李継昭
?-913以降
唐末・五代の武将。塩州五原県の人。右神策軍都指揮使となり、光化三年(901)昭宗が宦官に廃されて、徳王
李裕が皇帝に建てられると憤慨し、そこを
崔胤に諭され、
周承誨・
董従実とともに宦官を討って昭宗を救い、大功によって検校太保、静海軍節度使に任じられ、姓李と名を継昭と賜り、「扶傾済難忠烈功臣」と号し、肖像は凌煙閣に描かれた。周承誨・董従実とともに急激に高位に昇ったたため、「三使相」と称された。また
韓全誨が昭宗を鳳翔に拉致すると、周承誨・董従実は変節してそれに従ったが、孫徳昭はひとり兵隊を保って長安にとどまり、
朱全忠に昭宗の救出を依頼し、権知同州節度留後、留充両街制置使に任じられた。兵八千人を朱全忠に献じ、昭宗が洛陽に遷ると左威衞上将軍を授けられたが、病のため免職となり、別業にこもった。朱全忠が即位し、唐が滅んで後梁が成立すると左領衛上将軍に任じられ、左金吾大将軍・充街使に任じられた。末帝が即位すると右武衛上将軍、左金吾大将軍に任じられた。卒すると太傅を贈られた。『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻十五 梁書十五 列伝第五 孫徳昭
『新五代史』巻四十三 雑伝第三十一 孫徳昭
外部リンク
最終更新:2023年08月02日 08:23