葛従周 かつじゅうしゅう
?-916
唐末・五代の名将。字は通美。濮州鄄城の人。
黄巣軍に入り、しばらくして将校となった。中和四年(884)三月に
朱全忠が黄巣を王満渡で破ると、
霍存・
張帰霸らとともに投降してその部下となった。朱全忠が蔡州に侵攻した際、敵軍が急迫して来たため、朱全忠を助けて馬に乗せ、敵軍と格闘して顔に負傷し、矢が腿にあたり、身は数槍を受けたが、奮戦して朱全忠を守ったため、諸将が降格される中、ただ葛従周のみが抜擢された。兗州の
斉克譲の軍を任城で破り、その将の呂全真・鞏約を捕虜とした。景福二年(893)二月、諸将とともに
朱瑾を石仏山で破り、
龐師古とともに兗州を攻撃した。乾寧元年(894)三月、
朱瑾の将の張約・李胡椒を破り、軍功により検校左僕射に任じられた。乾寧三年(896)
李克用が魏博節度使
羅弘信を攻撃すると、救援に派遣されて洹水で李克用軍を破り、その長子
李落落を捕虜とした。乾寧四年(897)八月、
楊行密の攻撃のため龐師古とともに淮南に侵攻したが、朱瑾・
李承嗣の軍に大敗し、龐師古は戦死、葛従周は逃れた。光化元年(898)十月、
李嗣昭が邢州を急襲すると城門の外に陣をしき、迎撃して大いに破った。二年(899)春に幽州の
劉仁恭が十万を率いて魏州に侵攻すると、迎撃して破った。検校太保兼徐州両使留後、兗州節度使に任じられた。天復元年(901)三月、
氏叔琮とともに太原を攻撃したが、兵糧が途絶えたため撤退した。
朱全忠が即位して後梁が成立するも、病となり右衛上将軍となって致仕し、太子太師に任じられ、末帝が即位すると潞州節度使、開府儀同三司、検校太師、兼侍中に任じられ、陳留郡王に封じられた。『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻十六 梁書十六 列伝第六 葛従周
『新五代史』巻二十一 梁臣伝第九 葛從周
外部リンク
最終更新:2024年05月18日 21:06