劉禹錫 りゅううせき
772-842
中唐の文人。彭城(江蘇省銅山県)の人。字は夢得。祖の劉雲、父劉激はいずれも州県令を歴任し、儒学をもって称された。幼少より文才があり、793(貞元9)年の進士で、博学宏詞科に登第して監察御史となった。貞元(785-805)末、
王叔文の事件に連座して連州刺史におとされ、さらに朗州司馬にうつった。このとき、蛮俗が巫を好むた詩文をもってこれを教化しようとして、「竹枝詞」十余編を賦したが、その詞の多くは、諷託幽遠であったので、武陵洞の間でひろく喧伝されたという。これより十余年、播・連・和・蘇・汝・同の諸州刺史を歴任し、のち召されて太子の賓客となり、会昌(841-847)の初め、検校礼部尚書にすすみ、まもなく没した。死後、戸部尚書を贈られた。彼はかつて
元稹・
韋楚客とともに
白居易の邸に会し南朝の興廃を論じ、おのおの金陵懐古の詩を賦したが劉禹錫の詩がまずできた。白居易はこれをみて、「四人竜を探り禹錫先ず珠を得、その余の鱗甲は何をかなさんや」といったので、3人はついにその吟を中止したと伝えられる。彼の詩は気骨雄勁をもって称され、その古文縦横弁、
韓柳の外においてみずから軌轍をなすといわれた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2023年12月01日 22:58