1949年のWGP

Rd. GP Date Circuit 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 マン島TT 6/17 マン島 M. Barrington F. Frith H. Daniell
2 スイスGP 7/3 ブレムガルテン N. Pagani B. Ruffo F. Frith L. Graham
3 ダッチTT 7/9 アッセン N. Pagani F. Frith N. Pagani
4 ベルギーGP 7/17 スパ F. Frith B. Doran
5 アルスターGP 8/20 クラディ M. Cann F. Frith L. Graham
6 イタリアGP 9/10 モンツァ G. Leoni D. Ambrosini N. Pagani

シーズン概況

 記念すべき世界グランプリシリーズの幕開けは、当時世界最高峰のロードレースとも言えるマン島TTレースだった。WGPのファーストシーズンは、以降、スイス、オランダ(ダッチTT)、ベルギー、イギリス本土(アルスターGP)、イタリアの全6戦で争われた。この中で専用のクローズドサーキットはネイションズGPの開催地となったモンツァのみで、他は全て公道を閉鎖したコースだった。また、すべてのGPですべてのクラスのレースが行われるようになるのは1990年代になってからのことで、この年で言えば全てのラウンドでレースが行われたのは500ccクラスのみである。
 ポイントシステムは1位に10p、以下5位までに8p、7p、6p、5pが与えられ、最終順位とは別にファステストラップに対して1pが与えられた。まだまだ試行錯誤の真っ最中であり、翌シーズンにはファステストラップに対するポイントは廃止され、ポイントシステムそのものも変更を受けている。現在のポイントシステムと最も異なるのは「戦績の良かった数戦のポイントを有効とする」という有効ポイント制であった点で、この有効ポイント制は1976年シーズンまで続けられた。
 ちなみにこの1949年、日本ではバイクモーター(自転車に取り付ける補助エンジン)に端を発したスクーターや庶民の足としての小型バイクを製造する中小メーカーが乱立し始めて日本小型自動車工業会が設立され、戦後初のレースイベントである多摩川レースが開催された。後のWGPを席巻する日本のメーカーの中でこの時点で既にオートバイの製造を始めていたのは、この年に初のモーターサイクル完成車であるドリームD型を発売したホンダのみである。

 最初のグランプリに現れたマシンとそれに乗るライダー達のラインナップは、DKWやBMWなどのドイツ製マシンがいないことを除いては戦前のそれと大きく変わるものではなかったが、スーパーチャージャーなどの過給器の装着はレギュレーションによって禁止されていた。その後の流れからは考えられないが、1930年代後半のレース専用マシンにおいてはスーパーチャージャーがトレンドだったのである。AJSやジレラは戦前にスーパーチャージャーの装着を前提に設計されたマシンを自然吸気仕様にしてGPに送り込んだ。しかし、過給器の禁止と排気量以外にはレギュレーションによる技術的な規制はほとんど無いに等しく、未だGPに勝つための方程式が存在していないために各メーカーで様々な技術的なチャレンジがなされていたこともあって、例えば500ccクラスではジレラの4気筒からノートンの単気筒までと、(少なくとも外見的には)画一的となってしまった後のGPマシンに比べれればはるかにバリエーションに富んだマシンがグリッドに並んでいた。

 お椀型のヘルメットや危険な公道コースなど、“安全性”という面では現在に遠く及ばないこの時代は毎年のように死亡事故が発生していた。この年の開幕戦のマン島では350ccクラスのベン・ドリンクウォーターが4周目にクラッシュして死亡しており、これがWGPにおける最初の死亡事故となってしまった。

500ccクラス

 500ccクラスはノートン、AJSらのイギリス勢と、ジレラ、モトグッツィのイタリア勢の争いとなった。AJSのレスリー・グラハムは戦前から活躍していたスターライダーだったのに対し、同じマシンに乗るビル・ドランは前年(1948年)のマン島TTで頭角を現したライダーである。ジレラはイタリアのスターであるカルロ・バンディローラを4気筒マシンに乗せたが、ベテランのネッロ・パガーニには最終戦まで単気筒しか与えなかった。
 開幕戦となったマン島TTではトップを走行していたレスリー・グラハムがゴール寸前でトラブルによって失速し、記念すべき500ccのGP初勝利はノートン・ファクトリーのハロルド・ダニエルのものとなった。しかしグラハムは第2戦スイスGPで初勝利を挙げ、続くダッチTTでは2位に入って選手権をリードした。第4戦ベルギーGPではノーポイントに終わったグラハムだがアルスターGPで優勝し、ダッチTTで優勝したネッロ・パガーニがアルスターでは3位に沈んだことで500ccクラス初代チャンピオンに輝いた。パガーニは最終戦イタリアGPで2勝目を挙げ、ランキング2位を守った。
 第4戦ベルギーGPでは、AJSのビル・ドランが最終ラップの最終コーナーで2台をかわすという劇的な勝利を挙げている。

350ccクラス

 500ccでは目立った成績を残せなかったヴェロセットのDOHC単気筒マシンは、この350ccクラスでは他を圧倒した。フレディ・フリースは開幕戦マン島TTで勝利を挙げると、そのまま連勝を続けて第3戦ダッチTTで早くもタイトルを決めたのである。フリースはタイトル決定後の2戦も優勝し、結局5戦全勝の上に全てのレースでファステストラップを記録するという、文句の付けようのないパーフェクトウィンで350cc初代チャンピオンとなったが、この1年限りでグランプリから引退した。

250ccクラス

 大排気量クラスをイギリス製のマシン群が支配したのに対して小排気量クラスではイタリア製マシンが強さを発揮し、250ccクラスではモトグッツィの水平単気筒マシンにベネリのマシンが挑むという構図になった。緒戦からマンリフ・バリントン、ブルーノ・ルフォ、モーリス・カーンとグッツィに乗るライダーが3連勝を飾り、ベネリは最終戦のイタリアGPでダリオ・アンブロジーニによってようやく初勝利を挙げた。タイトルは最終戦で4位に入って唯一人3戦で入賞を果たしたルフォのものとなった。

125ccクラス

 250ccクラス同様にイタリア勢によって支配された125ccクラスだが、このクラスで活躍したのはモリーニ、モンディアル、MVアグスタである。モンディアルのDOHCに対し、モリーニとMVのマシンは2ストロークだった。わずか3戦で争われた125ccクラスの第1、2戦ではモンディアルのネッロ・パガーニが連勝してタイトルを獲得し、第3戦で勝ったのもモンディアルのジャンニ・レオーニだった。
 この時代は未だ2ストロークのメカニズムが完全に解明されておらず、モリーニとMVも翌年にはモンディアルと同じようなマシンを走らせることになる。2ストロークエンジンが脚光を浴びるのは、ここから約10年後のMZの活躍まで待たなければならない。

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最終更新:2012年01月28日 20:58
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