若松城 (わかまつじょう) | |
所在地 | 会津若松市追手町 |
別称 | 鶴ヶ城、黒川城、東黒川館、小高木館、小田垣城、小田山城 |
築城年 | 元中元年(至徳元・1384) |
築城者 | 蘆名直盛 |
城主変遷 | 蘆名氏(1384-1589)-伊達氏(1589-90)-蒲生氏(1590-98)-上杉氏(1598-1601)-蒲生氏(2代・1601-1627)-加藤氏(2代・1627-1643)-保科・会津松平氏(10代・1643-1868) |
廃城年 | 存城 |
現状 | 鶴ヶ城公園、公共施設 |
若松城は福島県会津若松市に所在し、会津若松城、鶴ヶ城として一般に良く知られる城館である。室町時代、蘆名氏の築城以降会津盆地の中心城館となり、歴代の会津領主によって徐々に規模が拡大され、江戸時代には会津藩松平氏の府城となった。幕末期、戊辰戦争における籠城戦は有名である。国指定史跡、日本100名城の一。
文治五年(1189)奥州合戦の功で会津四郡の地頭職を賜ったのは三浦氏一族の佐原十郎左衛門尉義連であったとされ、その後義連の7代孫蘆名直盛が、天授五年(康暦元・1379)当地に初めて下向して幕内館(飯寺館か)に入り、弘和二年(永徳二・1382)に小館へ、さらに元中元年(至徳元・1384)若松城の前身である東黒川館に移ったのが始まりであると一般的に考えられている。しかし創建時期は明確でなく、初めて記録に現れるのは長禄四年(1460)「おたかきのたて」(小高木館)としてである。このように記録に現れる初期の名称もいくつかあり、その中には小田山城を指すと思われる記録も混ざっているが、蘆名氏15代盛舜(モリキヨ)の代の天文七年(1538)に焼失、同十二年に大規模な修築を受けたのちは、主に黒川城と呼ばれるようになったという。
蘆名氏は16代修理太夫盛氏の時代に最盛期を迎え、会津を中心に東は安達、岩瀬、白河郡、西は蒲原郡まで勢力を拡大、米沢城の伊達氏と並んで東北を代表する戦国大名となった。しかし盛氏ののちは当主が次々と命を落とすなどの不幸が相次ぎ、また家臣団の分裂・叛乱などで勢力は衰えた。重臣たちは同盟関係にあった佐竹氏から養子義広(佐竹義重次男)を迎え、その同盟を強化して伊達氏に対抗したが、遂に天正十七年(1589)義広が磐梯山麓摺上原合戦で伊達政宗に敗れ、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は20代で滅亡した。
黒川城に入った政宗は、この城を足掛かりにさらに関東進出を図るが、中央では豊臣秀吉の統一事業がほぼ完成されていた。政宗は秀吉の命に抗しきれず小田原へ参陣、家名を保つことは出来たが、翌十八年に会津のほか信夫、安達地方を没収され、わずか一年で会津を去った。
会津は奥羽の諸大名を抑える重要な拠点であったため、秀吉は信任の厚い蒲生氏郷を会津に配置したが、それは器量の優れた氏郷を政権の中枢から遠ざけるためであったともいわれる。氏郷自身、92万石の大身となりながら、小身でも機内に留まれば天下を望むこともできたであろうに、と漏らしたと伝えられている。しかし氏郷は、黒川城および城下を整備し、地名を故郷にちなんで若松と改め、現在の会津若松市の基礎を築いた。なお氏郷が築いた天守は7層であったと云われるが、真偽は定かでない。
文禄四年(1595)氏郷が死去し嫡男秀行が跡を継ぐが、若年であることを理由に慶長三年(1598)下野国宇都宮城へ移封となり、越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で入城した。しかし慶長五年(1600)神指城の築城などを理由に徳川家康が上杉征伐の軍を動かし、これをきっかけに関ヶ原の戦いが始まると、景勝は豊臣方に与したため米沢30万石に国替となる。
翌慶長六年(1601)東軍に与した功で蒲生秀行が再び会津領主となるが、寛永四年(1627)忠郷が嗣子がないまま死亡したため蒲生氏は伊予国松山城へ転封、替わって松山より加藤嘉明が入封した。寛永十六年(1639)その跡を継いだ明成は若松城の大改修に着手し、現在の姿である5層の天守を築くが、寛永二十年(1643)家臣との諍いを理由に幕府へ所領を返上した。
その後山形城より保科正之が入封したが、正之は2代将軍徳川秀忠の庶子で、信州高遠藩保科氏に養子に入っていた。3代将軍家光は異母弟である正之を厚く遇し、正之も幕政に参画して大いにその手腕を発揮した。そして保科氏は、3代正容から松平姓と葵紋の使用を許され、以後明治維新まで御三家に次ぐ家柄として会津藩23万石を治めた。
明治元年(1868)戊辰戦争が始まると、会津藩は西軍の討伐対象となり城下で激しい戦闘が続いた。物量に勝る西軍を相手に、無勢ながら籠城して激しく抵抗したが、弱点である小田山からの一日3千発ともいわれる激しい砲撃に屈して降伏、開城した。そして同七年(1874)城の建造物はことごとく取り壊された。
現在は鶴ヶ城公園となり、加藤氏時代の5層天守や東走長屋、鉄門、そして近年南走長屋と干飯櫓が復元されています。本丸と帯曲輪、そして本来馬出しであった西出丸と北出丸の総石垣が残り、寂れたテニスコートのある二の丸や県立博物館のある三の丸には土塁が残っています。城の規模は蘆名氏時代の東黒川館からあまり変わっていないそうです。また若松市内には甲賀町郭門の石垣や、天寧寺町(現花春町)の土塁などが点在し、新選組の斉藤一(藤田五郎)の墓所として知られる阿弥陀寺には御三階が移築されています。
ちょっと昔の方にお話を伺うと、本丸に競輪場があった頃の話や、天守復元前の天守台石垣で遊んだなどという話が聞けてなかなか楽しいです。子どもの頃には家の近くに外堀跡が残っていたなどという話もありましたよー。