第7話(BS59)「天猛之壱〜対価と大過〜」(
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コンラート・オーガスト(下図)は、アトラタン大陸南西部の半島国家ハルーシアの名門貴族家(男爵家)の御曹司である。絢爛豪華な貴族文化で知られるハルーシアにおいて、オーガスト家は数少ない武門の誉高い名家の一つであった。コンラート自身はまだ所領や契約魔法師は得ていないものの、先祖代々伝わる「伝家の鎧」を受け継ぎ、18歳にして既にハルーシア騎士団の将来を担う存在として期待されており、特に「守ること」に関しては既に一線級の実力者として国内では名を知られた存在であった。
だが、彼は数ヶ月前、その武勇を買われて幻想詩連合の一員として大工房同盟との戦いに赴いた際に、ヴァルドリンドの宮廷魔法師アウベスト・メレテスの奸計に嵌まり、想定外の大敗を喫してしまう。それは、比較的平和なハルーシアで育った彼が初めて経験した「本物の戦場」の恐怖であったが、その敗戦以来、彼はより一層「友軍を守るための技術と聖印の強化」に励み、いずれ訪れるであろう再戦の機会に向けて、自己鍛錬に励んでいた。
そんなコンラートには、3歳年下の妻がいた。彼女の名はサラ(下図)。ブレトランド南部を統べるヴァレフール伯爵レア・インサルンドの従妹にして、先代同国騎士団長ケネス・ドロップスの孫でもある。幻想詩連合との関係を重視するケネスの思惑によって画策された政略結婚であったが、サラはコンラートのことを一目見るなり、「英雄の素質の持ち主」であると即断し(その根拠は彼女にしか分からないのだが)、その瞬間に彼の伴侶となることを決意した。
彼女は亡父トイバルの気性を受け継ぐ勝気な性格で、女君主としての素質を期待する者もいたのだが、コンラートと出会って以来、彼を支える妻として生きる決意を固めたため、インサルンド家の聖印もドロップス家の聖印も受け取っていない。そんな彼女からの深い期待と愛情をコンラートは素直に受け入れ、二人はハルーシアで幸せな日々を送っていた。
ある日、そんなコンラートが、領主の館の執務室で父の仕事の補佐役としての書類確認の任に当たっていたところに、唐突にサラが現れた。彼女は日頃は夫の邪魔にならぬよう、仕事中の彼の前には現れぬように心掛けていたが(その分、帰宅後の彼には常に張り付いているのだが)、この日の彼女は深刻な表情を浮かべながら職場へと踏み込み、夫に対してこう告げた。
「ケリー、唐突で悪いんだけど、私と一緒にヴァレフールに来て」
「ケリー」とは、コンラートの愛称である。彼は基本的に親しい人間に対しては「ケリー」と呼ぶように促していた。
「サラ、どうしたんだい?」
「私のお婆様が今、危篤らしいの。詳しい容態は分からないけど、いつどうなるか分からない、ということだから、元気なうちに……、いや、もう元気じゃないかもしれないけど、せめてあなたを紹介したいの、お婆様に。あなたを紹介した上で、安心して旅立ってほしい」
サラの二人の祖母のうち、父方の祖母レギリアは既に病死しており、現在危篤状態に陥っているのは、母方の祖母(先代騎士団長ケネスの妻)にあたるリンナ・C・ドロップスである。彼女は現在56歳。若い頃は健康で活発な女性であったらしいが、近年は急激に体力の衰えが激しくなり、サラが嫁入りする直前の時点で既に体調不良で寝たきりの状態が続いていた。そのため、サラの結婚式にも、そして先日開催される予定だった(実際には中止に終わった)サラの従妹のモニカの結婚式にも参列していない(
ブレトランド水滸伝5参照)。
そのリンナの病態が最近になって急激に悪化しつつある、という連絡がサラに届いたのである。彼女の病状については、親族達を心配させぬよう、なるべく表沙汰にはしない方針だったのだが、いよいよ「覚悟」が必要な段階に入ったということもあり、ヴァレフールと縁の深いオーガスト家の魔法師を通じて、サラの耳にまでその情報が届けられることになった。サラは子供の頃からリンナに格別可愛がられて育ったため、どうしても彼女が存命のうちに一度会いたい、という想いが強いらしい。
「そうか……」
ケリー(コンラート)はそう呟きつつ、手元の書類を改めて確認する。現状、彼は領主である父の補佐官という肩書ではあるが、あくまでそれは将来に備えて「いずれ引き継ぐ予定の父の仕事」に慣れておくための訓練生のような立場であり、格別忙しい時以外は、彼がいなければ政務に支障が出るような事態にはならない。そして、ハルーシアの現状は(少なくともオーガスト家の領内に関しては)平穏な日々が続いており、軍事的にも経済的にも逼迫するような状況ではなかった。
「今は急ぎの用件もないから、それなら、ついて行くことにしよう」
彼が答えると、サラは一瞬笑顔を浮かべた上で、すぐに緊迫した表情に戻る。
「じゃあ、お願い。すぐに船を手配するから」
彼女がそう言って部屋を出ると、ケリー(コンラート)は手元の書類をまとめた上で、部屋の隅に置かれていた「伝家の鎧」に視線を向ける。それは、約二百年程前にオーガスト家に婿入りしたヴァレフールの貴族が持ち込んだと伝えられている金属鎧であり、かなりの年代物ではあるものの、機能性と耐久性を兼ね備えた名品であり、歴代の同家当主達が愛用してきた。
アウベストとの戦いで惨敗を喫して以来、戦場からは遠ざかっていたため、この鎧を着る機会も無かったが、サラと共に遠く離れたブレトランドの地に向かうということであれば、旅先で彼女を守るためにも、再びこの鎧をまとうことになるだろう。何事も無ければ良い。だが、いつ何時混沌災害が発生するかも分からないこの世界において、騎士として、夫として、万全の備えを整えておく必要がある。
実際には、この旅の先に、今のケリー(コンラート)では想像も出来ない程の死闘の連続が待ち受けているということに、今の彼が気付ける筈もなかった。
サラの祖母であるリンナ・ドロップスには(戸籍上)九人の孫がいる。その中でも「初孫」に相当するのが、長男マッキーの長女にあたる魔法師チシャ・ロートであった(下図)。チシャはサラから見れば「母方の従姉」であり、現在は同じくリンナの孫にあたる護国卿トオヤの契約魔法師を務めている(ただし、厳密に言えばトオヤもチシャも彼女の「実の孫」ではない)。
チシャは現在、ヴァレフールの最大の港町であるアキレスにて、義弟(弟弟子)に相当する錬成魔法師のサルファ・ロート(下図)と共に、祖母リンナの容態を診ている。医学にも精通しているサルファの見解によると、どうやらリンナは通常の病気ではなく、何らかの「特殊な力」によって体力が奪われているらしいのだが、今のところ、その「力」の正体が何なのかは判明しておらず、手の打ちようがないまま、ひとまずサルファの作り出した魔法薬を用いた延命措置を繰り返す日々を送っていた。
そんなチシャの元に、ヴァレフールの北東部を守護する城塞都市オデットを守る魔法師の一人であるオデット・ダンチヒ(下図)が、ペリュトンに乗って来訪した。彼女とは約一年前に長城線を訪れた際に面識がある(
ブレトランド風雲録5参照)。
「すみません、チシャさん、オルガ姉様から言伝を頼まれまして」
「あ、はい。なんでしょう?」
周囲に人がいないことを確認した上で、オデットは話を続ける。
「これは極秘事項なのですが、実は我がオディールが密かに秘蔵しておりました黄金槍が、先日、謎の魔法師によって盗まれまして……。その黄金槍には、詳しくは言えないのですが、この世界の均衡を崩す程の強大な力が込められているのです」
「は、はぁ、そうですか……」
唐突にそう言われても、当然のことながら、チシャには今ひとつ実感が沸かない。
「ですので、我々としても、十分に厳重な警備下に置いていたのですが、その警備を突破される形で奪われてしまいました。お姉さまの証言によれば、見た目は10歳程度の少女で、このような奇妙な形状の『帽子』と『錫杖』を身に付けていたそうです」
オデットはそう言いながら、オルガの証言に基づいて描かれた「少女」の外見が描かれた人相書きをチシャに見せると、チシャは自分の中の記憶を必死で遡ろうとする。
(以前、どこかで似たような人を見たことがあるような、無いような……)
それは、チシャが子供の頃、トオヤやレア(ドルチェ)と共に遭遇した「謎の魔法少女」に酷似していたのだが(
ブレトランド風雲録1参照)、さすがに何年も前の話であるため、はっきりとは思い出せない。
「どうやらクレセント家の者らしいのですが……、お姉様の予言によると、あの魔法師は只者ではないというか、この黄金槍の強奪自体も、これから先に発生するもっと大きな事件の前触れではないか、とのことでしたので、チシャ様もお気をつけ下さい。そして、もし何かあった場合は、すぐにご連絡下さい」
「はい、ありがとうございます」
チシャがそう答えると、オデットは再びペリュトンに乗って、早々にアキレスから飛び去って行った。どうやらオデットは、この「謎の少女」の正体を探るために、ヴァレフール各地を飛び回っているらしい。
チシャはオデット経由で聞かされたオルガの「不吉な予言」に表情を曇らせながらも、ひとまず祖母の介護へと戻ることにした。そして間もなく、チシャはこの「不吉な予言」の正体を(当のオルガよりも先に)知ることになる。
ヴァレフールの護国卿トオヤの妻ドルチェ・レクナ(下図)は、現在、夫と共にアキレスに滞在している。素性の知れない邪紋使いの傭兵隊長という身分でありながら騎士団長家に連なる名門貴族家に嫁入りした彼女は、ヴァレフールの宮廷史の中でも極めて異例の存在であるが、トオヤの祖母であるリンナは、この縁談が公にされた時点で、いち早くドルチェを快く親族の一員として迎え入れてくれた。その意味で、護国卿夫婦の縁組を成立させる上で(周囲の反対を抑える上で)リンナが大きな役割を果たしたことは間違いない。
そんなリンナの容態の看病にドルチェも協力していたのだが、ある日、彼女の元に、アキレスに駐留する斥候部隊「ナイトオウル」の隊長であるジーン・スウィフト(下図)が来訪する。ジーンとドルチェはいずれも「傭兵部隊を率いる女邪紋使い」ということもあって、以前から懇意な関係にあった(この二人の本当の関係については
ブレトランド風雲録9参照)。
「おや、久しいね」
「お元気そうで何よりだ、護国卿夫人。実は、さっき船乗りから聞いた話なんだが、どうやら最近、アキレスの近海で不気味な投影体の影が漂っているらしい」
「ふーむ、アキレスの近海で、か……。以前にも『海』で何だかんだがあったが……」
ドルチェはそう呟きながら、以前に自分達がパンドラ新世界派の面々に襲われた時のことを思い出す(
ブレトランド風雲録1参照)。
(あれに関しては、ケリがついたと思っていたんだがな……)
内心でそう呟きつつ、ドルチェはそのままジーンの話を聞き続ける。
「今のところ、その『不気味な影』を見つけた時点で、どの船もその海域を回避し続けてきたから、明確な被害が出ている訳ではないんだが……」
なお、ジーンはそう言いながら、手持ちの地図でその「不気味な影」が出現した海域を大雑把に指し示す。それは、一年程前から出現している「霧の海域」(その正体は
ブレトランドの光と闇5を参照)からは程遠く、もっとアキレスの沿岸部に近い領域であるらしい。
「船の行き来に支障は出ていないのかい?」
「今のところは。ただ、警戒した方が良いのかもしれない」
「そうだな、覚えておこう。とはいえ、お婆さんの見舞いに来ているトオヤに、あまり余計な心配をかけたくもないんだがな」
「まぁ、確かに……。とはいえ、コトが起きてからでは遅い。少なくとも『魔法師殿』の方には伝えておいた方が良いのではないかな」
「そうだな。投影体のことであれば、彼女の方が専門分野だろう」
トオヤの契約魔法師であるチシャの専門は召喚魔法である。当然、投影体に関しては、この国全体の中でも最高峰の知識の持ち主と言えるだろう。もっとも、その「不気味な影」の正体が、本当に投影体なのかどうかもまだ不明なのであるが。
ヴァレフール護国卿トオヤ・E・レクナ(下図)は、現ヴァレフール伯爵レア・インサルンドの従属君主である。しかし、その聖印は既に子爵級に到達していると言われており、これまで同国の中核を担ってきた(独立聖印を持つ)七男爵達よりも実質的に格上の存在として扱われている。本来の所領はアキレスの隣に位置する小さな漁村のタイフォンであるが、基本的には首都ドラグボロゥに駐在しつつ、その時々の状況に応じて、レアの名代として(主に混沌災害絡みの案件に対応するために)国内各地を奔走する役回りを担っていた。
そして現在、彼はヴァレフール最大の港町であるアキレスに駐在している。この街の本来の領主であるイアン・シュペルターが諸事情(
ブレトランド水滸伝5参照)によりケイに出張中のため、その代役としての役割を担当しつつ、この街で療養している祖母リンナを(同じ彼女の「孫」である契約魔法師いのチシャと共に)見舞うことがその目的であった。
約半年前まで、このアキレスを治めていたのは、リンナの夫である先代騎士団長のケネスであった。そのケネスが(60歳近い高齢の身でありながら)魔法師となるためにエーラムへと去った今、リンナにはもはやこの地に残り続ける理由もないのだが、既に病床の身ということもあり、彼女を住み慣れたこの地から引き剥がす必要もないと判断したイアンの計らいにより、現在も彼女の私室は城内にそのまま残され、静かに余生を過ごしている。
彼女はもともとは人並み以上に健康な身体だったが、十数年前から急激に体力が衰え、最近は寝たきりの生活が続いている。その原因は何らかの混沌の作用ではないかとも言われているが、本人はこれ以上の延命を望まず、既に死を覚悟している様子であった。
この日も、リンナは病床の自分の様子を伺いに来たトオヤに対して、申し訳なさそうな表情を浮かべつつ語りかける。
「ごめんなさいね、トオヤ。あなたも忙しい身なのに、私のためにこんな所に留めてしまって」
「いいえ、お婆様を見舞うのに、忙しいも何もありませんから。それに、僕もタイフォンを空けすぎていたので、そろそろ戻ろうと思っていたのです」
実際、タイフォンとアキレスは半日程度で移動可能な距離であり、気楽に立ち寄れる距離ではある。ちなみに、トオヤ不在時のタイフォンは、トオヤの側近カーラの幼馴染でもある「鉄仮面卿」ことクリフトが「領主代行」として統治している(また、有事の際には、城の一角に設けられた祠に住む「半神の少女」も力を貸してくれるであろう)。
「確かに、領主代行の彼も、なんとか上手くやってはいるみたいだけど、時には領主自身が顔を見せることも必要でしょうね」
リンナはそう呟きつつ、ふと、壁に掲げられたケネスの肖像画へと視線を移した。この肖像画は元来は城の大広間の前の廊下に飾られていたが、イアンがこの城の城主となって以降、リンナの希望により、彼女の病室へと移された。そして、特に聞かれた訳でもないにもかかわらず、無意識のうちに「彼の話」を始める。
「あの人はもう、エーラムの人間ですからね。『カサブランカ一門』の一員となった以上、私達とはもう家族ではない。それが魔法師としての本来の姿。生家に義理を尽くそうとするチシャの方が、魔法師としては異端なのですよ」
現在のケネスは、かつての契約魔法師であったハンフリーと同じ「カサブランカ一門」の養子となっている。エーラムの魔法師は本来、一門に加わった時点で生家との関係を完全に断ち切るのが原則だが、チシャのような貴族家に生まれた者の場合、子供を養子に出したくない君主達を説得するために、特例的に生家との間でのある程度の交流を認められることもある。
だが、ケネスはエーラムに赴いて以降、一度も妻に対して手紙を送らず、そしてまたリンナも彼の現況を知ろうとはしなかった。君主を引退し、孫に国を託した後に魔法師を目指すという、あまりにも無謀な道を本気で目指すためには、確かに、国許に残してきた病床の妻を気遣っている余裕など無いのかもしれない。
「そうかもしれませんね……」
ケネスに対して今も複雑な思いを抱き続けているトオヤが力ない声でそう呟くと、リンナは暗い話をしてしまったことを軽く後悔しつつ、開き直ったような笑顔で話を続ける。
「結局のところ、あの人は、逃げたんですよね。私の死を直視することから。あの人は、なんだかんだ言って『私を救う手立て』をずっと探させていました。でも、それが無理だと分かったから、私の元から逃げたのだと思います。でも、それでいいんです。私を救えなくて落胆するあの人の姿なんて見たくないですからね。私の記憶の中のあの人は、最後までしかめっ面のまま。それでいいんです」
特に聞かれている訳でもないのに、彼女は夫のことをボソボソと話し続ける。それは明らかに、トオヤに対してというよりは、自分に対して言い聞かせているような様子であった。
そして、祖母のこの発言から、トオヤは「あること」に気付いてしまう。リンナはもう何年も前からずっと原因不明の体調不良の日々が続いているが、「その病状を完全に治すことが出来る可能性がある薬」が、ある一定期間、確かにケネスの手元に存在していたことを思い出してしまったのである。
(救われる者もいれば、救われない者もいる。薬は一つだけだった……)
その薬は諸々の経緯の末に、最終的には現ヴァレフール伯爵の体質を治すために用いられることになった(
ブレトランド風雲録10参照)。おそらくケネスの中では、その薬を用いて妻の体質を治す選択肢もあっただろうが、彼はあえてその道を選ばなかった。自分の家族を助けることよりも、国内の対立を収束させるため政治的駆け引きの道具として用いる選択肢を選んだのである。国を立て直すために、孫の身柄や自分の身体を平気でパンドラに差し出してきた彼のこれまでの所業を考えれば(
ブレトランド風雲録6参照)、当然の決断であろう。
トオヤはそのことに気付いた上で、静かにリンナの部屋から退室する。その薬をレアに使わせるために尽力した身として、今の彼には病床の祖母にかけられる言葉は何もなかった。
ケリー(コンラート)とサラがハルーシアを出港してから数日後、彼等を乗せた大型客船はヴァレフールの港町であるアキレスへと近付きつつあった。久しぶりに慣れない船旅となったサラが少々体調を崩してぐったりとしている中、船室の外で船員達が慌ただしくしている物音が聞こえてきたケリーは、ひとまず甲板に出て、船員達から話を聞くことにした。
「最近、危険な投影体がこの海域に出現しているという噂があって、警戒を強めているのです」
そう言われたケリーは納得しつつ、いざとなったら自分も武具をまとって戦わなければならないであろうと判断し、気を引き締める。この時、既に日は落ちて、夜空には星が満ちている。彼は船上の戦いには慣れておらず、ましてや夜戦ということになれば、通常の戦闘のようにはいかないだろう。
そんな思いを抱きつつ、海上にそれらしき投影体がまだ今のところは出現していないことを確認した上で、ふと夜空を見上げると、彼はそこに奇妙な違和感を感じた。
(おかしいな……。星が、増えている……?)
ケリーは昔から、なぜか「他の人の瞳には映らない八つの星」が見えるという、奇妙な能力が備わっていた。それは彼が父から従属聖印を受け取った瞬間から見えるようになった星々なのだが、因果関係は不明である(少なくとも、彼の父にはその星は見えないらしい)。
それらはいずれも、他とは異なる青白い光を放つ星々だったのだが、同じような輝きを放つ「今まで見えなかった星々」が、その8つの星々の周囲に集まっていたのである。正確に言えば、それは従来見えていた八つの星と同じ「青白い星」と、それとは微妙に異なる(しかしどこか似た輝きにも思える)「赤味を帯びた光の星」が、増えていた。その数は、ざっと数えてみても20は超えている。
これらの星々もまた、自分にしか見えない星なのか、それとも、他の人にも見えている星なのかは、今の時点では分からない。ケリーがそんな「奇妙な夜空」を凝視していると、その隣に見知らぬ男が現れる。その男は白衣をまとい、杖を持ち、そして二匹の巨大な「蛇」を連れていた(下図)。
「星は、お好きですか?」
不気味な様相ながらも悠然とした物腰で問いかけてきたその男に対して、ケリーは素直に答える。
「えぇ、そうですね。曇りで見えない時もありますが、晴れの時はいつでも我々を照らしてくれる存在ですから」
「そうですね。どこの世界においても、星の光があることによって、私達は夜の世界でも生きていくことが出来る。もっとも……」
その男は、そこまで言いかけたところで、一瞬口籠もる。
「……いや、この話はしても仕方がないですかね。ともあれ、危険な海域に入ってきているようなので、甲板に長居するのは良くないかもしれません。あなたが混沌に抗う力がある人なら、話は別ですが」
ケリーは背はやや高めで、体格も悪くない。今は日常着(貴族服)だが、少なくとも、武器を持てばそれなりに戦えそうな外見には見える。とはいえ、敵の正体次第では、「通常の武器」では太刀打ち出来ない存在という可能性もあるだろう。アウベスト相手の敗戦を通じて、彼は「この世界には多様な『敵』が存在する」ということを学んでいた。
「直接戦う力があるかと言われると微妙ですが、船員を守るくらいのことはしたいと思います」
「そうですか。あまりご無理をなさらぬように」
そう言って、その「蛇遣いの男」は甲板から去って行く。そんな彼の背中を見送りつつ、ケリーもまた自分達の船室へと戻ると、少し休んでいる間にサラの体調は多少なりとも改善したように見える。ケリーは独学で学んだ「体調不良時の応急措置」を彼女に施しつつ、彼女と言葉を交わす。
「ありがとう、ケリー。今、外で何が起きてたの?」
「面白い人に話しかけられてね。蛇を連れていた」
「蛇? それは大道芸か何かの人?」
「自分はそういうことはよく知らないが、もしかしたら、そういう類いの人かもしれないな」
「じゃあ、外が騒がしくなってるのは、その蛇の人のせいなの?」
実際、彼のその「異様な様相」は、周囲の船員や乗客達を遠ざけ、そして遠巻きに彼を見ながらヒソヒソと話していた人々もいる。
「あぁ、半分くらいはそうかもしれないが、最近はこの海域が少し物騒らしいから、皆、気を張って船を動かしているみたいなんだ」
「そっか。そういうことなら、あなたも何かあった時に、すぐ戦える準備はしておいた方がいいかもしれないわね」
「あぁ、そうだな。ありがとう」
そう言ってケリーが鎧に手をかけた瞬間、どこかともなく、彼の脳内に「謎の声」が聞こえてきた。
《あなたは……、フランチェスコですよね?》
ケリーはその声に聞き覚えがない。その直後に、今度はまた別の声が聞こえてくる。その声は、「鎧」に触れている自分の指先から発せられているように感じた。
《その気配……、まさか、ブレーヴェか?》
ケリーは「フランチェスコ」という名にも、「ブレーヴェ」という名にも聞き覚えがない。自分の頭の中で謎の二つの声が会話を始めている中、ケリーは左右を見渡すが、少なくとも横にいるサラには聞こえていない様子である。
「どうしたの、ケリー? 何かあった?」
よく事態が把握出来ないまま、彼の脳内での会話が続く。
《いえ、私はブレーヴェではありません。四百年前は、確かに彼と共にありましたが》
《どういうことだ? 貴殿は、何者だ?》
《私は『今のあなたの主』の『来世』に相当する者です。もしかしたら、この声も、彼の元に届いているのかもしれません》
この声が言うところの「彼」が何者なのかを特定出来る根拠は無く、そもそも「彼等」が何者なのかも分からない。だが、ケリーは本能的に、自分の脳内で語られているこの「謎の二つの声」が、自分とは無関係のように思えた。
「君達の予想通り、僕には聞こえているんだが、あまりにも話が分からない。ちょっと、説明してもらえるか?」
二つの声の主が何者かも分からないまま、ケリーは声に出してそう語りかける。当然、傍らで見ていたサラは驚いた。
「え? な、何? どうしたの? ケリー?」
そんな彼女をよそに「最初に聞こえてきた方の声」がケリーに語りかけてくる。
《ようやく、私の声に気付いて下さったのですね、我が前世よ……。私の名は天猛星。数多の英雄達が集う星界(Starry界)へと死後転生した、未来のあなたです。もっとも、正確に言えばこの世界にいる私は、その『未来のあなた』の投影体なのですが》
唐突に意味の分からないことを言われたケリーは、当然困惑する。「自分が異世界に転生した存在の投影体」といきなり言われたところで、即座に理解出来る筈もない。だが、天猛星はそのまま説明を続けた。
「天猛星」曰く、今の自分は極大混沌期に「星界」から投影された「百八の星」の一つであり、彼等はいずれも、元来はこの時代(大陸歴2000年代)の英雄達が星界へと転生体した存在であるらしい。そして、その星界に「大毒龍」と呼ばれる怪物が何処かの世界から現れた際、百八の星々は結束してその大毒龍を倒し、星界の危機を救ったという。
その大毒龍は、極大混沌期に一度、そして四百年前にも一度、この世界に投影されたことがある。一回目の投影の時は「彼等の別世界における転生体」の力を借りることによって、二回目の投影の際は英雄王エルムンドを初めとする「彼等の力を受け継いだ者」の活躍によって、この世界の破壊は阻止された。そして、間もなく「三度目の大毒龍」が出現しようとしているらしい。
ケリーはハルーシア人だが、四百年前にブレトランドに出現したと言われる「大毒龍ヴァレフス」と、それを倒した「英雄王エルムンドと七人の騎士」についての逸話は、(エルムンドの末裔」である)サラから聞いたことがある。とはいえ、四百年前の話ということもあり、どこまで正確な伝承なのかについては、サラ自身もよく分からない様子であった。
そして、ケリーが子供の頃から見えていた「八つの星」の中の一つが、今彼に語りかけている(「彼の来世」と名乗る)天猛星であり、他の七星も、そして最近になって見えるようになってきた他の星々も、いずれも共に星界で大毒龍と戦った「百八星」の投影体(投影星)であるらしい。そして、大毒龍を倒すためには「百八星の前世」に相当する者達の内に秘めた力を覚醒させる必要があり、現時点で空に増えている星々は「覚醒した者達」の来世の姿であるという。そして、その覚醒を促すことが可能なのは、ケリーを初めとする「最初から夜空に存在していた八星」の前世たる英雄達だけであるらしい。
つまり、大毒龍の脅威からこの世界を救うためには、ケリーを含めた「八星」の前世が、他の星々の前世を探し出す必要があるのだが、ここで一つ問題となるのが、大毒龍の存在をあまり公には出来ない、ということである。というのも、大毒龍は「人々の恐怖心」を活力とする存在であるため、あまりその存在を広めると、特にブレトランドの民は本能的に恐怖を感じてしまい、大毒龍の力が強まってしまうのだという。もし、それを教えても良いとしたら、それは「口が堅い人」「ケリーであれば大毒龍に打ち勝てるであろう、とケリーのことを信用出来る人」でなければならない、というのが、天猛星の見解であった。
ケリーがそんな話を黙って聞き続けている間、サラは明らかに狼狽した様子で夫に語りかける。
「どうしちゃったの? ケリー! ごめんなさい、何か私、あなたを追い詰めるようなこと言った!?」
「あ、あぁ、済まない。詳しくは言えないんだが……、ちょっと一旦、席を外すよ」
そう言って、彼は部屋の船室の外に出る。ひとまずサラには黙っていようと考えた彼は、その場で天猛星との会話を続けることにした。なお、この時点で、ケリーには、先刻鎧に触れた時に聞こえた「もう一つの声」は聞こえていない。そのことについて、天猛星が説明を始める。
《さきほど私と話していた『もう一つの声』は、あなたの『鎧』の声です。あなたの鎧は、四百年前に後に英雄王と呼ばれることになるエルムンドが着ていた『五つの銀甲』の一つ、聖鎧フランチェスカです》
「五つの銀甲」とは、ブレトランドに昔から伝わる「英雄王エルムンドの叙事詩」の中に登場する、エルムンドの装備品である。
「七つの聖印携えて
六つの輝石の加護を受け
五つの銀甲身に纏い
四つの異能を従えて
三つの令嗣に世を託し
二つの神馬の鞍上で
一つの宝剣振り翳し
全ての希望を取り戻す
かの者の名はエルムンド
ブレトランドの英雄王」
この冒頭のフレーズは、ブレトランド人なら子供でも知っている有名な一節だが、さすがにハルーシア人のケリーは、そこまではサラから聞かされていなかったらしい。
《フランチェスカには意志があり、そして聖印の力を宿しています。彼があなたのことを真の主と認めれば、おそらくあなたにも、彼の本当の力を発動させることが出来るでしょう》
その話が本当なのだとしたら、今の時点ではまだその「鎧」は自分のことを「真の主」とは認めていない、ということなのかもしれない。いずれにせよ、何もかもがあまりにも突飛な話すぎて、まだケリーの中では気持ちの整理がついていなかったが、少なくとも実際に「何者か」が自分の脳に直接語りかけてきていることは間違いない以上、この時点で相手が「只者ではない」ということは実感出来る。
《では、今からあなたの『理想の未来』を思い描いて下さい。そうすることによって、あなたの、そして私の力の源である『星核(スターコア)』が現れる筈です》
まだ半信半疑の状態ながらも、ひとまずケリーは言われた通りに、今の自分の中で抱いている「理想」について、考えをまとめてみることにした。
(自分は少し前に不甲斐ない敗戦を喫した。あの敗戦を忘れることは出来ないし、しばらくはこのまま尾を引くだろう。だが、そこから少し考えが変わったんだ。宿敵である奴に勝つことよりは、奴を含めた、自分の敵となる全ての存在から、自分と、そしてもちろんサラを、きっと守ってみせる。そう思うようになった。自分としては、その願いを大切に果たしたいと思う)
彼がそう願った瞬間、彼の目の前に、夜空に見ていた星々と同じ「青白い輝きを放つ星核」が現れる。
「おぉ!」
思わずケリーが声を漏らすと、改めて天猛星の声が彼の脳内に響き渡る。
《それがあなたの星核です。大毒龍と戦う時、そして大毒龍の至るまでの道において、きっとあなたの手助けになるでしょう》
まだその言葉の意味がよく分からないまま、ひとまずサラをこれ以上放置しておく訳にはいかないと判断したケリーは、ひとまず自分達の船室へと戻る。
「ケリー! 結局、何だったの? さっきのは!?」
当然のことながら当惑した様子のサラに対して、ケリーは言葉を選びつつ、語りかける。
「うーん、予知夢というか、天からの声というか、不思議な体験だったけど、君が気にすることじゃないさ」
ケリーは笑顔でそう答える。何の説明にもなっていない答えだが、サラは彼のその落ち着いた様子と、そして「天からの声が届いたらしい」という不確定な情報から、なぜか納得した様子を見せる。
「そう……、よく分からないけど、何かあなたに天啓が下ったというのなら、やはりあなたはこの世界にとって特別な存在ということね! やっぱり、私の目に狂いはなかったわ。きっとあなたはこれから、途方もなく大きないことを成し遂げる人になる。そういうことよね!」
サラが夫のことを過剰評価するのは、今に始まったことではない。人によっては、この過剰な期待が余計な重圧となってしまうこともありそうだが、ケリーはそれを素直に自分への追い風へと変えられる気性の持ち主だった。
「サラにそう言ってもらえるなら、百人力だな」
夫がそう答えると、妻はそれ以上何も言わなかった。何も言わなくても、夫が天道を歩むのであれば、自分は彼を信じてその道を支え続ける。慣れない船旅によってもたらされた嘔吐感を必死で抑え込みながら、彼女は改めてそんな決意を固めていた。
その頃、アキレスのリンナの病室には、トオヤ、チシャ、ドルチェの三人が集まり、実質的な「主治医」に近い立場にいるサルファから話を聞いていた。
「ここまで色々な薬を試してはみたですが、何を使っても、体力が回復しないのです。やはり、普通の病気ではないのかもしれません」
彼がそんな話をしている中、この場にもう一人の「リンナの孫」が現れる。9人の孫達の中でも最年少にあたる少年、ドギ・インサルンドであった。
「本物のドギ」がパンドラに奪われて以来、彼の侍従であったキャティがその代役を務めていることは、トオヤ、ドルチェ、チシャの三人は知っている(この辺りの事情については
ブレトランド風雲録6を参照)。ただ、彼等は「リンナもそのことをケネスから聞かされているのか」ということについては、確認していない。
「ドギ」は三人に軽く会釈しつつ、リンナの元へと歩み寄る。
「おばあさま、もうすぐ、姉さんが帰ってきますよ。だから、元気を出して下さいね」
ドルチェは、そんな彼の様子を見ながら、「ドギ」の演技が、明らかに以前よりも上手くなってるように感じていた。もともと「影武者」が本業であった彼女から見ても、まるでドギ本人であるかのようにしか見えないほどに精巧な立ち振舞いに見えたのである。
(キャティさん……?)
ドルチェはそんな彼女の「上達ぶり」に、感心を通り越して逆に違和感を覚える。キャティはあくまでもただの「侍従」であり、専門的な影武者の訓練を受けてきた訳ではない。いくら子供の頃から間近でドギを見続けてきたとはいえ、外見を本人そのものの姿に変えたところで、「本人の雰囲気」を自然に醸し出せるようになるには相当な技術が必要な筈なのだが、独学で身につけたとは思えないほどに完成度の高い「ドギ」がそこに存在しているように見えた。
一方、この場にいる中でドギの「現況」を知っている唯一の存在であるチシャもまた同様の違和感を抱き、そして彼女はすぐに真相に気付いた。そこにいるのは、紛れもない「本物のドギ」である。彼はパンドラ新世界派の首領ジャックに身体を乗っ取られた後、なぜかその身体を乗っ取り返すことに成功し(
ブレトランドの光と闇7)、そして一度、その状態のままチシャの前に姿を現したこともある(
ブレトランド風雲録12)。
なぜ彼がここに再び現れたのか、その意図が分からないまま、チシャが動揺を表情に出さないように必死に取り繕っている一方で、トオヤは(目の前にいる「ドギ」の正体が「キャティ」であると信じ切った上で)普通に声をかける。
「そうか。連絡は受けていたが、サラ様がもう帰って来られるのか。それは良かった。お婆様、何か美味しいものを用意した方が良さそうですね」
「そうね。あの子も久しぶりにブレトランドに帰って来た訳だし。と言っても、ハルーシアの美味しい食事に慣れてしまっていると……」
「いや、そういう時こそ、ブレトランド産の美味しいものを用意しましょう。故郷の味というのは、なかなか忘れられないものです。では、僕が今から手配を……」
そう言ってトオヤが出て行こうとしたところで、侍女のアマンダ(下図)が部屋に入って来た。
「トオヤ様宛に、お手紙が届いております」
「手紙?」
特に心当たりのないトオヤが首を傾げつつ差出人名を見ると、そこには「ラザール・ミルバートン」と書かれていた。それは、ブレトランドの裏社会に闊歩する反社会組織の指導者の名である。以前、トオヤ達との間でとある裏取引(詳細は
ブレトランド風雲録9参照)を交わして以来、トオヤの元に手紙が届けられるのは初めてである。トオヤはひとまずそのまま廊下に出た上で、その場で一人で手紙の封を開けた。
「久しいな、護国卿殿。現在、貴殿の祖母殿の容態が悪化しているようだが、儂はそれを治す術に心当たりがある。それは『伯爵殿の病気』を治した、あの薬だ」
トオヤにしてみれば、先日のリンナとの会話を通じて気付いてしまった「あまり気付きたくなかった事実」を改めて直視させられた形だが、それに続けて手紙にはこう書かれていた。
「あの薬に関する情報をこの国に提供したのは、実はこの儂なのだ」
そう言われれば、確かに納得も出来る。エーラムですら把握していない特殊な薬ということであれば、何らかの裏社会経由で手に入れた可能性は高いし、そもそもあの薬の存在自体が公にはされていない以上、ラザールがこの話を知っている時点で、薬の入手に関わっていた可能性は高いと考えるのが自然である(厳密に言えば、あの時点で最初に「薬」を入手していたのはグレンだったのだが、その辺りの詳しい経緯まではトオヤは知らない)。
そして、話の本題はここからであった。
「あの薬を作り出せる可能性のある人物が、まもなくこの地に到着する。紹介料に関しては、先代アキレス領主殿から貰っているから、心配することはない」
リンナは、先代アキレス領主であるケネスは「リンナの死を直視することから逃げた」と解釈していたようだが、この手紙の内容が本当なのだとしたら、話は少し変わってくる。実際、ケネスの気性をよく知っているトオヤであれば、彼が裏から手を回して妻の病気を治すために私財を投入していたとしても何ら不思議はない。
ケネスは「国家としてのヴァレフールの繁栄」を何よりも大切に考え、場合によっては家族や自分自身をそれよりも軽んじることもあったが、しかし、それは彼の中で家族の優先順位が低いということを意味している訳ではない。あくまでも、それ以上に「国家」の優先順位が高すぎただけのことであり、既にその「国家」から解き放たれた立場にある彼が、家族のために裏で何かを画策している可能性は、十分にあり得る話である(もっとも、それが「エーラムの魔法師としての倫理」に合致しているかどうかまでは、トオヤには分からなかったが)。
とはいえ、この手紙だけではまだ何も判断出来ない。そして、仲介役としてのラザールへの紹介料はケネスが既に払っているようだが、それとは別枠で「薬を作り出せる人物」が代償として何を要求するかまでは手紙に書かれていなかった。
唐突なその手紙の内容に対してどう対処すべきか、廊下を歩きながらトオヤが思案を巡らせていると、やがてそこに伝令兵が走り込んできた。それは、トオヤにとっては子供の頃から見慣れた存在である、この城の古参の兵士の一人である。
「トオヤ様、先刻、海上警備隊から連絡がありました。港の近くの海上に巨大な投影体が出現する気配が漂っているようです」
「それはまずいな……。急ぎ港を封鎖し、住民達を避難させろ。俺が出向く!」
そう言って、トオヤは一旦、病室へと戻ることにした。
******
その頃、ドルチェとチシャもまた、ひとまずリンナの病室から外に出ようとしていたところであった。
「ところでチシャ、一つ聞きたいんだがね」
「はい。何でしょう?」
「ジーンさんから聞いたんだが、最近、この港の近海で投影体が出現することがあるらしい。チシャなら何か分かるかと思ったんだが」
「うーん、海に出現する投影体、ということだけだと……。外見の特徴などが分かれば良いのですが」
「まぁ、そりゃあ、そうだよね。チシャさえ良ければ、これから街の船乗り達にでも話に聞きに行くことにしようと思うんだが」
二人がそんな話しているところで、廊下を逆走したトオヤが戻って来た。彼は扉の外に出ようとしていた二人と、まだ部屋の中に残っていたサルファに対して声をかける。
「すまないが、アキレスの港の近辺で投影体が出現するらしい。サルファはアキレスの兵達を統制して、住民達の避難を!」
「はい!」
サルファはそう答えると、医療機器を一旦片付けて、城下町へと向かう準備を始める。
「ドルチェとチシャは、俺と一緒に来てくれ」
「ちょうど、こちらもその話をしていたところだ」
「そうなのか」
「調べるも何も、実際に見てみることが一番早いということか」
「では、早速向かいましょう」
三人はそう言うと、チシャが窓の外側にペリュトンを召喚し、それに飛び乗った上で港へと向かうことになった。
ペリュトンに乗ったトオヤ達が港へと向かうと、港からほど近い沖の方面に奇妙な船影を発見する。それはどう見てもこの世界の船とは異なる形状(おそらくは「異界の船」の投影体)であり、明らかにこの世界の船以上に強大な「武装」が備えられていたが、人が載っているような雰囲気は感じられない。おそらく、異界の船そのものがオルガノン化した上でこの世界に出現した幽霊船団であろう。船影全体から明らかに禍々しい気配が漂っており、このまま放置しておけば周囲に無差別に発砲しそうな危険な存在であることを、トオヤ達は即座に理解した。
一方、幽霊船団の向こう側には、アキレスの港に向かいつつある客船の姿があったのだが、その船の甲板には完全武装状態のケリーが立っていた。彼もまた、船に乗っている民間人を守るため、聖印を掲げて船団からの発砲対象を自分一人に集中させようとしていたのである。
そんな彼の存在には気付かぬまま、ドルチェもまた幻影の邪紋の力を用いて民間船を巻き込まないよう、自分に敵の注意を引きつけようとする(結果として二方面から視線誘導を受けることになった幽霊船団は更に混乱することになる)。そんなドルチェの隣で、トオヤは自身の鎧に聖印の力を施すと、彼の鎧は薄緑色と黄色が織り混ざった見慣れぬ色彩へと変色していく。それは、妻のドルチェも初めて見る色相であった。
「ほう、またデザインを変えたのか?」
「こっちの方が耐久性は上なんだ」
トオヤはそう答えつつ、剣と盾にも同じように聖印の力を付与していく。それと並行してチシャは自身の召喚獣であるドライアドを呼び出し、幽霊船団に対して先制攻撃を仕掛けた。だが、幽霊船団の中核を占める母艦から飛び出した飛行体がそれらを遮り、ドライアドの攻撃は本体にまで届かない。その直後にチシャはジャック・オー・ランタンを瞬間召喚して叩きつけようとするが、それもまた母艦を守る護衛艦隊によって阻まれてしまった。
「火炎でもダメ!?」
チシャが愕然とする中、今度はドルチェは直接護衛船団に乗り込み、内側から切り刻もうとする。その一撃は船団の動力源を直撃し、内側から何かが吹き出し、船の一部は機能を停止した。
「これでようやく、といったところか……。だが、僕はそうそう何回もこれは出来ないぞ」
実際、ドルチェのこの攻撃は、彼女の邪紋の力を大幅に消耗させる。これまで幾多の敵をこの集団で屠ってきた彼女だが、今回の幽霊船団をこの手法だけで壊滅させるのは難しい。
「かなり硬そうだな」
トオヤはそう呟きつつ、奥にいる民間船を守らなければならないと判断した上で、あえて自分にも敵の注意を向けさせるべく、チシャがペリュトンを制御出来るギリギリの位置にまで前進しつつ、自らの盾で殴りかかる。
一方、その民間船の甲板にいたケリーは、自分の防具を聖印の力で強化しつつ、その聖印の力で幽霊船団からの砲撃を自分自身に集中させる。その様子に気付いたチシャが(甲板の上に立っているのが誰なのかはよく分からないまま)咄嗟にオルトロスを瞬間召喚したことで、その弾丸の大半が弾かれ、ケリー自身の損傷は彼の想定よりも遥かに軽微な程度に抑えられた。
(なんだ、今のは!?)
ケリーは初めて目の当たりにしたオルトロスに驚く。そして、トオヤはこの光景を目の当たりにした時点で、客船に自分と同系統の「防衛に特化した聖印」の持ち主がいることに気付いた。とはいえ、それでも客船を危険には晒せない以上、チシャに頼んで幽霊船団をドライアドの方に向けて誘導させつつ、ドルチェとも連携して、彼等にとっての「奥の手」を繰り出すことにした。
ドルチェとトオヤが幽霊船団と接敵した状態のまま、チシャが再びジャック・オー・ランタンを放ち、トオヤは自分の聖印で作り出した盾の力でその威力を強化した上で、ドルチェが敵船を邪紋の力で「自分とジャック・オー・ランタンの中間地点」へと誘導したのである。この結果、護衛艦隊により深い損壊を与えることに成功した。当然、これはトオヤ自身も、場合によってはドルチェをも巻き添えにしかねない危険な戦術であり、この三人の間の絶対の信頼関係があるからこそ実現可能な、絶妙の連携攻撃であった。
「船の者達! 今からこの不審船を引き剥がすから、しばらく待っていてくれ!」
トオヤはそう叫びつつ、再びチシャ&ドルチェとの連携攻撃で幽霊船団の装甲を削り続けていく。それと並行してドライアドが自身の方向へと船団を誘導することで、徐々に大型客船から幽霊船団が遠ざかり始めていった(その過程でドライアドは、敵船の航路の過程に、海藻を模した「罠」を設置していく)。
そんな彼等の様子を甲板で注視していたケリーは、トオヤ、ドルチェ、チシャの三人が繰り出すそれぞれの聖印、邪紋、魔法の力に「奇妙な懐かしさのような何か」を感じていた。そんな彼に対して、心の中で天猛星が語りかける。
《彼等はおそらく、先刻話した『百八の星』の前世でしょう。あなたも私と同じ既視感を感じている筈です》
ケリーはその言葉に同意しつつ、彼等の息の合った集団戦術に素直に感服する。そして、幽霊船団の射程圏内から大型客船が完全に外れたあたりで、ドルチェによって母艦の中央動力源を完全に破壊された幽霊船団は完全に消滅して混沌核へと変わり、トオヤの手で浄化されていくのであった(ドライアドはその光景を確認しながら、不発に終わった「罠」を黙々と回収していった)。
ひとまず周囲の安全を確認した上で、トオヤ達三人は客船へと近付いていく。ドルチェはペリュトンの鞍上から船全体の様子を概観してみた。
「こちらの船にも被害はないようだな」
「それは何よりだ」
トオヤが笑顔でそう答えるが、先刻の戦いの段階で船上にまで目を向ける余裕がなかったドルチェは、少々首を傾げる。
(何発か攻撃を受けていたように見えたが、それでも船に損傷はない……、何者かが守っていた……?)
やがて三人が客船へと降り立つと、甲板にいたケリーが真っ先に声をかけた。
「君達が倒してくれたのか、ありがとう!」
自分と同じくらいの重装備を着込んだ彼の姿を見たトオヤは、一目見て彼が自分と同じ系譜の力を持つ君主だと理解する。その直後に、後方からサラが現れた。
「トオヤ! チシャ!」
少し歳上の従兄達に対してそう叫ぶと、チシャもすぐさま彼女の姿を確認する。
「あぁ、この船に乗っていらしたんですね」
チシャがそう答えたことで、ケリーも状況を理解した。今回の渡航の前にサラから「母方の従兄弟達(リンナの孫達)」についての話は一通り聞いている。
「もしかして、あなたがトオヤさんですか?」
「はい、私がトオヤ・E・レクナです。ご無事でしたか?」
「かろうじて。何か不思議な生き物が飛んできて庇ってくれたようですが、あれは一体……」
「あれは、私の契約魔法師が使役しているオルトロスです。皆の命を守る勇敢な戦士ですよ」
実際、これまでの戦いにおいても、チシャが呼び出したオルトロスにトオヤ達は何度も助けられていた。今回の戦場でも、少なくとも片手で足りない回数にわたって瞬間召喚されている。
「いやー、本当に助かりました。お陰様で、船には損傷は出ませんでした」
「ただ、あなた自身は怪我をしているようですね」
オルトロスに庇われていたとはいえ、さすがにケリーも無傷ではいられなかった。そんな彼に対して、トオヤは手を伸ばして、聖印の力で傷を癒やす。現在の彼は長期戦にも耐えられるように、聖印の力を治癒のために用いる手法を磨いていたのである。
一方、サラはチシャに語りかける。
「そっかぁ、もうすっかり、契約魔法師が板についてきたのね」
幼い頃から「仲の良い従兄弟」の関係であった彼等がそのような関係になっていることが、サラには少し不思議に思えているらしい。
「そうそう、この人がね……」
サラはそう言いながら、隣でトオヤと話していたケリーの肩に手を据えつつ、自慢気に言い放つ。
「この人こそが我が夫、オーガスト家の次期後継者、コンラート・オーガストよ」
それに対して、彼の傷の治療を終えたトオヤが反応する。
「あなたがコンラート殿でしたか」
「えぇ。コンラートは呼びにくいと思うので、ケリーとでもお呼び頂ければ」
「コンラート」を略して「ケリー」と呼ぶ慣習は、ブレトランドでもハルーシアでも一般的ではない。彼が自分で考えた通称である。
「では、ケリー殿、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
トオヤとチシャがそう答えると、サラは更に誇らしげな表情で話を続ける。
「すごいのよ、ケリーの聖印は。さっきの砲撃も全部一人で弾き飛ばしたんだから」
厳密に言えば、チシャのオルトロスによって軽減されていたことは、ケリーもトオヤも知っていたのだが、あえてその点には触れずにトオヤは話を合わせる。
「そうですか、流石ですね。将来有望な君主としての噂はブレトランドまで届いていましたよ」
「私は今はもうハルーシアの人間だけど、これから先もヴァレフールとは良い関係を築いていきたいから。ところで、そちらの女性は?」
サラはそう言いながら、トオヤの隣に立つ邪紋使いに声をかける。
「あぁ、そうだね。あなたとは初対面になります。トオヤの妻のドルチェ・レクナです。よろしく」
正確は「この姿でははじめまして」であるものの、実はドルチェは「レアの影武者」として、子供の頃に何度もサラとは会ってるのだが、そんなことをサラが知る由もない。
「あなたが! いや、あの堅物のトオヤが結婚したと聞いた時は驚いたわ。しかも、戦場で出会った『ゆきずりの女』って聞いて、一体どんな人かと思ってたけど」
興味津々な様子で食い気味にドルチェを凝視するサラに対して、ドルチェは苦笑を浮かべつつ、「いつもの口調」で答える。
「まぁ、そうだな。その話が信じられないということには同意するが、まぁ、それでもね。彼も彼で、君の見ない間に変わったのだよ」
(形式上は「初対面」の)貴族夫人に対する口調としては明らかに無礼だが、サラが「そういったこと」に対しては寛容なことを、ドルチェは昔から知っていた。
******
こうして、久しぶりに会った彼等がそんな会話を交わしている中、甲板に新たな人物が現れる。
「お見事なお手前でした」
先刻ケリーと会話を交わしていた「蛇を連れた白衣の男」である。彼はケリーを見るなり、何かに気付いたような表情を浮かべる。
「おや? 先程と、何か少し雰囲気が違うような……、あなたはもしかして、私と同じ……? いや、違うな……。聖印を使っていたということは、投影体ではないのですよね?」
唐突に意味不明なことを言われたケリーだが、素直に答える。
「まぁ、投影体ではないな」
そう言いながらケリーが改めて聖印を見せると、その男はより一層怪訝な顔をする。
「しかし、確かにあなたからは私と同じ匂いがする。星界の臭いが……」
蛇使いの男がそう呟いたところで、彼の存在に気付いたドルチェが少し驚いた顔を浮かべた。
「おや、懐かしい顔がいるね」
ドルチェの記憶が正しければ、この蛇使いの男の名はアスクレピオス。昔、サンドルミアで宮廷医師を務めていた人物である。正体は投影体らしいが、詳しいことは彼女も知らない。ただ、レアが何度か体調を崩した時にも彼女を診療し、適切な処方で彼女を救ってくれたことから、ドルチェからの信頼は厚かった。風の噂で聞いたところによると、数ヶ月程前に宮廷内の抗争に巻き込まれて、何処かへと出奔したらしい。
「ほう? 私のことをご存知で?」
あくまでも「レアのサンドルミア留学時代」の知人であるため、アスクレピオスは「ドルチェ」の姿には見覚えがない。そのため、彼女はひとまず、サンドルミア時代に用いていた「レア姫の侍女」の姿へと姿を変えた。
「こういうことだ。元々ヴァレフールの人間だからね」
「あぁ、なるほど。そういえば、『あの方』が新伯爵になられたのでしたね」
「そういうことだ。あの後、君はサンドルミアから姿を消したと聞いていたんだが……」
「まぁ、私の医術は『この世界』では異端なこともあって、邪教徒扱いされるようになりましてね。端的に言えば、私の存在が、彼等にとって気に食わなかったのでしょう」
「なるほど。サンドルミアは政情が不安定である以上、君のような存在が受け入れられる時もあれば、受け入れられない時もあるだろう」
「えぇ。で、しばらくは各地を転々としていたのですが、先日、『ブレトランドの方』からお呼びがかかりまして。随分昔に聞いた話なので、今はどうなっているかは分かりませんが、この国には『私と同郷の者』がいるらしいので、ちょっと興味はあったのですよ」
「ほう? 前にちらっと聞いたが、『星界』だったか?」
「正確に言うと、私自身は『星界』から、その派生世界と呼ばれている『黄道界(ゾディアック界)』へと転じた状態で投影された存在でして。更に元を辿れば、本来は『オリンポス界』の住人だった訳ですが」
「世界」の定義はそもそも曖昧なため、「派生世界」という呼称が正しいのかどうかも分からないが、彼の中ではそのように認識されているらしい。無論、魔法師でも投影体でもないドルチェにしてみれば、どう説明されたところで理解しきれるものではないのだが。
「その者は、オリンポス界の頃からの同郷の友なのです。当時の名前は『ケイローン』。この世界では黄道界における呼称である『サジタリアス』と名乗っているそうですが」
「……あぁ、彼か」
ドルチェがその名を忘れる筈もない。それは、レアの即位直前のブラフォード動乱の際に、ガスコインの側近としてトオヤ達の前に立ちはだかった半人半馬の投影体の名であった(
ブレトランド風雲録11)。
「君の期待には添えないと思うが、思い出話で良ければ、彼については語ることはある」
「ほう?」
「まぁ、せっかくだ。どうせ船が港に着くまで、しばしの時間もあるだろう」
そう前置きした上で、ドルチェはブラフォード動乱の時のくだりを(トオヤの印象が悪くならないように気を配りながら)説明した。
「なるほど。そういうことなのであれば、致し方のないことですね。武人としてその生をまっとうすることが出来たのであれば、彼も納得しているのでしょう」
アスクレピオスは達観した表情でそう語る。厳密に言えば、サジタリアスはその数ヶ月後に再びケイに出現した上で、チシャの弟のラファエル達の手によって倒されているのだが(
グランクレスト異聞録2)、最終的には確かに彼は全てに納得した上でこの世界から消えていった。
その上で、このタイミングで「優秀な医者」が現れたことで、必然的にドルチェの中には一つの選択肢が発生する。
「あなたは、アキレスに着いたらどこに滞在する予定なのかな?」
「明日にはアキレスの城に向かうことになると思います。先代領主様の奥方の病状を見てほしいと言われているので」
つまり、彼をこの地に呼び寄せた「ブレトランドの方」とは、どうやら「こちら側」の人間らしい。
「そういうことか。それなら話は早い。そのことはトオヤは知っているのかな?」
「どうなのでしょう? 色々な人達が間に入っているようなので、誰がどこまで把握しているかは分かりません」
「では、私の方からも伝えておくことにしよう。君の腕前はよく知っている」
「それは光栄の至り。よろしくお願いします」
******
彼等がそんな話をしている間に、サラはチシャに対して散々惚気話を続けていた。チシャはそれを、そっけなくならない程度に努力しながら聞き流していたのだが、そんな中でふと思い出したっかのように、サラがチシャに問いかけてきた。
「ところで、あなたはどうなの? てっきり、トオヤと契約したと聞いた時は、そのままくっつくのかと思ってたけど」
実際、君主と契約魔法師が恋仲になるのは、よくある話である(とはいえ、そのまま「正式な夫婦」となった事例は稀だが)。
「い、いや、そんなことには」
「ふーん。もし、あれだったらさ……」
サラはそう言いつつ、小声で語りかける。
「あなた気付いてるかどうかは知らないけど、私の『下の弟』がさ、前々からあなたに対して、ちょっと思うところがあるみたいだけど、あなた、年下は興味ない? まぁ、さすがに歳が離れすぎてるかもしれないけど、どうしても相手がいないければ、いずれあの子が……」
そんな話を持ちかけられたチシャだが、さすがに「既に一度断っている」(
ブレトランド風雲録12)とは言えない手前、胸が痛い。
一方、トオヤはトオヤでケリーとの間で軽く自己紹介しつつ、そのまま談笑していた。
「サラ様とは上手くやられてますか?」
トオヤは、ゴーバンに対しては(「武術の師匠」という立場もあって)上から目線で強めの口調で接しているが、その姉のサラに対しては「敬語」である。もともと主君筋である上に、既に「異国の君主の奥方」である以上、それも当然と言えば当然の作法であろう。
「えぇ、まぁ、そうですね」
ケリーはそう答えつつも、横から聞こえてくるサラの「過剰な惚気話」には、少し反応に困ったような表情を見せる、そんな彼の様子を、同い年のトオヤは微笑ましく眺めていた。
この日の夜のうちに、客船はアキレスの港に到着した。彼等が到着した時点で既にリンナは就寝していたので、ひとまず挨拶は後にして、ケリーとサラは客室へと案内される。
「ここはもともと私のお爺様が治めていた土地で、私も子供の頃はよくこの城で過ごしていたわ。南国育ちのあなたには、少し寒いかもしれないけどね。あと、ブレトランドの料理はあなたの口には合わないかもしれないから、あんまり期待はしないでね」
サラは苦笑しながらそう語る。一応、ヴァレフールもブレトランド内では比較的豊かな地方であり、特に肉料理に関してはそれなりに定評があるのだが、さすがに文化の最先端であるハルーシアには及ばないことは、彼女もよく分かっていた。
******
一方、トオヤはサルファから街の状況の確認し、特に異変も起きてはいなかったことを聞いて安堵したところで、ドルチェがトオヤに声をかけた。
「あぁ、トオヤ。一つ伝えておくことが」
「なんだい?」
「さっきの船の中に一人、知り合いがいてね。先代団長殿の紹介だそうだ。腕の良い医者がいるんだが」
そう言われた時点で、トオヤはラザールからの手紙を思い出す。
「あぁ、なるほど。お婆様の容態を見てもらうために来てもらった、ということか」
「そういうことだ。トオヤに話が通じているのならいいが。とりあえず、サンドルミアにいた頃の知人で、異界からの投影体だが、腕前だけは信用している」
「そういうことなら、さっそく明日には診てもらうことにしよう。サルファが言うには、既存の医療技術ではどうしようもないみたいだし、どれほどの力を持っているのかは分からないが、ひとまず診察してもらった方が良いだろう」
「投影体の医者」という時点で、人によっては胡散臭く思えてしまう存在だが、トオヤはこれまでにあまりにも多くの投影体と接してきたこともあり、「投影体にも色々いる」ということはよく分かっている。だからこそ、祖母の病状を改善出来る可能性があるのなら、まずは実際に診てもらった上で話を聞こう、と考えるのは当然の発想であった。
******
その頃、既に帰宅していたチシャの私室の扉を叩く人物が現れた。ドギである。
「『気付いてる』よね?」
「薄々そうじゃないかと思ってましたけど……」
「大丈夫。キャティは今、眠ってもらってる。別に、今ここで何か騒動を起こすつもりはないよ。ただ、僕もお婆様が心配になって来ただけ」
今のドギは「混沌の世界で生きていく方法」を見つけ出すために、パンドラ新世界派の首領となっている。それは「エーラムの魔法師」であるチシャとは相反する立場であるが、それは「この世界の人々を救うための方法」が違っているだけで、ドギの気性自体は昔と変わらぬ「聡明で心優しい少年」のままであることは彼女も分かっている。おそらく、彼は本当にただ祖母の様子を確認したくてこの城に戻ってきたのであろう。
「で、実際に診てみたんだけど……、お婆様の今の症状は、病気じゃない。あれは何らかの『混沌による呪い』だ」
「呪い、ですか……」
それは、チシャも薄々考えていた可能性であった。
「だから『普通の薬』では治せないけれど、呪いを解く方法は何かあるかもしれないし、解けなかったとしても、強引に『書き換える』方法はある」
「書き換える……?」
「レアが使ったあの薬……。あの薬は、実はね、ジャックも探していたんだよ。『僕』の前に使っていた身体がもうボロボロだったので、それを治すための手段として、その薬を作り出そうとしていた。結局、完成には至っていなかったんだけど」
「作れるものなのですか?」
「実は、製法自体はもう分かっている。ただ、そのために必要な『最後の鍵』が見つかっていない。どうやらあれは『特殊な地場』でなければ作れないらしい」
「地場?」
「この世界の大地の下には『混沌の流れ』のようなものが蠢いていてね……。色んな言い方がされているけど、僕が読んだ本では『龍脈』と書かれていた」
チシャにはその言葉に心当たりがない。これは極東の自然魔法師達が用いている独自の用語であり、エーラムの人間でも知る者は少ない特殊な概念である。
「その龍脈が集まるところを『龍穴』と呼ぶらしいのだけど、その龍穴と呼ばれる特殊な『混沌の力が満ちた空間』で、龍脈の力を利用して作り出したらしい。ただ、その『龍脈を操る技術』というのが、魔法というよりは『投影体の技術』らしいのだけど、その使い手がまだ見つかっていない。なんとか、他の方法でどうにかすることが出来ないか、色々と調べているところではあるので、もし何か分かったら伝えるよ。あるいは、呪いそのものを解くことが出来るなら、それでも良いのだけどね」
「投影体の技術」ということであれば、チシャにとっての本業である召喚魔法の領域でもあるのだが、その彼女を以ってしても、全く心当たりがない。ましてや「呪い」ということになれば、専門外である。
「呪われるような何かが、お婆様にあったとは……」
「まぁ、ありえるとしたら、『僕の時』と同じような形かな」
より厳密に言えば、それは「ドギが誘拐された時のケネス」の話であろう(
ブレトランド風雲録6)。つまり、「何かの代償」として何者かとの間で「契約」を結んだという可能性である。チシャとしてはあまり考えたくはない話であるが、ありえない話とも言い切れないだろう。
「あんまり長居しても、誰かに悟られるかもしれないから、今夜はこの辺りで」
そう告げてドギは彼女の部屋から去って行き、チシャの心の中には嫌なモヤモヤ感だけが残ることになった。
翌日。アスクレピオスがリンナの診察のために病室へと呼ばれることになり(彼は城下町の宿屋に泊まっていた)、サラとケリーもまた、トオヤ達と共にその場に立ち会うことになった。
「まぁ、サラ。本当に来てくれたのね。そちらの方は?」
リンナにそう問われたケリーは、改めて自己紹介する。
「お初にお目にかかります。サラを妻に迎えました。コンラート・オーガストです」
「あらまぁ、本当にありがとうね。この子、本当に色々さわがしいというか、面倒臭いでしょう? 私の悪いところが似てしまったような気もするし」
「いえいえ、お陰様で毎日楽しいですよ」
「あと、ちょっとね、妄想癖もあるけど、まぁ、この子の言うこと一々全部聞いてたら身が持たないと思うから、程々にね」
そんなやりとりを交わしている間にアスクレピオスが診察を続けた結果、彼は一つの結論に辿り着いた。
「これは……、『呪い』の類いですね。病気ではないです」
チシャ以外は初めて聞くその言葉に、室内の緊張感が高まる。
「呪い、ですか……」
戸惑った様子のトオヤがそう呟くと、淡々とした様子でアスクレピオスは答える。
「えぇ。通常の薬で治すのは無理ですね」
それに対して、今度はサラが問い直した。
「え? 呪いって、どういうこと?」
「いや、どういった類いの呪いなのかは分からないのですが……」
そんな二人に対して、リンナは悟ったような表情を浮かべながら割って入った。
「そうですか……。いえ、いいんですよ、自業自得ですから……」
トオヤ達がその言葉の意味を測りかねている中、病室の隅に控えていた一人の初老の侍女長だけが、複雑な面持ちながらも納得したような表情を見せていた。彼女の名はナタリー。リンナと同世代の、彼女のことを最もよく知る使用人である。彼女ならば何か知っているかもしれない、とトオヤ達は勘付いていたが、さすがにこの場で(リンナの目の前で)問いかけても答えてくれそうにはないことも分かっていた。
「とりあえず、もう少し、調べられる限りは調べてはみましょう」
アスクレピオスがそう言うと、ひとまずその場には彼とサルファだけを残した上で、他の者達は一旦その部屋から退室することにした。
彼等が揃って退室したところで、トオヤは侍女長のナタリーに問いかける。
「すまないが、少し聞きたいことがあるんだ。少し、時間をもらえるかな?」
「あ、はい……」
ナタリーは、トオヤが何を聞きたいのか察したような表情を見せるが、この時、彼女はトオヤの近くにいたサラからの視線を気にしているように見えた。それに対し、サラはその視線を察したような顔を浮かべつつ、黙ってその場から立ち去って行き、ケリーも彼女の後を追う。その姿を確認した上で、ナタリーはその場に残ったトオヤ達に小声でこう告げた。
「では、わたくしの私室へ来て頂けますか?」
これに対し、ドルチェが問いかける。
「トオヤだけの方が良いかな?」
そう問われた彼女は、少し迷いつつも、ドルチェとチシャの顔を見ながら答えた。
「いえ、御一緒で構いません」
******
一方、彼女前から立ち去ろうとしたように見えたサラであったが、彼女はナタリーの視界から消えた時点で、ケリーに対して真剣な表情を浮かべながら小声で語りかける。
「一旦、部屋に戻ってて」
その彼女の声色から、明らかに彼女が思い詰めた様子で「何か」をしようとしていることはケリーにも分かった。
「まぁ、君がそう言うなら、部外者である僕が特にすることはないが……」
ケリーとしても彼女が何をしようとしているのかは気になるが、ひとまずここは彼女の意志を尊重し、素直に一人で部屋に戻ることにした。
******
ナタリーの部屋の前まで案内された三人は、その途上で後方から「誰かの足音」が付いて来ていることに気付いていたが、ひとまずそのまま部屋に入る。
そして、ナタリーは扉を閉めた上で、三人に対して重苦しい表情で語り始めた。
「トオヤ様やチシャ様も聞いたことがあるかもしれませんが、15年前にサラ様がお生まれになられた時は、かなりの難産だったのです。出産の直前の時点で、母君であるシリア様の体調も悪く、このままではお二人とも命が危ういかも知れない、という状態でした。そんな時、旦那様の人脈から、一人の『左右の瞳の色が異なる魔法使い』が紹介されました」
エーラムの魔法師ではなく、「ケネスの人脈による魔法師」という時点で、いわゆる「闇魔法師」である可能性が極めて高いことは、トオヤ達にもすぐに分かる。
「その魔法師は『二人を助ける方法はある』と言った上で、一枚の『カード』を取り出しました。そこには何やら抽象的な絵と、『XXI(21)』という数字が書かれていたのですが、『このカードの力を使えば、何かを代償として願いを叶えることが出来る』と言っていたのです。その魔法師も、そのカードの効果については半信半疑というか、どうも実験台として使っていたように私には見えたのですが、最終的にはその力を使うことで、無事にサラ様はお生まれになられました。ただ、魔法師曰く、おそらくは大奥様の寿命が10年か20年ほど削られることになるだろう、と」
つまり、その「カード」の効果の代償として選ばれたのが「リンナの寿命」ということらしい。そして、ナタリー曰く、リンナがその「代償」を支払うことについては、彼女自身も予め納得した上での「契約」であったという。
「当初、旦那様は自分の寿命を代償に用いようとしていたのですが、大奥様が『それはなりません』とおっしゃられました。『あなたはこの国にとって、無くてはならない方なのだから』と言って、旦那様を出し抜くような形で、その代償を支払うことを魔法師に告げたのです」
ナタリーがそこまで話したところで、バタンと扉が開いた。そこに立っている人物に対して、ドルチェが声をかける。
「誰かがつけていると思ってましたが、あなたでしたか」
ドルチェがそう言って視線を向けた先には、顔面蒼白のサラがいた。
「じゃあ、お祖母様の今のその『呪い』は、私のせいってこと?」
露骨に焦った表情を浮かべるナタリーを横目に、サラはチシャへと詰め寄った。
「チシャ、あなた、魔法師なのよね? その呪いを解く方法って、分からないの? さっきの『蛇を連れてる人』は、別の方法を使えばどうにかなるとか言ってたけど……」
「別の方法……、ですか?」
そう言われても、解呪の方法に関しては、チシャは全くの専門外である。もっとも、「昨夜」のことを思い返せば、「どうにか出来るかもしれない人物」に心当たりがない訳ではないが、さすがに今この場で「彼」のことを話す訳にはいかない。
「あなたが分からないっていうなら、私が『あの人』に話を聞いてくる!」
そう言ってサラが部屋を飛び出して行くと、チシャもすぐに後を追い、トオヤとドルチェもその後に続く。
******
その頃、ケリーは自分の客室の場所が思い出せず、城の中をフラフラと歩き回っていた。そんな彼は、激しい形相でリンナの病室へと戻ろうとしているサラと、その後を追ってるトオヤ達の姿を発見すると、ひとまず最後尾を歩いていたドルチェに声をかけた。
「ドルチェ殿、何かあったのですか?」
「あぁ、そうだな……、どちらにせよ、いずれサラは君にも話すだろう。ついて来るがいい。歩きながらお話しよう」
「ありがとう」
そう言ってドルチェがケリーに簡単にことのあらましを伝え終えたところで、先頭を走っていたサラは病室へと辿り着く。
「お婆様! 私とお母様のせいなのですよね!? お婆様の身体がそうなってしまったのは!」
荒々しい形相でそう叫んだサラに対し、リンナは深くため息をつく。
「あれほど、サラにだけは伝えないように、と言っておいたのに……」
とはいえ、今更隠し立てをしても仕方がないと判断したリンナは、アスクレピオスに対して、15年前の「事情」について一通り伝える。それは、ナタリーが説明した通りの話であった。
「……ということなのだけど、何かその『呪い』を解く方法はあるのかしら?」
リンナのその質問に対し、アスクレピオスは真剣な表情で考え込む。
「カード、ですか……。それは私の専門外ですので、そういうことなら、『呪いを解く』というよりは『身体そのものを書き換える』という方法の方が、まだ可能性はあるかもしれません」
その返答に対し、今度はトオヤが問いかける。
「ほう? それは、高位の生命魔法師が使うような術なのか?」
「いえ、『術』というよりは『薬』ですね。実は私をここに呼び出した方からの依頼の中には、状況によっては『それ』を創り出してほしい、という話もあったのですが……」
何やら思わせぶりな口調で、一呼吸置いた上で、アスクレピオスは話を続ける。
「『人間の身体を、本人にとっての最も理想的な状態にまで戻す薬』があるのです」
その説明に対し、トオヤ達はすぐにそれが「レアを治した薬」のことだと理解する。
「どうやら『その薬を創り出したのが私』だという噂を聞きつけたようで、それで私に依頼が来たのですが、正確に言えばそれを創り出したのは、私ではなく、『私の娘達』なのです」
唐突に語られ始めた衝撃の事実に、トオヤ達は困惑しながらも話を聞き続ける。
「私が『オリンポス界』にいた頃、私には二人の娘がいまして、その二人は『今の私』がこの世界に出現するよりも前の時代に、この世界に投影されていたらしいのです。彼女達はそれぞれ『衛生』と『治癒』を司る能力を有しているのですが、その力を、この世界の大地の下に流れる『龍脈』と呼ばれる混沌の力を利用して発現することで、そのような薬を生み出したのです」
厳密に言えば、「龍脈」を操ること自体は、アスクレピオスの娘達に元々備わっていた能力ではない。彼女達がオリンポス界において持っていた力を再現するための触媒として都合が良かったのが「龍脈」だった、ということである。
「私にも『龍脈』を操ることは出来ます。しかし、彼女達がこの世界でその薬を作り上げる方法が、今の私には分かりません。そして残念ながら、既にその薬を作った彼女達は、どうやら私が現れるよりも前に、この世界から消えてしまったようなのです。彼女達が何らかの形で、それを創り出す方法の記録を残していてくれれば良いのですが、それが残っている可能性は、残念ながら低いと言わざるを得ません」
この時点で、チシャの脳裏には改めて昨晩のドギの言葉が思い浮かんでいたが、さすがにこの場でその話を表に出す訳にはいかないため、そのまま黙って話を聞き続けた。
「というのも、その龍脈の操作は『世界の混沌の均衡』を崩す可能性があるのです。つまり、その薬を作り出すためには本格的に大規模な龍脈を操る必要があり、その結果として世界のどこかで混沌災害が発生する、ということが明らかになり、禁呪扱いとなってしまったのです」
その説明に対し、ドルチェが納得したような表情を浮かべる。
「なるほど。世界のどこかで、というのは厄介だね。いっそ『その場』で起きてくれるというなら、対処の使用もあるのに」
「おそらく、龍脈を操った本人であれば、その発生しそうな場所をある程度察知することは出来るのでしょうが、どれほどの規模になるのかまでは、正確には分からないでしょう」
ここまでの話を聞いた上で、今度は再びサラが問いかけた。
「じゃあ、あなたには、その龍脈を操る力はあるのね?」
「えぇ。その薬を生み出す方法さえ分かれば、それ自体は出来ると言えば出来ますが、私一人だと少々難しいところではある、『誰か』に手伝ってほしいところではありますが……」
そこまで言いかけたところで、リンナが口を挟む。
「その薬の製法に関しては、あの人も随分探してはくれました。しかし、あの人があれだけ探して見つからなかったものですから、現存しているかどうかも分かりませんし、それに、もういいのですよ。私は納得した上でその呪いを受けている訳ですから、それを、他の土地の人達に迷惑をかけてまで引き伸ばしてもらう必要はない」
「いや、お婆様が良くても、私が良くないわよ! そんなこと言われて、納得出来る訳ないじゃない!」
サラはそう叫んだ上で、チシャに視線を向ける。
「チシャ、エーラムの図書館って、部外者は立入禁止なの?」
「一般教養程度の本であれば、貸し出すことも出来るかもしれませんが、さすがに禁呪を調べるとなると……」
「じゃあ、もしかしてお爺様がエーラムに行ったのは、それを探すことが目的……?」
それに対して、リンナは何も言わない。サラは少し考えた上で、改めてチシャに問いかけた。
「チシャ、私に『魔法師の才能』はあるかな? 今から入学して、どうにかなると思う?」
さすがに言ってることに無理があることは、この場にいる者達全員が分かる。確かに彼等は、祖父のケネスが高齢の身でエーラムに留学するという「特殊な事例」を目の当たりにしていたが、それはケネスが幼少期の時点で既に魔法の才能があることが発覚していたから可能だった話である。成人後になってその才能に目覚めたテイタニアのインディゴのような事例もあるが、そうそう都合良くこのタイミングでサラにその力が発現するとは考えにくい。
明らかにサラが冷静さを失っていることを察したドルチェが、ここで割って入る。
「さすがにここで長話するのも、リンナ様の体調に良くない。リンナ様を助けたいのなら、なおさら体調には気を使うべきだ。場所を移さないか?」
「そ、そうね。分かったわ」
サラがそう言って、少し気持ちを落ち着かせたところで、今度はサルファだけをその病室に残した状態で、トオヤ達とアスクレピオスは揃って退出する。すると、彼等が廊下に出たところで、ばったりとドギ(本物)に遭遇した。
「あ、ド、ドギ……、元気そうね……」
サラが再び動揺した様子でそう声をかけると、ドギはそこに微妙な違和感を感じつつも、取り繕ったような笑顔で答える。
「えぇ、お久しぶりです、姉さん。そちらの方が旦那さんですか?」
そう言われたケリーは、この少年が以前から話に聞いていた「女の子のようにかわいい、サラの末弟」であることを理解する。
「はじめまして。コンラート・オーガストと申します」
「ドギ・インサルンドです。よろしくお願いします。お婆様に面会に来たのですけれど、何かあったのでしょうか?」
この質問に対して、一瞬、皆が顔を見合わせた。何の事情も知らないサラとケリーとアスクレピオスは、目の前にいる「まだ幼く純真な少年」に対して、今のこの深刻な状況をどう説明すれば良いものか、頭を悩ませる。一方、彼が「本物」であることを知っているチシャと、「影武者(キャティ)にしては何かがおかしい」と察しつつあるドルチェが、この時点で「彼」にどこまで話をして良いか判断に迷う中、彼のことを「影武者(キャティ)」だと信じ込んでいるトオヤは、ひとまず無難な言葉でやりすごすことにした。
「久しぶりにサラ様もお婆様にあって、少し感情が高ぶってしまっているんだ。今は一旦、面会が終わったから、面会は午後にしてもらっていいかな?」
「あ、はい、分かりました」
ドギは何かを察したような顔でそう答えつつ、チシャに向けて「あとで話を聞かせてね」と言いたそうな視線を向けながら、ひとまずその場は去って行くことにした。
******
そしてトオヤ達とアスクレピオスは、別室にて改めて話を続けることになった。ひとまず、ドルチェが今のこの状況を整理しようとする。
「どちらにしても、情報が無くては話が始まらない。それがエーラムにあるにせよ、どこか別のところにあるにせよ、その『薬の製法』とやらを手に入れてみるのが一番の解決に繋がるだろうね。ところで、チシャ。君は物品探査(ロケートオブジェクト)の魔法の心得は?」
「残念ながら、私の専門外で……」
「そうか。一応、ヴェルナ嬢も使えた筈だが、『そちら』に話を持って行って良いかどうか、という問題はあるね」
レアの契約相手であるヴェルナに話が伝われば、その情報がレアにも伝わる可能性もあるだろう。「例の薬」を服用した身であるレアには、あまり伝えたい話ではない。また、そもそも実存するかどうかも分からない「薬の製法の書類」である以上、具体像をはっきりと脳内で想像することも出来ないまま魔法で見つけることが出来るのか、という問題もある。
その上で、ドルチェは「第二の選択肢」を提示する。
「情報に強いツテがあっただろう? お金はかかるが」
ドルチェのその言葉で、トオヤ達は「ヴァルスの蜘蛛」のことを思い出す(
ブレトランド風雲録8)。もしくは、アスクレピオスを紹介したラザールを再び頼る道もあるだろう。ただ、いずれのツテを用いるにせよ、それでも見つかる保証はない。
一方、チシャはこの時点で既に「ドギがその製法を知っている可能性が高い」ということを察しているが、その話を「この場」でして良いかとなると、非常に難しい。ケリーは完全に部外者であるし、契約相手であるトオヤに対してすら、「ドギの現状」について伝えることはためらわれる。しかし、ドギの存在を伏せた上で「薬の製法に心当たりがある」という事実を伝えるのは極めて難しい。
重苦しい空気が漂う中、ひとまずアスクレピオスは皆にこう告げた。
「少なくとも、しばらく延命措置を施す程度なら、今の私でも出来ますので、ある程度までは時間の猶予も持てます。ですので、その間に見つけることが出来れば、どうにかなるでしょう」
彼のその一言で一旦落ち着くことになった彼等は、再び散会することにした。
その後、チシャは自らドギの私室へと趣き、一通りの事情を彼に伝えた。ドギは真剣な面持ちで彼女の話に聞き入りつつ「左右の瞳の色が異なる魔法使い」という言葉が出た時点で、納得したような表情を浮かべる。
「なるほどね。そうか、『あの男』の仕業だったか」
どうやらドギは「その男」に心当たりがあるらしい。そのままチシャは最後まで話し終えた上で、彼に問いかける。
「どうしましょう? 薬を作ろうと思えば作れる状況みたいですが……」
「あの蛇使いの男が龍脈を操れるなら、僕が持っているこの書物を渡せば万事解決する訳だね」
彼はそう言いながら、チシャの目の前で小さな「時空の狭間」のような空間を作り出し、そこから一冊の「本」を取り出す。どうやら、それが「薬の製法」らしい。
「とはいえ、君がいきなりこれを持って現れるのも……」
「……どう考えても不自然ですよね」
「でも、僕が持ってるのも不自然だしね……」
ドギはそう呟きつつ、しばらく考えた上で、妙案を思い付いた。
「じゃあ、これでいいんじゃないかな」
彼はそう言いながら高速で呪文を唱えると、即座にその姿が「左右の瞳の色が異なる、極東風の装束をまとった長い黒髪の魔法師」へと変わる(下図)。
それが、基礎魔法の力を用いた幻覚だということはチシャには(以前、長城線で同じ魔法を目撃していたこともあり)分かったが、何も知らない人が見ても、普通は見破れないだろう。そして、おそらくは「この男」こそが、例の呪いをリンナにかけた人物であろうことも予想は出来る。
「とりあえず、この男が届けに来た、ということにすればいいんじゃないかな。お婆様とは面識があるみたいだし」
「そ、そうですね……、確かに……」
「とはいえ、あの『トオヤの奥さん』は勘が良さそうだから、彼女には見破られるかもしれない。だから、あまり長居せずに、サラッと来て、サラッと渡して、サラッと去った方が良さそうだね」
「サラッと、ですか……」
「君の弟弟子の彼も、まがりなりにも魔法師だし、見破られる可能性はある。出来れば、誰もいない隙を狙って、お婆様の枕元に置いておくのが無難かもしれないけど」
「そ、そうですね、それが一番かと……」
この作戦に対して、チシャとしては色々と思うところはあるものの、現状では他に方法が思いつかない以上、ここは彼にそのまま任せてみることにした。
一方、サラと共に自分達の客室に戻ったケリーは、悲壮な表情を浮かべた妻を気遣いながら声をかける。
「君にとっては、なかなか辛い話だよな」
「そうね……。お婆様は本当に私のことは可愛がってくれてた……。ゴーバンが生まれて、『私が跡取りになる』という道がなくなった後も、私には格別な配慮をしてくれた。それも今にして思えば、自分の寿命と引き換えに生まれた孫だったのなら、納得出来るわ。でも、だからと言ってこのまま、私のためにお婆様の時を奪ったまま、というのは、私は納得出来ない」
「そうか……」
「だから、もし仮に薬の製法が見つかったとして、それを創り出すことでどこかで混沌災害が発生することになったとしても、私としては、それでもその薬が欲しい。その結果として、発生する混沌災害を止めるために、私に出来ることがあるなら、私は何でもする」
サラとしては、それが完全に自己満足のわがままであることは分かっている。混沌災害を見知らぬ土地で引き起こすような禁呪に手を出すことなど、本来ならば許される話ではない。だが、それでも彼女はそう言わずにはいられなかった。それは、たとえ今の自分が享受している全ての幸せを捨ててでも果たさなければならないと、本気で考えていたのである。
そんな妻に対して、ケリーは率直に本音を語った。
「僕も領民のことを考えて生活してきたから、もし、今、自分がいない土地で突然魔境が発生したら、と考えると、人々はさぞ不安だろうとは思う……。でも、だからと言って、君の考えに反対しきることも出来ないんだ」
領民を守るべき君主としての立場を自覚した上で、あえてケリーはそう言った。
「じゃあ、あなたは『薬を作ること』を認めてくれるの?」
この瞬間、サラはほんの少しだけ、絶望感から解放された気分になった。夫が自分のわがままに対して真摯に耳を傾けてくれたことで、少しだけ精神的に楽になれた彼女は、改めて現状を冷静に見つめ返した上で話を続ける。
「でも正直、他の人達が何と言うかは分からないわね……。特にチシャは『エーラムの魔法師』だから、エーラムの考えとして、そういった禁呪と呼ばれる魔法に手を出すことに、彼女は反対するかもしれない」
「そうだな……、僕としても、何の策も無しにただ薬を作って、どこかの領主に混沌災害を押し付ける、なんて真似はするつもりはない。それを防ぐための手立ては考えたいし、その方針で他の人達とも合意を取り付けられるなら、僕も君の信念に従って、君のお婆様を救うことに尽力したいと思う」
「ありがとう……。正直、私は、最悪全てを敵に回すかもしれないと思ってた……。混沌災害という話を聞いた時に、あなたが日頃、どれだけ領民のことを思っているかも分かっているし、土地を治める君主として生きてきた、そしてきっとこの世界にとって必要な『この世界を守るべき存在』であるあなたからは、私の考えは否定されるかもしれないと思ってた。だから、あなたがそう言ってくれて、本当に嬉しい。何としても探し出すわ、その方法を」
「あぁ、協力しよう。ともかく、今は情報が足りなすぎるから、その情報を集めることにした方が良さそうかな」
「そうね」
この先、何があっても、この人だけは自分の味方でいてくれる。そう確信したサラは、先刻までの悲壮な孤独感からはひとまず脱したような表情を浮かべながら、薬に関する情報を集める方法と同時に、「どのような条件が整えば、皆が薬を作ることに賛同してくれるか」ということについても、改めて思案を巡らせ始めた。
その頃、ひとまず城内の執務室へと向かったトオヤは、傍らに立つドルチェに、ラザールから手紙が来ていたことを伝える。その上で、現状について冷静な視点で妻に語り始めた。
「おそらく今回の場合、薬の作り方が分かったとしても、混沌災害がどこかで発生することは防げない気がする。もし防げるとすれば、禁呪にはなっていないだろう。そして実際、あの薬はそれだけの『代償』が発生してもおかしくない代物だ」
「そうだな……、そう易々と作れるものならば、ここまで貴重なものにもならなかっただろう」
「ならば、『それ以外の方法』も探っておかないとダメかな」
「ほう? 何か考えが?」
「いや、そういう訳ではないんだが……」
トオヤとしても、祖母をこのまま見殺しにはしたくない。だからこそ、打てる手は打っておきたいのだが、これといった妙案が思い浮かんでいる訳ではない。そして、それはドルチェもまた同様であった。
「正直なところ、今回に関しては僕一人では打つ手がない、というのが正直なところかな。提案すべきことは提案したけど、どちらにしても、それをするのは僕じゃない。ドラグボロゥに連絡してヴェルナ嬢に魔法で場所を探してもらうにせよ、ヴァルスの蜘蛛を使うにせよ」
確かに、直接的な連絡手段をドルチェが持っている訳ではない。彼女はトオヤに比べれば人脈も広く、その邪紋の能力の性質上、単独での隠密・探索能力にも長けているが、そのターゲットすら絞れない状態では、打てる手もなかった。その上で、もう一つの「情報源」の候補が彼女の脳裏に思い浮かぶ。
「あとは……、情報がありそうなところと言えば、一応、ケネス殿のところもあるか」
その名が出てきた時点で、トオヤは過去の彼のことを思い出しながら私見を語る。
「お祖父様は、この時のためにエーラムに行っているんだと、今は信じることにした」
実際、そう考えるのが一番自然である。無論、それだけが目的とは限らないだろうが、少なくとも彼がまだ妻の回復を諦めてはいないということは、貴重な私財を投げ売ってまでアスクレピオスを招聘したことからも明白であろう。
「とはいえ、望みは薄いだろうね。もし何かが見つかっているのなら、向こうから動きがあって然るべきだ」
「あぁ。とはいえ、俺はあの薬、作る許可を出す気はないぞ」
トオヤはあえて強い口調でそう言った。
「そうだね……。どこかで『防ぎようのない混沌災害』が発生するならね」
「混沌災害は、たとえ君主がいて、魔法師がいて、邪紋使いがいて、それ以外にも頼れる戦力がいたとしても、負ける時は負ける。戦いに確実なんてものはない。だから絶対に起こせない。それが自分達の手の届かないところで起きるのなら、尚更だ」
護国卿として、国全体を任される立場になったトオヤとしては、国を脅かす混沌災害に対してより一層慎重な方針を示すようになるのも当然である。実際、彼はこれまで全ての戦いに勝利し続けてきた訳ではなく、かつてのイヴィルゲイザーとの戦い時のように、混沌の浄化に失敗したこともある(
ブレトランド風雲録10参照)。ましてや、自分一人では手が届かないところで発生した混沌災害まで自分の力で浄化出来る訳ではない、ということは嫌というほど分かっている。
「とはいえ、お婆様の件を、ただ手をこまねいて見ているつもりはない。混沌災害を起こさずに済む方法があるかもしれないし、それ以外の方法もあるかもしれない。やれることはやるだけやるさ」
手探り状態ながらも強い決意を秘めたトオヤは、妻にそう告げた上で、改めてアスクレピオスの部屋へと向かうことにした。
(そうか、そういう方針か……)
ドルチェは彼の横顔を見つめながらそんな思いを抱きつつ、この状況でサラとケリーの動きが気になるので、城内の動向に気を配ることにした。
一方、そんな二人の様子を、時空の狭間から覗いている者がいた。
(さて、トオヤから「彼女」が離れたのなら、今が好機かな)
******
当初は城下町に宿を取っていたアスクレピオスであったが、長期間の延命処置に対応するために、城内に急遽彼のための客室が用意されることになった。その部屋を訪れたトオヤは、彼から改めて「薬」に関する詳しい話を聞くことになる。
「龍穴で龍脈の力を用いて薬を作り出したとして、どれくらいの混沌災害が発生するかは分かりません。ただ、ある程度制御することは出来なくもないです」
アスクレピオスはトオヤにそう告げた上で、自分の周囲を這わせている二匹の蛇に視線を向けると、蛇達は彼の両手にそれぞれ絡みついた。どうやら、彼はこの蛇達を実質的に使役している状態らしい。
「先程、例の薬を作り出したのは『私の二人の娘』だと言いましたが、実はこの二匹の蛇が、異世界にいる二人の娘の、いわば『圧縮投影体』のような存在なのですよ。つまり、その二人の魂の一部がこの蛇達に宿っているのです」
「ほう?」
召喚魔法師であるチシャと契約しているトオヤだが、そのような特殊な召喚方法は聞いたことがない。ただ、あくまでもこの医者自身が「投影体」であることを考えれば、通常の魔法師とは異なる特殊な魔法(のような何か)を使えてもおかしくはないだろう。
とはいえ、あくまでも投影されているのは「魂の一部」にすぎないため、この蛇達に薬の製法を尋ねても、その明確な記憶までは投影されていないらしい。そもそも、「大昔にこの世界に投影されて、この世界における薬の製法を確立した時の時の娘達の記憶」が「今の蛇の姿で投影されている娘達」にも共有されているとも限らない(元の世界の時間軸において、どちらが先の時点の娘達の投影体なのかも分からない)。
「おそらく、その薬の製法を確立する上で一番確実な方法は、この蛇の力を身体に取り込むことだと思います。その場合、二人の人間が必要になる」
「二人の人間?」
「まぁ、厳密には『人間』でなくても良いのですけどね。要は、蛇の力の依代となる存在です。とりあえず、一匹は私が取り込めば良いとして、あともう一人、誰か協力者が必要になります」
つまり、二人の人間にそれぞれ一匹ずつ(彼の娘の魂が宿っている状態の)蛇を取り込ませる必要があるらしい。
「ただ、『聖印を持っている人』は無理です。あと、『強力な邪紋を身体に植え付けている人』も、拒絶反応を起こす必要がある」
すなわち、候補者は「投影体」か「魔法師」か「一般人」ということになる。トオヤは、少なくとも「今の自分」ではその協力者にはなれないということを理解した上で、更に問いかける。
「具体的には、何を手伝うのですか?」
「身体に『蛇』を入れた上で、その『蛇の力』をもって薬を作り上げる。より正確に言えば、『蛇に宿った私の娘の魂の力』を使って、ですけどね。この蛇の力で龍脈をある程度制御することが出来れば、少なくとも混沌災害の発生を遅らせることは出来る筈です」
「遅らせる……」
つまり、発生しそうな場所を特定した上で、そこに移動して対応策を取ることが出来る可能性はある、ということらしい。とはいえ、何らかの形でどこかで混沌災害が起きることは避けられず、それが「トオヤ達の力で止められる程度の混沌災害」かどうかは、実際にやってみないと分からないらしい。
そこまで説明を終えたところで、突然、謎の声が室内に響き渡る。
「なるほど。そうか、あなたがその力の持ち主であったか」
そう言いながらその場に突如として現れたのは、奇妙な極東風と思しき装束を身にまとった、黒髪の魔法師であった。
「お前、どこの何者だ!?」
トオヤがそう叫ぶと、その男は微笑を浮かべながら淡々と答える。
「ここの大奥様に、昔、縁があった者でしてね」
「何!?」
トオヤは、この時点で彼の「左右の目の色」が違うことに気付く。そして先刻のナタリーの話を思い出したところで、その男は一冊の古ぼけた本を懐から取り出した。
「あなたが探しているのは、こちらでしょう?」
彼はそう言いながら、アスクレピオスにその本を手渡す。
「ほう? これは……」
アスクレピオスがパラパラと開いて中身を確認し始めると、その魔法師風の男は満足気な顔を浮かべる。
「それがあれば、おそらく事態は解決するのではないかと思います。私はただ、古代の技術が今でも使えるかどうかを確かめたいだけですから。とりあえず、それを有効活用して下さい」
そう言い終えると同時に、彼は二人の前から姿を消す。転移の魔法を用いたのか、単に身体を透明化させただけなのかは、トオヤには分からない。だが、少なくとも一瞬前まで感じられていた気配は、一切感じられなくなった。
「簡単に不審者の侵入を許してしまうとはな。また警戒体制を見直さなければならないな……」
トオヤは、かつて城内に侵入されたパンドラの手先によってドギを奪われた時のことを思い出し、表情を歪ませる。とはいえ、空間転移や透明化が可能な魔法師相手に対策を練ろうにも限界はある(更に言えば、前回も今回も「内通者の仕業」であるし、今回の犯人は前回の被害者本人でもあるのだが)。
一方で、アスクレピオスは興味深そうな顔でその本を読み込んでいく。
「ほうほうほう、なるほどなるほど……」
明らかに年代物の古文書であることは間違いないため、トオヤ自身がそれを読んでも理解は出来ないだろう。この場はひとまず彼に解読を任せるしかないと思いながらも、トオヤはふと、彼にとある疑問を投げかけてみる。
「ところで一つ、聞いておきたい。あなたは『この呪いを治療することは出来ない』と言っていたが、『その呪いを誰かに移す』とかそういったことは出来るか?」
「それも、基本的には私の専門外ですね。さっきの男が『その呪いの発動主』なのであれば、もしかしたらあの男ならば、そういったことも出来たかもしれませんが」
彼の特徴が「ナンシーの話に出てきた魔法師」と一致していることには、アスクレピオスも気付いていたらしい。
「まぁ、取り逃してしまったしな……」
トオヤは改めて無念そうな顔を浮かべつつ、ひとまず今はこのままアスクレピオスによる本の内容の解析が終わるのを待つことにした。
******
その頃、屋敷内を警戒中のドルチェは、一瞬、「見覚えのない極東風の装束の男」の後ろ姿を発見した。しかし、彼女がその後を追うと、その男が曲がり角を曲がったところで突如として姿を消す。そして、その場にはドギの後ろ姿があった。
「おや、ドギ様。このようなところで、何を?」
その声に対して、ドギは平然とした顔を浮かべながら振り向いて答える。
「お婆様の差し入れに何をお渡しすれば良いか、色々な人の話を聞いていたところです」
「なるほど。ドギ様は昔から、色々博識でございましたからね」
「いえいえ、僕なんて、チシャに比べれば全然まだまだですよ」
「本当ですか?」
ドルチェはそう訪ねつつ、自身の邪紋の力を発動させる。それは、幻影の邪紋使いだけが用いることが出来る、相手を精神的に魅了して意のままに操ろうとする能力なのであるが、ドギは微笑を浮かべたまま、「えぇ」とだけ答える。
どうやら、ドルチェの邪紋の力は、ドギに対して全く効いていないらしい。もし、この眼の前にいる少年が「魔法の力でドギの姿に変えられた侍女のキャティ」であるならば(ドルチェが知る限り、彼女はただの一般人の筈なので)、ドルチェの邪紋の力に抗える筈がない。
「……そうでしたか。リンナ様のご病気が治るといいですね」
「えぇ。僕のわずかな知識で出来ることがあるなら、出来る限りのことはしたいです」
「そうですね。私も、とても専門とは言い難いですが、出来る限りの努力はしたいところですし、共に頑張りましょう」
そう言って、彼女は思わせぶりにウィンクしてその場から去っていく。ドルチェはその仕草を通じて「あなたがキャティさんではないことは気付いていますよ」ということを暗に伝えた上で、当面は害を与える気はないのだろうと判断した上で、しばらくは放置することにした。「彼」が何者であろうとも、ドルチェの誘惑の力が通用しないという時点で、彼女一人で手に追える相手ではないことは明白である以上、今のこの場ではそうするしかなかったのである。
******
そんなやり取りが部屋の外で繰り広げられている間に、アスクレピオスは一通りザッと中身に目を通した上で、納得したような表情を浮かべる。
「なるほどなるほど、そういう手法だったのか……! やはり、これは私の娘達が記した書物のようです。おかげで、例の薬を作る方法は、概ねこれで把握出来ました!」
「そうですか」
やや興奮気味に語るアスクレピオスに対して、トオヤは静かな声色でそう答える。
「あとは、協力してくれる人が一人いれば、どうにかすることが出来るでしょう」
「代償となる混沌災害については、先程言っていた通り、『遅らせることが出来る程度』ということですか?」
「まぁ、そうですね。あと、発生源を辿ることも出来ます。おそらく、それを辿る能力は、投影体である私よりも、『この世界の人間』に任せた方が探しやすいでしょう」
つまりは、相方役となる「もう一人の協力者」には投影体を選ばず、その人物の力で混沌災害の発生を止めさせた方が良い、という判断らしい。
そこまでの話を聞いた上で、トオヤは真剣な表情で語りかける。
「ではひとまず、ヴァレフールの護国卿として、あなたに依頼させてもらう」
「はい」
「その薬は、軽々に作ってもらっては困る」
「…………まぁ、そうでしょうね」
「もしあなたが、誰かにその薬を作ってほしいと言われても、今は『製法が分からないから無理』と断って下さい」
「ほう……、なるほど…………」
せっかく薬の製法が分かった時点でこのような要請が出てくるとは全く想定外だったため、アスクレピオスは一瞬面食らったような顔を浮かべるが、ひとまず、少し間を開けた上で「医者としての見解」を語り始める。
「あなたの仰っしゃりたいことは分かる。国を預かる者として、あなたのその発言は確かに正しい。しかし……、私もね、あえて不謹慎な言い方をしますが、この世界における医学の技術を少しでも上げたいという気持ちはあるのですよ。その上で、助けられる方法があるのであれば、出来ることならば……、あえてこういう言い方をしますが、『試してみたい』というのが、私の本音です」
いけしゃあしゃあとそう言ってのけた投影体の医者に対して、トオヤも本音で返す。
「ここはお互いに相容れられない立場なのかもしれないが……、確かに、救える命があるのならば救うべきだ。だが、今回の場合は話が違うだろう? 確かに、俺もお婆様は救いたい。しかし、その結果として多くの人々が苦しみ、そして死んでいくことを俺は見逃すことは出来ない。確かに医学を進歩させていくことは重要だ。それは、より多くの人々を救っていく、尊い行為なのだろう。だが、これがそれを進める方法か? 多くの人に犠牲を強いるかもしれない方法が、本当にそれなのか? 俺は別の方法でも医学は進歩すると思う。少なくとも俺は、本職の者達に比べれば医学の知識は乏しいが、自分の聖印の力をより十全に発揮するために、治療行為に関してはそれなりの知識はある。その知識は、これまで必死に様々な病気や怪我を治していく過程で得られた知見だ。その行為はきっと、人を助けたいという願いで進み続けたものではない。確かに、その過程で命を落とした人もいるかもしれないが、それは誰かを助けようとした過程で発生したもので、誰かに押し付けようとして発生したものではないだろう?」
護国卿として、人々を守る君主として、それがトオヤにとっての譲れない一線らしい。
「確かに、この薬を安全に作る方法が確立出来るのであれば、それはきっとこの世界にとって大きな易になる。それは間違いはないだろう。だけどな、その過程で、多くの者達に犠牲を強いるのは、どうなんだ?」
その犠牲の産物である薬を使ってレアを助けた過去を考えれば、自分が言えた立場ではないことは分かっている。だが、それでも今のトオヤは護国卿として、そう言わざるを得ない。
トオヤのその強固な信念を目の当たりにしたアスクレピオスは、しばらく黙り込んだ上で、静かに答える。
「で、あるならば……、もう一つの可能性を考えてみましょうか?」
「もう一つの可能性?」
「犠牲が大きくなければ良いのですね?」
「ものによる」
「あなたにとって、この世界の人間の命と、投影体の命と、どちらが大事ですか? その二つの間に差はありますか?」
唐突に脈絡のない質問を投げかけてきた投影体の医者に対し、トオヤは即答する。
「どちらも大切だ。確かに、投影体の中にはゴブリンのように、人々に対して悪さをする者もいる。それは当然、討伐するべきだ。俺を守るべきは人々の安全であり、人々の暮らしだ。だが、悪さをしない投影体であれば、彼等も意志を持ち、この世界の人々と交流し、生活を作り、喜びを見出すのであれば、俺はその者達も守る。だから、俺にとっては、幸せを共有出来る者達は一緒だ」
実際、トオヤはこれまで多くの投影体に助けられてきた。そして、チシャもカーラも投影体の血を引く存在だが、トオヤは彼女達のことを「純血の人間」と同列の存在だと考えている。
「まぁ、あなたの目に『私という投影体』がどう見えているのかは分かりませんが、その上で、もう一つお伺いします。『どこの誰かも分からぬ者』に混沌災害を押し付ける訳にはいかない、とあなたは仰った。ならば、その出現場所を特定し、なおかつ、その混沌災害の規模を……、そうですね……、たとえば、昨晩の幽霊船団程度にまで抑えられるのならば、どうです?」
「確かに、対処は可能かもしれないな」
「それならば、道は一つあります。薬を作る際に、『この蛇の身体を取り込んだ者』の片方が、龍脈の暴発をその身に集約させるように誘い込む。そうすることによって、その者の身体を中心として、その場で新たな混沌災害を発生させる……」
「おい、それはまさか……」
「当然、これは現地の者ではダメです。『元々体内に混沌核がある私』でなければならない」
つまり、アスクレピオスが自身の存在を犠牲にすることで、混沌災害が発生する場所を「その場」へと誘導する、ということである。
「勿論、私もせっかくこんな面白い世界に来たのだから、そう簡単に消えたい訳でもない。だから条件としては『私が消えた後、私をもう一度、この世界に投影させるために尽力してもらうこと』とさせて頂きましょう。具体的に言えば、もう一人の『蛇の力を受け継いだ人』と『極めて高度な技術を持つ召喚魔法師』がいれば、私をこの世界にもう一度召喚することが出来るかもしれない」
その「極めて高度な技術」がいかほどのものなのか、トオヤにも、そしてアスクレピオス自身にもよく分かっていないが、アスクレピオスは静かな微笑みを浮かべながら話を続ける。
「『この世界の本来の住人ではない私』が、『この世界の人々にとって危険かもしれない実験』をおこなおう以上、私も『自分が二度とこの世界に戻って来れないかもしれない』という可能性を背負った上で実験を強行するというのも、それもそれで悪くない。まぁ、『もう一匹の蛇』を誰に託すかにもよりますけどね」
唐突すぎる突拍子もない提案にトオヤは困惑しつつも、心を落ち着けながら答える。
「そうか、あなたの決意はよく分かった。ただ、こちらにも色々と腹をくくらねばならないことがあるのでな。一旦、考えさせてほしい」
「そうでしょうね」
「あと、このことはなるべく、俺以外には言わないでくれ」
「分かりました」
「特にサラ様にはな。きっと彼女は今、熱くなっているだろうし」
「えぇ、そうでしょうね」
そんな会話を交わしつつ、ひとまずトオヤも彼の部屋を後にした。
それから小一時間後、ひとまず方針決定のために、トオヤ、ドルチェ、チシャ、サラ、ケリー、アスクレピオスの六人が、トオヤの執務室へと集結する。その上で、先程までは(部外者ということもあり)口数が少なかったケリーが、今度は真っ先にアスクレピオスに問いかける。
「先程話に聞いた薬を使えば、『本人にとっての理想の状態』にまで戻せるという話でしたが、そもそもリンナさん本人は『どこまでの回復』を望んでいるのでしょう?」
その質問の意味はその場にいる者達には即座に理解出来なかったが、アスクレピオスは淡々と答える。
「御本人自身は、無理に治さなくても良い、思い残すことはない、と本人は仰っています。しかし、こちらのお嬢さんはそうは考えていないようで」
双蛇を連れた医者がそう言いながらサラに視線を向けると、彼女は黙って頷く。それに対して、トオヤが横から付言した。
「あと、これは僕の勝手な思いだが、多分、お婆様は、もう一度、お爺様に会いたいんじゃないかな」
「まぁ、本音はそうかもしれませんね」
アスクレピオスはあの老夫婦の関係については何も知らないが、一般的な人間の自然な感情として、その気持ちは理解出来る(彼は「神格」としてこの世界に出現しているが、本来は「人間」としてオリンポス界に生を受けた存在であった)。
その上で、ケリーが話を本題に戻す。
「サラの気持ちを代弁させてもらうが、彼女はお婆様を救うために、薬を作ることは選択肢の一つだと考えている。そして私は、勿論、お婆様を救いたいという気持ちは同じなのだが、薬を作ることに無条件に賛同は出来ない。作るとしても、被害を極限まで抑え込められる状況でなければ賛成したくない。だが、サラの想いにはなんとしても協力したい、というのが自分の考えだ」
その意見に関しては他の面々も概ね同意見であろうことは、皆の表情を見れば分かる。アスクレピオスはそのことを確認した上で、逆にケリーに対して問いかけた。
「では、どの程度の被害ならば、あなたとしては許容出来ますか?」
「まず、他の場所にこの問題を押し付けるのは論外として……、被害の大きさに関しては、具体的な例は出しにくいんだが……」
実際、この世界における「混沌災害の規模」は、単純な共通尺度で測れるものではない。そこで、アスクレピオスは「この場にいる者達全員に通じる例」を挙げることにした。
「たとえば、昨夜の幽霊船程度ならどうです? 皆さんの実力であれば、撃滅出来る程度の混沌災害だった訳ですが」
「そうですね……。昨晩はあやうく一般人を巻き込みかけましたが、あらかじめ準備が整っていて、民間人の避難も出来るのであれば、それくらいのリスクを負う覚悟はあるつもりです」
ケリーがそう答えたが、それに対して再びトオヤが口を挟む。
「とはいえ、今回に関しては『我々が駆けつけようとしても間に合わないような遠い地』で混沌災害が発生してしまうかもしれませんし、戦いに『絶対』はありません。たとえば、我々が待ち構えていたいとしても、その場所が少しズレて別の者達に被害が及んでしまうかもしれない。もし、我々と相性の悪い投影体が出現したら、対応出来ないかもしれない。混沌災害とは、そういうものでしょう。それはあなたもご存知の筈だ」
トオヤは「その場で混沌災害を発生させる方法」についてはあえて語らずに、ケリーにそう問いかける。ケリーはそれに対して頷きつつ、ここで再び「最初の質問」に立ち返ることにした。
「その通りです。そこで、私から質問なのですが、リンナ様を治すためには、必ずしも『その薬そのもの』が必要なのでしょうか? その薬の一部の力だけを生み出すような、言い方は悪いですが、『劣化版』のような薬を作り出すことは出来ないのでしょうか?」
つまり、「最終的に求める薬の強度」を弱めることで、被害を抑え込んだ状態で薬を作ることも出来ないのか、ということらしい。こう言われたアスクレピオスは、トオヤに対して「どこまでなら話していいのか?」と言いたそうな視線を向けるが、トオヤはそれに対して、周囲にその意図を勘付かれないように、ただ黙って微笑んでいた。
その無言のやりとりに気付かぬまま、ケリーは話を続ける。
「たとえば、呪いの力によって、彼女の寿命が20年縮んでいるとして、彼女は今から20年分全ての寿命を取り戻すことを求めているのかと言われると、その……、そもそも、この小大陸の者でもない私が言うのも違う気はするのですが……」
さすがに言いにくそうな表情で言葉を選んでいるケリーに対して、今度は横から妻のサラが強い声色で口を挟んだ。
「それはもう、はっきり言うけど、お婆様が望んでいるかどうかは問題じゃないわ。お婆様は本当に、いつ死んでもいいと思ってる。思い込んでる。でも、お婆様がどう思っていようが、私はそれに納得出来ないから、私は取り戻させたいと思ってる。あくまで私のただの我儘で、それを望んでいる。その結果として、どこかの地で混沌災害が起きるのであれば、それは何とか止めたいとは思っているけれど……」
サラは興奮気味の口調を抑えつつ、改めて夫を見つめながら話を続ける。
「で、あなたが言ってくれたように、ある程度まで混沌災害が起きることを抑えた状態で薬を作れるというのなら、それは検討すべきだとは思う」
その上で、具体的に何年程度の寿命が戻せるならば妥協出来るのか、と言われると、サラとしても明確な答えは出せないのだが、その提案に対してはアスクレピオスは難色を示す。
「そうですね……、今回作ろうとしているのは『呪いの効果を他の効果に書き換える薬』なのです。もし、これが『呪いの効果を抑える薬』なのであれば、どこまで強い力で抑えるか、という意味での効果の調整は可能ですが、この薬は根本的に『別物に書き換える薬』なので、劣化版なり簡易版なりを作れるかと言われると、正直よく分からないですね……、あ、まぁ、そもそもその製法自体がよく分かっていないのですが」
トオヤから本の話を口止めされている以上、中途半端な言い方しか出来ないのだが、仮に本が手に入っていない状態であったとしても、アスクレピオスの中では同じ結論が出ていただろう。彼のその説明を聞かされた上では、ケリーもこの提案をそれ以上推すことは出来ない。
ここで一旦部屋の中が沈黙したところで、今度はトオヤがサラに向かって、真剣な表情で問いかけた。
「一つ、いいでしょうか?」
「なに?」
「あなたがお婆様を思って救おうとしているのは分かっています。しかし、それはお婆様が自分の命を犠牲にしてあなたを救ったからではありませんか? もし、あなたがそのことを負い目に思っているのなら、それはお婆様の覚悟に対する冒涜ではありませんか?」
「それはそうかもしれない。でもね、やっぱりこれは、理屈の問題じゃないのよ。これが私の我儘だってことは分かってるし、お婆様がそんなこと望んでないことも分かってる。でも正直、私には、お婆様がそこまでの覚悟を持って与えてくれた私の人生を……、これから先、その覚悟を背負い続けて生きていける自信はないわ。このまま何もせず見殺しにした上で」
「そうですか……。では、ケリー殿にもお聞きしたいのだが」
「はい」
ケリーもまた、真剣な表情でトオヤに向き合う。その瞳には、強い決意の炎が宿っていることを確認した上で、あえてトオヤは根本的な次元から彼に問いかけた。
「あなたはサラ様の夫とはいえ、つい先日会ったばかりの女性を救うために、どうしてそこまで命を張ろうと思うのですか? たとえば、混沌が目の前に出現したとして、それと戦うのは確かに私達の使命です。しかし、いくら我々が君主とか、魔法師だとか、邪紋使いだからと言って、常に生きて帰れる訳ではない。それでも命を賭けようと思うのは、なぜですか?」
「あなたが言ったように、まず第一に『私がサラの夫である』という時点で、本人がいる前で言うのもなんですが、彼女が何も出来ずに悲しんでいるだけの様子を見ていられない、というのが一つです。そして、領民に限らず、人を大切にすべき君主として、混沌の影響で亡くなったり、被害を受けたりする人が減るのは、君主としての理想なので……」
ケリーはそこまで口にしながらも、どう言えば自分の今の感情をトオヤに説明出来るのか、自分でも分からなくなる。
「……正直なことを言ってしまえば、その質問に答えきるまでの答えを、僕はすぐには用意出来ないです」
「そうですか。でも、あなたの心がそれをしろと命じている。そう理解しても良いですか?」
「はい、そうしたいと思っています」
「確かに、あなたのその心掛けは、一人の君主として尊敬に値します。しかし、今回は『どこに現れるかも分からない混沌災害』の出現を代償にお婆様を救うのですから、『救うべきはどちらなのか』を決断するのは、君主の役目ではありませんか?」
つまり、「最悪他人を犠牲にしてでもリンナを救う」と言えるだけの覚悟があるのか、ということが言いたいらしい。アスクレピオスは「領民を犠牲にせずに助ける選択肢」を提示していたが、(「そのために彼自身が犠牲になる」ということ以前の問題として)本当にその目算通りに混沌を集約出来る保証がある訳でもない以上、トオヤとしてはまず、この点に対するケリーの覚悟を確認しておきたかった。
「『大切な人にとっての大切な人』と『もしかしたら全く知らない、もしかしたら顔見知りであるかもしれない領民』……、もちろん、両立出来るなら、それが最善のことです。ある種、完璧を求めてしまうような気質だと自分でも思っているので、何度か言った通り、被害を極限まで減らせない限りは、私も薬を作ることに賛同するつもりはない。けれど、薬を作ること自体を盲目的に否定するつもりもない、というのが僕の考えになります」
それが答えになっているのかどうか、ケリー自身もよく分かっていなかったが、トオヤは静かに頷いた。
「そうですか、よく分かりました」
トオヤが今の答えで満足したのか、周囲の者達がその真意を測りかねる中、アスクレピオスは内心で「『仮定の話』ならいいですよね?」と自分に言い聞かせつつ、ケリーに問いかける。
「確かに、『どこで出現するのかも分からない』というのが大きな問題だと思います。そこで、あくまでも『仮に』ですが、それが収束する場所を『自分達の目の前』へと限定させた上で、その場で倒し切ることが出来れば全て丸く収まる、という状態が実現するとしたら、あなたは認められますか? その上で、もし出現する投影体が、昨晩の幽霊船達と同程度だったとしたら」
かなりギリギリの言い回しだが、トオヤは特にその発言を咎めようとはしなかった。そしてケリーはそれに対して、はっきりと答える。
「そうですね。そこまで対象を絞りきれるなら、やってみる価値はあると思います」
それに伴う「新たな代償」の話を聞いていない状態なら、そう答えるのが当然だろう。トオヤは今のケリーの心情を理解した上で、あえて再び厳しい口調で問いかける。
「とはいえ、あの幽霊船と同等程度の敵だとしても十分危険です。それは分かっていますね? 我々が倒されなかったとしても、我々が討ち漏らすかもしれない。そうなれば近隣への被害は甚大です」
「そうですね。昨晩も、タイミングが良かっただけなのかもしれません」
「それに、混沌とは未知のものです。たとえ強さがあの程度だったとしても、移動速度が尋常ではなかったり、空間を自在に動いてしまったりすれば、我々では追いつけないかもしれない」
「えぇ、混沌ならば、そういうこともあるでしょう」
「まぁ、言い出したらキリがないですが」
執拗に厳しい口調でケリーに忠告するトオヤであったが、ケリーはそんな彼の言葉に対して反発も萎縮もせず、冷静に受け止めていた。
「おそらく我々の考えはそこまで遠くないと思います。ただ、危険性をどこまで許容出来るか、という点で、食い違いが生じているだけではないかと。少なくとも『危険性のない解決法はありえない』ということまでは、同意が出来ていると思う」
ケリーがそう語ったことで、「危険性があるということを理解してくれている」ということを確認出来たトオヤは、ゆっくりと口を開いた。
「ドルチェ、チシャ、そしてケリー殿にも謝らなければならないことがある。私は実は、アスクレピオス殿に『あること』を黙ってもらうように頼んでいる。それは、件の薬の製造方法についてだ」
唐突にそう語りだしたところで、ケリーは戸惑いながら問いかける。
「というと?」
「恥ずべき話なんだが、さきほどアスクレピオス殿と話をしている時に、『15年前に現れたという件の男』がまた現れてね。製造方法が書かれた本を置いて行ったんだ」
その話を聞いたドルチェとチシャは、それぞれに内心で(互いに全く異なる理由で)「あぁ、なるほど」と納得していたが、どちらもあえてこの場では何も言わない。一方、ケリーはその話に対して微妙に違和感を感じる。
「ほう、このタイミングで?」
確かにそれは不自然なほどに絶妙すぎるタイミングではあるが、トオヤはそこは気にしていなかった。
「アスクレピオス殿が言うには、薬の製造方法が分かったことで、作ることは可能になったらしい。そのために、アスクレピオス殿が連れているその二匹の蛇と、アスクレピオス殿本人と、もう一人『蛇の依代』となる者がいれば薬を作ることは可能、とのことだ。その代償として、混沌災害が龍脈を通じてどこかに吹き出してしまうのは避けられない、ということも、その本を読んだことで改めて確証したそうだ」
この話を聞いた時点で、サラの表情が強張る。ようやくその薬の方法が分かったものの、ここまでの話を聞く限り、トオヤもケリーも、その方法を用いることに賛同してくれそうには思えない。その上で、彼女の頭の中では「別の道」が思い浮かんでいた。それは「その本を提供した魔法師」を探し出して、「祖母にかけた呪いと同じ呪いを自分にかけることで、祖母の寿命を取り返す」という選択肢なのだが、彼女がそのための具体策を講じるよりも前に、トオヤは最も重要な情報を皆に向かって語り始める。
「そしてもう一つ。アスクレピオス殿が『薬を作ったその場』で自身に龍脈の混沌を取り込むことで、混沌災害の発生場所をこの場に引き寄せることは可能、とも言っていた。ただし、その場合はアスクレピオス殿の命はない」
衝撃的なその提案に対して皆が絶句する中、アスクレピオスは笑顔で淡々と語り始める。
「まぁ、私は投影体ですからね。『この世界』に出現したのも今回が初めてではないのです。これまでにも何度か出現と消滅を繰り返している。その上で、『片方の蛇を託せる人』と『極めて高度な召喚魔法師』、更にその他色々な条件が整えば、私がもう一度この世界に出現することも、おそらく可能。私の過去の出現傾向から、そこまでは見えているのです。なので、その蛇の力を引き継ぐ者が、それに協力してくれると約束してくれるのであれば、私のこの世界における『今回の私の人生』はここで終わらせてもいい。まぁ、この世界を危険に晒すような『賭け』をこの世界の住人に課すのであれば、私も、もう一度この世界に戻って来れなくなる危険性くらいは背負っても良いかな、と」
投影体の死生観は投影体ごとに様々だが、ここまで清々しく「別に消えたら消えたで、また呼び出してくれればいい」と割り切れる者は珍しい。その割り切った態度に対して、皆がどう反応すれば良いか分からずに戸惑う中、トオヤが皆に頭を下げる。
「黙っていて、すまなかった。とはいえ、すぐにこの話を漏らしてしまう訳にもいかなくてね」
そう言われたケリーは、納得したような顔を浮かべる。
「さっきの段階で僕に告げていたら……、と考えると、その選択はきっと間違いではなかったのでしょう」
ケリーがそう答えると、今までずっと黙っていたドルチェが初めて口を開いた。
「だろうね。僕達にとって、君は初対面の外来の君主にすぎないから。で、そのことを彼に告げたということは、今の問答の中で、何か納得出来ることがあったんだよね?」
そう問われたトオヤは、少し緊張感が解けたような表情で答えた。
「納得出来るというか、ケリー殿なら、いずれ自分なりの答えを見つけてくれるかな、と思った。僕だってそうだったんだ。ヴァレフール中を回って、色んなことを見聞きして、戦って、僕なりの答えを導き出してきた。きっとケリー殿もそうやって、ケリー殿の信念を『形』にされると思う。まぁ、僕の信念は結局、『見えるような形』にはなっていないのかもしれないけど、それでもいいさ」
おそらくトオヤが言うところの「形」とは、君主の信念の結晶体としての戦旗(フラッグ)のことだろう。トオヤはあえて戦旗を作らずに生きる道を選んだ。その上で、今後、ケリーがどのような戦旗を生み出すのか(もしくは生み出さないのか)はトオヤには分からないが、それが「形」として現れようが現れまいが、ケリーの中で明確な信念に基づいた答えを導き出すことが出来るのであればそれで良い、と考えていた。
「その言葉、しっかり受け取りました」
ケリーがそう答えると、トオヤは改めて引き締まった表情に戻る。だが、既に彼の瞳の中には、ケリーは「来客の君主」でも「主君の縁者」でもなく、ドルチェやチシャと同列の「共に戦う仲間」として映っていた。彼はケリーに対して「素の口調」で語り始める。
「とはいえ、本当に危険がないとも言えない。アキレスはかなり人口の多い街だし、巨大な混沌災害が引き起こされるようなことは、出来ればしたくない。タイフォンだって近いしな。それ以外の街だって、色々と影響がないとも言い切れない」
「それには同意です」
「とはいえ、お婆様を救う手立てが他に都合良く見つかるとも思えない」
この時点でトオヤとはほぼ見解の一致が出来ていると確信したケリーは、改めてアスクレピオスに問いかけた。
「龍脈というのは、限られた土地にのみあるものなのですか? それとも、普遍的にどこにでもあるものなのですか?」
「龍脈自体は各地に流れているものですが、それの力が集結する『龍穴』については、既に概ね目処はついています」
そう言って、アスクレピオスはトオヤの机の上に置かれていたヴァレフールの地図の一点を指差す。その指先に示されていた地には「ムーンチャイルド」という地名が書かれていた。
「おそらく、ここの地下が最大の龍穴でしょう」
トオヤ、ドルチェ、チシャの三人は、そう言われて素直に納得する。この地にはかつて巨大な混沌核が眠っていたが、その混沌核は巨大な投影体として出現した後、トオヤ達によって浄化された(
ブレトランド風雲録12)。つまり、その混沌核が消滅したことによって、空洞のような形で「龍穴」が発生しており、そこで実行するのが一番確実、ということらしい。
「これは、クリフトの力を借りるべきだな……」
トオヤはそう呟く。現在、タイフォンでトオヤの代わりに領主代行を務めているクリフトは、長年この地の混沌を抑え続けてきた存在でもあった。いざとなったら、彼(より正確に言えば、彼の「父」)の力で「全て」を再び封印してもらう必要があるだろう、とトオヤは考えていた。
******
「さて、問題は『彼女』の依代ですが……」
アスクレピオスはそう言いながら、二匹の蛇のうちの片方の頭を撫でる。彼は先刻トオヤに説明した時と同様に「聖印」や「強力な邪紋」の持ち主では不可能だということを告げると、サラが真っ先に声を上げた。
「それは、魔法師の素質とか、そういった特別な才能はいらないのよね?」
「はい」
「そういうことなら、それは私に……」
当然のごとくサラがそう言いかけたところで、突然、扉を開けてその場に乱入してくる人物が現れた。ドギである。
「ダメだよ! 姉さんはもうこの国の人間じゃないんだから。そこまで身体を張る必要はない!」
ドギがどの時点から話を聞いていたのかは分からない。だが、明らかに事情をある程度まで把握した上での発言のように見えた(少なくともチシャとドルチェの目には「全て分かった上での乱入」に見えていただろう)。
「それは、僕がやるべきことだ。だってそうでしょう? 姉さんの身は姉さん一人のものじゃない。そこの旦那さんだって、姉さんが、そんな訳の分からないものを身体に取り入れるのは嫌だよね?」
唐突にそう言われたケリーは、純真そうな瞳でそう訴えてきた少年の言葉に、素直に頷く。
「まぁ、出来るならば……」
ケリーはそう答えたが、この状況下でサラに「やるな」と言っても彼女は聞かないだろう、ということは薄々察していた。そして実際、サラは弟に対して言い放つ。
「いや、ダメよ! あなた、せっかく聖印を持てる身体になったのに、もしレアに何かあった時には、あなたがこの国を継ぐ可能性だってあるんだから。あなたこそ、その身体を大切にしなきゃダメでしょ!」
そして、この流れになると当然、トオヤもまた割って入る。
「いや、これはかなり危険なことだ。だから、聖印が邪魔になるというのなら、一時的にドギに預けて、自分が依代になろうかと思っているんだが」
問題は、彼の聖印はレアからの預かりものだということだが、「事情」を説明すれば(その薬で助かっているレアとしては)反対は出来ないだろう。だが、それ以前の問題として、サラがその提案を承諾出来る筈がない。
「何言ってるの? あなたこそ、自分の身は大切にしなきゃダメでしょ!」
「とはいえ、護国卿としての務めを離すために、俺が引き受けるという選択肢は無くも無いと思うぞ」
「でも、あなたの代わりは誰にも出来ない」
「そうだろうか」
「戦場で戦うだけだったら、ケリーもあなたに負けないと信じてる。でも、少なくとも話を聞く限り、レアからそこまでの信頼を得ている人は他にはいないでしょ?」
それを言われると、トオヤは何も言い返せない。実はサラも、同世代のレアがトオヤに対してどんな感情を抱いていたのかは、概ね察しはついていた(サラはそういった点に関しては、おそらくケネスの孫達の誰よりも察しが良い)。
筋から言えば、確かにサラがやるのが正論だろう。ドギという選択肢も無くは無いが、それもそれで(彼の正体に関する認識の齟齬から、それぞれに理由は全く異なるものの)色々な問題が発生するため、なかなか賛同はしにくい。
その状況を踏まえた上で、ケリーは全体に対して問いかける。
「すまない。少し、サラと二人で話をさせてもらえないか?」
その提案に皆は頷き、再び彼等は一旦散会することにした。そして、最後まで一言も発することなく状況の推移を見守っていたチシャは、「禁呪の復活」を進めようとしているこの状況を目の当たりにして、深くため息をつく。
(止める気はないけど、また『エーラムの教え』から遠のくな……)
再び妻と共に客室に戻ったケリーは、サラに対して真剣な表情で問いかける。
「一応、聞いておく。多分、君に対してどんな説得をしたところで、その硬い意志の前では無理だと思うから、本当に一応の確認だけど、もしかしたら、蛇の力を身体に宿すことは、聖印も邪紋も持たない君に対して、相当な危険を引き起こすかもしれない。その上で、お婆様を救いたいと思っている、ということでいいんだよね?」
「むしろ危険があるからこそ、他の人には任せられない。トオヤやチシャはこの国には必要な存在だし、それはドギも同じ。だから、私が断る理由は何一つな……」
彼女はそこまで言ったところで、若干口籠もる。
「……いえ、一つだけ、私の中でも、本音を言わせてもらえば、一つだけ懸念はあるわ。それは、まぁ、その、蛇の力を取り込むということがどういうことかは分からないけど、それを取り入れることで私が『今の私』ではなくなってしまったとしても、それでも、私はあなたの妻で居続けることは出来る?」
実際のところ、「蛇の力」がどのような形で身体に影響を与えるのかは分からない。邪紋のような形で身体に痣などが残ってしまうのかもしれないし、最悪、身体の一部が異形化してしまう可能性も想像出来る。サラは「女としての自分の外見」に対してそれなりに自信を持っているからこそ、その容貌が損なわれることで、ケリーから今までのように愛してもらえなくなってしまうかもしれない、という不安が湧き上がっていたのである。祖母を救うために命を賭ける覚悟は定まっていたが、ケリーからの愛を失ってしまうことは、彼女の中ではそれ以上の恐怖であった。
先刻までの決意に満ちた表情から一点して、少し怯えたような顔色を浮かべながら上目遣いでそう問いかけてきたサラに対して、ケリーは笑顔で答える。
「なんだ、そんなこと心配してたのか。正直、もっと別のところで思い悩んでいるのかなと思ったんだけど、そんなことは気にしなくていい。蛇の力が宿ろうが、混沌だろうが聖印だろうが、何だってかかって来い。もうずっと前から覚悟は決まっているんだ。これからも、一緒に頼むよ」
ケリーのその言葉で、サラの中の迷いは完全に吹っ切れた。
「そうね。私の夫になった時点から、あなたには『世界一の君主』になってもらうと覚悟を決めてもらってるんだからね」
彼女はそう言った上で、夫の顔を改めて凝視する。
「私は、あなたが世界一の君主になるまで、私がどんな姿になろうと、あなたの傍を離れるつもりはないから」
彼女はそう言いながら、ケリーの肩に手を伸ばしながら顔を近づけつつ、その身体を(まるで蛇のように)絡ませると、彼もまた彼女を強く抱き締め、そのまま彼女を受け入れた。
********
「殆どあなたの意志を確認せずに、あなたの提案した方向に進みつつあるんだが……」
アスクレピオスの客室を訪れたトオヤがそう言いかけると、アスクレピオスは怪訝そうな顔で答える。
「『私の提案した方向』に進んでいるという時点で、それは私の意志に沿っている、ということなのでは?」
それはその通りなのだが、トオヤの中ではどこか釈然としない気持ちがあるらしい。
「だが、本当に良いのか?」
「構いませんよ。私はね……、『本来の私』を説明するのは非常に難しいのですが、もともとは人間、いや、半神と言うべきかな。『オリンポス界』と呼ばれている世界の存在でして、その世界で色々あった後、一度、『星』となってのです」
「星?」
「えぇ。『星界』という世界がありましてね」
「初めて聞いたな」
「そうでしょうね。色々な世界で死んだ者達が、その世界に集まり、そこからまた別の世界に転生する者もいる。私はその『星界』から『黄道界』へと転移した後、この世界に投影されることになったのです」
その話を聞かされてもトオヤが今ひとつピンと来ていない様子であったが、ここでアスクレピオスは「あること」を思い出す。
「そういえば、昨晩、あなたの奥方から話を聞きましたが、サジタリアスという半人半馬の投影体のことを覚えていますか?」
「あぁ」
「彼も、元は同じオリンポス界からの盟友なのですよ。その当時の名前は『ケイローン』で、もともと私に医学を教えたのは彼でした。ちなみに、私も本当は黄道界での名前は『オピュクス』というのですけどね。この世界では、オリンポス界時代の、人間に近い姿で転生されたので、人間時代の名前であるアスクレピオスと名乗っているのですが……」
前提の話がよく分かっていないところに畳み掛けるように様々な情報を流し込まれてトオヤが更に混乱していく様子を目の当たりにしたアスクレピオスは、簡潔に話をまとめることにした。
「……何が言いたいかというと、私も彼も、この世界においては『神格』と呼ばれる存在なのですよ。自分で言うのも何ですが」
その説明を聞いたトオヤは、ようやく気持ちを落ち着かせて、改めて目の前の「アスクレピオス」ことオピュクスをまじまじと見つめる。
(神格……、なるほど、これが『本当の神格』か」
タイフォンの領主の館の離れの祠に住み着いている「半神の少女」のことを思い出し、彼が明らかにそれとは別格の存在であるということを、トオヤは実感していた。
「要するに、私は『最初の世界』で死んだ後も色々あって、ここに至るまで『死』や『消滅』を何度も繰り返してきたので、そういったことに関して、あまり強いこだわりはないのです。言うならば、『人』である『アスクレピオス』としての生涯を終えた後、オピュクスという『神』に近い存在となり、そしてこの世界に『人に近い存在』として投影された。そうした転生やら投影やらを繰り返していると、もはや自分の存在そのものが、かりそめの夢のような存在に思えてくる。まぁ、『今を生きているあなた』には、分かりにくいことかもしれませんが」
まさに「神」の如く達観した視点からそう語るアスクレピオスに対し、トオヤはようやく少し納得出来たような表情を浮かべる。
「確かに、分かりづらい感覚ではあるが、話だけなら理解出来ないことでもない。自分のことをそう捉えているのであれば、そういう提案がすぐに出てくることも、そういうことなんだろう。だが、これは勝手な俺の意見なんだが……」
そう前置きした上で、トオヤは改めて語り始める。
「あなたがやろうとしていることは、非常に応援したいことではある。昨日会ったばかりの仲だが、あなたのことを尊敬しつつある自分もいる。だから、あなたが消えてしまうのは嫌だな。ちゃんと帰ってこれるように我々も尽力するつもりではあるが、もし帰って来れるなら、俺に『医療』というものを教えてもらえるだろうか?」
トオヤは騎士として人々を守るための戦いを続ける過程で、聖印で自分や周囲の人々の傷を癒やす力を高めるために、治療技術についての勉強も続けてきた。最近は、その知識を更に高めたいという意欲が高まっているらしい。
「構いませんよ。一歩間違えば、サジタリアスが帰ってきて、主君の仇とあなたを狙うかもしれませんけどね」
「大丈夫だ。確かにそうかもしれんが、その時は殺されないように、サジタリアスのことを説得するさ。あの時は出来なかったが、もう一度やれば出来るかもしれないからな」
トオヤとしては、武力で解決せざるを得なかったブラフォード動乱の時のことは、まだ自分の中で納得しきれていないらしい。
そんな話を交わしている中、ふとアスクレピオスが何かを思い出したような顔を浮かべる。
「ちなみに、さきほどの星界の存在に関してですが、正直、あのケリー殿からも、私と似たような気配を感じるのですよね」
「ん?」
「私と同じ『星界』の気配というか、上手く言えないのですが……」
「それはつまり、星界の者が投影されて、その血縁にケリー殿がいる、ということか?」
「そういうことなのかもしれません」
「まぁ、そういうことなら、ままある話かもしれないな」
実際、トオヤの周りには「オルガノンとの混血児」であるカーラと、「二種類の投影体の血を引く魔法師」であるチシャがいる。更に言えば、上述の半神少女に加えて、彼女の友人(?)のハーフエルフとハーフ地球人とも面識があるし、(厳密に言えば投影体ではないが)クリフトもまた「混沌の産物の血を引く存在」である。「異界の気配を漂わせる人間」がいると言われても、彼の中ではそこまで不自然な話には思えなかった。
******
その頃、ドギとチシャは再びドギの部屋へと戻っていた。
「なかなか姉さんの決意は重いみたいだけど、チシャはどっちがやるべきだと思う?」
「サラさんの想いを思えば、サラさんかな、と……」
「僕も、お婆様に早死にしてほしくない、という気持ちは同じなんだけどね……。でもまぁ、僕に力を預けるのが不安、という気持ちも分からなくはない」
そう言われると、チシャとしても反応に困る(当然、ドギも彼女が困ることは分かった上での発言である)。ただ、少なくともその気持ちを否定することは出来ない。
「まぁ、いいや。そういうことなら、姉さんに任せるという形でもいいよ。ただ、『蛇の人』が消えた後、どういう形で復活しようとしているにせよ、『ジャック』の本業は、君と同じ召喚魔法師だから。道が見つからなくなったら、僕のところに来てくれれば、再召喚のための方法は探すよ」
「あぁ、はい……。ありがとうございます」
確かに、自分よりも、そしてエーラムの大半の召喚魔法師よりも強力な召喚魔法師であろうジャックの力を引き継いだドギに頼るのが、アスクレピオスの再召喚のためには一番早い方法なのだろう、ということはチシャにも分かる。だが、彼女としては、あくまでもそれは「最終手段」に留めておきたいところであった。
******
一方、ドルチェは引き続き城内の警戒に当たっていたが、「例の魔法師」の気配を感じることもなく、静寂の城内を一人淡々と巡回していた。
(何をするわけでもなく、意外とすんなり決まってしまいそうだな。まぁ、いいんだけどさ)
ドルチェとしては(ドギの件も含めて)色々と引っかかる部分もあるが、あえて今は自分が動く必要はないだろう、と考えていたようである。
ケリーからの「変わらぬ愛」を確認したサラは、ひとまずドギを相手に話をつけるために、彼を応接室に呼び出して、一対一で話をすることにした。さすがに、彼女としてもこの問題に関しては姉弟二人だけで話をしたかったようなので、ケリーはあえて彼女には同行せず、一人部屋で待機することになった。
その間に、ケリーはふと、ベッドの横に置かれている自分の鎧に視線を向ける。そして船の中での「天猛星」との会話を思い出すと、彼はおもむろにその鎧に近付き、そして肩の装甲部分に手を触れる。すると、ケリーの魂の中に「船上で聞いた“もうひとつの声”」が響き渡った。
《ようやく『君主としての顔』になってきたな、我が主よ》
その声に対し、ケリーは今度は落ち着いた様子のまま、心の中で答える。
(それは、光栄だな)
《私のことは、あの『星の者』から、もう既に聞いているのだろう?》
(まぁ、大体のことは)
《我が名は聖鎧フランチェスコ。英雄王エルムンド様の『五つの銀甲』と呼ばれる防具の一つ。様々な経緯を経てハルーシアに流れ着くことになったが、それが再びこうしてブレトランドに戻ってきたのも、一つの縁であろう》
少し前までは、この鎧に魂が宿っていることなど想像すら出来なかったが、この二日間の間に様々な出来事に遭遇した彼は、この事実を素直に受け入れられるようになっていた。
《我等『五つの銀甲』は、もともと聖印そのものを防具に変え、そして聖印そのものが意志を持った存在である。故に、我々には、それぞれ特殊な力が備わっている》
聖印から防具を作り出せる者がいることは、ケリーも知っている。だが、その聖印が意志を持つようになる、という話はさすがに聞いたことがないが、「自分が将来『異世界の星』になり、その星が過去の世界に投影されて、今のこの時代まで存在し続けている」という状況に比べれば、まだ自然と受け入れられる話であった。
《まずその一つとして、我々には混沌を察知する力がある》
(ほう?)
《だから、今回の件の「龍脈」とやらを探すにあたって、我々の力が役に立つ可能性はある》
(それは、かなり助かる話だな)
どうやらこの鎧は、ケリーと離れた状態にあっても、彼が見聞きした情報をそのまま認識出来ていたらしい。そして、この能力は龍脈を探す時だけでなく、もし万が一、混沌災害の集約化に失敗した場合、どこで混沌災害が発生するかを探し出す際にも役に立つ可能性はあると言えるだろう。
《そして、もう一つの力に関してだが、おそらく、それは今回の任務においては必要ないだろう。そして、この力が必要となる時に、また伝えることにしよう》
(まぁ、防具の君がそう言うのなら、今の時点で無理に聞く必要はないだろう)
《状況によっては、その力が必要になった時に、私の方から勝手にその力を発動させることになるかもしれないがな》
そこまで言った上で、聖鎧フランチェスコは、もう一つの「気になっていたこと」について、ケリーに語りかける。
《あの『星の者』が言っていたことに関しては、私も詳しいところはよく分からないが、貴殿が作り出したその星核は、確かに四百年前にエルムンド様の七人の従属騎士の一人であった『ブレーヴェ』が持っていたものだった。そして、貴殿の中の天猛星とやらも既に気付いているだろうが、あの三人、トオヤ、チシャ、ドルチェの三人も、おそらく貴殿と同じ「百八星」の前世に相当するものであろう》
何を根拠にフランチェスコがそう言っているのかはケリーにはよく分からなかったが、そう言われてみれば、確かに昨晩の船上の戦いの時に、彼等からなにか特別な気配を感じていたことを思い出す。
(あぁ、あの『懐かしさに相当するような感覚』が、そうだったのか)
《なので、彼等とは一度、話を付けておいた方が良いだろう。どちらにしてもこれから先、彼等とは共に闘っていく必要がある》
ケリーはその忠告には納得しつつも、今はリンナのための薬の生成という問題を抱えていることもあり、どのタイミングでその話を切り出せば良いのか、測りかねた状態であった。
******
その間に、ドギを呼び出したサラは、リンナの現状の原因が自分の出産時の「呪い」にあるということも含めて、全ての事情を彼に話した上で、「蛇を受け入れる役目」は自分がやるべきだと主張する。本来ならば、まだ幼い末弟にそこまで重い話をしたくなかったが、昔からあらゆることに対して聡いドギであれば、きっと話せば分かってくれるだろう、という期待と信頼を込めた上での説得であった。
「……つまり、姉さんとしては、どうしても引けない、ということなんだね?」
「そうよ。そもそもの原因は私だったんだもの。私がやらなきゃ筋が通らないじゃない」
「でも、もしその時に、お婆様がその『呪いの契約』をしなかったら、お母様も亡くなっていた訳でしょ?」
「それはまぁ、そういうことになるわね」
「だったら、その場合は僕も兄さんも生まれてない訳だから、やっぱりこれは、僕達三姉弟の連帯責任じゃない? 結果的に言えば、お婆様は僕達三人の命を救ってくれたんだから、お婆様から受けている恩義の重さは、僕も姉さんも変わらないと思うよ」
「それは、屁理屈よ。生まれる前のあなた達が責任を感じる必要なんて……」
「呪いを使った時点では、姉さんだって生まれてないんでしょ? その理屈なら、責任を取るべきなのはお母様、ということになるよ」
「それはダメよ。ただでさえお母様は、お父様を亡くされて気落ちしているのに、こんな話なんて出来る筈がない」
「そうだね。あと、兄さんにも言わない方がいいだろうね。まぁ、どっちにしても、今ここにはいないけど」
「確かに、ゴーバンが知ったら、また色々と面倒臭いことになりそうね……」
「だから、この話はこれ以上広げないことにしよう。その上で、どうしても姉さんがやりたいっていうなら、譲ってもいいけど、その代わり、一つ、ちゃんと約束してね」
「何よ?」
「もし仮に、蛇の力に飲み込まれて、混沌にその身を委ねることになったとしても、絶対に絶望しないで。人は、希望さえ捨てなければ、どんな闇の中でも生きていける。むしろ、闇の中でこそ本当の希望が見つかるかもしれないんだから」
「……な、なに? あんた、何か変な本でも読んだの?」
「あぁ、うん。どこで読んだのかは忘れたんだけど、そんなような言葉があってね。ちょっと気に入ってるんだ。あと、何があっても、コンラートさんと幸せに暮らし続けてね」
「当たり前よ! ケリーは何があっても、私のことを愛し続けてくれると言ってくれたんだから。そういうあんたも、いつかはきっと……」
「じゃあ、僕は今から勉強の時間だから。またね」
そう言って、ドギは応接室を出て行く。サラはどこか釈然としない気持ちを抱きながらも、ひとまず弟を説得出来たことに満足していた。
やがて再び六人(トオヤ、チシャ、ドルチェ、サラ、ケリー、アスクレピオス)がトオヤの執務室に集まり、サラが蛇を受け入れるという方針を、ひとまず全員が了承する。なお、もう一つの道として、(名目上はリンナの孫である)チシャが担当するという道も無くは無かったが、アスクレピオスの再召喚の際に、彼女自身の召喚魔法師としての力が必要になるかもしれない以上(召喚者と触媒が同一人物であることによる不具合が発生する可能性もあるため)、避けた方が賢明であるというのが、アスクレピオスの判断であった。
「で、具体的に、その『蛇の力』ってどうやって受け取るの?」
更にそう問われたアスクレピオスは、彼女にそっと近付く。
「それでは、お耳を拝借」
そう言いながら、彼はサラの耳元でこそこそと何かを告げる。すると、サラの頬が徐々に紅潮していった。
「……ということなので、別室でこの力を受け渡したいのです。少なくとも、他の人には……」
「あぁ、うん、そうね。お願い。お願いだから、それは……」
サラは明らかに焦った表情で取り乱しながらそう言った。奇妙な空気が室内に広がる中、サラはケリーに対して、微妙に目をそらしながら訴える。
「ごめんなさい、それはちょっと、あなたにも見せたくないというか、その……」
彼女としては、その「方法」の詳細は語りたくないらしい。嫌な予感が頭を過ぎったケリーは、アスクレピオスに対して険しい表情で問い質す。
「念のため聞いておくが、他に方法はないんだよな?」
「そうですね。これが『一番安全な方法』です」
「これ」が何を指すのかは説明されていないが、その件に関しては、サラが「お願いだから聞かないで」と目で訴えかけている。何をされるのかは分からないが、この状況を見てさすがに心配になったトオヤが、改めて口を挟む。
「本当に大丈夫ですか? 先程も言った通り、私が替わることも出来ますが……」
「いや、これは、こういうことなら、なおさら私がやらなきゃいけない! 私の我儘で始めたことなんだから、これは他の人にお願いするなんて、それは出来ない!」
何をどうされるのかはさっぱり分からないが、そんなサラの決意を確認した上で、ケリーは改めて激しい形相でアスクレピオスに詰め寄る。
「何を間違っても、ふざけたマネだけはするんじゃ……」
「それは、しません」
アスクレピオスは淡々と、しかし、はっきりとした口調でそう答える。その返答を確認した上で、ケリーは改めて妻に問いかけた?
「いいんだな?」
「うん。それはもう、覚悟を決めたことだから」
まだ少し動揺をその表情に残しながらも、改めて決意を固めた彼女は、アスクレピオスと共に、城内の「別室」へと移動して行った。
******
そして、サラが戻ってくるまでの間、残りの四人はそのまま執務室で待機する流れになったのだが、ここでケリーは「あること」を思い出す。
「若干、話が変わってしまうのですが、良いですか?」
明らかに先刻までとは異なる雰囲気でケリーが三人に問いかけると、ドルチェが反応する。
「ん? なんだろうか?」
「あなた達がそれぞれの『力』を使った、昨晩の幽霊船騒ぎの時ですが……、ある種の『懐かしさ』のようなものを感じました。あなた方とは昨晩が初対面ですから、そんな筈はないのですが、一つだけ心当たりがあるので、ちょっと確認させてもらいます」
ケリーはそう前置きした上で、昨晩の時点で「天猛星」が語っていたこと(「大毒龍復活」とそれを阻止するための「百八の星核」の話)を、そのまま三人に伝えた。
「……ということで、皆さんはその該当者ではないかと思うのですが」
このタイミングでこんな話を唐突に出されたことで、三人は呆気にとられた顔を浮かべる。
「そんなことがありえるのだろうか?」
トオヤはそう呟きつつも、先刻のアスクレピオスの話を思い出す。アスクレピオスは自分が「星界」の住人であったことを踏まえた上で、ケリーから「似た気配」を感じたと言っていた。その話を聞いた時点では意味がよく分からなかったが、このケリーの話が本当なのであれば、確かに話は繋がらないこともない。
「ありえない話ではないとは思うが……」
ドルチェはそう答えつつも、まだ今ひとつ実感は沸かない。とはいえ、彼女はある意味、トオヤ以上にこれまで多種多様な怪奇現象と遭遇してきた身である。混沌が蔓延するこの世界においては、それがどれほど突拍子もない話であろうとも「ありえない話」とは言い切れないということは分かっている。
「判別方法のようなものはあるのでしょうか?」
召喚魔法師であるチシャは、全く未知なる「星界」という異世界が存在するという話自体は、一つの可能性として素直に受け入れることが出来る。その上で、数日前にオデット経由で聞いていた「オルガの予言」が、この「大毒龍の復活」のことを指していたのかもしれないと考えると、より一層その話に信憑性が感じられた。とはいえ、実際に何らかの方法で確認してみないことには、どこまで聞いても「可能性」の域を出ない話である。
そして、その件に関してはケリーも詳しくは聞いていなかったので、改めて頭の中で天猛星に問いかけた上で、その答えをそのまま彼等に伝える。
「私の星核を、皆さんの身体のどこかに触れさせれば良いらしいです」
ケリー自身も、そう言いながら今ひとつ実感が湧いていない。そんな彼の心境を察しつつ、ドルチェが確認のために問いかけた。
「つまり、今はその星核とやらが君の身体に宿っているんだよね?」
「えぇ」
「見せることは出来るかい?」
「自分も受け取ったばかりで、まだ扱いは慣れていないのですが……」
そう言いながら彼が念じると、彼の目の前に「星核」が現れる。ドルチェはそれをまじまじと眺めながら呟いた。
「ほう、確かに、聖印とも魔法の類いとも違ったものに見える」
「これが、星核というものらしいです」
ケリーが改めてそう告げると、トオヤとチシャも近付いて凝視する。
「なるほど。確かに、混沌の類いとは違うようだな」
「そうですね」
とはいえ、今の時点ではまだこの「星核」にどのような意味があるのかはよく分からないのだが、ひとまずケリーは話を続けた。
「天猛星が言うには、出来るだけ多くの前世を覚醒させたい、ということなので、君達で試させてもらいたいのですが」
「試す」という言い方はあまり人聞きのよくない言葉だが、今現在、サラが「得体のしれない投影体」による実験を受けていることを思えば、少なくとも君主の身であるケリーが手にしている時点で、この「星核の実験」の方が、まだ危険性は低いようにも見える。
この提案に対して、最初に同意したのはトオヤであった。
「とりあえず、ケリー殿の身体に触れればいいのか?」
「そうですね。星核に触れれば良いらしいいので、手を出して下さい。あと、私がこの力を得た時、天の声に導かれて、自分の願いを言うように言われました。もしかしたら、同じことを言われるかもしれません」
その話を聞いた上で、トオヤはその手を星核に近付ける。
「とりあえず、やるだけやってみるか」
そう言いながらトオヤが星核に触れると、彼は自分の体内に「何か」が入ってきたような感覚を覚え、そして直後に「謎の声」が心の中で響き渡る。
「あなたの理想の未来を思い描いて下さい」
どうやらこれがケリーが言っていた「天の声」らしい、ということを実感しつつ、トオヤは自分の心の中で思いを巡らせる。
(望みか、望みたいことはいつも沢山あるけれど、そうだな……、いつだって誰も傷付かないような、どこまでも届く、『守れる力』が欲しい。それは僕だけじゃ無理だろうけど、でも、自分の力が強いことにこしたことはないから。それは、力でなくてもいいけどさ)
そんな「理想の自分」を思い描いたところで、トオヤの目の前にも、ケリーと同じ青白い光を放つ星核が現れる。
「これが星核か……」
トオヤが改めてそう呟きながら自分の星核を見つめる中、ケリーはその隣にいる二人に問いかける。
「お二方も、大丈夫ですか?」
「では、次は私が」
そう言って、チシャが星核に手を伸ばした。すると、彼女もまたトオヤと同じように体内に入り込んできた「何か」から、「理想の未来」について問いかけられる。
(未来……、それほど先のことが分かっている訳ではないですが、タイフォンやブレトランドの平和、ですね。それをトオヤやドルチェやカーラや、そんな皆と一緒に尽力していきたいな、というのが願いです)
チシャが心の中でそう呟いた瞬間、彼女の目の前には「赤味を帯びた星核」が現れる。その色の違いが気になるチシャであったが、それについてはケリーも理由は分からない。
「では、ドルチェさん」
「あぁ、受け取ろう」
そう言って彼女もまた星核に触れ、そして「同じ声」が彼女の脳内にも響き渡る。
(望む未来、か……。「僕」は幻影だ。だが、「私」は既にここにある。そして、共に歩む仲間もいる。ならば願いは『この今を、共に歩み続けられること』。今も、次の瞬間も。そう、僕の後ろに道はない。だが、前には進むべき場所がある。共に歩む者もいる)
ドルチェがそんな決意を固めた瞬間、彼女の目の前にも「赤い星核」が出現する。ドルチェはそれを見つめながら呟いた。
「話を完全に信じきれた訳ではないが、星核というものは確かにここにある。ならば今は、これを持っていよう」
その言葉に、トオヤも頷きながら答えた。
「何かが大きな違いがある訳ではないが、確かに、今までになかったものが自分の中で目覚めたような感覚だな。このイメージなら『あれ』が出来るかもしれない」
トオヤが言うところの「あれ」が何を指しているのかは分からないが、きっとまた何か特殊な形で聖印を用いて鎧を強化する方法を考えているのだろう、ということは、彼と付き合いの長い面々には容易に想像がついた。
その上で、ケリーはもう一つ、彼等に対して忠告する。
「もしかしたら『心の声』がうるさくなるかもしれないけど、良かったら、受け入れてほしい」
ケリーの場合、「天の声」に加えて「鎧の声」まで聞こえる身になっている訳だが、そう言われた三人は、自分の脳内に何か問いかけてみようとしたものの、何の反応もない。
「少なくとも今は、特に聞こえないな」
ドルチェがそう答えると、チシャとトオヤも頷く。
「そうですね」
「もしかしたら、『自力で目覚めた君』と『目覚めさせてもらった僕達』とは、少し違うのかもしれないな」
そんな会話を交わしつつ、やがて彼等の前にサラとアスクレピオスが帰還する。アスクレピオスが言うには、無事にサラの体内に一匹の「蛇」が取り込まれ、彼女はその力を使える状態になっているらしい。傍目には何かが変わったようにも見えなかったが、ひとまずサラが無事に戻ってきたことに、ケリー達は安堵したのであった。
翌日、トオヤ、チシャ、ドルチェ、サラ、ケリー、アスクレピオスの六人は、タイフォン経由でムーンチャイルドへと向かうことにした。
彼等はまずタイフォンで、領主代行の「鉄仮面卿」ことクリフト(下図)に一通りの事情を説明する。クリフトは「魔法の力で人の姿を得た盾」と「邪紋使い」の間に生まれた特異な存在であり、約四百年にわたって「父」である「聖盾ラドクリフ」と共にムーンチャイルドの地下に幽閉され続けていた過去がある(
ブレトランド風雲録9参照)。
現在の聖盾ラドクリフは、本来の「盾」としての姿しか持たず、大半の人々からは「クリフトの所有する武具」としか認識されていないが、もともと英雄王エルムンドの聖印によって生み出された「五つの銀甲」の一つであり、聖印を持つ者がその力を用いることによって、「全ての混沌の力を一時的に無効化する能力」が備わっている。これはチシャやドルチェの能力をも封じるという諸刃の剣ではあるのだが、いざという時にはその力を用いることも選択肢に入れた上で、「ラドクリフを装備した状態のクリフト」も現地へと同行させることにした。
クリフトはトオヤ不在時のタイフォンの守りの要なのだが、彼がいなくなっても、まだこの地には最後の切り札としての「半神の少女」が残っている。日頃は領主の館の片隅で自堕落な生活を送っているだけの存在だが、最悪の場合は彼女が力を貸してくれるだろうと信じた上で、トオヤはクリフトに同行を命じ、クリフトも即諾した。
そしてこの時、ケリーが身にまとっていた聖鎧フランチェスコは、かつての「戦友」の存在に気付く。
《あの時の子か……。まだお前は、当時の業を背負い続けているのだな、ラドクリフ……》
しかし、その「心の声」は旧友にも、そしてケリーにも届いてはいなかった。「五つの銀甲」同士の本格的な邂逅は、もう少し先の話になる。
******
その後、ムーンチャイルドに到着した彼等は、領主であるバルザックを通じて、住民達に「混沌災害の再来の可能性があるため、一時的に避難するように」と命じる。住民達からは、その突然の申し出に対して困惑する声もあったが、それでも大きな反発も混乱もなく、粛々と避難準備を手際良く進めていく。その光景を目の当たりにしたケリーは、やや驚いた様子で呟く。
「物分りの良い住民ですね」
もし、ケリーの父が治める領地で同様の事態が起きそうになった場合、ここまで順調に避難準備がおこなえるだろうか、と考えると自信がない。そもそも、ハルーシアは比較的平和な土地柄ということもあって、緊急事態への対応策自体がそこまで整備されていなかった。
「もともと、ヴァレフールの中でも混沌濃度の高い地域の住民だからね」
ドルチェがそう答える。実際、この地の住民は四百年以上前から「混沌濃度が高い地域」であることを承知の上で生活を続けており、実際に過去一年の間に二度も大きな混沌災害が発生している。そんな彼等にとって、もはや混沌災害とは「日常」の一部なのかもしれない。
無論、直近の混沌災害を通じてこの地の奥底に眠っていた混沌核が消滅したと聞かされていたため、「これでもうこの地は本当に平和になった」と安心していた住民達も多かっただけに、その安心感を覆すようなバルザックの発表に対しては落胆する声もあったが、それでも大半の住民達は「混沌ってのは、いつどこで起きるか分からないこそ『混沌』なんだよな」という達観した意識が備わっているような様子であった。
やがて住民達が村の外へと避難したのを確認した上で、バルザックとその配下の兵士達に住民達の警護を任せた上で、トオヤ達は「かつてクリフト(とラドクリフ)が幽閉されていた、領主の館の地下室」へと足を踏み入れていくことになる。
地下室に入った時点で、アスクレピオスは周囲の「龍脈」の流れを確認する。
「どうやら、この部屋自体が完全な『龍穴』となっているようですので、ここで『術式』をおこなうことにしましょう」
彼はそう言うと、手にしていた医療鞄から小さな「盃」を取り出し、部屋の中心に置く。そして、その盃を挟むように彼をサラが立ち、トオヤ達は少し離れたところで、何があっても対応出来るように臨戦態勢を整えると、アスクレピオスは謎の呪文の詠唱を唱える。それは、(現在は本業である召喚魔法だけでなく、あらゆる系統の魔法に精通している筈の)チシャにとっても全く耳馴染みのない、特殊な「異界の魔法」であった。
そして、やがて「盃」の中に謎の液体が満ちていく。それと並行してアスクレピオスの身体が徐々に変色を始め、表情が歪み始めた。彼は苦痛に耐えるような声で、サラにこう告げる。
「これで、大丈夫な筈です……。その盃を持って、すぐ部屋の外へ出て下さい……」
サラがそれに従って盃を手にして部屋の外に出ると、護衛のためにクリフトも彼女に同行する。そして部屋に残ったトオヤ達に対し、アスクレピオスは必死に笑顔を取り繕いながら語りかけた。
「これはこれは、なかなか、相当な反動が私の体内に集まっているようですね……、なんとか抑えられる限りは抑えてきましたが……、後のことはよろしく頼みますよ、皆さん……」
そう言った直後、彼の身体が爆発四散し、急激に部屋全体の混沌濃度が上がる。そして、アスクレピオスを構成していた混沌核から、「禍々しい風をまとった、人間の騎士のような姿をした巨大な暗黒の投影体」が出現し、更にそれに触発されるように、その周囲にも似たような姿の(やや規模の小さい)四体の薄灰色の投影体が現れる。
いずれも、形状こそは人型に近いが、明らかに言葉が通じそうな形相ではない。おそらくは何処かの世界に住む騎士達の「破壊衝動」だけが具現化した存在なのだろう。その意味では、戦闘本能だけが投影されていた先日の幽霊船団に近い存在のようにも思える。このような形で、危険な因子だけが強調されて出現することは、この世界では珍しい話ではない。
そして、トオヤ達がこの現象に対して対応するよりも先に、その中央の巨大な騎士の投影体が禍々しい眼差しを向けたことでトオヤは一瞬放心状態に陥ってしまうが、その直後に今度はドルチェが逆に五人の「異界の騎士達」に対して魅惑の眼差しを向けることで、彼等の注意を自分に惹きつけ、チシャはその傍らに再びドライアドを呼び出す。
そんな彼等に対し、中央にいた巨大な暗黒騎士は自身の身体から地獄の業火の如き爆炎を放とうとするが、即座にケリーが自身の聖印の力でその炎を自分一人の元へと集約させる。それに合わせてチシャがオルトロスを彼の目の前に召喚したことで、炎の威力は軽減されたものの、ケリーの身体全体が高熱に包まれる。しかし、その身を守っていた聖鎧フランチェスコは、冷静にこの状況を達観していた。
《大丈夫だ。今の主なら、この程度の炎で焼け焦げることはない……。やはり、まだ私の出番ではないようだな……》
聖鎧のそんな「独り言」は、ケリーの心には届いていない。ケリーはトオヤの聖印の力によってその傷を癒やしてもらいながら、この状況下において、全ての攻撃を自分一人で受け切る覚悟で戦いに臨んでいた。
だが、そんな彼の決意をよそに、ドルチェに視線を奪われた薄灰色の四騎士達のうち、後方の二人は(当初は全体に対して放とうとしていたのだが)ドルチェに対して無数の弓のような何かを解き放ち、それを彼女はあっさりとかわす。その直後に彼女の近くにいた一人は彼女に対して大剣で斬りかかろうとするが、その刃もまた空を切る。そして、ケリーの至近距離にいた一人だけは彼に斬りかかるが、その視線がドルチェの方を向いたままだったこともあって精彩を欠き、ケリーもまたその斬撃を避けることに成功する。
一方で、チシャは巨大な暗黒騎士に対してドライアドを絡みつかせて攻撃しつつ、ジャック・オー・ランタンを解き放つことで、後方にいた薄灰色の騎士二人を完全に消滅させる。どうやら、この周囲の四騎士に関しては先日の幽霊船団程の難敵ではなかったようで、手前にいた二人に対しても、一人はドルチェの一撃によってあっさりと葬られ、残りの一人も(チシャの魔法で武器を強化された状態の)トオヤとケリーの連続攻撃によって追い詰められていき、それでもどうにかチシャに斬りかかろうとするが、トオヤの鉄壁の防御に阻まれ、最後はドライアドの一撃で消滅していった。
そんな中、暗黒騎士は再び炎で全てを焼き払おうとするが、またしてもケリーの聖印によって阻まれる。そして、その間にドライアドが暗黒騎士の周囲に毒草を生み出すと、ドルチェが機を見計らって暗黒騎士に対して自身の誘惑の力を最大限発揮しようとする。その瞬間、彼女の目の前に星核が出現し、その煌めきを身体に受けたドルチェが暗黒騎士に対して命じる。
「さぁ、ここで足踏みを続けるんだ。全力で」
彼女に導かれるように暗黒騎士はドライアドの設置した毒草の真上へと駆け込みそしてその場でサイドステップを踏みながらその毒草によって身体を蝕まれ続け、最終的にはその身体全体が猛毒に侵されることで内側から混沌核を破壊され、そのまま消滅していく。
だが、その暗黒騎士の激しすぎる足踏みによる衝撃と龍脈の流れの激変による空間の不安定化が相まって、トオヤとケリーが聖印を用いてその混沌核を浄化している間に、地下室が全体が崩れ始めてしまう。先に部屋の外まで脱出していたサラとクリフト、そして比較的扉の近くにいたケリーと、もともと身のこなしには定評のあるドルチェは無事に脱出出来たが、重装備を着たトオヤと身体能力で劣るチシャは逃げ遅れかけてしまう。
しかし、ここでこの二人の星核が「謎の輝き」を放ったことで、二人は自分でも信じられない程の速度で階段を駆け上がり、どうにか全員無事に地上へと帰り着くのであった。
幸いなことに、領主の館の一部が陥没した以外には地上の被害も無かったため、トオヤ達はバルザック達の協力に感謝しつつ、館の修復には必ず協力することを約束した上で、タイフォン経由でアキレスへと帰還する。
そして、アスクレピオスが遺していた処方箋の通りに、サルファがその盃に入っていた液体を調合してリンナに服用させた結果、彼女は見違えるように健康な身体へと変貌していった。彼女は驚きつつも恐縮した様子で、孫達(トオヤ、チシャ、サラ、ドギ)とその配偶者達(ドルチェ、ケリー)に対して、訥々と語り始める。
「本当に、私がこの薬を使って良かったのかしら……。もっと他に前途ある人々のために使った方が良かったのでは? それこそ、療養中のワトホート元殿下や、『片手を失ったままのあの人』のために使う道もあったでしょうに」
ケネスは若い頃に右手を失い、今はそこにフックが埋め込まれている。エーラムに頼んで、もっと高性能な義手を作らせることも出来なくはなかったが、「自分の本分は作戦指揮であり、戦場で自分が戦うような局面になった時は既に敗北した時」と割り切っていた彼は、あえて肉体的な不自由を自分に課すことで、自分自身への戒めとしていたらしい。
そんな彼女に対して、サラがどう声をかけるか迷っている中、先にトオヤが答えた。
「今回、お婆様がその薬を飲んで元気になられたのは、貴女を救いたいと願ったサラ様と僕達の願いからです。それをあなたが素直に受け取れない、他に受け取るべき人がいたのではないか、と思ってしまうのは仕方のないことだと思いますが、僕達があなたを救いたいと思った気持ちだけは、決して変えるつもりはないですから。そして、生きるということは、まだ何かやれることがあるということなので。お爺さんが帰ってくるのを待ってみるのも良いのではないでしょうか?」
孫にそう言われたのに対して、リンナは少し考えた上で、改めてゆっくりと口を開く。
「そういうことなら……、いえ、それはそれで私の性にも合わないわね。私が行くわ、エーラムに」
唐突にそう言い出した彼女に対してトオヤ達は呆気にとられるが、彼女は気にせず笑顔で語り続ける。
「もうあの人とは縁を切られた。それなら、今度は私の方からあの人のところに、もう一回、押しかけ女房するだけのことだから」
久しぶりに元気になった祖母が吹っ切れた様子でそう言い切ったのに対し、トオヤはどこか圧倒されながらも、静かに答える。
「……そうですか、では、手配をしておきます」
「まぁ、あの人がエーラムで誰か若い女と新しい人生を始めようとしているというのなら、そこでちょっと一悶着あるかもしれないけどね」
冗談めいた口調でそう語る祖母に対して、さすがにこの場にいる誰も何も言えない。
「でもまぁ、いきなり行って揉めるのも先方の方々に迷惑がかかるわよね。チシャ、エーラムの人に魔法杖通信をお願い出来るかしら?」
「は、はい……、分かりました……」
チシャは即座に魔法杖を取り出し、エーラムの魔法学校で対外事務を担当している魔法師に連絡した上で、そこから更に転送させる形で、カサブランカ家の魔法師へと通信を繋げる。そして、互いに通話音量を広げた状態で、その場にいたケネスとこの場にいる者達が直接会話が出来る状態を整えた上で、一通りの事情を伝えた。
その話を聞かされたケネスが、魔法杖の隣でどんな顔をしているのかは分からない。だが、気にせずリンナは、その「元夫」に対して語りかけた。
「今回の件、あなたが裏で手を回したんでしょう? どういう経緯かは知らないけど、もう縁を切った家族のために私心で動くのは、エーラムの魔法師として問題なのではないですか?」
「私はもはやヴァレフール貴族ではない。ただのカサブランカ一門の人間だ。カサブランカ一門の兄弟子であるハンフリーが昔世話になったドロップス家のために、カサブランカの一族として協力した。それだけのことだ」
「……まぁ、いいですよ。あなたがそう言うのなら、そういうことにしておきましょう。それはそれとして、私はこれからあなたの元に行きますから。その上で、あなたのその言い訳をまたゆっくり聞かせて下さい」
「そうだな……。今のアキレスにお前の居場所がないというのであれば、そして孫達に迷惑をかけたくないというのであれば、勝手にするがいい」
ケネスがそう言い終えたところで、通信が切れる。
「ありがとね、チシャ」
「え、えぇ……」
満面の笑みを浮かべるリンナに対して、チシャはどんな顔で応じれば良いのか分からずに戸惑う。当然、それは他の者達も同様であった。
(やっぱり、まだまだこの人達には勝てる気がしないな……)
改めてそう実感させられたトオヤは(戸籍上の)祖父母達の、年老いてなお衰えぬその活力に、ただひたすらに脱帽させられていた。
その後、トオヤ達は今後の方針について話し合った結果、アスクレピオスとの約束を果たすためには、やはりエーラムの図書館で「一度消滅した投影体の再召喚の方法」について調べるのが一番の近道であろうと判断した上で、チシャ、サラ、ケリーの三人が、リンナのエーラムへの護送も兼ねて彼女に随行するという方針で合意する。
出来ればトオヤも同行したいのは山々であったが、さすがに護国卿という立場ではそう簡単に国許を空ける訳にはいかない。幸い、サルファがいるためチシャとは頻繁に魔法杖通信をおこなうことは可能なので、何か不測の事態が起きた時にはすぐに対応出来るであろうし、ケリーがサラと共に同行するということであれば、よほどのことがない限りは大丈夫だろう、と思える程度の信頼関係が、既に二人の守護騎士の間には生まれていた。
そして、妻のドルチェもまたヴァレフールに残ることにした。彼女は隠密調査や町中での情報収集に長けてはいるが、魔法大学の図書館での調べ物ということになればさすがに専門外である以上、あえて積極的についていく理由もない。最近はカーラが単独でトオヤの代行を務めることが多いため、ここでチシャまでが不在ということになれば、せめてドルチェだけでも彼を間近で支え続ける必要があるという判断に至るのも当然であろう。
とはいえ、その方法がそう簡単に見つかる保証もないし、サラとしては祖母を救うために犠牲となったアスクレピオスを助けるまで帰国するつもりはなかった以上、ケリーはひとまず故郷の人々に対して「帰りがもう少し遅くなる」という旨を伝える必要がある。幸い、アキレスの城内にはケネス統治時代から幻想詩連合に縁の深い外交魔法師が常駐していたため、ひとまず彼はサルファを介してハルーシアへの連絡手続きをその魔法師に依頼することにした。
一方、その間に手持ち無沙汰になっていたサラに対して、ドルチェが語りかける。
「やぁ、今回の件は、サラさんもお疲れ様」
「本当にね…‥。というか、あなたは本来『この家の者』ではないのに、私のわがままに付き合ってくれて……」
「おや、つれないことを言うなぁ。トオヤと私の繋がりがある以上、私もこの家の問題をどうにかしたいと思う心くらいは持つ権利はあるさ。それを言われると、君の夫殿も立つ瀬がないぞ」
「まぁ、確かにそうね。ところで、まぁ、その、あんまりこういうことを立ち入って聞くべきじゃないかもしれないんだけど……」
サラは、同じ「騎士の妻」であるドルチェに対して、小声で問いかけた。
「……端的に言って、どこが良かったの?」
主語も目的語もない質問だが、ドルチェは即座に理解した上で笑顔を浮かべる。
「よくぞ聞いてくれたね。それは長くなるぞ」
「いいわよ。その代わり、私の話も聞いてもらうから」
「いいね。君とは『そういうところ』は気が合うと思っていた。タイフォンもいいが、アキレスにも美味しい喫茶店はいくらでもある。さて、女子会といこうか」
「そうね」
「お互い、話題はつきないだろう?」
そう言って、二人の若妻達は城下町へと繰り出していった。
同じ頃、トオヤは以前に個人的に注文していた「珍しいデザート」が到着したという知らせを聞き、喜び勇んでその荷物を受け取ると、連絡要件を済ませて客室に戻ろうとしていたケリーとサルファに遭遇する。
「ケリー殿。よかったら、一緒に食べないか?」
「それは?」
「これは、ゼリーという特殊な食材で果物を包み込んだデザートなんだ。本当は、身体の弱ったお婆様でも食べやすいものを、と考えて頼んだものだったんだけど、お婆様は今、出立の準備で忙しいみたいだから、あの人には後で届けることにするよ」
そう言ってトオヤはケリーにその中身を見せる。それは、食文化に豊かなハルーシア育ちのケリーも見たことがない、未知の食物であった。
「ほう、このようなものが」
「もしかしたら、ハルーシアにはもっと美味しいゼリーがあるかもしれないけど、これはこれで美味しいから、ぜひ食べていってほしい」
そう言って、彼はケリーとサルファ、そしてチシャとドギを応接室に招く形で、「果物ゼリー」の試食会を開くことにした(当然、ドルチェとサラも呼ぼうとしたのだが、二人は既に外出した後だった)。
「いやー、ゼリーというのは、これはこれで新鮮だな」
ケリーが素直にそう呟くと、トオヤも嬉しそうに語り始める。
「甘味は、僕も結構こだわりがあってね。その土地にあったものと組み合わせたりとか、異世界のものを取り入れたりとか、色々面白いんだよ」
「もうしばらくブレトランドにはいると思うから、色々教えてもらえると嬉しい」
「そうか。今の時点で手に入るものの一覧はこちらにあって……」
トオヤが満面の笑みを浮かべながら語り始めたところで、彼の血糖と脂質が心配なチシャは、思わず口を挟む。
「程々にして下さいね、程々に……」
「あぁ、ごめんごめん」
そんないつもの光景が繰り広げられる中、ドギも笑顔でその輪の中に加わっていた。
「いやー、それにしても、本当にお祖母様が助かって良かったですね」
ケリーとサルファは(「本物」だと認識した上で)素直に頷き、トオヤもまた(「影武者だと認識した上で」)笑顔で返す中、チシャだけが(「本物」だと認識した上で)内心で冷や汗をかいていた。
(いつまで、このままでいるつもりなんだろう……)
そんな彼女の心境など知る由もないまま、トオヤはふとケリーに語りかける。
「ケリー殿はこれから、星核の件もあるし、色々と困難に立ち向かわなければならないだろうが、きっとあなたの力なら乗り越えることが出来るだろうさ」
この発言に対して、横からサルファが疑問を呈する。
「星核?」
サルファにはこの話は伝えていない。そして当然、ドギもその単語に対して興味深そうな反応を示している。ケリーはトオヤに対して「信頼出来る相手ならば話して良い」と伝えたが、トオヤから見ればこの場は確かに「信頼出来る人間」である。とはいえ、「大毒龍への恐怖心」が大毒龍を強化するという天猛星の話もある以上、「幼い子供」にそこまで聞かせて良いかどうかは微妙な話ではある(当然、ドギの正体を知っているチシャは全く別の意味で「知らせて良いかどうかの判断が難しい」と考えていた)。
「まぁ、あんまり表には出せない話なんだけど……、話していいかな?」
トオヤがケリーにそう問いかけると、ケリーはサルファに対してこう問いかける。
「そういうことなら、少し、魔法を使ってみてくれないか?」
サルファも魔法師である以上、当然、「星核の前世」である可能性は十分に考えられる。故に、彼が魔法を使った時点で、そこにトオヤ達の時と同様の「懐かしさ」を感じるのであれば、必然的に彼にも全てを話した上で協力を要請する必要があるだろう。
「魔法、ですか?」
サルファは戸惑いながら、ひとまず自身の感覚を一時的に強化する魔法を用いてみたが、ケリーは特にそこから何も感じ取ることは出来なかった。そのことを踏まえた上で、ひとまずトオヤはこの場では詳しく語らないことにした。そして、「もう一人」の該当者の可能性について、トオヤはこう語る。
「ドギはまだ聖印も受け取ってないからな」
今からでもトオヤがドギに一時的に聖印を預けて調べることも出来るが、おそらくその可能性は低いだろうと考えた彼は、あえてそこまでしようとはしなかった。
一方で、チシャは全く別の意味での「ドギが該当者だった可能性」が頭を過ぎっていたが、さすがにこの場で今のドギの持つ「力」を発動してもらう訳にもいかない以上、今はひとまず、このまま何も言わずにごまかしたまま放置しておくしかなかった。
(「星核」か……、少し、調べてみる必要があるかもしれないな……)
ドギは内心でそんな考えを巡らせつつ、笑顔でゼリー試食会は終えた彼は、密かに眠らせていた「キャティ」と入れ替わる形で(彼女の記憶を一部操作した上で)、ひっそりとアキレスから去って行くのであった。
八つの光が揃うまで、未醒の星はあと二つ。夜空に希望が満ちるまで、未還の星は七十五。
最終更新:2022年03月13日 01:27