杜佑 とゆう
735-812
中唐の政治家、藩鎮・宰相(在任803-812)・学者。京兆・万年(陝西省長安県)の人。字は君卿。諡は安簡。曽祖父の
杜行敏は荊・益二州の都督府長史、南陽郡公、祖父の杜慤は右司員外郎詳正学士、父の
杜希望は鴻臚卿、恒州刺史、西河太守で右僕射を贈られたという家がらに生まれたので、官吏任用のための学科試験(選挙)でなく、恩蔭によって済南郡参軍、剡県丞となり、潤州刺史
韋元甫に認められてその信任をうけ、以後、諸官を歴任し、
楊炎が宰相となると、徴されて工部、金部の郎中から水陸転運使にあてられ、また親しく両税法の遂行に当たり、本法を賞賛して「誠に時に適せる令典、弊をすくうの良図なり」(『通典』巻七丁中)と称している。ときに河朔三鎮などの節度使の反乱があったので、杜佑は食糧運送の任に当たり、ついで戸部侍郎判度となったが、
盧𣏌に憎まれて蘇州刺史に出て、まもなく御史大夫をもって嶺南節度使にあてられ、787(貞元3)年、尚書左丞を拝した。ついで淮南節度使となり、797年徐州節度使
張建封が没し、その子
張愔が、許可なく父のあとを継いだのを討って失敗したが、806(元和元)年、司徒同平章事となって岐国に封ぜられ、大いに憲宗の信任するところとなり、死後、太傅を贈られた。『旧唐書』杜佑伝が「位、将相を極むと雖も、手、巻を釈かず」と評しているように、杜佑は研究に熱心で学問をこのみ、玄宗時代に
劉秩がつくった『政典』35巻の不備を補い、『開元礼』『楽書』を加えて『通典』200巻を著わし、ほかに『理道要訣』10巻があったが、これは現在伝わっていない。また『新唐書』芸文志には、杜佑の著書としてなお『賓佐記』1巻、『管氏指略』2巻をあげている。杜佑には杜師損・
杜式方・
杜従郁の3子があり、杜従郁の子が晩唐の詩人として名高い
杜牧である。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典7』(平凡社,1961年)
外部リンク
最終更新:2024年03月19日 01:21