旋)活動していたこと、バンドゥンで1人のオランダ人男性が日本人に女性を調達していたこと、マゲランの一個人が外島の慰安所への女性を募集していたこと等がある。 |
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II. オランダ軍情報局[Netherlands Forces Intelligence Service: NEFIS]
請求No. | 頁数 | 報 告 日 | 発生日 | 発生場所 | 内 容 |
BAS/5641 | 1 | 1948.4.12 | バタビア | 曙倶楽部(旧't Hof van Holland)で働いていた1人の女性とその姉妹について、他の情報カード。 | |
約35 | 1945~48 | バタビア | 情報カードに名前が掲載されていた(ヨーロッパ人?)女性が、産婦人科の診断書等を提出し自己弁護の説明記載。 | ||
BAS/5644 | スマラン | ホテル・ドゥ・パビリオン[Hotel du Pavillion]で働いていた女性についての短い記述。 | |||
BAS/5647 | 5 | 1946~48 | バタビア | バタビアのガン・ホーニング[Gang Horning]桜バーで働いていた女性に関する記述。 | |
BAS/5651 | 1947.5.25 | マラン | 日本バー[a Jap bar]で働いていた2人の姉妹に関する記述。 | ||
BAS/5654 | 12 | 1947~48 | スマラン | 中国人と日本人がひいきにしていたセダン[Sedane]近郊にあったカロリナ・バーと他のレストランの経営者、キリスト教徒メナド人に関して。 | |
BAS/5660 | 10 | 1946~52 | バンドゥン | 約30人のオランダ人女性とインドネシア人女性がいた慰安所ウェルへーレン[Welgelegen]に関して。ヨーロッパ人女性が支配人をしていた。慰安所はサイパン陥落後閉店になった。 | |
BAS/5664 | 1 | 1946.9.7 | ソロ | ソロ市ヨーロッパ人コミュニティーの世話人の男性が日本人のため(慰安所の記述あり)若い女性を捜す手助けをしていた。 | |
2 | 1946.5.28 | サラティガ | シン・コー・カン、バーク・エン・ダル[Berg en Dal]婦女子抑留所で抱えた問題についての説明。問題には、「道徳心に乏しい」女性と抑留所の周辺に散らかっていたコンドームがあった。「道徳心に乏しい」女性は一覧されている。 | ||
BAS/5693 | 5 | 1946.9.14 | マゲラン | 憲兵隊と共同で他州の慰安所へ女性を徴募した1人の男性について。 | |
Bes/3/ | 2 | 1947.1.13 | 1944-5 | チハピット抑留所 | 日本人バーで働いていたある抑留者の日本人との関係。 |
Bes/5/ | 5 | 1946.5.12 | 記述無 | スラバヤ | 慰安所へ女性を送る。 |
Bes/12/ | 記述無 | Prt.10/L:日本人に数人の女性を渡した人物の名前。 | |||
トゥレテス | Prt.14/L: 1つの館にいた抑留者女性20人と印欧混血人女性9人を管理したインドネシア人について。売春に関しては不明であるが、戦後6人が妊娠した。 | ||||
BM/1123 | 2 | 1946.5.27 | 1944-5 | ゲンダンガン抑留所 | 抑留所からスマランの慰安所へ連れて行かれた1人の女性の証言。 |
BM/1124 | 1946.5.28 | 1943 | 同上 | スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢18歳以上)について。 | |
BM/1125 | 1 | 同上 | 1943 | 同上 | 同上 |
BM/1126 | 1 | 同上 | 1943 | 同上 | スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢15歳以上)について。 |
BM/2469 | 1946.8.21 | マラン | 女性の補充に関与した1人のヨーロッパ人男性に関する記述。 | ||
BM/2743 | 1946.8.30 | バタビア | 日本人と共にバーや慰安所へ行った1人のオランダ人男性について。男性の叔母は慰安所を経営、若い女性を慰安所で働かせるため欺瞞しようとした。 | ||
BM/2824 | 1946.9. | マラン | 日本人の為に女性を捜した1人のヨーロッパ人女性について。 | ||
BM/2825 | 1946.9.4 | 1942 | マゲラン | 1942年に慰安所になった数軒のホテルについての記述。これらのホテルの経営者また支配人(含む1人のチェコ人、1人のスイス人)は女性を周旋また補充した。 |
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III. A.F.X. Vos de Wael 公文書コレクション
♯ | 報告日 | 記述されている場所 | 発生日 | 内容 |
1 | 1946.3.19 | ボンドウォソ、ジェンベル | 1942-3 | 女性の募集。 |
2 | 1946.3.21 | ハルマヘラ抑留所 | 1944 | 慰安所のために強制慰安婦と志願者の徴募。 |
3 | 1946.3.14 | スマラン | 1942-5 | スマランのオランダ人の若い女性の性病と中絶について。これらの女性は他の(オランダ人)女性によって日本人の為に集められた。 |
4 | 1946.3.15 | バンドゥン | 記載無 | ウェルへーレン[Welgelegen]慰安所のオランダ人責任者。 |
5 | 1946.3.18 | アンバラワ第8抑留所 | 1944 | 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 |
6 | 1946.3.25 | ボンドウォソ、ジェンベル | 1942-5 | ジェンベルのホテル・ボンドウォソ/ジーン・ポール[Jean Paul]に日本人用バーの設置。日本人にヨーロッパ人女性と印欧混血人女性を提供。 |
7 | 1946.4.1 | ソロ抑留所 | 1944 | 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 |
8 | 1946.3.18 | アンバラワ第9抑留所 | 1944 | 慰安所への女性徴募と後日起こった抵抗。 |
9 | 1946.3.25 | ムンティラン | 1943 | 慰安所への女性徴募。 |
10 | 1946.6.5 | バダビア | 記載無 | 慰安所の「ハウス・キーパー」としての女性の募集。通訳はドイツ人女性。 |
11 | 1946.3.30 | ソロ抑留所、ハルマヘラ抑留所 | 記載無 | ソロ抑留所で慰安所への女性募集に対する抵抗という風説とハルマヘラ抑留所での慰安婦募集。 |
12 | 1946.3.29 | ブロラ | 1942 | 1942年5月強姦事件。 |
13 | 1946.3.29 | スラバヤ、ゲダンガン | 1942-4 | 日本人の為に女性周旋に関与したスラバヤ所在ホテル・ブリストル[Hotel Bristol]とバーの西印度人支配人と他のオランダ人。慰安所への女性の徴募はゲダンガンで1944年2月。 |
14 | 1946.3.17 | アンバラワ第1/6抑留所 | 1944 | 1944年2月に慰安所用に女性募集。 |
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外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ]
※1つの公文書番号の中に幾点もの文書が収めてある為、便宜上ローマ字を付記した。
公文書請求番号: Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer 1 :
報告日 | 情報資料 | 発生場所 | 内 容 | |
a | 1946.8. | 女性を斡旋したオランダ人男性の取り調べ依頼の書簡(下記の公文書請求番号voorlopig nummer 7, 文書d参照)。詳細の記載なし。 | ||
b | 1946.7.26 | スラバヤ | 書簡。オランダ人男性が「海軍の慰安所設置の為日本人に手を貸し女性を集め強制的に慰安婦にした」という記述。 男性は1944年7月捕虜収容所にて死亡。 |
公文書請求番号:Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer7(42)
Betrouwbaarheidsonderzoek 2 226a/938d:
Betrouwbaarheidsonderzoek 2 226a/938d:
報告日 | 情報資料 | 発生場所 | 内 容 | |
a | 1946.9.10 | NEFIS Ri/260/Geh. | スラバヤ | ある女性が将校倶楽部を開店しなければいけなかったことについて他のオランダ人女性からの報告。 |
b | 1942.5. | IGPGK | バリ | バリ人官吏報告書。デンパサールに電話で日本人将校用に10人の女性を補充するように(毎日?)命令があったこと。 |
c | 1946.5.19 | Nefis No.4087/AB2 | バンドゥン? | 日本人への女性周旋屋について。詳細記述なし。 |
d | 1946.9.20 | Nefis宣誓書 | チマヒ | 1人のオランダ人男性について。その男性がチマヒ近郊のチサルアにあった山荘ホテル、デ・ウィタ・ウィッケン[De Witte Wieken]の支配人あるいは経営者であったかとの質問。また、抑留される(1942年11月)以前、日本人にヨーロッパ人女性を含め、女性を提供したことはあるかとの質問。ベルヘルスト[Berglust]ホテルの記述もある。文書作成者はこの情報は真実ではないと疑っている様。 |
e | 1946.9.4 | H宣誓書 | バリ | バリ人官吏が日本人へ女性を斡旋したことに関与したことについて。 |
f | 一連の短い報告書 | バンドゥン | 1944年4月から45年6月までバンドゥン市のコンコーディア(社交倶楽部)で働いていた「サービス・ガール」に関する一連の短い報告書。1945年6月、その女性が泥酔し、はめをはずしたため辞めさせられた。明らかに、日本人と性的関係を持ったことはなかった。 |
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注へ