巻一百八十一 列伝第一百六

唐書巻一百八十一

列伝第一百六

陳夷行 李紳 李譲夷 曹確 劉瞻 助 李蔚


  陳夷行は、字は周道で、その先祖は江左の諸陳氏であり、代々潁川をさまよった。進士に及第すると、起居郎・史館修撰に抜擢された。功績によって司封員外郎に移り、およそ二年で、吏部郎中に任じられて翰林学士となった。荘恪太子が東宮にあるとき、陳夷行は侍読を兼任し、五日に一度拝謁し、太子講説となった。しばしば遷って工部侍郎となった。

  開成二年(837)、同中書門下平章事(宰相)に昇進した。しかし楊嗣復李珏が相次いで宰相となり、陳夷行は孤独で、常に彼らと合わず、天子の前で議論するごとに、往々として話は次第に短くなった。陳夷行は耐えることができず、たちまち病と称して辞職を求めたが、文宗は使者を派遣して慰労して起用し続けた。当時、王彦威を忠武節度使とし、史孝章に邠寧節度使を領させることとしていたが、議論はすべて楊嗣復が発案していた。陳夷行が延英殿で帝と対面すると、帝は「二鎮の任命はどうか」と尋ねたから、「いやしくも天子の恩沢より出ているのですから、全う至極ではないことがありましょうか」と答えた。楊嗣復は「もし人を用いるのにすべてお上の意から出て全う至極であれば、もとより善いことです。もし小人が称えなければ、下々はどうして安心できましょうか」と言い、陳夷行は、「この頃奸臣がしばしば権力を冒しています。願わくば陛下、逆さまに太阿の剣を持って柄を人に差し出すように、権力を人に渡し自分の身に災いを招くことがございませんように」と言い、楊嗣復は、「古の者は任じても疑うことはありませんでした。斉の桓公は管仲が仇敵であったにも関わらず器としましたが、どうして剣を逆さまに持って柄を差し出すような心配がありましょうか」と言い、帝はその食い違いを目の当たりにして、非常に不快であった。仙韶楽工の尉遅璋が王府率を授けられたが、右拾遺の竇洵直が役所にあたって論奏したが、鄭覃・楊嗣復は些細な事を嫌い、そのため竇洵直が名をあげるためにしたと言った。陳夷行は、「諌官が役所に当たっては、正しく宰相の得失を論じるべきで、彼の賎工の尉遅璋はどうして言うにたるでしょうか。また放置して用いないようなことがあってはなりません」と言い、帝はそこで尉遅璋を遷して光州長史とし、百縑を竇洵直に賜った。陳夷行は門下侍郎に昇進した。

  帝は常に天宝年間(742-756)の政治が良くなかったことを怪しみ、「姚元崇宋璟は当時いなかったのか」と尋ね、李珏は「姚元崇は亡くなっており、宋璟は罷免されていました」と答えた。李珏はそこで論表して、「玄宗はいまだかつて一人の無実の者を殺したことがないと言っていましたが、しかし李林甫を任じて、数十族も一族皆殺しにしたのですから、また惑されなかったといえましょうか」と述べ、陳夷行は「陛下は今このことから権力を人に与えることを戒めるべきです」と言ったが、楊嗣復は、「陳夷行の今のは失言です。太宗は乱世を仁義の世の中とし、房玄齢を用いること十六年、魏徴を任じること十五年でしたが、いまだかつて道を失ったことはありませんでした。人主は忠良の者を用いれば、長らく治世に益となり、邪な者を用いるのは一日でも多すぎるくらいなのです」と述べた。当時、郭薳を用いて坊州刺史としたが、右拾遺の宋邧が不可を論じ、果して収賄の罪で失脚した。帝は宋邧を褒賞しようとしたが、陳夷行は、「諌官が事を論じるのはそれが仕事なのであって、もし一事が良いからといってたちまち官職を昇進させれば、後世に私心によってしまうことが免れないことを恐れるのです」と言った。陳夷行は思うにひたすら楊嗣復を謗った。また普段より鄭覃と親しく、密かに助力し、朋党を排斥した。当時、天子もまた朋党の行き過ぎを嫌っていたが、恩礼は衰え、宰相を罷免されて吏部尚書となり、ついで華州刺史を拝命した。

  武宗が即位すると、召喚されて御史大夫となり、突然また門下侍郎平章事に戻り、位は尚書左僕射に昇進した。陳夷行は崔珙とともに拝命し、そこで奏上して「僕射は始めて政務を行うとき、四品官の拝礼を受け、命令はありません。この頃、左右の丞・吏部侍郎・御史中丞はすべて僕射のために階下で拝礼し、これを「隔品致敬」と言います。礼に準じて、皇太子は上台にて群官と見え、群官は先拝して後答し、そのため二上はありません。僕射は四品官とともに朝廷で並び立ち、一人で抜きん出ることはありません。先日、鄭余慶が僕射の上日の儀について、隔品官には亢礼なしと言いましたが、当時、竇易直が御史中丞に任じられており、議論して、ぞれをすべきではないと言いました。竇易直は自分が僕射になると、以前の議論を忘れたから、当時の人々はこれを嘲けて嫌いました。臣らは失礼によって世間に速やかに責められることを願いません。また開元元年(713)、左右の僕射を左右の丞相とし、位は三公に次いでいるので、三公が上日答拝した時に、僕射はこれを受けるのは、非礼なのです。願うところは、担当役所に勅して『三公上儀』を要約し、著して令を定めることです」と述べ、詔して裁可された。これより以前、朝議は紛糾を重ねて決しなかったが、陳夷行がやって来ると遂に定まった。足の病によって辞職を願い、宰相を罷免されて太子太保となり、検校司空によって河中節度使となり、卒した。


  李紳は、字は公垂で、中書令の李敬玄の曽孫である。代々南方で官職につき、潤州で居候した。李紳は六歲のときに父を失い、挙等の礼は成人のようであった。母の盧氏は、自ら学問を教えた。人となりは小柄であったが精悍で、詩にいたっては最も名を知られ、当時の人は「短李」と号した。蘇州刺史の韋夏卿がしばしば称賛した。母を葬ると、烏が芝をくわえて輔車(霊柩車)に墜落した。

  元和年間(806-820)初頭、進士に及第し、国子助教に補任されたが、不満をもち、たちまち去ってしまった。金陵に居候し、李錡はその才能を愛し、掌書記に任命した。李錡は次第に法を守らなくなったが、賓客はあえて言う者がいなかった。李紳はしばしば諌めたが入れられず、そのため去ろうとしたが、それも許されなかった。たまたま使者が李錡を召喚したが、病と称したから、留後の王澹がすべての業務を行おうとしたから李錡は怒り、兵士を唆して殺して食べてしまい、そこで使者を脅して衆のために天子に上奏させ、留まるようにさせようとした。李錡は李紳を召して上疏をつくらせようとし、李錡の前に座り、李紳は表向きは恐れおののき、字を書くことができず、筆を下すとたちまち黒塗につぶしてしまい、それは紙数枚すべてに及んだ。李錡は怒り「どうしてお前はそんなことをするのか。死んでもいいというのか」と罵ると、「生きて軍装をみなかったとしても、今死ねた方が幸せだ」と答えたから、そこで刃で脅して、紙を変えさせたが、それでもまた同じようであった。ある者が、軍中では許縦が書をよくするから李紳は用いなくてもよいと言った。そこで許縦を召してみると、思った通りに書いたから、そこで李紳を獄中に捕らえた。李錡が誅されると釈放された。ある者が奏上しようとしたが、謝して、「もとより義に突き動かされただけであって、市中に名をなそうとしたわけではない」と言ったから、奏上は止められた。

  しばらくして山南観察府より幕下に招かれた。穆宗は召喚して右拾遺・翰林学士とし、それは李徳裕元稹と同時であったから、「三俊」と号した。累進して中書舎人に抜擢された。元稹が宰相となったが、李逢吉が人をして元稹の密事を告発したから、元稹は罷免された。李逢吉は牛僧孺を引き立てたいと思っていたが、李紳らが朝廷にいてはそれを妨げると考え、そこで李徳裕を浙西観察使とした。牛僧孺が宰相となり、李紳を御史中丞として天子から遠ざけた。李紳は片意地であったから、その面倒な人間を代えようとし、韓愈も剛直であったから、そこで韓愈を京兆尹に任命して御史大夫を兼任させ、御史台の挨拶回りを免除して李紳を怒らせようとした。李紳と韓愈は果たして諍いを起こし、さらに御史台の故事を持ち出しては、文書が盛んにやりとりされ、誹謗攻撃で騒然としたので、これによって皆罷免し、李紳を江西観察使とした。帝はもとより李紳を厚遇し、使者を邸宅に派遣して労をねぎらい、喜んで地方官になるものと思っていた。李紳は泣いて李逢吉の中傷のためであったことを述べた。帝に謝意を表するために入内した時、また自らの思いを直接述べたから、帝は悟って、戸部侍郎に改めた。李逢吉はついに李紳を貶めたいと思った。李紳の族子に李虞なるものがいて、文学で有名であり、華陽に隠居して、自身は仕官を願っていないと言っており、時おり李紳のところに立ち寄っては、柏耆程昔範とともに頼っていた。柏耆が拾遺に任命されると、李虞は書簡で推薦してくれるよう頼んだが、李紳はその無節操さを憎んで、痛罵した。李虞は恨みを抱いて、後に京師にいたると、すべて李紳が李逢吉について言っていたことを暴いた。李逢吉は怒り、そこで張又新李続らの計略を用いて、李虞・程昔範と劉栖楚を抜擢して全員を拾遺とし、李紳の隙を伺わせ、宮中内では宦官の王守澄と結託して自らの助けとした。たまたま敬宗が即位すると、李逢吉は李紳が勢力を失うのに乗じるべきと思い、王守澄に「先帝がはじめて立太子のことを論議させると、杜元穎と李紳は深王を皇太子にするよう勧め、一人宰相の李逢吉だけが陛下を立てるよう願い、李続と李虞が補佐していました」と奏上させた。李逢吉はこれに乗じて李紳がかつて陛下に不利なことをしたとして、追放するよう願った。帝は即位したばかりで、自身の考えを通すこともできず、そこで李紳を端州司馬に左遷した。劉栖楚らは左遷した地が良い地であったことに怒り、全員が悔しがった。詔が下ると、百官は李逢吉に祝賀の言葉を述べたが、ただ右拾遺の呉思だけが行かず、李逢吉は呉思を大行皇帝(穆宗)の喪を吐蕃に告げる使者にしてしまった。この当時、人々はあえて言う者はなかったが、ただ韋処厚だけはしばしば李紳の罪は李逢吉がでっちあげたと言っていた。後に天子は禁中において先帝が残した上奏文の一箱をみつけて、これを開けてみたところ、裴度・杜元穎・李紳の三人が帝を立てて後嗣とするよう上疏したものを見つけ、はじめて大いに悟るものがあり、李逢吉の党派が上った誹謗の書をすべて焼き捨てた。

  それより以前、李紳は南に追放されると、封州・康州間の州を歴任し、急流な浅瀬が障害となり、ただ水嵩が増した時のみ渡ることができた。康州には媼龍祠があったが、昔はよく雲雨を呼んだと伝えられていたから、李紳は書をもって祈ると、突然水嵩が増した。宝暦改元の恩赦の際に、左降官に量移(左遷された者を恩赦する際に罪科の軽重によって任地を遠近すること)を与えるとは言わなかったが、韋処厚が執政と争ったから、詔して追って認定され、江州長史に移され、滁州・寿州の二州の刺史に遷った。霍山には虎が多く、茶を摘む者は困窮し、落とし穴を作ったり、弓で射ても止めることができなかった。李紳が来るとすべて撤去させたが虎は暴れることはなかった。太子賓客に任じられ東都に分司した。大和年間(827-835)、李徳裕が宰相となると、李紳を浙東観察使に抜擢された。李宗閔が帝の信用を得て李徳裕が罷免されると、また太子賓客となって東都に分司した。開成年間(836-840)初頭、鄭覃は李紳を河南尹とした。河南は無頼の少年が多く、ある者は帽子を高くして衣服をはだけ、大きな蹴毯を打っては官道を塞いだから、車や馬はあえて前に行かなかった。李紳が治めると厳しくしたから、皆逃れ去った。宣武節度使に遷ると、大旱魃となっったが、蝗を境界内に入れなかった。

  武宗が即位すると、淮南に移り、召喚されて中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、尚書右僕射・門下侍郎に昇進し、趙郡公に封ぜられた。宰相の位にいること四年、中風のため足萎えとなって天子に謁見ができなくなり、官位を辞じたが、検校右僕射平章事に任じられ、また淮南節度使となった。卒すると太尉を贈られ、文粛を諡された。

  それより以前、灃人の呉汝納なる者がいて、韶州刺史の呉武陵の兄の子であった。呉武陵は収賄に連座して潘州司戸参軍に貶められて死に、呉汝納の家族は追われて、しばらく任官しなかった。当時、李吉甫が宰相に任じられると、呉汝納は怨み、後に李宗閔の党派の中に与した。会昌年間(841-846)に永寧県の尉となり、弟の呉湘は江都県の尉となった。部人は呉湘が賄賂を受けとり狼藉を働き、民間人の顔悦の娘を娶ったと訴えた。李紳は観察判官の魏鉶に呉湘を審問させ、罪は明白で、具体的な事実を報告して死刑に処した。当時、議論する者は、呉氏が代々宰相と不仲であったと言い、李紳が心内の願望によって、その罪をねじ込んだのではないかと疑った。諌官はしばしば論を並べ立て、詔して御史の崔元藻を派遣して再審させた。崔元藻は呉湘が軍需銭を盗用したことについては罪があるとしたが、民間の女を娶ったことについては事実ではないと述べ、調査すると顔悦はもと青州衙推であったから官人で、しかも妻の故人の王氏は衣冠の娘であったから、罪とするには当たらなかった。李徳裕は崔元藻が両論を持ち込んだことを憎み、奏上して崖州司戸参軍に左遷した。宣宗が即位すると、李徳裕は宰相の位から去り、李紳はすでに卒していた。崔鉉らはしばらく志を得なかったから、呉汝納を呉湘のために訟えるよう導き、「呉湘はもともとは実直な人であったのに、人のために誹謗されて、牢獄に入れられ、拘束具に据え付けられ、官吏が妻を娶って腰元をつけるのも賄賂に結びつけたのだ」と言い、さらに「顔悦はもとは士族であり、呉湘の罪はすべて死にあたらない。李紳が法を曲げて処刑したのだ」と言い、また「呉湘が死ぬと、李紳はただちに埋め、帰って葬式もあげられなかった。思うに李紳はもと宰相で地方を治め、権威・権力をほしいままにしている。だいたい有罪で死刑にするにも秋分を待たなければならないが、呉湘は無辜の罪で盛夏に殺されたのだ」と言った。崔元藻は李徳裕に自身が排斥されたのもあって、そこで述べたことを翻して、「御史は獄に戻すよう覆奏し、皆天子に対して別個に是非を申しましたが、李徳裕は権力が天下におよんでおり、使は答えることができず、詳細に罪状を勘案すべきところを役人に付さず、ただ李紳の奏上を用いて呉湘の死刑を受け入れたのです」と述べた。この時、李徳裕はすでに権力を失い、李宗閔がもとの党の令狐綯・崔鉉・白敏中と皆政権を掌握し、これによって恨みをほしいままにし、利を以て崔元藻らを勧誘し、三司に指示して、李紳と結んで刑罰によって徒党を組み、良民を虐殺した者は、神龍年間(705-707)の詔書に準じて、酷吏で死没した者でも官爵はすべて剥奪し、子孫は官位を勧めることはできず、李紳もすでに死没しているとはいえ、『春秋』の戮死者の故事に従うことを要請した。詔して李紳の三官を削り、子孫は出仕できなくなった。李徳裕らを貶め、呉汝納を左拾遺に、崔元藻を武功県令に抜擢した。

  はじめ李紳は文芸の才能と節操の高さによって取り立てられたが、しばしば敵対者のために窮地に陥ることもあったものの、ついによく自身の才能を伸ばし、名声のうちに終わることができた。仕事の上では威烈をなし、ある時は残酷であった。そのため没してからも呉湘の冤罪事件の罪にふれることになったのだという。


  李譲夷は、字は達心で、代々もとは隴西の人であった。進士に及第し、鎮国軍節度使の李絳の府判官に任じられた。また西川節度使の杜元穎の幕下にも任じられた。宋申錫と親しく、宋申錫が翰林学士となると、推薦によって李譲夷は右拾遺となり、にわかに召されて学士を拝命した。普段から薛廷老と親しく、薛廷老は細かいことにはこだわらず、しばしば飲酒して仕事ができなかったから、罷免されてしまい、これに連座して職を奪われた。累進して諌議大夫となった。

  開成年間(836-840)初頭、起居舎人の李褒が免官となり、文宗が李石に向かって、「褚遂良は諌議大夫の職をもって起居郎を兼任したが、今諌議大夫には誰がよいか。その人を申してみよ」と言ったから、李石は馮定孫簡蕭俶・李譲夷を奏上し、帝は「李譲夷がよいだろう」と言ったが、李固言崔球張次宗を用いるよう願った。鄭覃は「崔球はもとより李宗閔と親しく、また史官として筆をもって宮中で記録し、書くところは後世の法となり、党人を用いるべきではありません。裴中孺や李譲夷のような人間でしたら、臣はあえて申すことはありません」と言ったから、そこで李譲夷を用いることが決定し、中書舎人に昇進した。李珏楊嗣復は鄭覃の推薦であったから、ついに文宗の世では昇進することができなかった。

  武宗が即位した当初、李徳裕が復帰して朝廷に入ると、三度遷って尚書右丞となり、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。潞州が平定されると、検校尚書右僕射となった。宣宗が即位すると、司空・門下侍郎に昇進し、大行山陵使となった。埋葬が終わる前に、淮南節度使を拝命した。病によって帰還を願い、帰路の途上に卒し、司徒を追贈された。李譲夷は清廉で俗世間に交わらず、みだりに交際をせず、位は要職にあったとはいえ、倹約して自ら保全したから、世間は賛美した。


  曹確は、字は剛中で、河南河南県の人である。進士に及第し、内外の官を歴にして、兵部侍郎を拝命した。懿宗の咸通年間(860-874)、本官の地位によって同中書門下平章事(宰相)を拝命し、にわかに中書侍郎に昇進した。

  曹確は儒教に精通し、器量は見識があって重んじられ、法令に従った。当時、帝は徳が薄く、俳優の李可及を寵愛した。李可及は、美声で自ら曲をつくり、歌声には悲しみがこもっており、京師の軽薄な少年は争って慕ったから、「拍弾」と号した。同昌公主が薨去すると、帝は郭淑妃とともに追悼の思いはやまず、李可及は帝のために曲をつくり、「嘆百年」といい、教え舞う者は数百人、全員珠や翡翠で髪を飾り、魚龍を描いた衣を着て、費やした費用は繒五千で、曲によって歌詞をつくり、悲哀は行き来し、聞く者は皆涙を流した。舞が終わるごとに、珠や宝は地を覆い、帝は天下の非常な悲しみとなっているから、いよいよ寵遇した。家ではかつて結婚していたが、帝は「家から去れ。私が酒を賜おうぞ」と言い、にわかに使者に二つの銀樽を背負わせて与え、皆は殊さらに珍しいこととした。李可及は恩寵によって横柄なこと甚だしく、人は敢えて退ける者はおらず、遂に抜擢されて威衛将軍となった。曹確は「太宗が令制を著しになると、文武の官は六百四十三で、房玄齢に向かって、「朕はここに設けたのは天下の賢士を待つ制度だ。工人や商人といった奴らが、たとえ技が同輩より抜きん出ていて、給が厚く財をなしたとしても、任命するのに官吏にしたり、賢者と比肩して立たせたり、食事の席を同じくしてはならない」と言いました。文宗は楽工の尉遅璋を王府率としようとしましたが、拾遺の竇洵直が強く諌め、ついに光州長史が授けられました。今、位を将軍とするのはよくないことです」と言ったが、帝は聴さなかった。僖宗が即位すると、始めて貶められて死んだ。寵愛されていた当時、ただ曹確がしばしばこれを言っていた。しかし神策軍中尉の西門季玄もまた剛直で、李可及に向かって、「お前は取り入って天子を惑わした。ただちに族滅すべきだな」と言い、かつて李可及に賜い物を受けさせるため面会すると、「今は載っておりのは官車だが、後で財産没収されてもまたそうなるだろう」と言った。

  曹確は宰相の位にあること六年、尚書右僕射に昇進し、同平章事のまま京師を出て鎮海節度使となり、河中節度使に移り、卒した。それより以前、畢諴は曹確と同じく宰相となったが、二人共優雅人望があり、世間では「曹畢」と言っていた。弟の曹汾は、忠武軍節度使となって京師に入って戸部侍郎、判度支となり、卒した。


  劉瞻は、字は幾之で、その先祖は彭城から出て、後に桂陽に移った。進士・博学宏辞科に推挙され、すべて合格した。徐商によって塩鉄府に任命され、累進して太常博士に遷った。劉瑑が宰相となると、推薦されて翰林学士となり、中書舎人を拝命し、詔勅を奉った。京師から出されて河東節度使となった。

  咸通十一年(870)、中書侍郎の職によって同中書門下平章事(宰相)となった。同昌公主が薨去すると、懿宗は太医の韓宗紹らを捉えて詔獄に送り、係累は一族数百人に及んだ。劉瞻は諌官にほのめかしたが、全員が決意できずあえて言上することがなかったから、そこで自ら上疏して強く諌め「韓宗紹はその術を窮めましたが効果がありませんでしたから、心は憐れむべきものがあります。陛下は娘を愛するあまり、平民を捕らえ、怒りのあまり難を顧みなければ、暴虐不明の謗りを受けることになりますぞ」と言うと、帝は大いに怒り、即日辞めさせられ、検校刑部尚書・同平章事の職をもって荊南節度使となった。路巌韋保衡はそこで悪口を帝に聞かせたため、にわかに廉州刺史に斥けられた。ここに翰林学士の鄭畋は責詔が懇切でないと言ったため、御史中丞の孫瑝・諌議大夫の高湘らととも劉瞻と親しかったことから連座し、分けて嶺南に貶された。路巌らは殊さらに飽き足りず、地図を見て驩州の道が万里の遠きであることから、そこで驩州司戸参軍事に貶し、李庾に命じて詔をつくって極めて謗り、遂に殺そうとした。天下は劉瞻が剛直であるといい、特に讒言により陥れられたとし、皆が冤罪であるとした。幽州節度使の張公素が上疏して申し上げたため、路巌らはあえて害を加えることができなかった。僖宗が即位すると康州・虢州の二州の刺史に遷され、刑部尚書の地位によって召喚され、再び中書侍郎平章事(宰相)となり、宰相の位にあること三カ月で卒した。

  劉瞻の人となりは倹約家で、得た俸禄の余りは親族で困窮した者を助けたから、家に貯蓄はなかった。邸宅はなく、四方から献じられた贈り物は門には入れず、自身の終始の潔癖さを全うした。


  弟の劉助は、字は元徳で、性は真心があって孝行者であり、幼い時に諸兄と遊び、食事となると、最も後でとったのである。成長すると、文章をよくし、黄老の言を喜んだ。年二十で卒した。


  李蔚は、字は茂休で、その世系はもと隴西出身であった。進士・書判抜萃科に推挙されて、すべて合格した。監察御史を拝命し、尚書右丞に抜擢された。

  懿宗は仏教に惑わされ、常に一万人の僧を禁中で食事させ、自ら梵唄を唱えた。李蔚は上疏して強く諌め、狄仁傑姚元崇辛替否が上言したのは、当時の弊害でよくないところを指摘したものであるとした。帝は聴さず、ただ虚礼によって褒め答えた。にわかに京兆尹・太常卿を拝命した。京師から出されて宣武節度使となり、淮南に遷した。後任が赴任して帰還することになると、民は宮中に詣でて留任を願い出たから、詔して一年の留任を許した。僖宗の乾符年間(874-879)初頭、吏部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。罷免されて東都留守となった。河東が兵乱となり、その帥の崔季康を殺したから、邠寧節度使の李侃を登用して代理としたが、兵士は従わず、そのため李蔚がかつて太原府にあって善政を行って、人が懐いていたから、河東節度使、同平章事を拝命した。鎮に到着して三日で卒した。

  それより以前、懿宗は安国寺を落成させると、宝座二箇を賜い、高さは二丈(6m)におよび、沈檀でできており、髪の毛を塗り、龍鳳を彫って花飾りとし、金で止め、上に施して二仏を座らせ、読経してその前に座り、四隅に瑞鳥神人を立て、高さ数尺、石の道に登り、前に刺繍の袋と錦の帳を掛け、珍麗かつ精巧なことこの上なかった。咸通十四年(873)春、詔して仏骨を鳳翔府に迎えると、ある者が「昔、憲宗がかつてこのようなことをなされましたとき、突然晏駕(崩御)なされました」と言うと、帝は「朕は生きてこれを見られれば、死んでも恨まない」と言い、そこで金銀を用立てて寺院をつくり、珠玉で帳をつくり、孔雀や鴫で飾り、小さいものでも一丈(3m)、高はその倍にいたり、檀を刻んで軒柱をつくり、階段を黄金で塗り、一寺院ごとに数百人を招いた。香輿の前後に人の往来がたえまなく続き、珠貝(アコヤガイ)・瑟瑟(ラピスラズリ)で幡蓋を飾り、特別な彩で幢節をつくるなど、費やした費用は数えきれないほどであった。夏四月、長安にいたり、綵の糸でつくった五色の雲を道にはさみ、僧侶が先導した。天子は安福門楼に御してお迎えし、涙を流した。詔して両街の僧に金幣を賜い、京師の長老で元和年間(806-820)の仏骨の旧事を見た者は、全員に厚く下賜した。不逞の小人は帰依のあまり自ら肘や指を切断したから、流血は道に充満した。通過した村々は、すべて土を集めて寺院をつくり、村々では互いに遠望すると、争って金や翡翠で飾り立てた。寺院はことごとく揺れ動き、または光が景雲を照らしたようであったと伝聞した。京師の金持ちは互いに街道で集まって、織物で台や宮闕をつくり、水銀を注いで池とし、金玉で樹木をつくり、僧侶や羅漢の像をあつめ、鼓を鳴らして法螺貝を鳴らすことは日中も夜も続いた。錦で飾った車や刺繍で飾った輿は、歌舞とともに従った。秋七月、帝が崩御した。人主がよいと思ったことを心にとめて誠をつくして行動すべきであることが、李蔚の発言の通りであると思った者は非常に多かったが、全員が救うことができなかった。僖宗が即位すると、詔してその仏骨を返還し、都の老人は餞の挨拶をし、ある者は嗚咽して涙を流した。


  賛にいわく、人を惑すのは怪神であるということは、何と大きな原因であろうか。仏のようなものは、ただ西域の一痩せ人であるだけである。上半身を肌脱して裸足となり、乞食となって食い扶持とし、痩せてその体を辱め、山野に引きこもり、一種の苦行を行い、普段は人に求めることはないのに、いたずらにだらだら従わせているのである。しかしその発言は広大であるものの荒れ果てており、異民族の幻影を出現させ、よくも効果のない無意味なことを推し進め、鬼神の死生によってただ一つの目的とし、これによって疑わせないのである。欲望を打ち砕いて、親族を棄てることは、だいたい黄老とそれぞれ似たりよったりである。漢の時代になって十四代、書が中国に入った。生きている人の情をとどめ、見聞きしたことが限りないことを奇とし、知りようがないことを神とし、物事の理の外を畏れとし、変化に限りないことを聖とし、生をもって死とし、死んでも生に戻り、生に戻れば報いが償われ、その間に羨望してあるいはそうであるとし、近くを賎しんで遠きを貴んだ。翻訳に誤りがあっても、調べて問い詰めることを不可とした。華人を欺瞞し、また荘子・列子の説をはらって講説の助けとし、積み重ねて高きにおき、直ちにその表を出し、無上不可によって加えて勝ちとし、妄りに大げさに脅かしてその教えを唱えた。ここに天子から庶民にいたるまで、すべてが揺り動かされて祠を奉ったのである。

  それより以前、宰相の王縉はその職によって代宗をたすけ、ここに始めて内道場をつくり、昼夜読経し、敵を祓うことを祈り、大いに盂蘭盆会をし、祖先の肖像画を分けて塔廟に供えたから、賊臣に嘲笑われたのである。憲宗の世になると、遂に仏骨を鳳翔府に迎え、宮中に入れたのである。韓愈はその弊害を指摘したが、帝は怒り、もう少しで韓愈は死ぬ寸前となり、憲宗もまた天寿を全うできず、幸福が禍いとなったのだから、間違ってはいないだろうか。懿宗は君たるものではなく、魂は迷い、また前の失敗を教訓とはしなかった。無知の場をつくりたて、よくわかった官の発言を覆い隠し、死によって自ら誓い、かこつけて顧みることはなく、涙を流して拝礼し、宗廟で上帝に仕えたとしても、これによって進ったことはなかった。万乗の君の貴きを屈させ、自ら古胡と等しいとし、数千年の遠いことであっても、身を以て従った。嗚呼、唐の命運がつきたのは、天命の告げだったのだ。懿宗は三か月もしないうちに崩御したのは、唐の徳が振るわないのに、仏骨が来たということは、なんと悲しいことだろうか。

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最終更新:2024年07月25日 02:14
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