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1953年のWGP

Rd. GP Date Circuit 125cc winner 250cc winner 350cc winner 500cc winner
1 マン島TT 6/12 マン島 L. Graham F. Anderson R. Amm R. Amm
2 ダッチTT 6/27 アッセン W. Haas W. Haas E. Lorenzetti G. Duke
3 ベルギーGP 7/5 スパ F. Anderson A. Milani
4 ドイツGP 7/19 ショッテンリンク C. Ubbiali W. Haas C. Bandirola(※) W. Zeller(※)
5 フランスGP 8/2 ルーアン F. Anderson G. Duke
6 アルスターGP 8/15 ダンドロッド W. Haas R. Armstrong K. Mudford K. Kavanagh
7 スイスGP 8/23 ブレムガルテン R. Armstrong F. Anderson G. Duke
8 イタリアGP 9/6 モンツァ W. Hass E. Lorenzetti E. Lorenzetti G. Duke
9 スペインGP 10/4 モンジュイック A. Copeta E. Lorenzetti F. Anderson
(※)ドイツGPの500cc/350ccクラスはポイント対象外

シーズン概況

 今や世界最高のライダーとの評価を得ていたジェフ・デュークは、昨シーズンの終了と同時にノートンから最大のライバルであったジレラ・ファクトリーへの移籍を決めた。一説にはノートンがデュークが強く要望していた4気筒エンジンの開発に積極的でなかったことが原因だと言われているが、いずれにしてもデュークのイタリアのメーカーへの突然の移籍はイギリスのファンの目には裏切りと映り、一方イタリアのファンも外国人ライダーをエースに据えたジレラに対して不満の声をあげた。しかしデュークは移籍1年目にして結果を出し、この決断が正しかったことを実力で証明して見せた。

 この年の開幕戦のマン島では、500ccクラスの2周目にMVアグスタのレスリー・グラハムがクラッシュして死亡するという悲劇が起きた。グラハムはWGP500ccクラスの初代チャンピオンであると同時に、歴代500ccクラスチャンピオンの中で唯一人のGPレース中の事故で死亡したライダーとなってしまったのである。有能な開発ライダーでもあったグラハムの死はMVのマシン開発の停滞を招くことにもなり、同じイタリア製4気筒のジレラにも水を開けられることとなった。

 世界選手権として2年目を迎えたドイツGPだが、前年のソリチュードに代わって舞台となったショッテンリンクの安全性を問題視したファクトリーライダーたちがレースをボイコットし、その結果ドイツGPの350ccと500ccクラスはレースこそ行われたもののレース結果はWGPの公式記録からは除外され、世界選手権のポイントの対象外とされた。
 一方、他に遅れて世界選手権への挑戦を開始したドイツのBMWは、新たな技術的なチャレンジをグランプリに持ち込んだ。燃料噴射装置と、空力を考慮した流線型のボディである。燃料噴射装置の方は後に続くメーカーは無く、インジェクションがキャブレターに取って代わってGPマシンの主流になるには21世紀を待たなければならなかったが、ストリームライナーと名付けられたマシンのボディは他のメーカーにも大きな影響を与え、やがてダストビンと呼ばれるマシン全体を覆うフェアリングがグランプリで大流行するきっかけとなった。

 この年、日本では戦後初のロードレースとも言える名古屋TTレースが開催されている。

500ccクラス

 デュークの加入によってジレラのマシンの“ノートン化”にますます拍車がかかった。デュークは有能なレーサーであるだけでなく、レスリー・グラハムと同様にマシン開発の進むべき方向を明確に示すことのできる有能な開発ライダーでもあったのである。デュークの協力によって元々パワフルなジレラの4気筒は優れた操縦性をも獲得し、無敵のマシンへと仕上がっていった。
 この時期のジレラファクトリーは伝統的にマン島への遠征を行っておらず、デュークのジレラでの初勝利は第2戦のダッチTTでのことだった。第3戦ではノーポイントに終わったもののその後の4戦では優勝、2位、優勝、優勝と安定した好成績を残し、終わってみれば全8戦中4勝とデュークの圧勝でシーズンが終わった。ランキング2位は優勝こそなかったもののシーズンを通して上位でフィニッシュしたレグ・アームストロングが獲得し、3位にはデュークが落とした第3戦ベルギーGPで勝利したアルフレッド・ミラーニが入り、ランキング上位3人をジレラのライダーが占めるという、完全にジレラが支配したシーズンとなったのである。

 最終戦スペインGPではモトグッツィのファーガス・アンダーソンが優勝した。この時アンダーソンは44歳で、これは現在に至るまでグランプリ最高峰クラスにおける優勝者の最年長記録である。

350ccクラス

 500ccクラスと同様に、350ccクラスでもノートンの牙城は崩れた。前年まで250ccクラスで圧倒的な強さを誇ったモトグッツィは250ccのマシンをベースに350ccのマシンを開発し、これを駆るファーガス・アンダーソンとエンリコ・ロレンツェッティは見事にモトグッツィの期待に応えたのである。
 初戦のマン島こそノートンのレイ・アムに譲ったものの第2戦のダッチTTでロレンツェッティが350ccクラスでは初めてとなるイギリス製以外のマシンでの勝利を飾り、続くベルギー、フランスではアンダーソンが連勝。アンダーソンはスイスGPでも3勝目を挙げ、44歳にして初となるワールドタイトルを獲得した。ロレンツェッティも最終戦のイタリアで2勝目を挙げてランキング2位を獲得した。

250ccクラス

 350ccクラスに進出してノートンを圧倒した前年の250ccクラスの覇者モトグッツィだったが、皮肉にもこの年の250ccクラスでは新たなライバルであるNSUに苦しめられる立場になった。
 開幕戦のマン島ではモトグッツィのアンダーソンが勝利したものの、モトグッツィで2度チャンピオンに輝いたブルーノ・ルフォがクラッシュによって選手生命を絶たれてしまった。NSUの2気筒エンジンはモトグッツィの単気筒よりも2000rpm以上回る高性能ぶりを発揮し、このマシンを駆るヴェルナー・ハースは第2戦オランダで250cc初勝利を挙げると続くドイツGPでも連勝した。そしてその後のアルスターGP、スイスGPでは同じNSUのアームストロングが連勝し、シーズンの主導権は完全にNSUが奪ったのである。タイトル争いは2勝に加えて3度の2位表彰台と安定して上位でフィニッシュしたハースが制した。

125ccクラス

 小排気量クラスにリソースを集中させたNSUにとって、250ccクラスのライバルがモトグッツィだったのに対して125ccクラスでのライバルはMVアグスタだった。しかしモトグッツィのヴェルナー・ハースは全6戦中3勝を挙げる圧倒的な速さを見せ付けてタイトルを獲得した。ハースのタイトルは250ccクラスとのダブルタイトルであると同時に、前年に世界選手権への復帰が認められたドイツ人による初の世界タイトルだった。ディフェンディングチャンピオンであるMVのセシル・サンドフォードは、この年は1勝も挙げることができなかった。
 この年の開幕戦マン島ではMVアグスタのレスリー・グラハムが優勝したが、この後の500ccクラスのレースで命を落としたグラハムにとってはこれが生涯最後のグランプリ優勝となった。

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最終更新:2012年04月07日 18:06
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