文京区の小石川植物園に落ちたICBMは、池袋~上野間を完全に分断してしまった。それだけではなく、荒川区方面も大河で分断されてしまい、大幅に地形が変わってしまっている。しかしそうした中でも上野と秋葉原は銀座とはまた違った復興の兆しを見せてきているようだ。かつてこの地では世界大戦後闇市が開かれたが、あたかもそれを彷彿とさせるような様子がそこにはある。
■上野
山の手台地の東端、隅田川の低地に臨む上野台地と、南西の不忍池から広小路にわたる一帯が上野である。東京の北の玄関口として明治16年(1883)に開業した上野駅は、現在はガイア教徒の総本山として利用されている。また不忍池は今も健在だが、周辺の美術館や博物館の数々は完全に倒壊しており、悪魔の住処となっている。
■秋葉原
言わずと知れた電気街。俗に言う“ヲタクの聖地”であった街。江戸時代は“あきばっぱら”と呼んで、火除地があった。明治3年(1870)ここに秋葉神社を祀ったので秋葉原の名がついた。秋葉原駅が開設されたのは明治23年のことである。大破壊を経てもなおその姿は健在であり、今でも大小のパーツショップで賑わっている。なお、
ある条件を満たすと秋葉原が復興して湯島のビルに入れるようになる。詳しい情報は基本データページの『
復興アイテムについて』を参照のこと。
■東京デスティニーランド
隅田川の河口に突如現れた謎の島。その島の上に建てられた怪しげなテーマパークが東京デスティニーランドだ。その名の通り、来園者の運命を試すアトラクションがウリであるらしい。
■カテドラル
カテドラルとは“大聖堂”の意。神が降臨するにふさわしい場所としてメシア教が建設した、メガフロートである。1Fは各種施設が充実しており、荒廃した東京とは思えぬ生活空間が確保されている。しかしこれほどの建物をガイア教徒が放っておくわけがなく、カテドラルにはガイア教徒らが次々に侵入し、メシア教徒らと交戦しているという。
■毘沙門天
上野方面の館は、国の特別名勝に指定されている六義園の園内にある。千川上水の水を引いて広い池を持つ回遊式築山泉水の大名庭園だが、大破壊によりその景色も完全に崩壊し、封印されていた館が姿を現した。余談になるがこの毘沙門天の周辺地区はゲーム上では“TADATA”と表示されている。
■持国天
浅草の浅草寺と人形町の水天宮をつなぐ館。館の中には四天王のひとり、持国天が封印されている。言うまでもなく封印を解くには“四門の玉”が必要である。
■上野公園
明治6年(1873)、大政官布告によって浅草・芝などと共に都内最古の公園として開園した。大正13年(1924)には東京市に下賜されたので、正式には上野恩賜公園という。この地は江戸城の鬼門に当たることから、天海僧正(1536~1643)は幕府の祈願所を建てることを進言、3代将軍家光はこれを容れて寛永寺を建立し、天海が開山となった。寛永寺は京都の比叡山にならい山号を東叡山と名付け、年号を寺の名前にし、伽藍(がらん。殿堂のこと)はすべて比叡山に依って造営された。承応3年(1654)、後水尾天皇の第3皇子尊敬法親王が入山してから幕末まで法親王が相継いで住職となり、日光山・比叡山の両山も兼ねていたので、事実上天台宗の総本山となった。
■浅草
海抜2~3メートルの沖積地で、古くから浅草寺を中心とする隅田川の一集落であった。江戸時代、日本橋から吉原を移し、猿若町には芝居小屋を集め、娯楽の中心地区となった。こと雷門(正式には風神雷神門)から仁王門にいたる仲見世は、繁華な庶民の集まる門前町となった。
浅草寺は推古天皇36年(628)、隅田川の駒形堂付近で漁師の桧前浜成・竹成兄弟が漁をしていたときに網に引っかかった金の観音像を浅草寺の本尊にしたと伝えられており、また創建は漢人系の渡来人の手によるものと伝えられている。境内から石棺が出土し、古墳時代末には人家があって、奈良時代の日本最古の銅貨“和同開珎”が出土している。
浅草寺には徳川将軍の浅草東照宮参詣の通用門である“二天門”がある。これははじめ随神門と呼ばれていたが、寛永18年(1641)浅草東照宮が焼けたため、寛永寺徳川霊廟から持国天・増長天の二天像を移したので二天門と呼ばれるようになった。
■東京大学
明治政府は明治2年(1869)に幕府の昌平開成所と医学所などをあわせ昌平学校と改め、教育の最高機関・大学を開く基礎として大学校を大学とし、開成・医学校を大学南校・大学東校と改めた。明治10年には儒学中心の昌平学校は閉鎖され、東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学となった。明治19年には東京帝国大学となり、戦後は東京大学になった。敷地は加賀百万石前田家の上屋敷があった所である。
■湯島
湯島付近は関東大震災にも戦災にもあわなかった。この湯島にある有名な名所が湯島天神である。祭神は菅原道真で、受験合格祈願の神様として有名でもある。南北朝時代に湯島の村人が祀っていたのを、太田道灌が再興したという。江戸時代に度々火災にあっているが、その都度再建されている。谷中の感応院・目黒不動とともに湯島天神は富くじ興行が許され、江戸の三富と言われていた。
■御茶ノ水
徳川家康が小田原落城後、間もなく江戸に入り、鷹狩りの帰りに御茶ノ水台地の小庵で休んだ。家康はここが気に入り、高林寺を建てた。寺内に清水が湧き、水質がいいので2代将軍秀忠に献じたところ、名水と言われた。以来将軍家の茶事には必ずこの水を用いたというので御茶ノ水の地名になったという。
■後楽園
地名は小石川後楽園に由来する。小石川後楽園は都内屈指の名園と言われた美しい回遊式築山泉水庭園である。元は水戸徳川家上屋敷内の庭園で、寛文9年(1669)、水戸黄門で知られる副将軍徳川光圀の手で造園された、大名庭園であった。ICBMにより後楽園そのものは消し飛んでしまったが、隣接する東京ドームは、かろうじてその姿を保っているようである。
■水天宮
安産・水難よけ・水商売の守り神。港区赤羽橋の久留米藩有馬氏の上屋敷・水天宮が、明治維新で上地になったため、明治5年(1872)、中央区人形町に遷座した。人形町はその門前町として賑わってきた。ICBMによる大破壊により、封印されていた持国天の館が姿を現したようである。
出現悪魔(上野方面)
LV31 堕天使シトリー
LV34 妖鳥バイブ・カハ
LV34 妖鬼プルシキ
LV38 魔獣オルトロス
LV38 妖鬼茨木童子
LV40 妖精仙狸
LV41 獣人ワーウルフ
LV28 邪鬼ウェンディゴ
LV30 邪龍コカトライス
LV35 幽鬼サウォバク
LV37 邪龍ワイアーム
LV43 邪龍ワイバーン
出現悪魔(T.D.L方面)
LV34 妖鳥バイブ・カハ
LV35 魔獣タムズ
LV38 魔獣オルトロス
LV40 魔獣ラクチャンゴ
LV47 地霊ジャイアント
LV50 妖魔コロンゾン
LV51 堕天使マルコキアス
LV42 凶鳥グルル
LV43 邪龍ワイバーン
LV47 妖獣マンティコア
LV45 邪鬼バーベガジ
LV51 邪龍バジリスク
出現悪魔(カテドラル)
LV46 妖鳥セイレーン
LV46 龍王ユルング
LV49 鬼女スキュラ
LV50 魔獣グリフォン
LV37 邪龍ワイアーム
LV42 凶鳥グルル
LV43 邪龍ワイバーン
LV54 邪龍サーペント
最終更新:2018年12月22日 19:38