関柴館 (せきしばだて) | |
所在地 | 喜多方市関柴町関柴字館ノ内 |
別称 | |
築城年 | 大永二年(1522) |
築城者 | 松本(関柴)輔充 |
城主変遷 | 蘆名氏[松本氏](1522-1585) |
廃城年 | 天正十三年(1585) |
現状 | 山林、林道 |
関柴館は福島県喜多方市に所在した城館跡であり、蘆名氏重臣松本氏の居館の一である。
黒川城主蘆名氏家臣、松本長門守輔充によって大永二年(1522)に築かれたとされる。
天正十三年(1585)輔充の子備中守輔弘は、桧原へ侵攻した伊達氏に内応、入田付より大峠を越える間道を秘密裡に設け、原田左馬介宗時、新田常陸介率いる三千の伊達勢を引き入れた。備中の内応を察知した蘆名勢は、ほかにも同調者がいる可能性もあるとして慎重に行動すべしという意見もあったが、中ノ目式部大輔の唱える出陣論でまとまり、直ちに平田、富田、佐瀬、沼沢氏ら諸将が出陣した。蘆名勢は兵を三軍に分け、中ノ目式部は小荒井村から長窪へ、佐瀬源兵衛は勝村から稲田へ、ほか沼沢出雲守実通らは合して熊倉からそれぞれ中田付村へと進み、伊達勢を大いに撃ち破った。原田、新田らは窮地を脱して退却、最後まで踏み止まった備中も姥堂川まで逃れて来たところで出雲守に追いつかれ、組み打ちの末首を掻かれたという。
敗戦のさなか、備中の嫡男弾正(輔起?)は原田、新田らとともに出羽国長井荘へと落ち延び、また一族も後に弾正の許へと逃れ、以降は伊達氏に仕えた。しかし備中の父長門守輔充入道幽閑は捕らえられ、黒川城下に送られた後極刑に処されたという。そして関柴館はこの合戦の後廃されたものと思われる。
なお原田宗時は、この関柴館を要害城であると思い込んでいたところ、実際は「其居所ヲ見レハ城モナク、只構ノ宜キ屋敷」と述べたという記録が残る。
関柴より関柴ダム、楚々木地区方面へ向かう、入柴集落の字館ノ内、西側山際の平地に比定されており、現在は山林、耕作地となっている。規模は東西100間、南北84間とされ、館の飲水として利用されたと伝わる台所清水が現在も残る。なお地元の伝承に、関柴館を扇の要とし、その支館として高橋館、北畑館、赤坂館の3館が設けられていたと伝えられている。また館跡から見て姥堂川の対岸約400mには「関柴備中物見の松」という老木があり、その山頂部には小規模ながら小松山城の遺構が見られるという。
何度目か訪問しておりましたが、最新の訪問で字館ノ内で畑仕事をしていたお母さんにお話を伺えました♪ 以前は学校の先生とかがよく調べに来てたんだけどね~なんておっしゃるだけによくご存知で、上記の台所清水、小松山城のことなど色々教えて頂きました。
その中でちょっと興味の沸いた話としては、高橋から入柴へ入ってくる途中に字平石という地名があり、現在はもちろん舗装されているけどお母さんが嫁に来た頃は未舗装で、平らな石が敷き詰められていたとのこと。石を敷いていたのは馬の蹄の音が聞こえる様にするためだったとのことです。南に配した支城からの急報がすぐ判る様になんですかね? 距離的に疑問もありましたが、妙に納得してしまいました。