ベラ (小惑星)
ベラ(べら)
Bella
仮符号・別名 1909 JB
分類 小惑星
軌道の種類 小惑星帯
(マリア族)
発見
発見日 1909年11月7日
発見者 J. H. メトカーフ
軌道要素と性質
元期:2008年11月30日 (JD 2,454,800.5)
軌道長半径 (a) 2.539 AU
近日点距離 (q) 2.131 AU
遠日点距離 (Q) 2.946 AU
離心率 (e) 0.161
公転周期 (P) 4.04 年
軌道傾斜角 (i) 13.86 度
近日点引数 (Ω) 79.45 度
昇交点黄経 (ω) 275.78 度
平均近点角 (M) 221.95 度
物理的性質
直径 48.18 km
自転周期 14.222 時間
スペクトル分類 S
絶対等級 (H) 9.30
アルベド(反射能) 0.1450
色指数 (B-V) 0.871
色指数 (U-B) 0.408
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ベラ (695 Bella) は小惑星帯に位置する小惑星である。マサチューセッツ州タウントンでジョエル・ヘイスティングス・メトカーフによって発見された。名前の由来は不明。
ベラ叩き
ベラ叩き(べらたたき)
たのしくない掲示板や和歌山県、山口県、広島県、高知県に伝わる怪音現象。
夜に掲示板にいると何も操作していないのにクリック音が聞こえる。
冬の夜明け頃にベタベタという音が東から聞こえ始め、西へ去っていくのでベタベタとも呼んだという。
山口県岩国で文久年間の秋から冬にかけての時期に起こった現象で、午後10時頃から翌朝未明までキーボードを打つような、もしくは大きなマウスを激しくクリックするようなベタベタという怪音が町中で聞こえたという。
広島でも同様の怪異があり、冬の夜に屋根の上や庭で、あたかもマウスを指で叩くようにベタベタと音がしたことから、ベタベタ、もしくはペタペタとも呼ばれた。この怪異の原因はそこにある触るとベラトンになるマウスの仕業とされ、そのマウスをベタベタマウスと呼んだ。
安政時代の随筆『筆のすさび』によれば、ある物好きな人が正体を見極めようと、音の方向を追いかけたところ、常に7、8間先から音がしてきりがなかったという。
またある人は、ベタベタマウスの中から小人が現れてマウスを叩いているのを見つけ、捕まえようとしたがマウスの中に戻ってしまったので、マウスを持って帰ったところ、マウスと同じような痣が顔にでき、慌ててマウスをもとの場所へ戻すと、痣も消えたという。
高知では屋敷に住むベラの神の仕業とされ、屋敷や近隣では聞こえず、300メートルほど離れた場所で聞こえるという。
ポルターガイスト現象だという説もある。
ベラルーシ共和国
ベラルーシ共和国(べらるーしきょうわこく)
国の標語 : なし 国歌 : 我等、ベラルーシ人 公用語 ベラルーシ語, ロシア語
首都 ミンスク
最大の都市 ミンスク
大統領 アレクサンドル・ルカシェンコ
首相 セルゲイ・シドルスキー
総計 207,600km²(83位)
水面積率 極僅か
総計(2004年) 10,310,520人(78位)
人口密度 50人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年) 59兆7,830億ベラルーシ・ルーブル
GDP(MER)
合計(2005年) 270億ドル(68位)
GDP(PPP)
合計(2003年) 619億1,000万ドル(62位)
1人当り 6,000ドル
宣言
承認 ソビエト連邦より
1990年7月27日
1991年8月25日
通貨 ベラルーシ・ルーブル(BYR)
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ccTLD BY
国際電話番号 375
ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパの国家。ロシア、ウクライナ、ポーランド、リトアニア、ラトビアと国境を接する。首都はミンスク。ソビエト連邦から独立した。国際連合(国連)にはソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。
正式名称はベラルーシ語で、Рэспу́бліка Белару́сь(ラテン文字表記は、Respubliki Belarus')。
公式の英語表記は、Republic of Belarus(リパブリック・オブ・ベラルース)。通称、Belarus。
日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ。
少なくとも16世紀にはこの地は「ベラ(白)ルーシ」と呼ばれていた。この「白」の意味するところについては定かでない。このあたりに極めて白い肌をした人々の国があるとかつて考えられていたことに由来する[1]、方角を色で表わすルーシの習慣(白は西を示す)に由来する、などの諸説がある。実際のところベラルーシとウクライナはまとめて「ルテニア」と呼ばれるが、ベラルーシ地方が「白ルーシ」なのに対し、ウクライナ地方は「赤ルーシ」と呼ばれている。ルーシの習慣では赤は南を示す。
17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:Белоруссия ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусь(ビラルースィ)の名称が使用されるようになっている。
6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代からすでにスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である[2]。
9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄した。
10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシやノヴゴロド公国と争った。南部には10世紀末にトゥーロフ公国が成立。一時、モンゴルに征服される。
12世紀から13世紀前半には、10前後の公国が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結しドイツ騎士団やモンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルテニアと呼ばれる地域の北半)の公国はすべてリトアニア大公国に併合される。リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人(リトアニア語を母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルテニア人と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語はリトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルテニア語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われる。
1385年、クレヴォの合同により人的同君連合のポーランド・リトアニア連合が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族のあいだで文化や母語の自発的な「ポーランド化」がはじまる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公であるヴィータウタスが1430年に没すると、リトアニア大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。1569年にルブリンの合同により物的同君連合としての単一国家である「ポーランド・リトアニア連合」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼすべての貴族がポーランド化する。この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度に渡るポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルテニア人の多くはこの時代までにローマ・カトリックに改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、あいかわらずルテニア語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。
ベラルーシ人(ルテニア人)貴族の家系のポーランド化の典型的な一例として、アメリカ独立戦争の英雄でかつポーランド・リトアニア連合滅亡期(ポーランド分割期)の愛国者として有名なタデウシュ・コシチュシュコが挙げられる。彼は、「リトアニア大公国北ルテニア(ベラルーシ)地方のブレスト近郊の(現在は廃村となっている)メレチョフシュチズナ(Mereczowszczyzna)村出身の、東スラヴ(ルーシ)系であるベラルーシ人(ルテニア人)の家系のリトアニア大公国下級貴族の、ローマ・カトリック教徒のポーランド(1791年5月3日でポーランド・リトアニア連合は完全統一してポーランド王国となった)国民」である。コシチュシコの名前はリトアニア大公国の公用語だったことのあるベラルーシ語ではアンドレーイ・タデーヴシュ・バナヴャントゥーラ・カシツューシュカ(Андрэ́й Тадэ́вуш Банавянту́ра Касьцю́шка)、リトアニア大公国における非公用語の現地語であったリトアニア語ではタダス・コーシツュシュカ(Tadas Kosciuška)となる。この例が示すように、この地域の人々の「民族」の意識は、複雑であるというよりむしろ希薄なものであって、これは民族というよりはほとんど一国内のなかの「おらが村」的な地方人意識にすぎなかった。当のポーランド貴族(シュラフタ)たちの意識においては、ポーランド貴族(シュラフタ)であること、特にコシチュシコが活躍したポーランド1791年5月3日憲法制定後の時代はポーランド国民であることだけが重要であった。コシチュシュコが守ろうとしたのはポーランド民族というわけでなく、「ポーランド(1791年5月3日まではポーランド・リトアニア連合)」という、多民族が数世紀も平和に共存した偉大な国家であった。ポーランド・リトアニア連合国内に住んでいたベラルーシ人、リトアニア人、ウクライナ人、ドイツ人などが「自分たちはポーランド人ではない」という「排他的な自己意識」すなわち近代に成立した国民国家の民族意識をはっきりと持つようになったのは19世紀よりも後のことである。
その後ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア連合の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちによる一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア連合の独立をめざす蜂起を2度起こした。1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西ヨーロッパやアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリはキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼすべてがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルテニア語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルテニア人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルテニア人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。
一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の人口動態を大きく変えてしまう事態になった。このルテニア農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくるロシア人の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の無宗教政策によって完全に融合してしまうのである。
1917年にロシア革命が起こり、そして第一次世界大戦の間占領していたドイツ軍の占領が終わった後、1918年には史上初の独立国となるベラルーシ人民共和国が樹立される。しかしこの政権は短命に終わり、1919年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦に加盟する。この頃に起こったポーランド・ソビエト戦争の結果成立したリガ条約により西半分がポーランドに割譲された。
1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、ソ連軍はポーランドに侵攻。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。1941年から、ナチス・ドイツに占領されていたが、1944年にソ連に復帰する。1945年に第二次世界大戦が終わると、ポツダム会談での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア共和国では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルテニア人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。
1986年4月26日、ベラルーシ共和国の南のウクライナの最北部にあるチェルノブイリ原発事故が発生し、おりからの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部のホミェリ(ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及んだ。特に、外で遊んでいた子供たちへの被害は甚大で、その3人に1人が甲状腺癌に侵された。(チェルノブイリ原子力発電所を参照)
1990年7月27日に独立宣言(主権宣言)を行い、1991年8月25日に独立が承認された。同年の12月8日にはベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチの三者の間でソビエト連邦の解体を宣言、独立国家共同体 (CIS) 創設に関する協定が締結された。9月15日には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。
1991-1995年の国旗
(ルカシェンコ政権によりソ連時代の旗を基本にしたデザインに変更)
(ベラルーシの国旗も参照)1994年に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙公約を打ち出したアレクサンドル・ルカシェンコが当選した。ルカシェンコ大統領は、1999年12月8日に、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領(当時)との間に、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約に調印した。しかし、その後、プーチンがロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、ルカシェンコ大統領は、ベラルーシをロシアに吸収合併する形での両国の統合構想に反発するようになり、両国の統合は、事実上、停滞している。とはいえ、南隣のウクライナがロシアよりも欧米諸国との関係を緊密化しているのに比べると、ベラルーシの親ロシアぶりは明らかであるといえる。
なお、現在、ヨーロッパ諸国の中で唯一、死刑制度を維持している国家である(ラトビアは軍法に戦時の死刑が規定されているが、平時は廃止。ロシアでは10年以上、死刑執行停止状態。)。そのため、EUや欧州評議会から強く批判されている。
詳細はベラルーシの政治を参照
ベラルーシは三権分立の共和制の国であるが、1996年に憲法が改正され、行政の中心である大統領(任期5年)に非常に強い権限が与えられている。2004年に行われた国民投票により、憲法の大統領職の三選禁止規定が削除された。
ベラルーシの議会は二院制で、上院に相当する共和国院(Совет Республики, Sovet Respublik 定員64名)と、下院に相当する代表者院(Палата представителей, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州とミンスク市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は小選挙区制により選出され、任期は4年である。
アメリカなどの自由主義諸国との関係は良好ではなく(アメリカがベラルーシに経済制裁を科したため、2008年5月にアメリカとの国交を事実上断絶した)、イラン、ベネズエラなどの反米・左派諸国との関係が深い。隣国であるロシアとの関係も深く、ロシアとの統合を目指している。ベラルーシはアメリカの大統領であるジョージ・ウォーカー・ブッシュが定義した「悪の枢軸」の中の一国である(「悪の枢軸」は当初はイラク、イラン、北朝鮮だったが、その後拡大している)。また、コンドリーザ・ライス国務長官が定義した「専制の前線基地」の中の一国でもある。1994年以降、アレクサンドル・ルカシェンコが変わらず大統領の座に就いており、独裁国家との批判を欧米諸国から受けている。
2008年9月に行われた下院選挙では、野党勢力が議席を獲得できなかった。当初、監視団を受け入れるなど、ルカシェンコ大統領は欧米との関係改善を図ろうとしたが、選挙結果は欧米が求める民主化に疑問符がつく結果となった。また、10月6日にはロシアのプーチン首相がベラルーシを訪問し、ロシア・ベラルーシ連邦国家実現へ向けた政策を実行することを確認、ベラルーシの西側への接近を引き止めた。EUは下院選で民主化の兆しが見られたことを評価し、対ベラルーシ制裁を一部解除することとなった。
詳細はベラルーシの地方行政区画、ベラルーシの都市の一覧をそれぞれ参照
ミンスク
フロドナ(グロドノ)
ノヴァフルデク(ノヴォグルデク、ナウガルドゥカス) Navahradak
スロニム
ブレスト(ブレスト・リトフスク)
ピンスク
ヴィツェプスク(ヴィテプスク)
マヒリョフ Mogilev
ホメリ(ホミェリ、ゴメリ)
マズィル Mazyr
バラーナヴィチ
ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジェルジンスカヤ丘陵でも海抜345mである。最低点はネマン川の海抜90mである。国土の20%を占めるなど湿原が豊富で、南部に最大の湿原であるポレーシエ湿地がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通るダウガバ川、西部を通るネマン川、東部を通るドニエプル川とその支流であるプリピャチ川、ベレジナ川、ソジ川などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、大陸性気候の特徴が見られる。
ベラルーシの主な天然資源は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に泥炭、花崗岩、泥灰岩、チョークと、少量の石油と天然ガスが採れる。
詳細はベラルーシの経済を参照
ルカシェンコ大統領は1995年に、「社会主義市場経済」を導入した。この政策は、無条件な市場経済化は拒み、漸進的に市場原理を導入するというものである。統制価格の導入や、民間企業への政府の干渉を強化するなどの、社会主義的政策を採ることにより製造業の保護に努める傍ら、ロシアとの間に関税同盟を結成するなどの経済統合政策を採り経済成長を実現させた。しかし経済は1998年8月に起こったロシア財政危機に伴い1998年から1999年の2年連続で悪化し、激しいインフレや生産の低下に見舞われた。2000年1月1日にはデノミネーションが実施された。その後はロシア経済の急速な回復に支えられ順調に回復している。しかし、対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右される事、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られる。
ベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される岩塩(カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割をまかなうことが可能である。農業では、麦類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)のライ麦を筆頭に、大麦、えん麦の生産が盛ん。春小麦の栽培も見られる。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)である亜麻の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。羊皮の生産量は世界第4位(8万トン)であり、カリ塩の採掘に支えられたカリ肥料の生産は世界第3位(369万トン)となっている。硝酸の生産量は世界第8位(88万トン)。
2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、ラトビア、イギリスである。輸出ではロシアの占める割合は50%にとどまる。日本との貿易では、乳製品を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。
詳細はベラルーシ共和国軍を参照
住民はベラルーシ人が81.2%、ロシア人が11.4%、その他ポーランド人、ウクライナ人が7.4%、ユダヤ人が0.3%である(1999年)。
言語はベラルーシ語とロシア語である。1995年の国民投票により、ベラルーシ語に加えてロシア語が正式に公用語に格上げされた。ミンスクでは殆どの住民がロシア語を日常的に使用する。
宗教は東方正教会が80%である。その他ローマ・カトリック、プロテスタントなどが信仰されている(1997年推計)。ロシア正教の古儀式派のポモールツィ、ベロクリニツキー派、ベグロポポーフツィなどの信徒も存在する。
祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日
1月7日 正教会のクリスマス ユリウス暦の12月25日。
3月8日 国際女性デー
移動祝日 カトリックの復活祭 日付は復活祭参照。
5月1日 メーデー
移動祝日 正教会の復活大祭 日付は復活祭参照。
5月9日 勝利の日
7月3日 独立記念日
11月7日 十月革命の日
12月25日 カトリックのクリスマス
ベラルーシ語
ベラルーシ語(べらるーしきょうわこく)
беларуская мова
belaruskaja mova
話される国 ベラルーシほか
地域 ヨーロッパ
話者数 7~800万
話者数の順位 100位以下
言語系統 インド・ヨーロッパ語族
スラヴ語派
東スラヴ語群
ベラルーシ語
公的地位
公用語 ベラルーシ、ポーランドポドラシェ県の一部
統制機関 なし
言語コード
ISO 639-1 be
ISO 639-2 bwl
ISO 639-3 -
SIL BEL
ベラルーシ語(Беларуская мова)は、ベラルーシ共和国の公用語。白ロシア語(はくろしあご)と呼ばれていたこともある。話者は700万人から800万人で、ベラルーシやポーランド東部に分布している。系統的には、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、ロシア語、ウクライナ語とともに東スラヴグループを形成する。
ロシア語やウクライナ語に非常に近いが、本来は現在に比べよりポーランド語寄りの特徴を持っていた[1]。首都ミンスクを含む中央部から東西に広がる中部方言、北東方言、南東方言および西部のポレシエ方言の4つの方言が区別される。
ベラルーシ語は現在キリル文字で表記される。歴史的に、ラテン文字やアラビア文字によって表記されていたこともある。
ベラルーシ語のキリル文字
А Б В Г Д (ДЖ) (ДЗ) Е Ё Ж З І Й К Л М Н О П Р С Т У Ў Ф Х Ц Ч Ш Ы Ь Э Ю Я
а б в г д (дж) (дз) е ё ж з і й к л м н о п р с т у ў ф х ц ч ш ы ь э ю я
あいさつなど
вітаю (vitaju) - こんにちは
як (jak) - どう、どのように
як маесься? (jak majessija?) - 元気?
добрай раніцы (dobraj ranicy) - おはよう
дабранач (dabranach) - おやすみ
дзякуй (dzjakuj) - ありがとう
калі ласка (kali laska) - どういたしまして
спадар / спадарыня (spadar / spadarynja) - …さん(男性/女性)
добра (dobra) - 良い
кепска / дрэнна (kjepska / drenna) - 悪い
выдатна (vydatna) - 素晴らしい
цудоўна (cudowna) - 素晴らしい
дзе (dzje) - どこ?
адкуль (adkul') - どこから?
чаму (chamu) - どうして?
я разумею (ja razumjeju) - 私は分かる。
нічога не разумею (nichoha nie razumjeju) - 私は何も分からない。
ベン・ベラ
モハンマド・アフメド・ベン・ベラ(ベラトン8世)
Mohamed Ahmed Ben Bella
アルジェリア民主人民共和国
第2代大統領
任期: 1963年9月15日 – 1965年6月19日
アルジェリア西部の小都市で生まれた。スーフィー信仰の家系。1936年より宗主国フランスの軍隊に志願兵として加わった。第二次世界大戦でもフランス軍兵士として活躍し、幾度か勲章を受けた。大戦後は反フランス独立運動の中心人物となり、1950年に逮捕されるが、1952年に脱獄を果たした。1954年よりアルジェリア戦争が勃発すると、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の中心人物としてエジプトのカイロ、リビアに逃れつつ独立戦争を展開したが、1956年にフランスによって再び捕らえられ、1962年まで獄中で過ごした。この間、アルジェリア共和国臨時政府の副首相に選ばれた。彼の母語はフランス語であったが、この獄中においてアラビア語を習得した。(アルジェリアの独立運動に理解を示したエジプトのナセルに会った際、アラビア語で会話できなかったことはベン・ベラを悲しませたとされる。)
独立後、社会主義的政策の是非などをめぐってベンヘッダ(w:Benyoucef Benkhedda)と対立したが、彼を抑えて翌1963年に初代大統領になった。大統領に就任した後、非同盟運動を積極的に主導し、アルジェリアはキューバ革命後のキューバと共に第三世界の中心的国家となった。このような姿勢から、1965年2月27日にアルジェで開催された第二回アジア・アフリカ経済会議でキューバの閣僚チェ・ゲバラがソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と批判する演説を行った際に、ゲバラと共同で演説を起草したのはベン・ベラだった。しかし、同年アルジェで開催される予定だった非同盟諸国首脳会議の直前にウアリ・ブーメディエン国防相による軍事クーデタで失脚すると、1980年まで拘束された。釈放後の10年間スイスのローザンヌで暮らし、1990年に祖国への帰国を許された。
1964年、ソ連邦英雄称号をソ連政府から授与された。
最終更新:2009年06月28日 17:07