鄭覃 ていたん
?-842
中唐の宰相(在任835-839)。宰相
鄭珣瑜の子。父の蔭位によって弘文校書郎に補任され、諌議大夫となり、
崔郾らとともに穆宗を諌めた。京兆尹、翰林侍講学士、工部侍郎、侍講学士と累進したが、
李徳裕と親交があったから牛李の党争では李派に属し、
李宗閔・
牛僧孺が宰相となると嫌われ、李徳裕が罷免されると、戸部尚書から秘書監に左遷されたが、李宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射、判国子祭酒に昇進した。大和九年(835)十一月、甘露の変の後に
李石とともに同中書門下平章事(宰相)となり、滎陽郡公に封ぜられた。さらに門下侍郎・弘文館大学士に昇進し、国子祭酒を兼任した。開成三年(838)病によって宰相の位から去ることを願い出たが、太子太師のみ解任され、五日に一度中書省に入ることを聴されたが、翌四年(839)五月、宰相を罷免されて尚書左僕射となった。武宗が即位すると司空を授けられたが、致仕した。宰相在任中に進士科の廃止を建言したことがある他、開成二年(837)には『石壁九経(開成石経)』一百六十巻を完成させた。弟に
鄭朗、子に
鄭裔綽がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2025年07月19日 21:52