西暦2198年2月13日――その日、少年は『天使』と出会った。
 高度一万メートルの空の上。培養槽を隔てて交わし合ったぎこちない笑みでの出会い。
 『天使』は外の世界をまるで知らない無垢な少女で、どこか放っておけない危なっかさと、己の運命を諦観しているかのような儚さをも持ち合わせていた。
 この少女を守ってあげたい。この少女の笑顔が見たい。
 そんな思いと共に少年が少女に惹かれていったのはまるで当たり前のことのようにそう時間はかからなかった。


 西暦2198年2月21日――その日、少年は一つの選択をした。
 1000万の人間を生かす人柱となるために少女は生み出された。『天使』とは名ばかりの少女はまさに生贄だった。
 そして最初からすべて承知の上で、少女は自らの運命を受け入れる道を選んだ。
 それがどうしても許せなくて。認められなくて。
 何より守りたかったはずの笑顔は見たくもない涙で濡れてしまっていた。
 だからこそ少年は選んだ。少女を助けると。生贄になどさせはしないと。
 1000万の人命と少女一人の命を天秤にかけ、少年は後者を選んだ。
 結果、数え切れない多くの命と世界に数少なく残っていた人類の生命線であった都市の一つを犠牲にした。
 歴史に残る規模の大罪を背負うことで、少年は奪われた『天使』を取り戻したのだ。


 それがどれだけ罪深い行いだったのか。許されざるエゴだったのか。
 少年の兄は選択の岐路で迷った少年に告げた。どの道を選んだとしてもいつか後悔する日は来るだろう、と。
 事実、背負った罪の重さとその罪悪感が生涯消えることはないのだと思う。
 しかしそれでも――少年は少女を助けたかった。
 死にたくない、そう確かに自分に助けを求めた少女を死なせたくなかった。
 なによりとっくに手遅れな程に心惹かれた彼女がいなくなる世界など考えたくもなかった。

 罪悪感はある。後悔の念も……今はともかくこれからいつか生まれてくることがあるのかもしれない。
 だがそれでも、あの日、あの時に自分自身が抱いた感情に嘘はないから――
 少女を死なせず助けられたということ、その奇蹟だけは誰にも否定をさせはしない。
 それだけは今も迷わず誇りを持って抱いていける少年の真実だったからこそ――

 少年はこれからもずっと少女を守っていくと決めたのだ。
 ……そう、決めたはずだったのに。

『ではここまでで脱落した死者の発表に移る』

 朗々と殺し合いの舞台へと響くのは第二回目となる定時放送。
 そこで告げられるのはこの殺し合い開始から十二時間の間で亡くなった参加者の名前。

 ――フィア

 誰彼も知らない名前で、本来呼ばれるべきではなかったはずの一つの名前。
 胸騒ぎが無かったかといえば嘘になる。この事態を本当に予測できなかったのかといえば……あるいは嘘にもなるだろう。
 彼女は……フィアは魔法士とはいえ純粋な意味では身を守る術を自分では有しておらず。
 ましてやこの殺し合いは本当に本物で……実際、自分が生き残るためなら他人を殺すことに躊躇いなど抱かないような人種も少なからず参加しているはずで。
 ならばもしそんな参加者と彼女が出会ってしまえばどうなってしまうのか?
 ……答えは、考えるまでもない。

 故にこそ少年――天樹錬はただ無言で空を見上げながら、静かにその事実を悟ったのだ。


 ――その日、少年は『天使』を失った。



 最悪の事態というのはまさに今のような状況なのだろうと藤井蓮は思った。
 正午零時と共に告げられた定時放送。その中で羅列されるように提示された死者たちの名前の中にあった一人の少女。
 フィア。現在の自分の相棒である天樹錬の探し人にして想い人。
 よもやこのタイミングで呼ばれることになるなどとは……蓮にしても、そして当然錬にしてみても考えたくもなかったことだった。
 だが事実として今……その少女の名前が呼ばれた。
 ……呼ばれてしまった、のだ。

「錬………」

 少年は静かに、ただ無言でこちらに背を向け空を見上げていた。
 呼びかけようとも応えは返らず、そしてそれはある意味で蓮にとっても予想通りであり。

(……いや、そもそも俺はあいつにどんな言葉をかけるつもりだったんだよ)

 自らの不用意な浅薄さを恥じ入るように、蓮は首を振る。
 同情や慰めの言葉を今のあいつに投げかけて何になる? そんなものであいつは救われるのか?
 十二時間前の……この忌まわしい殺し合いが始まった直後の自分はどうだった?
 元気を出せ、悲しんでいても何も始まらない。そんな言葉を知った風にかけられてそれを許せるか?

 ……当然、許せるはずがない。

 ならば自分にかけられる言葉など何一つなく。だからこそただ無言で見守る程度のことしか出来はしない。
 心底情けないと思えた。せめて兄貴分としてしてやれることはと考え――

 ――けれど考えたところで、結局何も思い浮かびはしなかった。

(先輩、俺って本当に情けないよな)

 愛する人の一人も守れず。今同じ状況へと陥ってしまった仲間にすら何一つしてやれない。
 じゃあ俺が今ここにいる意味なんて何があるんだよ……ッ!?
 己を責めて罵る言葉は幾らでも浮かんでくる。けれど錬を慰めてやれる言葉も、ましてや死んでしまった氷室玲愛へと報いてやれる言葉すらも浮かんではこない。
 本当に自分はギロチンを振り回すことしか能のないような役立たずだ。
 心底この殺し合いの主催者共が憎いと思えた。先輩を殺し、錬から大切な人を奪ったこの殺し合いを開いた奴らのことが。
 叶うならば今すぐにでも奴らのところに殴り込みをかけて一匹残らず皆殺しにしてやりたいとすら思った。
 けれどそれは結局出来もしないことであり、そんな怒りを抱こうが自分は吠えてるばかりで何もできやしない。
 ああ、一番殺してしまいたいのはもしかしなくても俺自身か、そう蓮は自嘲していた。
 だが役立たずを始末することは後でだって出来る。それこそ生かす価値もないような殺し合いに乗っている身勝手な屑共や糞主催者共を始末した後にでもいつだって。
 故にこそ今優先すべきことは別――そう、仲間である天樹錬を第一に考えて行動すべきだった。
 かけるべき言葉は見つからず、その傷心の痛みを癒してやることももちろん出来ない。
 けれど、彼自身が立ち直るまで傍にいて守ってやることくらいは出来るはずだ。
 蓮は信じていた。この少年ならばきっと立ち直ってくれるはずだと。
 たとえどれだけ時間がかかろうとも、どれだけ傷つき迷ったりしたとしても。
 この少年は強い心を持っているから。失ってしまった大切な者への愛だって貫ける想いを持っているはずだから。
 天樹錬は強い少年だと藤井蓮はそう強く信じて疑っていなかった。
 けれど……


 蓮に誤算があったとするならば、それは自分と彼が似て非なる者であることに気づけなかったということだろう。
 極めて相似た価値観と思想。想い人へと捧げる純粋な愛情。
 ああ、確かに彼らは良く似ていた。似過ぎていた。
 しかし結局のところ彼らは同一にあらず。異なる世界で異なる生まれと育ちをもって現在を形成されている他人だ。
 藤井蓮は信じる。失っても簡単に戻ってくるものになど価値はないと。
 愛した者を失い、今だって狂おしい程に愛しているからこそ無二のものに対する代替など認めない。
 たとえ失ったそのままの形で戻ってこようとも一度失ったという事実だけは変わらないから。
 死者は蘇らない。もし蘇るならそれは怪物(ゾンビ)と同じだ。どのような綺麗事を言い訳で並べ立てようともそれは変わらない。
 要するに藤井蓮という男は、自らの愛する者に対して誰よりも純粋で真摯であり潔癖なのだ。
 そう、潔癖すぎたのだ。
 だから藤井蓮は気づかない。天樹錬と己の間に存在する齟齬を。
 似ていても決して同じではないからこそベクトルが異なる少年の愛する者の喪失に対して抱いた狂おしい感情を。
 理解できなかったからこそ、ここに悲劇が幕を開ける。


 死にたくないと涙を流した少女のことを天樹錬は今でも憶えている。
 否、そもそも忘れられるはずなどない。あの日の少女の涙こそが、今の錬にとってはこの理不尽で救いのない過酷な世界に抗うための原動力だったのだから。
 あの日、錬は誓いを立てた。この少女を守ろうと。たとえ世界の全てが少女に対して死ねと強要してくるならば、それを否定して跳ね除ける為の盾となろうと決心した。
 恋した『天使』は少年にとって世界の全てであり、同時に彼にとっての最後の希望だったのだ。
 彼女を守る。死なせない。決して悲しませも泣かせもしない。
 フィアの笑顔が大好きだったから。彼女にはずっと笑っていて欲しかったから。
 誰かの犠牲となることを望まれて生を受けたなどと……そんな祝福などとはとても言えない呪いのような生まれなどあってはならないと思ったから。
 生まれてきてくれてありがとう。誰だって当たり前のようにそう望まれる祝福を彼女だって受けていいのだから。
 少なくとも、彼女が生まれて出会ってくれたことで救われた人間がたった一人でもいたのだから。
 だから――彼女は死なせない。
 殺されたなどと認めない。それが現実だというのならそんなふざけた現実を否定してやる。
 それが世界が決めた運命で、神様が敷いたレールだというのなら真っ向から覆して抗ってやる。
 その為になら……

「悪魔にだって魂を売るさ」

 悪魔使い、それが己の銘だというのならその通りにだってなってやる。
 いいや、自分が悪魔そのものにだってなってやるとも。
 何を犠牲にしようとも、何を引き替えにしようとも、決して構わない。
 兄が告げたいつか必ず後悔する日が来るというなら、それでも同じ後悔なら彼女が生きていてくれる後悔の方が何万倍もマシだから。
 だからここに決断を下そう。
 あの日、あの時と同じように。
 今回はあの時以上に言い訳も効かない何万倍も最低な人間になることを承知の上で。

 それでも『天使』を取り戻すと天樹錬は決めたのだ。



 ジーン・ダリアという歌手がいる。
 西暦2150年代を代表する歌姫であり、文字通りに世界を歌で熱狂させた本物のアーティストだ。
 数多くの名曲を世に残した彼女の歌の中で、特に名だたる最高傑作とされた歌が一つある。
 その曲名を『パーフェクト・ワールド』。
 夢破れて故郷に帰り着いた男がかつての恋人と再会する。なにをかもを失ったと嘆く男に対し女は優しく微笑みかける。
 たとえすべてを失っても、明日に望みが持てなくても、青い空があり緑の草原があり、そして愛する人が傍にいれば、それだけで世界は美しい。
 I LOVE THIS PERFECT WORLD
 そんな歌だ。
 多くの人々に希望を与えた名曲、その事実は変わらず故にこそこの歌の評価が揺らぐこともまた決してあるまい。
 だがだからこそここに一つの疑問が生まれる。
 何もかもを失い、そして傍で微笑んでくれるはずの愛する人までをも喪った男がここに二人いる。
 この希望の曲の歌詞が本当に真実であるというのなら、この二人にとってそれでも今の世界は美しいのだろうか?
 喪失という致命の傷を抱えた彼らの世界は、本当にパーフェクト・ワールドだなどと言えるのだろうか?
 完全さを失った世界に、本当に希望は残されているのだろうか?
 ジーン・Dの名曲は揺らがない。歌い語り続けられる希望の歌は今でも世界は素晴らしいと奏で続けている。

 だが――本物の世界は歌のように優しいだけではない。



 いつだって世界は理不尽で残酷だ。
 常に取捨選択を強いられ、流されるばかりの時の流れは止めることも逆行することも出来はしない。
 狂おしいほどにそれを願ったところで、人にそれを成し遂げることは決して不可能だ。
 結局のところ人間とは、傷だらけでしか生きていけない。
 美しいままで、何も失わずに何も変わることもなく。
 いつまでも不変のゆりかごに揺られ続けるような安楽な生など世界は決して認めない。
 天樹錬は誰よりもそれをよく理解している。
 藤井蓮は嫌と言うほどに思い知らされている。
 だからこそと錬は願い――
 それでもと蓮は信じる――

 願い続ける想いを失わぬために、男たちは自らの渇望へと手を伸ばす。



 とりあえずここでいつまでも突っ立っていても仕方がない。
 むしろ遮蔽物も存在しない屋外で無防備に突っ立ったままでいればいつどこから狙撃されるとも限らない。
 一先ずは安全な場所まで移動すべきだろうと蓮は考え、未だ動かぬ錬へと呼びかけるために近づいていく。
「錬、気持ちは分かる……なんて軽々しく言うつもりはないが今はそれでもとりあえず移動するぞ」
 優しく慰めるように背中から肩を叩こうとしたまさにその瞬間のことだった。

「……蓮――ごめん」

 ポツリと呟いた錬の言葉の意味が分からず首を傾げようとした刹那、僅か一瞬で伸ばした手は空を切り視界から錬が消失した。
「な――ッ!?」
 突然の事態に驚くよりも早く、首筋に感じた殺気に身体の方が反射的に動いていた。
 迸る銀閃から大きく飛び退くように距離を取りながらギリギリのタイミングで突き立てられんとしていたナイフを回避する。
 危なげなく着地しながら反射的に身構える。視線の先で対峙している少年は一連の事態の結果に対し苦々しげな表情を浮かべていた。
「……何のつもりだ?」
 悪ふざけなら幾らなんでも度が過ぎている。言外でそんな非難の意を示した視線にて蓮は相手を睨みつけていた。
 眼前にて改めてナイフを構えた少年――天樹錬へと。

 先程、天樹錬は藤井蓮の背後へと一瞬で回り込み、その首筋へとナイフを突き立てようとした。
 ……事実だけを簡潔に述べてしまえばそうなってしまう。
 だがそれは本来ありえないはずの事態だ。否、あってはならないはずの事態だ。
 彼ら二人は現在協力関係にある。互いにこの殺し合いの趣旨に対し真っ向から否定を示しこの事態の打破こそを望んだ行動をしていたはずだ。
 その関係は仲間であり信頼で結ばれた相棒だ。お互いがお互いを守るようにフォローしてこれまで行動していたはずだった。
 ならば先程の事態はどういった意味を示しているのか。
「……いや、別にいい。問い質すようなことじゃない単なる事故なんだろ? 俺は忘れるしおまえも気にするな」
 睨み合う沈黙に耐え切れず先にそんなことを言い出したのは蓮。正気を疑う発言だとは自分自身ですら理解していたが、けれど願わくばこの発言で全てが終わることを願っていた。
 だが……

「そんなわけないだろ。目を逸らすなよ、蓮」

 蓮の言葉を真っ向から否定する言葉を錬は返す。当然、ナイフで身構えるその姿勢を一ミリたりとも崩しはしない。
 ことここに至ればもはや仕方がない。不意打ちで事を為せなかった以上はせめて正々堂々と勝負をしようと錬は告げてくる。
 それが自分に今出来る唯一の君に対する誠意だから、と……
「ッざけんな! 俺たちが争う理由なんかどこにある!? こんなふざけたことしてる場合でもないだろうが!」
 錬のその返答が許せぬというように蓮は怒鳴り返す。まるでそれは脳裏では既に察しているこの事態の意味をまるで必死に否定するかのような行為だった。
 いや、否定したかったのだ。こんな事態はありえないと。
 蓮にとって錬と争う理由など何一つない。あるわけがない。この少年は彼にとって守るべき大切な仲間であり刹那だったのだから。
 ならば逆に錬が仲間であるはずの蓮へと刃を向ける理由は何だというのか。そもそもそんなものがあるというのか。
 ……考えるまでもない、先程の放送がそれを物語っていたではないか。
 蓮はそれこそ錬の正気を疑っていた。よりにもよっておまえがどうして、何でそんな馬鹿なことをしようとしているんだと。
 そんな悲しみに顔を歪めた蓮へと錬は笑みを浮かべながら告げてくる。

「僕はフィアを取り戻す。彼女を生き返らせるためなら、この場にいる総ての人間だって……殺してみせるさ」

 酷く不器用に歪んで震えた、泣き笑いの笑みだった。


 天樹錬はここに決断した。
 このバトルロワイアルというふざけた殺し合いのゲームに乗ることを。
 嘘か真か定かですらない最初に主催者が告げていた優勝の褒美――あらゆる願いを叶えてやるというその言葉を信じて。
 縋り付く奇跡は死者蘇生。それをもって死んだフィアを生き返らせると。
 全てを捨てる覚悟で――その道を選んだ。


「正気、なわけねえよな。あんな馬鹿げた言葉を信じるなんざ」
「好きに解釈してくれていいよ。僕にとっては正気も狂気も関係ないんだ」
 重要なのはただ一つ、フィアを生き返らせられるかどうかというその一点のみだ。
 それだけが今の錬を支え動かす原動力なのだ。
 だからこそあらゆる非難や罵倒を受けようが構わない。全て逃げずに受け止めて、踏み躙ってでも乗り越えていくだけだ。
 愛する者のために修羅と化した少年のその姿に、蓮は血が滲まんばかりに歯を噛み締め拳を強く握っていた。
 そんな今のおまえなんて見たくなかったと言うように。
「謝るのはあれが最後だ。蓮、僕はもう謝らない。止まらない。たとえ君を屍に変えてでもフィアを蘇らせる」

 だから、死にたくなかったら君も僕を殺す気できてくれ――その言葉を直前で飲み込む。
 今更そんな言葉を言う資格すら自身にはないと思っていたし、何よりそれを口にしてしまえばせっかくここまで固めた決心すらまた揺らいでしまうように思えたから。
 だから精一杯に彼には悪魔として振る舞おうと錬は誓いを立てた。
 しかしそんな事情は蓮にしてみれば関係ない。

「……けるな………ざけるな…………ッ……ふざけてんじゃねえぞ馬鹿野郎ッ! てめぇ自分がどれだけ馬鹿なこと言ってるか分かってんのかよッ!?」

 死者蘇生の奇跡に縋って愛する者を生き返らせる? 本当にそんなことが出来ると思っているのか?
 死者は蘇らない。絶対に蘇らない。蘇らせてはいけない。
 墓から這い出てくるのは怪物(ゾンビ)だ。どんなに綺麗事を飾ろうがその事実は変わらない。
 何より――

「死んだ女をゾンビにして蘇らせようなんざ最大の侮辱だろうが!」

 何より許せないのはその一点。他ならぬ錬自身が己の愛した女を侮辱しているというその行為が我慢ならない。

「おまえあの時言ったよな? たとえ世界を敵に回しても守りたい一番大切な女だって。そこまで大切に思ってる奴をおまえは裏切るのかよ! 辱めるのかよ! そいつの人生を否定して踏み躙るのかよ!」
「――そんなわけないだろッ!!」

 蓮の糾弾に間髪入れずに勝るとも劣らぬ怒声で錬は言い返す。
 そんなわけがない。そんなはずがないだろうと。
 フィアは錬にとっての全てだった。今の自分があるのはフィアがいたからこそだ。
 彼女が自分の傍にいなければとっくの昔に罪の意識に自分は押し潰されている。
 彼女は錬の人生にとって確かに罪の象徴ではあったが、しかし同時に初めて世界に生きていることの意味を教えてくれた大切な存在だ。
 天樹錬の人生はフィアの存在なしには成り立たない。
 軽んじているわけがない。穢しているわけがない。踏み躙っているわけがない。
 ただ彼女が死んだということを否定したいだけだ。
 理屈じゃない。そう、これは理屈なんかじゃない。
 もう死んだから、いなくなったから、取り返せないから、諦めろ?
 ふざけるな、そんなこと出来るわけがない。納得できるわけがない。

「死にたくない、助けてって……そう言われたんだ! 約束したんだ! 死なせないって!」

 そのために大罪を背負い、数多の人間すら切り捨てて死なせてしまった。
 こんな所で彼女が死んでしまったら、あの時にそうして切り捨てた人たちの死だって意味がなくなる。
 あの日の選択の、戦いの意味すら失ってしまう。
 そんなことは耐えられない。我慢ならない。
 だから――

「――もういい」

 悲痛な錬の叫びを遮るように、ただ静かに小さく頭を振りながら蓮は言葉を発する。
 声量そのものはそう大したものではない。だが何故かその言葉には有無を言わせぬ迫力が確かに含まれていた。
 錬を真っ直ぐに見つめる蓮の目に映る感情は、悲しみだった。
 そう、蓮はただ只管に今の錬のその姿が、その叫びが、その選択が悲しかったのだ。
 信じていたのに裏切られた……などと言うつもりはない。どんなに思想や立場が似ていようが蓮は錬ではないし、逆もまたしかりだ。
 だからこうして肝心なところで食い違う……悲しいことだがそういった齟齬の発生が許せないほど蓮とて狭量ではない。
 それだけ狂おしいほど天樹錬はフィアという少女を愛している。不謹慎この上ないことだが、それでも今の錬のそれ程の他者へと抱ける強い想いに安心している自分がいるのは事実だ。
 やはりおまえはこんな所で死んでいいような奴じゃない。

「最初に会った時、投げやりだったのもあるけど、おまえに命なんかくれてやってもいいと俺は本当に思ってた」

 氷室玲愛はもういない。
 綾瀬香純も遊佐司狼も本城恵梨衣もだ。
 藤井蓮が自分など度外視してでも守りたかった本当に大切な者たちは、誰一人としていなくなってしまっていたからだ。
 彼女たちを殺した奴らは憎い。許せないし殺してやりたいとも思っている。
 けれど奴らを殺したところで彼女たちはもう帰ってこない。そう悟れる虚しさがあったから投げやりになっていたのだ。

「だからもう何も残ってない俺なんかより、まだ大切なものがちゃんと残ってるおまえを生かしてやろうと思った。
 小っ恥ずかしい話だけどさ、俺はおまえになら俺の命だってくれてやってもいいと思ってた」

 いいや、今でも思っている。
 生き残るべきなのは天樹錬だ。藤井蓮じゃない。確かにこいつの生きてる世界は理不尽で救いようもなく生き辛い所なのだろう。だがそれでもこいつはそこに生きて帰るべきだし、そして懸命に生きて欲しいとも思っている。
 願わくば、彼が心から愛しているその少女と一緒に……

「だったら……僕の優勝の為に、彼女を生き返らせるために――」

 ――死んでくれ。
 そう口にすべき言葉を、しかし錬は躊躇するように言葉を噤む。
 悪魔になると誓いながらも、未だに人を捨てきれぬ甘さが……優しさが確かに彼に残っている証左だ。
 蓮は小さく首を振りながら、しかしはっきりと告げた。

「おまえを生かすために死ぬのなら俺の命くらいくれてやるよ。元から自分で捨てておまえが拾ったものだからな。
 けどな、おまえがおまえ自身の愛を裏切るために必要だって言うのなら、悪いが話は別だ」

 自分でも安い命だとは思っているが、さりとて無価値にして捨てる程にマゾではない。
 それに今自分の命と引き換えにして彼に未来を与えたとしても、その先に錬が歩む修羅道に待っているのは悲劇だけだ。
 他の誰も、錬自身も生き返らせるフィアだって救われない。誰一人救われない道だ。
 だから……ここでおまえに殺されてやるわけにはいかない。

(なぁ先輩。俺の選択間違ってないよな?)

 氷室玲愛を愛している。それは今もこれからもずっと変わることはないだろう。
 天樹錬とてきっとそれは同様だ。彼はフィアを愛している。それは恐らくずっとこれからも変わらないのだろう。
 だからこそ、その愛を穢させたくはない。いつか振り返って罪悪感など抱かさせないように、胸を張ったものであり続けさせたいのだ。
 故に――今からやるべきことは蓮にとっても錬にとっても避け得ることの出来ない道だ。


 覚悟を決めて身構える蓮に対し、錬もまた再びナイフを構えI-ブレインを起動させる。
 蓮の言わんとしていることは正論だ。綺麗すぎるくらいに立派な正論。同じ立場なのにどうしてそこまで頑なにそんな潔癖さを貫けるのか、錬には到底理解は出来ない。
 でも改めて思う。君はもう十二時間も前からこんな一秒だって耐えられないような辛い思いを我慢してきたのかと。これからの一生すらもこんな辛い思いを我慢し続けていくのかと。
 立派だ、強いよ、尊敬できる。皮肉なんかじゃない。君は本当に僕なんかよりずっと誠実な人間なんだろう。
 短い間だったけど、君と相棒として共に道を歩めたこと、君と共に戦えたことは誇りに思う。
 けれど――

「どこにもいないんだ、蓮。フィアはもう、僕の『未来(いま)』のどこにもいないんだ!」

 ――それでも、僕は彼女だけは死なせたくないんだ!


 叫びと同時に錬は動く。運動係数制御デーモン『ラグランジュ』によって運動速度と知覚速度を限界まで加速させた彼の身体は高速の矢と化して狙い過たず蓮へと迫る。
 彼に突き立てんと振るわれるナイフは、今度こそ死神の告死の鎌のごとくに彼を絶命させんとするも――


『形成――時よ止まれ、おまえは美しい』


 短く謳われる宣誓と同時に蓮の右腕より同化して生まれたギロチンがそれを弾き返す。
 そしてそのまま間髪入れずに反撃に転ずるように、蓮の右腕の断頭刃は錬へと向かって迫る。
 錬は咄嗟に分子運動制御デーモン『マクスウェル』を起動。周囲の空気を凍らせて生み出した氷盾を足止めに、そのまま地を蹴り後ろ手に跳躍。一旦距離を取る。
 氷盾を苦も無くバターのように切り裂きながらも、しかし蓮は一旦そこで追撃を中止、そのまま一定に開いた距離にて向かい合う。

 両者共にこれは所詮小手先程度の攻防。されどこのやり取りが発生したという事実は、もはやここから先の血みどろとなろう闘争が不可避であることの証明とも言えた。
 身構え睨み合う両者。言葉はない。もはや万の言葉を語り尽くしたところでそれでは互いを納得させることも止めることも出来ないのは悔しいほどに理解していたが故に。
 だから、もう言葉は要らない。少なくとも錬の側はそう思っていた。だからこそ口を開くこともなく無言のまま、再度こちらから仕掛けるべく動かんとしたその時だった。

「なんでだろうな。けど分かるんだ。自分の女が死んじまった時の悲憤がさ。
 だから来いよ、錬。お前の愛を、俺の宇宙に刻んでみせろ!」

 他ならぬ蓮の方からかかって来いなどと言ってくる。
 その言外に込められた想いは錬とて察せられないはずがなかった。
 俺はおまえを認めない。けれど――おまえからは逃げない、と。
 事ここに至ってすら、蓮は錬という少年のことを自分の人生から切り捨てずに諦めようとはしていなかった。
 君は本当に大馬鹿者だ。錬はやはり必死に堪えていた泣き笑いを抑えることも出来ず。
 けれど脳裏に過ったこれまでの彼との十二時間の想い出の全てを、静かに破棄しながら。
 無言でなんかいられなかった。取り澄まして冷静に振る舞うなんてとてもじゃないけど出来るわけがない。
 自分でも言葉になってないような無様な叫びを上げながら、錬は蓮へと向けて刃を構えて駆け出した。

 ――いったい僕らはどんな道を選んでいれば、こんなにも哀しい思いを抱かずに済んだのだろうか?


 マリィとの繋がりを断たれた断頭刃。だがそれでも自分の魂と渇望を燃料に込めれば戦うための術くらいにはなる。
 ……尤も、対象はよりにもよって一番このギロチンを向けたくない相手だったのだが。
 運命の皮肉を呪い殺したくなるような激情を抱くままに、藤井蓮は疾走する。
 位階は形成のまま。創造は使えない。確かにあの魔城での決戦で蓮は既に強制的に位階を引き上げられている。本来ならば彼にとっての創造の完成形でもある『涅槃寂静・終曲』すら自在に使いこなせるはずだ。
 だが現状、それは出来ない。戦闘は不可避とはいえ蓮の目的はあくまでも錬を止めることにあり、殺害ではない。アレは殺さぬように加減して使うものではないし、そもそも加減などという器用なことは蓮には最初から出来はしない。
 それにそもそも大前提としての現実……マリィ不在であり制限がかけられている現状、使用するという気に例えなろうとも物理的に使用できない。
 だから創造はそもそも切り札として成立すらしない使えないカードだ。
 ならば形成のまま戦い続けられるのか……そう問われても、これも是とは決して言えなかっただろう。
 事実、戦闘が開始されて既に幾ばくかの時間は経過している。だが終始圧されているのは蓮の側の方だ。
 蓮のエイヴィヒカイトの分類は人器融合型。即ち、聖遺物とその身を一体化させることで他にはない爆発力を生み出す戦闘に特化したタイプだ。
 しかしその反面、このタイプが戦闘において求められる資質は二つに一つ。
 聖遺物を完全に掌握し飼い馴らすか、あるいは手綱そのものを放棄して破壊衝動に身を委ねるか。
 今の藤井蓮はそのどちらにも該当する戦い方が出来ていない。要するに半端だったのだ。
 事実、それは彼の戦闘の動きからも如実に現れていた。
 疾走し間合いを詰め振り抜く断頭刃……だがその動きは往時のものに比べればあまりにも遅く、そして何よりも精彩を欠く。
 かつて世界最強とも目された『騎士』との戦いの経験がある天樹錬から見てみてもそれはお粗末に過ぎる。
 未来予測を用いるまでもなく回避。振り抜いた一撃が空振りに終わった勢いを殺しきれず無様に体勢を崩す蓮の姿……隙だらけだ。
 反撃は容易だった。それこそ『ラグランジュ』で強化した身体能力でナイフを振り抜き防御の空いた蓮の胴を切り裂く。
 咄嗟に蓮は無理矢理に地を蹴り後ろへと飛んでそれを躱す。だが遅い、薄皮一枚とはいえ逃れ切れずに錬の刃は蓮を切り裂く。
 鮮血が飛び散り、蓮からくぐもった呻き声が漏れる。良心を殺した錬はそれを無視したままに『マクスウェル』を起動。生み出した数多の氷槍を後退する蓮へと追い打ちをかけるように解き放つ。
 向かってくる無数の氷槍を蓮は振り払えるものは断頭刃で払い、凌ぎ切れぬものはその場から飛んで躱そうと動く。
 しかし蓮が咄嗟に飛んだその方向、そこに既に回避コースを読んで先回りしていた錬が待ち構える。
 振り抜いた錬の蹴撃がタイミングが合わさるように向かってきた蓮へと迫り、そのまま見事に直撃し吹き飛ばす。
 地面を数バウンドして転がりながらも蓮はそれでも素早く起き上がる。だがその眼前にはピタリと錬のナイフが据え置くかのように突き付けられていた。

「……これで分かっただろ、蓮。どんなに足掻いても素人の君じゃ僕には勝てない」

 淡々と現状の力関係を告げる錬の言葉はただただ無慈悲だ。
 素人……天樹錬は藤井蓮のことをそう評してみせたが、しかし実際はその言葉の通り。
 そもそも戦闘経験に天地の開きがある。天樹錬は肉体年齢はともかく実際は齢九つが精々の人生。されど十にも満たぬ人生などと侮るなかれ。
 彼は魔法士としてのその銘は『原型なる悪魔使い』。情報制御理論創始者の一人である天樹健三がその人生の最後に己が持つ技術の全てを費やし生み出した最高傑作。すべての魔法士の雛型にして最終形たる最強の魔法士だ。
 その身に秘めて生まれた彼の能力は必然として彼を戦いへと導いてきた。双子の兄妹と共にシティ・モスクワ軍から追われ続けながら安住の地を求め世界中を旅した戦いの日々。
 漸く手に入れた人としての居場所。そこでの人間らしい生活を守るため滅びに瀕した争乱の世界で便利屋業を営み生き抜いてきたこれまでの人生。
 潜ってきた修羅場の数は、命のやり取りの数は、十七、八が精々のこれまで平和な世界で平穏な日々を過ごしてきた藤井蓮の比ではない。
 素人に気概やその場の勢いだけで覆されるほどに錬の戦闘の玄人としての積み上げてきた全ては容易なものではない。
 これまでの攻防だけでここまで一方的に圧倒され、既に蓮とて嫌というほど理解できたはずだ。
 だが――

「……喧嘩が強いのがそんなに誇らしいか?」
「――ッ!?」

 眼前でナイフを突きつけられながらも、これだけの実力差を見せられても、真っ直ぐに錬を睨みつけながらそう問いかける蓮の言葉には臆したような響きは一欠片もなかった。
 実際、そんなことは改めて言われなくとも蓮自身が理解していたことだ。
 聖遺物の使徒だのツァラトゥストラだの何だのと言われたところで所詮己など単なる餓鬼だ。これまでずっと普通の人生を過ごしてきたし今だってあの普通の日々に帰りたいと思っている。
 たかだか数週間ばかり人間離れした化け物どもと殺し合いを続けてきただけで、それが歴戦の強者へと己を変貌させただとかそんな都合の良いようなことがあるはずもない。
 不良と殴り合いの喧嘩をする程度ならいざ知らず、戦場で対峙した敵をいかに効率よく的確に殺せる術だとかそんな知識や経験を有しているわけでもない。
 命のやり取りという殺し合いにおいて藤井蓮は未だ若葉マークも取れていない若輩者も同然だ。
 そんなことは誰に言われずとも蓮自身が理解しているしそれで良いとも思っている。

「殺し合いに長けているのがおまえの自慢か、錬?」
「……れ」

 痛くて、怖くて、胸糞悪くて……自分が絶対になりたくない様な姿を相手にさせることが、

「俺たちの惚れた女がさせられたような姿を他人に押し付けるのが、そんなに今おまえがやりたいことなのかよッ!?」
「黙れッ!」

 睨み付け吐き捨てるように叫んだ蓮の言葉に、錬は叫び返しながら思わず感情の爆発に身を任せてナイフの柄で蓮を殴り飛ばしていた。
 殴打された蓮は為す術もないように無様に地面へと転がっていく。錬はその軌跡を追いながら湧き上がる感情を必死に抑えつけようとしても、けれど我慢が効かずにそれが出来ない。
 癇癪持ちの子供でもあるまいし、取り乱すことが余計に自らを更なる無様さへと追い込んでいるのを自覚して尚、それでも錬は止まれない。

「喧嘩が強いのが自慢? 人殺しが上手いのが誇らしい? ああ、そうだよ! 僕が生きてきた世界を何も知らない君に何が分かるって言うんだよ! そうしなければ生きていけなかったんだ! そうしなければ大切な人を守れなかったんだ! だったら他にどうすればいいって言うのさ!?」

 生きてきた世界が違う。だから決して理解されない。そんなことは承知の上で、しかしそれでも他ならぬ蓮にそんな風に言われることが堪えられなかった。
 何故? 既にこうまで決定的に訣別している相手にどう言われ、どう思われようがそんなものは今更関係ないはずだ。
 頭では冷静に理解しているはずなのに、心ではどうにも割り切れないこの不明瞭な何かを必死に振り払おうとするかのように足掻く自らに錬はどうしようもないほどの苛立ちを感じていた。

「僕は君みたいに我慢強くないんだよ! 冷静に大人ぶって何でもかんでも割り切れるもんか!」
「……勝手に人を買い被ってんじゃねえよ」

 殴られ甚深と痛む頭を顔を顰めて押さえながら、蓮はダメージと疲労が色濃く残った身体を起き上がらせ錬へと言い返す。
 我慢強い? 割り切ってる? 本当に冷静に大人ぶってそんなことが出来るなら最初からこんな身を斬るような痛みを伴う喧嘩をおまえとやるわけがないだろうが。

「なあ錬、そのフィアって少女のことが好きか?」

 唐突な問いに思わず追撃をかけようとしていた錬の動きが止まる。
 出ばなを挫かれたという事実と、愚問としか思えないその言葉に錬はますます苛立ちを抑えきれない。

「……答えるまでもないだろ」
「答えられない程度の想いってことかよ」
「ッ!? そんなわけないだろ!」
「だったら答えてみろよ! 声に出して言ってみろよ! おまえはフィアをどう想ってるんだよ!」

 いったい何だと言うのか? 彼は自分に何と言わせたいのか。そもそもそんなことを言わせてどうしたいのか。
 錬にはまるで蓮の意図が分からない。下手な時間稼ぎでもしたいのか、最初はそうも思い問答無用で仕掛けようかとすらも思ったが、けれど蓮の思惑はそんなものでないことくらいは彼の態度を見ていれば直ぐに分かった。
 だからこそ解せないのだ。藤井蓮は本気でこの殺し合いの真っ最中に天樹錬に何を言わせたいというのか……

「人には恥ずかしくて言えないのかよヘタレ野郎。……だったら手本代わりに俺がどう言えばいいか教えてやるよ。
 惚れた女への告白ってのはこう言うんだよ。――俺は先輩が好きだ。今でも氷室玲愛を愛してる!」

 恥ずかしげもなく唐突に自らの告白をぶちまける蓮。錬にはとても彼の考えが理解できない。それは今更この局面で言うようなことだというのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい、ふざけている。これは殺し合いだ。生きるか死ぬかを懸けた命の取り合い。男と男の勝負の中で何を軟弱なことを口にし出すというのか。
 そう厳しく切り捨てようとする反面で、しかし同時に錬の胸中にある何かが何故か疼いていたというのは事実だ。
 ヘタレ呼ばわりへの苛立ち? ああも堂々とあんなことを口にできることに対しての真っ直ぐな想いの強さへの憧れ?
 そういった一点において、天樹錬は藤井蓮に大きく劣っていると?
 ……違う、そんなはずがない。そんなわけがない。実際の力関係だとかそんなものすら度外視するレベルでそれだけは彼には負けてはならないのだと錬は本能的に思った。
 だからこそだろう。

「時よ止まれ、君は誰よりも美しいから!」
「僕だって、僕だって好きだった。理屈なんかじゃなくて好きだったんだ!」

 割って入るように蓮の口上に対してそう言い返す。失ってしまった最愛の『天使』への想いを、彼は口にする。

「だったじゃねえ、好きなんだろ! ならその刹那をお前自身に刻み込め!」

 錬の口上に対し応えるように蓮が再びそう言い返す。
 見失うな、おまえの愛の本分はどこにある。それは本当はどこに向かうべきなのかと。
 同じ愛する者を失った者同士。今でもその愛する者への愛を失わぬ者同士であるからこそ、蓮は錬へとそう呼びかけてくるのだろう。
 この刹那、鉄のように固めたはずのその覚悟が揺るがなかったかと言えば……恐らくそれは嘘になるだろう。
 ずるいよ、蓮。やっぱり君は本当に強いじゃないか。少なくとも僕よりは何倍も誠実だ。
 泣き笑いの苦笑が濃くなる。それを見られたくなかったからこそ『ラグランジュ』を発動し強化した身体能力にものを言わせ一気に蓮の背後へと回り込む。
 これ以上、言葉は要らない。これ以上言葉を交わせば本当にせっかく固めた鉄の覚悟すらも揺らぎかねないから。

 仮想精神体制御デーモン『チューリング』を発動。
 金属製の床の一部を巨大な腕へと変貌させ、蓮が立っているその地点を薙ぎ払わせる。
 蓮は咄嗟に薙ぎ払われる腕をギリギリの間合いで回避し、そのまま右腕のギロチンを振るい逆に巨腕を斬り落とす。
 しかしそれを見計らうように既に錬は次手へと移っている。金属腕を囮に間髪入れずのタイミングで『マクスウェル』で作り出した氷槍の群れを蓮目掛けて射出する。
 今度は咄嗟に回避できるタイミングではなかったからこそ、蓮はそのギロチンを振るい真っ向から氷槍の群れを薙ぎ払い砕き散らす。
 ……しかしここまで全て錬の読み通りの流れである。
 起動中のI-ブレインによる命令は単純だった。氷槍を生み出すために空気から奪い去った熱量をそのまま今度は一点に凝縮し膨張させる。
 「炎神」と呼ばれる錬の得意とする水蒸気爆発が発生。蓮を爆心地の中心と捉え、空間が――爆ぜた。



 爆発の余韻はそれこそほんの一秒足らず。小規模とは言え空間に残る振動の余韻はそれが決して生半可な威力でないことを物語っていた。
 開けた視界の先……もはやそこに残るものは何もない。
 蓮は先の爆発に巻き込まれ跡形もなく消し飛んだ――そう、結論付けようとしたその瞬間だった。
 念のためと起動しておいた未来予測デーモン『ラプラス』が警告を発する。
 危険信号の先は頭上。咄嗟に見上げた錬の視界には天高くから落下してくる蓮の姿が映った。
 あの瞬間、咄嗟に上空へと跳んで爆発を躱したというのか。信じられぬその事実に歯噛みしながら落下と同時に振り下ろされてくる蓮のギロチンを錬は地を蹴って回避する。

「……今のは流石に死にかけたな」
「しぶといよ。今ので死んでくれてればこっちの手間も省けたんだけどね」

 錬の憎まれ口に蓮はぬかせと言い返す。
 再び身構えるその姿勢は、相変わらずに腰だめに刃を構えて振り抜くスタイル。

「馬鹿の一つ覚えだよ、蓮。君がどんなに速く動こうがパターンを読めてる限り僕には通じない」
「生憎とおまえと違って俺は手を変え品を変えて戦えるほど器用じゃないんだよ。そもそも俺のギロチンは戦うための武器じゃない」

 知っている。それは罪人の首を刎ねる為の刑具だ。一点の目的にしか使えない、その為だけに生み出された凶器だ。
 それを承知しているからこそ、なれば彼は死刑執行人で、自分は悪魔に魂を売り渡した罪深き咎人かと苦笑する。

「僕の首を刎ねる為の刑具だろ。でも生憎と僕は君にくれてやる首はないよ」

 少なくとも優勝してフィアを蘇生させるその時まで、錬は誰にも負けるつもりも殺されるつもりもない。
 蓮にどれだけ説得されようと、どれだけ脅されようとも、もはや決して揺らぐつもりはない。
 そう頑なな態度で示す錬へとしかし蓮は馬鹿野郎と呟きながら首を振る。

「勘違いしてるみたいだから言っとくけどな、俺はおまえを殺すつもりなんてねえよ。……ただ、おまえを止めたいだけだ」

 このギロチンは今はその為だけに使っている道具だと蓮は言ってくる。
 どこまでも甘く、どこまでもしつこい。錬は心底そう思う。

(フィア、見てるかい。僕の友達だったこの男は……やっぱりどうにも手強いよ)

 何故か誇るように言ってしまいそうになる自らを戒めながら、もはや脳裏に思い浮かべるのみしか存在しない最愛の少女へと錬はそう告げていた。
 脳裏のフィアはただただ悲しげだった。そこには錬が本当に大好きで見たかったはずの彼女の笑顔はなかった。
 胸が途方もなく痛んだが無理矢理に飲み込んで我慢する。その理由を考え過ぎればきっと自分は立ち止まってしまって、そして二度とは再び進めなくなりそうだったから。


 とは言え、状況は芳しくはなかった。
 当然だ、終始相手に押されっぱなしだ。諏訪原での黒円卓との戦い以降、常に劣勢だったのだからいつの間にか逆境には慣れた身ではあるが、しかしそれでもやられっぱなしは心情的に性に合わない。
 しかし藤井蓮の最終的な目的は天樹錬への勝利ではない。殺さずに降し改心させられるならばそれはこの上もない理想の結末だ。
 されどそうそう甘くないのは未だ頑なな眼前のこの馬鹿野郎の様子を見ていれば明らか。
 言葉が決して届いていないわけではない。諦めない蓮の呼びかけは確実に錬の心に揺さぶりをかけている。それに間違いはない。
 問題は結果がまだそれに追いついてきていないということ。そしていい加減に素人の悪足掻きも段々となりふり構わなくなってきている玄人の猛攻に対処し切れなくなりかけているということだ。
 本格的にヤバいのだろう。絶体絶命の窮地はそれこそ今までの戦いでも幾らでもあった。それこそ、今の錬以上の化物に追い詰められたことだってある。
 けれど今回のこの窮地は今までのものとは違う。本能的に分かるのだ。今度は本当に誰も助けてくれない、と。
 ……マリィが不在であるという事実。自分が今まで如何に口では何だかんだと言いながらも彼女に頼っていたのだという事実を実感する。
 後悔など後の祭りだ。けれど今更ながらに彼女に礼を述べ、謝りたいとも思っていた。
 今でも彼女はあの黄昏の浜辺で一人泣いているのだろうか……そう思ってしまえばやるせなく、なんとか彼女を救ってやりたいとも思っていた。

(なあ香純、おまえならどうする? やっぱりこのまま諦めずに意地でもこいつを説得してみせるか)

 あのバカなら本当にやり遂げてしまいそうにも思えた。何だかんだで仲間内で一番心が強いのはあいつだ。ならばこういう場面でも決して諦めることなく意地を通してしまうだろう。
 自分にも香純のようなことが出来るか……正直、分からなかった。

(だから司狼、それから本城も……おまえら上手い知恵でも俺に貸してくれよ)

 頭の回るあの悪餓鬼どもならここからでも起死回生の一手くらいは思いつくだろう。諦めの悪さならあのバカどもの右に出る者はいないはずだから。
 自分にも司狼や恵梨衣のようなことが出来るか……正直、分からなかった。

 結局、ないないずくしのジリ貧だ。本格的なピンチとはまさにこのことだ。
 笑ってしまいたくなってくるような状況だったが、実際笑えるはずもない。
 最後まで諦めるつもりは毛頭ないが、それでも手詰まりを感じているのは事実だった。
 ……もし、もしここで死んだら、あの世で先輩に逢えるのだろうか。
 不意に考えてしまったその思考を蓮は振り払った。そんな後ろ向きで情けない考えはきっと彼女が好むものではないから。
 彼女が惚れてくれた藤井蓮という男は、諦めの悪い馬鹿な男のはずだったから。意地を優先して最後までそれを貫こうと強がってばかりの男だったはずだから。

(カッコ悪くなってよ、か……けどさ先輩、もし俺が本当にそんな逃げ出しちまうような情けない男なら先輩は俺を好きになってくれたのか)

 きっと違うと思う。諦めて逃げ出して、強がることも意地を貫くことも出来ない様なそんな男だったなら、氷室玲愛はきっと好きになどなってくれなかったはずだ。
 最後まで彼女が好きになってくれた男としての矜持くらいは貫きたい。今でも彼女のことを愛しているからこそ、それが自分なりの彼女に対しての礼儀だとも思っていた。
 真実はたった一つ。なくしてはならない光(せつな)がある。
 俺が本当にやるべきこと。本当に守らなければならないもの、本当に救わなければならないものは――



 ただただ解せないという思いだけが少年の胸中を駆け抜けていた。
 いったい何故? どうして?
 単純な疑問。明らかに道理に合っていないはずの現状へとそう投げかけずにはいられない。
 天樹錬は未だ続く戦闘の最中において、戦闘とは別に割り振ったその思考の中でその謎に対する答えを見いだせずにいた。
 それも当然と言えば当然だ。少なくとも、客観的に見れば誰もがそれへと思い至り首を傾げるはずなのだ。

 ……何故、殺せない?

 湧き上がる疑問とは即ちそれ一点。既に幾ほどの時が戦闘開始から流れて尚、未だにその結果へと到達していないこの現状へと対して向けた単純な疑問だった。
 身体能力強化によって振るわれる刃閃の数々。窒素結晶による槍とそれに伴う水蒸気爆発。ゴーストハックにより形成され振るわれるコンクリートの巨腕による暴威。空間歪曲によって生み出された重力場。
 そのどれもが必殺であって然るべき。少なくとも往時の己が殺意をもって行使したならばそれを逃れえる者など世界と言う規模で数えてすら数人しかいないはずだ。
 ましてやフィアを蘇らせる大義を背負い、総ての参加者を鏖殺してみせると誓った今の己ならば尚更のはず。
 加え彼我の実力差は素人と玄人のそれだ。子供と大人の実力差などという陳腐なもの以上に覆せる道理などというものがないはずの絶対的な力関係。
 ならば藤井蓮が天樹錬に殺されるは必然。速やかにその結果へと至らなければ計算そのものが間違いであるということになってしまうはずだ。
 しかし事実として、そう至っていない結果としての光景が今も眼前にはある。
 躱され、あるいは防がれる攻撃の数々。幾度も傷を与えているがしかしそんなものは必殺を誓って放ったはずの攻撃の結果としては見合うはずもない微々たるものでしかない。

 ……何故、殺せない?

 必然、疑問は円環の如くそう繰り返される。
 天樹錬は藤井蓮に勝っている。少なくとも戦闘と言うこの分野においては劣る部分などというものは何一つ見いだせないはず。それぐらいにスペック差は明らかなのだ。
 ならば何故だ? 何故必殺の攻撃の数々は未だ空を切り蓮を捉え切れないというのか。
 道理に合わない。理屈が通らない。魔法士としてこの現状は到底容認出来るはずがない不可解な事態だ。
 故に錬の胸中において疑問は尽きない。答えの見い出せぬこの不可解さはいっそ恐怖と言って良いくらいに錬にとっては恐るべき未知だ。

 ――だがそれは本当にそうなのか?

 不意に投げかけられたのは己の内から湧き出た己へと向けたそんな疑問であった。
 それこそ何を……しかし自問自答になる滑稽さは自らでも自覚しながらも、それでも錬はその疑問を振り払えなかった。
 因果関係。起こった結果にはそこへと至る必然となるべき原因が必ずある。
 一方向から答えが見えないというのなら……それは視点を変えることにより見えてくるものもある。
 即ち、その原因とはむしろ藤井蓮ではなく天樹錬に――

「――ッ!?」

 一瞬、思い至ったその解答。愚答であると即座に破棄しかけるも……しかし、それこそが道理に合っているならば否定は出来なくなる。
 そう、それは即ち――



 生き残るべきは天樹錬の方だ。藤井蓮ではない。
 捨てた命と拾った命。ならばそれがどちらが優先されるかなど考えるまでもない。
 大前提を変えてはならない。なによりあいつは確かに一番大切なものを失ってしまったが、それでも大切な他のものまで全て失ったわけではないのだから。
 天樹錬にはまだ家族が、友が、仲間が――帰るべき陽だまりはまだそれでも残っているのだから。
 自分の命と引き換えにそんな大切なことを忘れているあの馬鹿に、それをしっかりと思い出させてやる。
 割に合わない? そうでもないさ。安くはないが高すぎるわけでもない。
 あいつがそれで目を覚まして自分の代わりにこのクソッタレな殺し合いの主催者共を斃してくれるなら、それだけで自分や先輩たちの溜飲だって下がるってものだろう。
 主人公はおまえだ、錬。だから俺は代わりに命を懸けておまえに主役の矜持を思い出させてやる。
 こんな最低の殺し合いで、それでも俺がおまえと出会えたことに意味があるっていうのなら……きっと、この刹那の選択こそがその為だったのだと信じているから。
 故に今の蓮に恐怖も迷いもなかった。数秒先に訪れるであろう自らの末路を予見して、されどそれすら納得したように受け入れながら。
 全身に力を込め、過去最速の疾走をもって駆け抜ける。
 唯一無二と最後に認めた相棒へと、己のすべての想いを託すために……



 要するに、天樹錬が藤井蓮を殺せなかった理由など思い至ってみればたった一つのことでしかない。
 死なせたくない……そう、彼のことを死なせたくはない。その思いを未だに捨て切れていないということだ。
 何たる矛盾だろうか。最愛のフィアを生き返らせるために全てを捨てるとまで豪語し決意を示しながら。
 結局の所、天樹錬は最初の一歩たる相手……最も初めに切り捨てるべきはずだったこの眼前に迫ってくる青年を切り捨てられなかったということなのだ。
 何たる無様、何たる裏切りだろうか。真にフィアを愛し想うと言うのなら、これぐらいのことは躊躇せずに出来て然るべきはずだったというのに……
 それが出来ない。どうしても出来ないというその事実に――今、彼は唐突に気づいてしまったのだ。
 否、違う。唐突に気づいたのではない。薄々自覚しながらも気づかぬように誤魔化し続けていた自らの本音から、彼もとうとう目を逸らせなくなっただけということに過ぎない。
 十二時間……一日にも満たない僅か半日。フィアと過ごしてきた時間も密度もその比ではないはずなのに。
 だがそれでも……
 だがそれでも――

(……そうだよ、決して軽いものじゃなかったんだ)

 最初に出会った時にはこの世の終わりみたいに絶望して、それこそ放っておけば何処かで野垂れ死んでいたのではなかろうかと思うほどに危うかった。
 自分でもお人好しだとは分かっていた。背負い切るには重たい事情を持っていて、それこそ付き合うには苦労しそうな相手だと、そう直感的に悟るには充分過ぎる相手だった。
 それでも見捨てられなかった。放っては置けなかった。何故だろう……けれど、それは口で説明できるような理屈ではなかったから。
 ただあの時、確かに思ったのだ。ここで自分がこの青年を見捨ててしまえば、彼はきっともう助からない。
 誰かに殺されるだとかそういう状況的な意味以上に、擦り切れる寸前に見えた彼には手を差し伸べて救ってやらねばならない誰かが必要なのだとそう思ったのだ。
 何もかもを奪われた独りぼっちの糸が切れた人形。……あの時の天樹錬には藤井蓮がそのように見えた。
 声をかけたのは、手を差し伸べたのは、きっと理屈じゃない。
 ただそうしなければ自分自身が納得できなかったから。それだけの理由で自分は彼へと手を差し伸べたのだ。
 そこから先の交わした言葉も約束も、すべて憶えている。
 憎まれ口を叩き年上風を吹かし、おまけに自分からは決して折れようとしない頑固者。
 精神年齢はそれこそこちらの方が上なんじゃなかろうかと呆れる程で、十四歳くらいの思春期で頭が固まってるんじゃなかろうかと言ってやりたくなるくらい……要するに、人付き合いに問題ありと判子を押せそうな不器用な性格。
 僅か十二時間ばかりの付き合いではあるが、それでもこの藤井蓮という人物の駄目な所を十個上げろとでも問題を出されれば、多分答えることは可能だろうとそう自分自身でも自信がある。
 それくらいの付き合いはしたのだ。背中を預け命懸けでここまで一緒に戦ってきた。大切な相棒、かけがえのない友達。
 ……多分それは嘘じゃない。

 結局の所、それが嘘ではなかったから。それが決して軽くなどなかったから。
 だから切り捨てられない。そう結論付けて立ち止まってしまった自分がいるのだと天樹錬は静かに受け入れる。
 彼が自分のことを刹那と思ってくれたのと同様に、自分にとっての彼もまた刹那だったのだ。
 フィアと蓮、どちらが大切か?……いいや、これはそういう理屈の取捨選択じゃない。
 彼女を重んじ、彼を軽んじれば、或いは望みは叶うのかも知れないが、されどその先の未来で二人一緒に笑っていられる幸せな光景などやはりどうしても見えなくて。
 彼を重んじ、彼女を軽んじれば、この殺し合いの打破が叶ったとしても、帰還した元の世界で彼女がいないこれからなんてやはりどうしても耐えられそうになくて。
 出口のない袋小路。嗚呼、結局は彼女を失ったあの時からもはや此処より脱け出す術など自分にはなかったのだ。
 それに気づいてしまったから、それをもう誤魔化し続けることが出来なくなったから――



 ――そしてここに、神候補と悪魔使いの戦いは終結を見る。

「………れ、ん………?」
 ただただそれが自身の口から発せられた間の抜けた呟きとなっているということに、藤井蓮は気づいてすらいない。
 けれどそれは仕方のないことだ。そんなことが些細なことと思えるほどにただ目の前のこの状況の方が信じられなかったのだから。
 右腕と一体化している断頭刃。過去最速の速度をもって駆け抜け振り抜いた生涯最後と自らで覚悟したその一閃。
 いかにそれがどれほど速かろうとも、所詮は直線的な軌道の読め切った単調な攻撃。ならば歴戦の技量を誇る天樹錬ならば苦も無く躱すであろうと……歪ではあろうがそんな信頼を相手へと預けて蓮は刃を振り切ったはずだった。
 攻撃を躱され、何がしか来るであろうカウンターで致命傷を避け切れない。そう、これはそういう結末に至るであろう決まりきったお約束のはずだったのだ。
 それを受け切ってあいつを捕まえて、馬鹿野郎とビンタの一つと説教でも食らわして目を覚まさせる。
 頑固で意地っ張りな奴だから上手くいくかどうか確かに賭けだけど、それでも俺の命はその為に使うのならば充分に価値はあると思っていた。
 なのに……それなのに……
 それが何故……どうして……?

「……なんで、おまえ……躱さなかったんだよ……?」

 訳が分からない。こんなことはありえない。ありえるはずがないというように呆然と地に膝をつきながら、そんな言葉を呟く他になかった。
 目の前に転がる、首と胴体の別たれた天樹錬の亡骸を見つめながら。
 今の彼はまさに呆然自失と呼ぶ他になかった。




 ”―――みんなを幸せにしたかった。でも、本当は僕が、フィアを幸せにしたかったんだ。”

 あの刹那、聞こえるはずもないそんな錬の言葉が確かに聞こえた気がした。
 我武者羅の疾走と共に振り抜いた一撃。勢いに乗ったその一撃は何故か目の前で動こうともしない錬に驚きながらも今更に止められるはずもなく。
 それは本当に一瞬で、残酷な程に呆気なく。
 まるで包丁を使って野菜を斬るほどの労苦すらないほど容易に、天樹錬の首を切断してしまった。
 ふざけた光景だった。とてもではないがその現実に対して理解を拒絶するほどに目の前が一瞬で真っ白になって。
 そして気づけば……今のこの様だ。
 俺は何をしている?……いいや、俺は――何をやった?
 自分がしてしまったことの結果。取り返しのつかない結末を拒絶するように強く頭を振ったが、結局、視線の先で目があった錬の頭部を前に強制的に現実へと戻される。
 目を逸らす……そんな行為が許されないことを嫌でも思い知らされた。
 思わず、渇いた笑いが漏れる。それが自分の内から出ていることにすら暫く気づきもせず、数分の内にそれすら力なく続くこともなく呆気なく止まってしまった。
 視界が霞むように悪く、何かが目から流れて頬を伝っていた。吐きそうなくらい気分が悪くて、いっそのこと大声で言葉にすらならないであろう感情の猛りを喚き散らしたかった。
 けれどそれを結局はグッと強く無理矢理抑え込み、蓮は地についていた膝を立ち上がらせ、覚束ない足取りのままに胴から離れ少し遠くに転がっていた錬の頭部の元へと向かった。
 かつて人体の一部であったはずのそれは、しかし本体の五分の一程度の体積や重さもなく、抱き上げればそれこそボールのように軽かった。
 服が血で濡れたが構うものか。元より錬との戦闘で出来た傷や血で酷いありさまだ。だから躊躇はしなかった。
 切断された頭部の死に顔は何かを諦めるかのような泣き笑いじみたもので……思えば終始戦闘の間こいつの表情はずっとこんな調子だった。
 こんな似合わない辛い表情するくらいなら最初からこんな馬鹿なことするんじゃねえよ、そう毒づきたい思いがあったが死者に暴言を吐くのは憚られたため直前で言葉を呑み込む。
 けれどやはり、それでも我慢できないことというのはあるわけで……

「……おまえは……大馬鹿野郎だ……ッ」

 自分の声が無様な程に震えていたのは嫌というほど理解できた。きっと今の自分の顔はこの錬の死に顔以上に酷いありさまなのだろうということは容易に想像できる。
 しかしそれすら振り払って、蓮は錬の頭部を大事に抱きかかえながら彼の残る胴体の元へと歩いていく。
 天樹錬は死んだ。そして死んだ人間は決して蘇らない。ならばせめて心安らかに眠れるように弔ってやらなければならない。
 埋葬するために適度な場所を見繕う。墓を作るための道具の探索。やるべきことを頭の中で順番に整理しながら、あくまで冷静に振る舞おうとしながら自らを保とうとしている自分自身を死ねと呪った。
 俺は生きている人間のことしか考えない。確固たる厳然な理屈(せんたく)をこそ疑ってはならない。……そんな強がりにまだこの期に及んで拘泥している自らに失望を抱きながら。

 ……けれど、それすら捨ててしまったらもう俺には何も残らないのは分かっていたから。
 ここでそうやって立ち止まってしまえば、多分二度ともう再び立ち上がって歩くことは出来ないであろうことを理解してしまったから。
 最低でも無様でも、いっそ冷酷で人でなしだろうと構わない。
 氷室玲愛の死を意味が無いものにしてはならない。
 天樹錬の死を意味が無いものにしてはならない。
 俺が愛したあいつらの奪われてしまった人生を、クソッタレ共のふざけた玩具になど絶対にさせないために。
 このふざけた殺し合いだけは意地でも壊す。主催者共は必ずこの手で殺す。
 ……無能で役立たずの、生きている価値もないような馬鹿野郎の後始末はその後に必ず付けるから。
 だから――今だけはここで生き恥を曝してでも足掻き続けてやる。
 怒りと憎悪を支えとして藤井蓮は反逆の為の一歩を歩み始める。その先に残るものなど何もないと自らですら理解しながらも。
 それでも歩き続けるための理由になる何かが、彼には必要だったのだ。


 不意に、無人の街並みであるにも関わらず耳が拾ったのはまるで何処からかBGM代わりにでもするように流されている一つの歌だった。
 耳を傾けている余裕など今の蓮にはあるはずなどなかったのだが、それでも聞き逃すことなく思わず聴いてしまったのはその歌があまりにも綺麗だったからだろう。
 耳に響く澄んだ歌手の歌声もさることながら、何より希望を信じるその歌詞は愛する者を尊ぶかのようなものであり――

「……それでも世界は美しい、か」

 ああ、そうだとも。世界は美しい。本当に愛する者さえ生きて傍にいてくれさえすれば、時間だって止めてしまいたいと思える程に。
 多分そういう世界が俺にとってのパーフェクト・ワールドってやつだったんだと思う。
 けれど結局は、もうそれは元には戻らない。奪われた自分の世界が完全なものに戻ることは二度とない。
 当然だ。氷室玲愛も綾瀬香純も遊佐司狼も本城恵梨衣も彼にとっては唯一無二、そこに代わりなどありはしないのだから。
 そしてそれは……天樹錬とて同じだ。
 二度と戻らない愛しい者たち。けれどそれでもかつて彼らがいて完璧だった世界のことを蓮は憶えているし、この生涯で二度と忘れるつもりとてない。
 あの麗しい刹那に泥を塗らないその為に。命を捨ててでも戦う意味も覚悟もあるはずだと蓮は信じていた。




【一日目/日中/×―×】
【藤井蓮@Dies irae】
[状態]:全身に負傷(中)、精神的疲労(大)
[装備]:××
[道具]:××
[思考・行動方針]
 基本:必ず殺し合いを破壊し主催者共をこの手で殺す
 1:まずは錬の遺体を弔う
 2:マリィはここにいるのだろうか……?
 3:ラインハルト・ハイドリヒはこの手で必ず殺す
 4:殺し合いに乗った参加者は容赦しない
 5:誰かを失うのはもうたくさんだ
 6:ヴァ―ミリオン・CD・ヘイズを探す?

[備考]
 ※参戦時期は氷室玲愛ルートにおける魔城脱出後から
 ※天樹錬との情報交換でウィザーズ・ブレインの世界観についてある程度把握しました
 ※能力制限に気づきました


【天樹錬@ウィザーズ・ブレイン:死亡】
【残り87人】

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最終更新:2014年10月27日 05:19