胡規 こき
?-911
唐末・五代の武将。兗州の人。
朱瑾に仕えて中軍都校となる。乾寧二年(895)斉州刺史の
朱瓊が
朱全忠に降伏すると、朱瑾は偽りの書簡を胡規に送らせ、朱瓊を呼び寄せて殺害した。兗州が朱全忠に平定されると、朱全忠に宣武軍都虞候に任じられ、
葛従周・
張存敬を補佐して軍功をあげた。河中都虞候に任じられた。天復年間(901-904)昭宗が長安に戻ると、皇城使に任じられ、洛陽に遷都すると御営使、内園荘宅使に任じられた。唐が滅んで後梁が成立すると右羽林統軍に任じられた。右虎統軍兼侍衛指揮使となった。詔によって洛河の堤堰を修造する際、兵士が百姓の園林を大量伐採したのを弾劾されて、死を賜った。『旧五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻十九 梁書十九 列伝第九 胡規
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最終更新:2024年05月18日 22:23