朱瑾 しゅきん
867-918
晩唐・五代の藩鎮・群雄。
朱宣の弟(ないしは従父弟)。宋州下邑の人。兗州節度使(泰寧軍節度使)の
斉克譲の婿であったが、光啓二年(886)斉克譲を追放して留後となり、節度使に任じられた。天平軍節度使の朱宣と同盟を結び、朱宣・
朱全忠とともに
秦宗権を破った。その直後、朱全忠との朱宣の関係が悪化したから、朱全忠とたびたび戦争となり、
時溥が朱全忠に攻められると、兵二万で時溥を救援に向かったが、大敗。乾寧四年(897)朱宣が朱全忠に滅ぼされると、城を出て食料を求めている際に子の朱用貞と
康懐英が朱全忠に降伏してしまったため、南に長駆して
楊行密に亡命した。そのまま楊行密に仕えた。朱全忠の将
龐師古・
葛従周が兵七万人で楊行密を攻めると、朱瑾は淮南の兵を率いて迎撃、清口の戦いで大勝して龐師古を戦死させた。呉が成立すると同平章事となった。呉の権力者の
徐温の長子・徐知訓は、かつて兵法を教えた者であったが、関係が悪化し、徐知訓は刺客を送ったが、朱瑾は手ずから数人を斬って返り討ちにしたという。また朱瑾の妾を手籠めにしたから、徐知訓を殺害し、自刎した。徐温によってその家は滅ぼされたが、妻が刑に臨んで泣くと、妾は「どうしてないているのですか。今行って公にまみえるのです」と言ったから、妻は涙を収めて欣然として刑に就いたという。『旧唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻一百八十二 列伝第一百三十二 朱瑄 弟瑾
『旧五代史』巻十三 梁書十三 列伝第三 朱瑾
『新五代史』巻四十二 雑伝第三十 朱宣 弟瑾
外部リンク
最終更新:2024年05月23日 13:37