李譲夷 りじょうい
?-847
中唐の宰相(任842-846)。字は達心。牛李の党争では李党に属した。隴西李氏の出身。進士に及第し、鎮国軍節度使府判官、右拾遺、翰林学士となるが、友人の
薛廷老が酒の失敗のため罷免されると連座して左遷させられ、復帰して諌議大夫となった。
李石・
鄭覃の推薦により起居舎人となるも、
李珏・
楊嗣復が宰相在任中は昇進できなかった。
李徳裕が復帰して朝廷に入ると、尚書右丞となり、会昌二年(842)中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。検校尚書右僕射となり、会昌六年(846)宣宗が即位すると、
李徳裕とともに宰相を罷免され、司空・門下侍郎、大行山陵使となったが、淮南節度使となった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年03月02日 22:22