唐書巻二百一十四
列伝第一百三十九
藩鎮宣武彰義沢潞
劉玄佐 鄧惟恭 呉少誠 少陽 元済 李祐 劉悟 従諌 稹 李佐之 李師晦 李丕
劉玄佐は、滑州匡城県の人である。若い頃から世俗の縛られず、自ら仕事をせず、県に盗賊として捕らえられ、法に触れて、吏が笞うってほとんど死ぬところであったから、そこで亡命して永平軍に従い、ようやく牙将となった。大暦年間(766-779)、
李霊耀が汴州で叛くと、劉玄佐はその無防備さに乗じて、襲撃して宋州を奪取し、詔によって宋州を永平軍に属させ、節度使の
李勉はそこで上表して刺史に任命した。
徳宗の建中年間(780-783)初頭、昇進して御史中丞を兼任し、充宋・亳・潁節度使となった。当時、
李納が叛き、
李洧が徐州とともに帰順したから、李納はこれを猛攻したが、劉玄佐に詔して李洧を救援させ、大いに李納の軍を破り、斬首一万級あまり、東南の補給路が打通した。進撃して濮州を包囲し、濮陽を従え、すべて降り、再び降将をその守将とし、遂に濮陽津への道を打通させた。検校兵部尚書・兼曹濮観察・淄青兗鄆招討使・汴滑都統副使に遷った。
李希烈が叛くと、劉玄佐は
李勉・
陳少游・
哥舒曜は兵を連合して淮・汝に陣を敷き、しばしば賊を窮地に陥らせた。
帝は奉天にあって、関東を注視し、そこで詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事となった。李希烈が陳州を攻撃すると、劉玄佐は救援し、李希烈は敗走し、遂に進撃して汴州を奪取した。詔して汴宋節度使・陳州諸軍行営都統を加えた。劉玄佐の本名は劉洽で、ここにいたって名を賜って寵遇された。入朝し、再び涇原・四鎮・北庭兵馬副元帥、検校司徒を兼任した。
性格は豪放磊落で、財産を軽んじて好んで褒賞をあつくしたから、百姓はますます困窮した。汴州は
李忠臣以来、兵卒は驕慢で、自ら朝廷に帰順することもできず、劉玄佐にいたっていよいよ甚だしかった。その後軍長を殺して、大いに掠奪し、利に慣れて当然と思うようになった。劉玄佐が偉くなってからも、母はまだ健在で、賢婦人であった。常に毎月絁(あしぎぬ)一端を織り、根本を忘れないことを示した。しばしば劉玄佐に臣節を尽くすことを教えた。県令をして庭中を走らせて上言させたが、退くと、諌めて「長吏が恐れて卑屈になることが甚だしい。私が思うに、父が県で吏として働いていたときは、またこのようであった。机によりかかって対応するのに、どうしてよいといえるのか」と言ったから、劉玄佐は感じるところがあり、そのため部下への待遇はますます礼を加えた。汴州に
相国寺があり、ある者が仏像が汗を流したと伝え、劉玄佐は自ら行って大いに金帛を施し、将兵・官吏・承認も争って金銭を施し、ただ後のことを恐れた。十日して、劉玄佐が命令して罷めさせ、没収して巨万を得ることができ、そこで軍に編入した。このように詐欺を働くことはこのようであった。それより以前、
李納が使者を派遣して汴州に到着し、劉玄佐が女子を飾り立てて進上し、あつく贈り物をしたが、皆その陰謀を知り、そのため李納は非常に憚った。寵遇した吏の張士南および仮子の楽士朝が巨万の富を得ていた。しかし楽士朝は劉玄佐の愛妾と密通し、発覚を恐れて、劉玄佐に酖毒を盛り、死んだ。年五十八歳。太傅を追贈され、詔して壮武という。
軍中は喪を秘匿して代わりとなる者を待ち、
帝もまた隠した。三日して喪を発した。使者がやって来ると、帝は擁立しようとしている者を尋ね、「陝虢観察使の
呉湊はどうか」と聞くと、監軍の孟介・行軍の盧瑗は都合がよいと上奏し、そこで呉湊を節度使に任じた。汜水に到着すると、劉玄佐の柩は動かそうとしており、兵士がともに拝礼することを要請したが、盧瑗は許さず、軍は皆怒った。夜明けに兵士が騒ぎ出し、劉玄佐の子の
劉士寧に喪を執り行わせ、重榻に座し、墨染の衣を着て、尊んで留後とし、大将の曹金岸・浚儀県令の李邁を殺し、塩漬けとしたが、ただ盧瑗・孟介は免れた。劉士寧はそこで貯蓄した財宝を放出して吏や兵士を労って分配した。孟介はこの通り上奏し、帝は宰相を召集して協議した。
竇参が「汴人は
李納を挟んで命令を迎えています。もし許さなければ、勢力は合流して解くことができなくなります」と言ったから、遂に劉士寧を左金吾衛将軍とし、節度使を継承させた。
それより以前、劉玄佐の養子の劉士幹と楽士朝は皆京師に到り、劉士幹は劉玄佐の死を知って報告せず、奴婢に刀を持って偽って弔わせ、入って楽士朝を席次で殺した。
帝はその専横を憎んで、また劉士幹に死を賜った。
劉士寧がまだ詔を授けられていなかった時、密かに人を派遣して
王武俊・
劉済・
田緒らと結ぼうとしたが、諸鎮はこれを相手にせず、全員がその使者を捕縛した。劉士寧は残忍暴虐で、かつて酒宴の最中、手ずから殺人した。また父の妾たちに強制的に関係を持ち、吏民の妻女に迫って乱倫関係を結ぶか、裸にして見た。狩猟するごとに、数日してから帰還した。その部下は嫌がって心服しなかった。
大将の
李万栄は、もとは
劉玄佐と同郷で互いに親しく、心は広く、兵士の心を掴んだ。
劉士寧は李万栄を嫌って、その兵を奪い、州の政務をとらせた。かつて劉士寧が軍二万を率いて城の南で狩猟し、まだ帰還しなかったとき、李万栄は早朝に府に入り、残留した兵士を呼び寄せて、「天子に詔があって、大夫(劉士寧)を召還して、私に節度使を代わらせた。人には銭三万を賜う」と告げると、兵士は皆拝礼した。ここに兵を分けて諸門を閉ざし、使者に劉士寧に告げさせて、「詔書には大夫を召還されているから、ただちに速かに去られよ。そうでなければ事は急であるから、首を伝送して献上することになる」と述べ、劉士寧は軍が自分と行動を共にしないことを知って、五百騎を率いて出奔したが、中牟に行くと、その半分がいなくなり、東都に到着すると、ただ召使や妾が数十人従っているだけであった。京師に到着すると、詔して邸宅におらせ、出入を禁止した。李万栄は劉士寧の部下数十人を斬り、銭二十万緡で軍を労い、詔して劉士寧の家の財貨を没収してこれに給した。李万栄は兵馬留後を拝命した。ここに驕慢となった兵数百人を退けて、ことごとく西辺の防衛に派遣し、守備に当たった者は怨んだ。将官の韓惟清・張彦琳らはその地に行くことを願ったが、許さず、その子の
李迺を将としたが、出発する前に、張彦琳らは怨みによって、李万栄に反抗したが、勝てず、物資・民の財貨を奪い、数千人を殺して潰滅した。韓惟清は鄭州に逃げ、張彦琳は東都に逃げて自ら朝廷に帰順したが、詔があって死は許されたものの悪地に流された。残った兵士は宋州に逃げ、
劉逸淮は慰撫したが、李万栄はことごとくその妻子を誅殺したから、軍は不安に思い、ある者が市場で「大軍が来た。城も破壊される」と叫んだから、李万栄が捕らえて尋問すると、その者が劉士寧のために言ったとしたから、李万栄はこの者を斬り、それを上奏報告し、そのため劉士寧を郴州に排斥した。
にわかに李万栄を昇進させて節度使とした。たまたま重病となり、兵を
鄧惟恭に預けた。鄧惟恭は、李万栄と同郷であった。しかし子の
李迺を司馬に任命し、大将の李湛・張伾・伊婁涗らを外部に出して、殺そうとしたが果せなかった。李万栄が死ぬと、この夜、鄧惟恭と監軍の
倶文珍は李迺を捕らえて京師に送り、京兆府で杖殺し、董晋がこれに代わった。
呉少誠は、幽州潞県の人であり、代々蔭位により諸王府の戸曹参軍事となった。荊南をさまよい、節度使の
庾準は優れた人物だとし、留めて牙門の将とした。入朝に従い、襄陽に立ち寄ると、
梁崇義が必ず叛くであろうとみて、密かに計略をめぐらせて天子に献じようとしたが、
李希烈がその事を上奏し、詔があってお褒めの御言葉をいただき、抜擢されて通義郡王に封ぜられた。梁崇義が叛くと、李希烈は呉少誠を先鋒とした。謀反が平定されると、実封戸五十を賜った。李希烈が叛くと、呉少誠は彼のために力を尽くしたが、李希烈が死ぬと、
陳仙奇を推戴して後務を司り、そしてまた陳仙奇を殺し、軍はそこで呉少誠を推戴し、
徳宗はそのため申・蔡・光等州節度観察留後を授けた。
呉少誠が政務にあたると、よく無駄を省いて節約につとめ、軍は実態を全うした。李希烈より以来、申・蔡の人は苛法に脅かされて朝廷に帰順することを忘れ、長老たちはすでに死に絶え、そこで壮年の者は常に掠奪を見ていたから、戦いであっても平然としていた。当地に馬が少なく、騾馬に乗って戦ったから、「騾子軍」と号し、非常に剽悍であった。甲冑にはすべて雷公星文を描いて勝利を祈願し、王師を呪い罵った。その部下の
鄭常・楊冀は呉少誠を脅かし、追放して朝廷の命令を聞こうとしたが勝てず、鄭常・楊冀は殺害された。呉少誠はことごとく諸将を許し、これによって軍の心は団結した。貞元五年(789)、昇進して節度使に任じられた。
しばらくして
曲環が卒し、呉少誠は陳州・許州の間に軍帥がいなくなったから、兵で臨潁を攻撃し、守将の韋清は賊と通じ、留後の
上官涗は兵三千人を派遣して救援させたが、ことごとくが賊の捕虜となり、遂に許州を包囲された。
徳宗は怒り、呉少誠の官爵を削り、十六道の兵をあわせて討伐に進撃させた。
于頔は襄陽の兵で呉房県・朗山県で戦い、その三将を捕虜とした。王宗は寿州の兵で賊を秋柵で破った。当時、軍は大軍であったとはいえ、統率する者がおらず、宦官の監軍が進退を独占し、互いに見識が異なっていた。小溵河で戦うと、諸道の軍は合流する前に潰滅し、兵糧・武器を放棄して贖わなかった。
帝はそこで夏州節度使の
韓全義に詔して淮蔡招討処置使とし、上官涗を副官とし、諸将は皆節度を受けた。賊の
呉少陽らと広利城で戦い、軍は再び敗北して、退却して五楼に陣を敷いたが、賊に乗じられ、遂に大いに潰滅した。韓全義および監軍の
賈英秀らは夜に逃れて溵水に立て籠もった。汴宋・徐泗・淄青の兵は陳州に逃げた。呉少誠は溵水に迫って陣を敷き、韓全義は恐れ、退却して陳に陣を敷き、潞・滑・河陽・河中の兵は逃げ帰り、ただ陳許節度使の将の
孟元陽・神策の将
蘇光栄が溵水に立て籠もった。韓全義はそこで潞の将の夏侯仲宣・滑の将の時昂・河陽の将の権文度・河中の将の郭湘を斬って、軍の士気をあげようとしたが、できなかった。呉少誠は兵を引き上げて去った。
韓全義が敗れると、呉少誠は帷幄中の諸公の書簡数百通を得て、手に持って軍をあざむいて、「朝廷の公卿は韓全義に託して、蔡を破った日には将兵の妻女を奪って婢や妾にしようとしていた」と言うと、その軍は激しく怒り、朝廷に従おうとする思いを絶った。呉少誠は王師が弱いとみて、書簡を
賈英秀に送って名誉回復を求めた。
帝は大臣を召集して議し、宰相の
賈耽は、「五楼の軍は退却して、呉少誠は退却して兵を休めて追わなかったので、自ら新たな道があるでしょう」と言い、帝は次第に退こうと思い、呉少誠もまた防備を固めた。しかしなおも宦官が諸道の軍を監督していた。剣南の
韋皋は上言して、重臣を選んで統帥とするのにこしたことがなく、そこで
渾瑊・
賈耽を推薦し、「陛下はもし重ねて元老を煩わしく思われ、改めてその次となるべき人を求められるのでしたら、この臣が願わくば精兵一万人で流れに従って荊・楚に急行し、元凶を取り除きましょう。そうでなければ、その罪を請うのによって、特にもとの罪をそそぎ、両河の諸軍と、またその次となる人を罷めるのです。呉少誠の罪悪は累々とし、変事は帳下でおき、必ずその賊党に、官爵を与えるべきで、そうすれば一人の呉少誠が死んで、一人の呉少誠が生まれても、またどうして頼るにたりましょうか」と述べたから、帝は遂に呉少誠を許し、すべてその官爵を戻した。
順宗が即位すると、同中書門下平章事、検校司空に昇進し、濮陽郡王に移封された。元和四年(809)死に、司徒を追贈され、
呉少陽がこれに代わった。
呉少陽は、滄州清池県の人である。
呉少誠と同じく魏博軍にあって、友人として互いに親しかった。呉少誠は淮西を得て、多く金帛を出して呉少陽を迎え、養って義弟とし、側近に任命し、昵懇で仲違いしたことはなかった。呉少陽は呉少誠の猜疑心が強くて残忍であると思い、また災いを恐れて、外地に赴任することを願い、呉少誠はそこで上表して申州刺史とした。治世は寛大かつ簡略で、軍をあげて頼り従った。呉少誠はしばしば病となり、家奴の単于熊児は偽って呉少陽を呼び寄せ、副使とし、軍事を統括し、ここに呉少誠の子の呉元慶を殺し、自ら留後を称した。
憲宗は
王承宗が叛こうとしていたから、そのため詔して
遂王を節度使とし、呉少陽に留後を差配させた。三年して、昇進して節度使を拝命した。
呉少陽は徭役の名簿によらず、日によって人を集めて賦とした。地は原野や沢が多く、馬を牧畜して増やした。時折、寿州の茶山を掠奪し、商人を脅し、四方の亡命者を招いて、その軍に編入した。朝廷の命令に服することをよしとしなかったが、しばしば牧馬を献上して弁解したから、
帝もまたよしとした。
元和九年(814)死に、子の
呉元済が秘匿して喪を発せず、病であると上聞し、偽って上表して呉元済に兵を司ることを願った。
帝は太医を派遣して往診させたが、表向きは少し癒えたと言い、見ることはできなかった。
呉元済は、
呉少陽の長子で、首がまがり強烈な見た目で、顎が垂れ下がり、鼻の長さは六寸あった。始め仕えて試協律郎、摂蔡州刺史となった。
董重質なる者がおり、
呉少誠の婿で、勇敢で、長い間将となり、兵との関係は良好で、呉元済は頼ったから、そこで呉元済に説いて、精兵三千で寿州の間道を通って揚州を奪取し、東は
李師道と盟約を結んで水軍で潤州を襲撃することを願い、この提案によって展開されることとなった。奇兵を派遣して商州・鄧州を蹂躙し、
厳綬を奪取し、進撃して襄陽を守り、これによって東南を揺さぶり、そして荊州・衡州・黔州・巫州は一本の矢文を伝えることで平定でき、五嶺は朝廷の領有するところではなくなるだろうとした。また軽装兵五百を願い、崿より三日で東都を襲撃し、そこで天下が騒動となり、これによって縦横できるとした。呉元済は躊躇して採用できなかった。
これより先、その部下の蘇兆・
楊元卿・侯惟清はかつて
呉少陽に入朝を勧めたが、ある者が二心を抱いていると言ったから、呉元済は蘇兆を絞殺し、その死体を家に帰し、侯惟清を捕らえた。
帝は二人の者が死んだから、そのため侯惟清に兵部尚書を、蘇兆に尚書右僕射を追贈した。当時、楊元卿は奏上のため長安に滞在中で、宰相の
李吉甫に謁見して、詳細に淮西の事を告げ、また蔡使で道中にある者を、在所で拘禁するよう要請した。
呉少陽が死んで四十日、帝は政務を停止し、将を代えて守備兵を増やし、事変を待った。
たまたま
董重質が呉元済を殺害し、一家皆殺しにしたとの伝聞があり、
李吉甫はそこで呉少陽のために政務を停止し、使者を派遣して弔問し、尚書右僕射を追贈するよう願った。しかし呉元済は応じることがなかった。そこでことごとく兵を四方に出兵し、舞陽県および葉県を焼き払い、襄城県・陽翟県を掠奪した。当時、許州・汝州の居人は皆山間部に逃げ隠れ、掠奪は千里あまりに及んだから、関東は大いに恐れた。弔使が到着すると、入れずに帰還させた。そこで
烏重胤に詔して汝州刺史を兼任させ、軍を率いてその境を威圧し、寧州刺史の
曹華を副官とし、襄城を守らせた。
李光顔を忠武節度使とし、全兵力で臨州に駐屯させた。山南東道節度使を分割し、節度使の
厳綬に詔して申・光・蔡等州招撫使とし、宦官の
崔潭峻をその監軍とした。詔を下して呉元済の官爵を奪い、諸道に討伐に進撃させた。当時、大旱魃となり、詔はすでに下っていたが、雪が三日降った。
田弘正・
韓弘はそれぞれ子を派遣し兵を率いて厳綬・李光顔の軍に隷属させた。厳綬は蔡の西端に陣を敷き、軍は小さな勝利をおさめたが、防備を設けなかったから、賊に襲撃されて、磁丘で敗北し、退却して唐州に陣を敷いた。寿州刺史の
令狐通は戦ったがしばしば敗北し、賊はそこで霍丘を陥落させ、馬塘を皆殺しにし、出城を通ってあえて出撃しなかった。左金吾衛大将軍の
李文通に詔して宣慰させようとしたが、到着する前に令狐通を解任して交替させた。
たまたま
裴度が宰相となると、賊は始めて恐れ、呉元済は指揮権を掌握することができず、諸将の趙昌・
凌朝江・
董重質・
李祐・李憲・
王覧・
趙曄・
王仁清らはそれぞれの判断によって自分で戦っており、王師に抵抗し、
呉少誠・
呉少陽の旧風があった。しかも
李師道は塩を送り、寧陵・雍丘の間を出入りし、
韓弘は知っていても禁じることをよしとしなかった。
李文通は兵を率いて賊将の王覧・董重質と史蔟岡で戦い、王覧の首級をあげた。
李光顔はまた賊を時曲で大破し、再び
烏重胤とともに合流して賊を小溵河で攻撃して破り、その陣地の者を皆殺しにした。天子は厳綬が軍律を失ったことを責め、改めて
韓弘を兼都統とし、
高霞寓を抜擢して唐鄧随節度使とした。
元和十一年(816)、諸軍が大合流した。
李光顔は掌河に立て籠もった。
李文通が賊を固始で破り、𨫼山を陥落させた。
高霞寓が朗山で戦い、千人あまりの首級を斬首し、その陣地を焼き払い、鉄城に進んだ。賊が偽って敗走すると、高霞寓は追撃すると、伏兵を発し、死傷者がほぼ全員となり、退却して新興に立てこもり、賊はこれを包囲すると、監軍の李議誠が唐州から急行した。救援の軍が到着すると包囲は解け、帰還して唐州を守備した。
呉元済は
高霞寓が敗れたから、恐れるに足りずとし、兵を合わせて陳州で備えた。その秋、
李文通は兵に枚を咥えさせて夜に九女原に出撃し、敵陣三十所を皆殺しにし、兵を西北および安陽山に分けて、警備兵数百人を破り、降伏する者は一万人あまり、両将とも捕らえた。
李光顔は郾城の兵二万を破り、六人の将を捕らえ、また
烏重胤とともに合流して凌雲柵を攻撃して陥落させた。
帝は諸軍に大功がないのを怒り、内常侍の
梁守謙に詔して宣慰させ、そこで督戦し、詔書を五百預けて、これによって功績があるのを待ち、金帛を退けて決死の兵士を募った。李光顔を検校尚書左僕射に、烏重胤を右僕射に、
田布を御史中丞に、
韓公武を御史大夫に昇進させた。詔旨で賞罰を厳しくすると約束したから、諸将は恐懼した。高霞寓を貶して、
袁滋に代わらせた。袁滋は臆病で進撃できず、改めて
李愬を唐鄧随節度使とした。
呉元済は兵糧が尽きて、兵士は庭の草木や魚・亀もすべて食べ尽くし、草の根を削って配給した。民は飢えに苦しみ、四散逃亡し、呉元済もまたその食事を惜しんだが、また禁じなかったから、諸将は争って食を納めた。
帝は始め仮に郾城・呉房に行営を設置し、これによって呉元済を留めて新たに付き従わせようとした。
李愬は兵を率いてその西を攻撃し、陣地や防御柵十箇所あまりを破り、
丁士良・
呉秀琳を捕らえ、全員賊の勇敢な者であった。賊帥の張伯良は兵三万で
李光顔と郾城で戦ったが、大敗した。馬千匹・兵士三万級を鹵獲し、張伯良は蔡に逃げ帰った。
曹華は青陵城を奪取し、郾城への帰路を絶った。賊将の
鄧懐金は恐れ、そこで書簡を送り、李光顔は受け取った。李愬はまた襲撃して朗山を破り、守将の梁希果を捕虜とし、汶港柵などの三陣を平定した。呉元済は軍がしばしば潰滅して、外で呉秀琳らを失ったのを知り、そこで上表文を奉って自身を拘束して北の朝廷に行くことを願い、帝は使者を派遣して死罪を許すこととした。呉元済は行営の馬三百を取ったが、
董重質は与えなかったから、降伏を果たせなかった。李愬は興橋柵を攻略し、守将の
李祐を捕虜としたが殺さず、引きたてて帷幄のもとに連れていき計略を議論し、始めて蔡を襲撃しようとはかり、賊の勢いはますます阻まれた。
呉少誠より蔡の領有を奪って四十年、王師はいまだかつて城下に迫ったことはなく、またかつて
韓全義・
于頔を破ると、これによって兵は驕って憚ることはなくなり、内は防備をたのんで次第に阻止を続け、そのため天下の兵を合わせて攻撃しても、三年でわずかに一・二県を得たくらいであった。
帝はすでに
高霞寓・
袁滋らを責めて罷免し、諸将はそこで命令通りに従った。詔して沙陀の勇敢な騎兵を起用して軍を助け、
裴度に命じて彰義節度兼申・光・蔡四面行営招撫使とした。
梁守謙は諸将とはかって、裴度のまだ到着していないから先んじて功績を立てようとし、諸将はしばし戦ったが勝てなかった。裴度が到着すると、大いに将兵を労い、皆が感激して戦いを求めた。間隙を縫って兵士を派遣して蔡に入れ、呉元済の降伏を約束させたが、側近に脅かされ、降伏することができなかった。
李光顔は戦うごとに軍に冠たるものがあり、そのため呉元済は全軍を時曲で待ち受けた。
李祐は李愬のために謀って「蔡を守る者は、市の人か疲弊した兵士だけです。強兵はすべて外にあり、もし直ちに縣瓠を叩けば、賊は捕虜とできます」と言い、李愬はその通りだと思い、精兵の騎兵で夜に蔡を襲撃して、垣根から侵入したが、守兵は知らなかった。賊は
董重質の兵をたのんで洄曲にあり、軍が到着しても心配せず、李愬が内城を攻撃すると、守兵はなお千人あまり接近戦をしたから、呉元済は始めて驚き、甲冑を着て城壁の上に登って董重質を待った。たまたま董重質は李愬に降伏しており、
李進誠は賊の庫兵を奪って、ただちに攻撃した。翌日、その門を焼き払い、民は互いに薪を抱えて火の勢いを増し、王師は矢を放ち、城上の鏃は拾うことができるほどであった。二日して、門は壊れ、呉元済は捕らえられ、一族をあげて長安に伝送された。申・光の守兵はなお三万おり、全員が降伏した。
帝は
興安門に御して捕虜を接受し、群臣はお祝いを述べ、呉元済を廟社に献じ、市で布告して斬った。年二十五歳。夜にその首は失われた。妻の沈氏は掖庭宮に入れられ、二人の弟と三人の男子は江陵に流され、全員が殺された。その部下の官吏の劉協庶・
趙曄・王仁清ら十人あまりを斬った。
裴度が帰還すると、
馬総を留後とし、にわかに節度使を拝命し、溵州を分割して陳許に隷属させた。
始め
裴度が出撃すると、太子右庶子の
韓愈は行軍司馬となり、
帝は裴度の功績を褒め称え、そこで韓愈に命じて「平淮西碑」をつくらせた。その銘文は以下の通りである。
「天は、唐の国家が天の徳によく似ており、神聖なる子孫が、つぎつぎと継承し、千年万年たっても、敬虔に戒懼して怠ることがないというので、天のおおうかぎりの土地をすっかり付託し、四つの海と九つの州は、国の内外を問わず、すべて唐を君主としすべて唐の臣下とした。
高祖皇帝、
太宗皇帝は、仇敵を除いて天下を平定された。
高宗皇帝、
中宗皇帝、
睿宗皇帝は、民草を休養生育させ、
玄宗皇帝に至ったが、先代の報酬を受けて功業を挙げられ、盛大豊富を極めた。物は多く土地は広くなった。そのあいだに災禍が芽ばえて来た。
粛宗皇帝、
代宗皇帝、祖父の
徳宗皇帝、父の
順宗皇帝は、努力されるとともに寛容であり、
安禄山・
史思明という大悪人はやっと亡び去ったが、雑草は抜きとられていなかった。宰相と将軍とでは、文官はあっさりとし武臣はうきうきしていたが、見なれ聞きなれたあげく、それをあたりまえと考えるようになっていた。
睿聖文武皇帝陛下は、臣下のものたちのあいさつを受けられてから、地図を考え貢納品を数えられて、「ああ、天は朕の一家にすっかり付託し、いま、朕にまで順序によって伝わった。朕が政治をあるべき形にしなければ、天と先祖にあわす顔がない」とおおせられ、臣下のものたちは震えおののき、馳せまわって職務に努めた。あくる年、
蜀を平定され、又そのあくる年、
江東を平定され、又そのあくる年、
沢潞を平定され、ついでに
易、定二州をしずめられ、
魏、博、貝、衛、澄、澶、相の六州を帰順させ、お志のとおりにならぬものはなかった。皇帝にはおおせあり、「武力を出しきってはならぬ。朕はいささか休息することにしよう」
元和九年(814)、蔡州の司令官
呉少陽が死に、蔡州の人はその子の呉元済を後任にして許可を求めたが、許可されなかった。かくて舞陽県を焼きはらい、葉県・襄城県に侵入して、東都洛陽を動揺させ、軍隊を出動させて四方を掠奪した。皇帝は朝廷でつぎつぎと意見をたずねられたが、一、二の臣下のほかはみなこういった。「蔡州の司令官が、朝廷から任命されないようになってから、今までに五十年、三つの姓の四人の将軍に伝えて、根を張ることはしっかりとし、武器は鋭利、兵卒は頑冥、ほかの場所とはちがいます。だからなだめて領有させれば、すらすら事がはこんで無事でございましょう」重臣が個人の推量で決定して音頭をとれば、多くの口が唱和して、みんな同じことばとなり、牢固としていいまかすことができなかった。皇帝は、「天と先祖が朕に付託委任されたのは、多分この点なのであろう。努力せずにはおれぬ。まして、一、二の臣下は賛同しているのだから、助けるものがないとはいえぬ。」とおおせられ、「
李光顔よ、そなたは陳許の司令官となれ、河東、魏博、郃陽の三軍の出征しているものは、そなたがすべて指揮をとれ」「
烏重胤よ、そなたはもと河陽と懐州を統治していたが、今、沈州をつけ加える。朔方、義成・陝・益・鳳翔・鄜延・寧慶の七軍の出征しているものは、そなたがすべて指揮をとれ。」「
韓弘よ、そなたは一万二千の兵卒をそなたの子の
韓公武につけて征討させよ」「
李文通よ、そなたは寿州を守備せよ。宣武、淮南、宣歙、浙西、徐泗の五軍の寿州に行っているものは、そなたがすべて指揮をとれ」「
李道古よ、そなたは鄂岳観察使となれ」「
李愬よ、そなたは唐州、鄭州、随州の司令官となり、それぞれその州の兵士をひきいて進攻せよ」「
裴度よ、そなたは御史の長官となり、出征して軍隊を監督せよ」「裴度よ、そなただけは朕と同じ意見、そなたはかくて朕の宰相となり、命令に従ったものと従わなかったものとの賞罰をつかさどれ」「
韓弘よ、そなたは諸軍の総司令官となれ」「
梁守謙よ、そなたは朕の近くに出入りするもの、そなたは、近臣である。軍隊の慰問に出むけ」「裴度よ、そなたは出征して、朕の兵士に衣服と飲食とを与え、こごえるなく飢えることのないようにして、事件がおわれば、そのまま蔡州の人の生活を安定させよ。そなたに司令官のまさかりと通天御帯と護衛兵三百を下賜する。だれでも、この朝廷の臣下のなかから、そなたがえらんで、自分の副官にせよ。賢明で能力あることだけを考え、大官とても遠慮するな。庚申の日、朕は門まで出かけてそなたを見送ろう」「御史たちよ。朕は官吏たちが戦争でたいへん苦労しているのを気の毒に思う。これから以後は、天と先祖の祭祀でなければ、音楽を使用するな。」
李光顔、
烏重胤、
韓公武はいっしょになって敵の北面を攻め、戦闘十六、要塞と城と県とを二十三占領し、住民士卒四万人を降伏させた。
李道古は敵の東南面を攻め、八回の戦闘で、一万三千人を降伏させ、二度、申州にはいり、その外城を破壊した。
李愬は敵の西面にはいり、敵の部将を捕虜にしたが、そのたびにゆるして殺さず、その計略を採用して、戦闘につぎつぎと功績をあげた。元和十二年(817)八月、宰相
裴度が征討軍に到着し、総司令官の
韓弘が戦いをせきたてればせきたてるほど、李光顔・鳥重胤・韓公武が協力しあっての戦闘はますます命令どおりに行なわれ、呉元済はその軍勢のありったけを洄曲阿に集中して防備した。十月壬申、李愬は捕虜にした反乱軍の部将の策によって、文城から大雪に乗じて百二十里を急行軍し、夜なかに蔡州に到着して、その門をうちやぶり、呉元済を捕えて献上し、すっかりその部下の住民と兵士を手に入れた。辛巳、宰相
裴度は蔡州に入城し、皇帝の勅命によってその地の住民を赦免した。淮西が平定されたので、大宴会を開いて功あるものに引出ものがあり、征討軍が凱旋の日に、ついでにその宴会の食事を蔡州の住民に下賜された。すべてで蔡州の兵卒は三万五千人、兵卒になりたくなくて、農民にもどりたいと願うものが十分の九もいたが、かれらすべてを自由にしてやり、呉元済を首都で斬罪に処した。
功績が記録されて、
韓弘は侍中を加増になり、
李愬は左僕射となって山南東道節度使に任ぜられ、
李光顔と
烏重胤とはどちらも司空を加増され、
韓公武は散騎常侍で鄜坊丹延節度使に任ぜられ、
李道古は御史大夫に進級し、
李文通は散騎常侍を加増された。宰相
裴度は首都へのぼる途中で晋国公の称号を賜わり、金紫光禄大夫の位階に進級し、もとの官職のまま宰相に任ぜられた。そしてその次官の
馬総を工部尚書にして、蔡州の司令官に任命した。
凱旋して奏上すると、臣下のものたちは、聖天子の功業を記録して、それを銅器や石碑に刻みつけたいとお願いした。皇帝はそれをこの臣
韓愈に命ぜられたので、臣韓愈はうやうやしく伏しおがみ、文をささげた。
唐は天命を受けて、かくて万国を臣とした。近くの土地におりながら、強盗をはたらいて無茶をするのはだれなのか。むかし
玄宗皇帝は、極点までのぼりつめたもうたあげく失敗された。黄河の北がたけだけしく驕ぶれば、黄河の南もくっついて立ちあがる。四代の聖天子はゆるされず、たびたび軍隊を出動させて征討された。勝つことができないこともあり、ますます兵卒で守ることとなった。農夫は耕しても食べられず、農婦は機織りしてもはかまもはけない。それを車で輸送して、兵士に賜う兵糧となるだけ。地方からは朝廷へ御機嫌うかがいできないものが多く、天子さまの巡幸はすっかりなくなった。役人たちは勤めを怠り、政務はむかしの状態を失った。
皇帝陛下はこのとき御位を継がれ、かえりみてなげかれた。そなたたち文官と武臣よ、だれが朕の家を気づかっているのか。
呉と
蜀との反逆者を斬り、さらに山東を収められた。
魏の司令官が率先して忠義をとなえ、六州は降伏した。淮西の蔡州は反抗的で、自分で強いと思っていた。武器をひっさげてわめきたて、もとの習慣どおりにしたいといった。さいしょ征討を命ぜられたとき、それではと姦悪な近隣の軍閥と連合した。そっと暗殺者を派遣し、やって来て
宰相をころした。そのときはちょうど戦いはまだ不利で、内では首都が大さわぎであった。高官たちは上奏して、恩恵を与えて招き寄せるがよいという。皇帝は聞こえぬふりをして、神霊とはかられた。かくて
宰相も徳性を同じくし、天の誅罰を下されることになった。かくて勅命あって、
李光顔と
烏重胤]・[[李愬・
韓公武・
李道古・
李文通、すべては
韓弘に統率され、それぞれ自分の功績をあげよと。三方から分かれて攻める、その軍勢は五万人。敵の大軍は北方へ進出し、その数は三方から攻めるものの二倍あった。あるときは時曲で戦い、敵の兵士はもそもそと動揺した。陵雲の要塞を攻略すれば、蔡州の兵士は非常に窮地に陥った。邵陵で勝てば、郾城が降参して来た。夏から秋になり、重なった陣営はおたがい見えるところまで接近した。兵士は疲れて元気を出さず、戦功の報告はまれとなった。皇帝は出征兵士をあわれみたまい、宰相に命令して御下賜品をとどけさせられた。兵士は腹いっぱいになって歌をうたい、馬はかいばおけではねあがった。新城でためしてみると、反乱軍はぶつかると負けて逃げた。ありったけをひきぬいて、それをあつめてわが軍を防いだ。西面の軍がおどりこめば、途中には阻止するものもない。つねに悪のはびこる蔡州城、その管内は方千里。入城して占領してしまえば、服従しないものはなかった。皇帝は恵み深いことばをおおせられ、宰相の
裴度がやって来て公布する。死刑はその首領だけ、部下は釈放する。蔡州の兵士と人夫は、よろいを投げすててさわぎおどる。蔡州のおんなは、門に出迎えて笑いさざめく。蔡州の住民が飢えているといえば、穀物を船に載せて行って食べさせる。蔡州の住民がこごえているといえば、きぬや麻ぬのを賜わる。さいしょ蔡州の住民は、往来せぬよう禁止されていた。いまはいっしょに楽しみあい、里の門は夜も開いている。さいしょ蔡州の住民は、進めば戦闘、退けば死刑であった。いまはおそく起きて、左手にごはん右手におかゆ。かれらのためによい人をえらんで、のこった疲れを取り除かれる。役人を選び牛を支給し、教化して税金は取らない。蔡州の住民はこういう、さいしょは迷いに落ちて知らなかった。いまやっとすっかり目が覚めた、さきにしたことがはずかしい。蔡州の住民はこういう、天子さまはお見とおしだ。反抗するものは一族みなごろし、反抗せぬものは命がぶじ。きみがわたしのことばを信じないなら、この蔡州を見よ。だれが反抗して、のどをまさかりで斬られに行こうとするのか。すべて反乱が数か所あれば、評判と勢力とはおたがいにたよりあう。われわれは強かったが堪えきれなかった、きみは弱いのにたのみとするものがあるのか。きみの司令官、きみの父ときみの兄に告げるがよい。馳けつけていっしょに来て、われわれと太平を共有しよう。淮西の蔡州が反乱して、天子さまは討伐された。討伐がすんで飢えておれば、天子さまは命を生かされた、と。さいしょ蔡州討伐を討議したとき、朝廷の臣はだれも賛成しなかった。討伐をはじめて四年も経過し、下のものも上のものも疑問をいだいた。赦免もせず疑問もいだかなかったのは、天子さまの聡明さによる。すべてこの蔡州討伐の功業は、決断によってこそ成功した。淮西の蔡州が平定されてしまうと、四方の国々もすべてやって来た。かくて明堂を開いて、じっと坐ったまま天下をお治めになる。」
韓愈は、呉元済が平定されたのは、
裴度がよく天子の意を固めて、許させなかったからで、そのため諸将はあえて形勢をうかがって心を決めかねており、ついに呉元済を捕らえたのは、多くを裴度の功績に帰したからだとした。しかし
李愬は特に蔡城に侵入して功績は第一であった。李愬の妻は
唐安公主の娘であり、禁中に出入りし、韓愈の文章が事実ではないと訴えた。
帝もまた武臣の心にさからっていることを重くみて、詔してその文章を削り、改めて翰林学士の
段文昌に銘文をつくらせた。
李祐は功績によって神武将軍に遷り、田宅や米粟を賜った。
帝は
董重質を思い起こせば呉元済の乱を教えた者であるとし、誅殺しようとしたが、
李愬が先に許していたから死なず、そのため春州司戸参軍に貶された。
凌朝江は潘州司戸参軍となった。
この年、申州・蔡州は始めて貢物を輸し、戸部は長らく来なかったことから、元日に朝廷で開陳するよう要請した。
李祐は、字は慶之で、後に夏綏銀宥節度使に抜擢され、涇原節度使に遷った。
李同捷を討伐すると、滄徳景節度使に改められ、検校尚書左僕射となった。
董重質は左遷されたが、しばらくして太子少詹事に転任し、武寧軍に所属した。左神武将軍に遷り、金幣を功臣らとともにもたらした。抜擢して左右神策および剣南西川行営節度使とし、夏綏銀宥節度使に任じられた。兵の訓練に優れ、異民族は恐れて服属した。右龍武統軍で官を終わり、尚書右僕射を追贈された。
劉悟は、その祖父は
劉正臣で、平盧軍節度使となり、范陽を襲撃したが勝てず、死んだ。叔父の
劉全諒は、宣武軍節度使となり、その剛毅さを人物とし、牙将に任じたが、罪によって潞州に逃亡した。
王虔休に再度将に任命されたが、病のため去り、東都(洛陽)に遷った、劉全諒は銭を数百万緡積んでここに置いていたが、劉悟は閂を破って銭を使っていた。悪少年を従えて犬の屠殺人を殺し、縦横に法を犯し、河南の獄に繋がれたが、東都留守の
韋夏卿が死ぬのを免れさせた。
李師古は多大な金銭で迎え、始めはよく知らず、後に撃毬に従えると、軒然として突進し、李師古の馬を突いて倒したから、李師古は怒り、斬ろうとすると、劉悟の意気は盛んで言葉は李師古の怒りに触れても恐れなかったから、李師古はその才能が優れていると思い、後軍を率いさせ、従妹を妻に娶らせ、牙門右職に任じた。
李師道は軍で理財をはかろうとし、商人に税を課してその助けとしようとし、劉悟に命じて統括させた。劉悟は一人寛容で、人々は全員帰服した。李師道が討伐されると、将兵を率いて曹州に陣を敷き、法はすべて信により、兵士は楽んで用いたから、軍中では銅鑼が鳴らなかった。
田弘正の兵が陽穀に駐屯すると、劉悟は陣営を潭趙に移し、魏軍は河を越えて盧県を奪取し、阿井に立て籠もり、城中で馮利渉が劉悟とともに軍帥になろうとしていると流言した。
李師道は内心疑ったから、しばしば劉悟を呼び寄せて計略を尋ね、劉悟は「今、魏とは角力のように、勢力が交々しており、先に退いた方が負けます。劉悟が帰還すれば、魏は城下に迫るでしょう」と述べ、側近が「兵の勝ち負けはまだ知ることできませんが、大将が殺されたら、どうしてあえて用いられましょうか」と諌めたから、李師道はそうだと思った。ある者が、劉悟が叛乱しようとしているから、速かに去るのにこしたことがないと言ったから、李師道は使者二人に派遣して督戦させ、密かにその副使である張暹に語って劉悟を斬らせることとした。使者と張暹がしばらく人を避けて密談していたから、劉悟は疑い、張暹は事情を告げたから、劉悟はそこで使者を斬り、諸将を呼び寄せて議して「魏博の兵は強く、出撃すれば敗れ、出撃しなければ死ぬ。また天子が誅殺するとしているのは、司空(李師道)だけである。我が部下を駆けさせて死地につかせるのと、兵を返して鄆州を奪取して大功を立てるのとではどう考えたらよいか。危亡を転じて富貴となるはどうか」と述べると、軍は皆承諾し、別将の趙垂棘は行軍を妨げたから、劉悟は趙垂棘を殺し、あわせて嫌っていた三十人を殺し、帷幄の前に死体を並べたから、軍は恐れて服属した。下令して「鄆州に入った者は、一人あたり賞銭十万、私怨を報復することを許す。財貨は好きなだけ取れ。ただ軍費は全うせよ。違反する者は斬る」と伝え、そこで田弘正に使者を派遣して報告し、兵を潭趙に進撃させた。劉悟は夜半に西門に迫り、夜明けに門を開いて突入し、李師道および大将の魏銑ら数十人を殺した。そこで義成節度使を拝命し、彭城郡王に封ぜられ、実封戸五百を得た。
元和十五年(820)来朝し、検校兵部尚書に昇進した。
穆宗が即位すると、昭義軍に遷された。
朱克融が叛くと、議する者は劉悟の威名をかりてその乱を威圧しようとし、移されて盧龍軍を守った。邢州に到着すると、たまたま
王廷湊が軍乱をおこし、入ることができなかったから、駐屯地に帰還した。昇進して兼幽・鎮招討使となり、治所を邢州とした。臨城を包囲し、事の成り行きを長い事伺ったが、陥落させられず、監軍の
劉承偕とはあわず、軍は劉悟を辱め、その部下を放って法を乱したから、劉悟はそれを忍ぶのにたえられなかった。劉承偕は都将の張問とともに劉悟を捕縛して京師に送還し、代わりの節度使の任命を照会することを謀った。劉悟はこれを知って、兵で監軍を囲み、小使を殺害した。その部下の
賈直言が劉悟を責め正して、「
李司空の死の原因があることを知っておられるはずですが、公をして振る舞いをこのようになさるのでしたら、軍中は再び公のような者があらわれるでしょう」と言ったから、劉悟はにわかに謝して「私は李司空の字を聞くのを欲しない。しばらくの間定めよう」と言い、そこで偽って兵を退け、劉承偕を隠して拘禁した。
帝は劉悟の心に違うことを重く見て劉承偕を貶したが、しかし劉悟は自ら非常に専権し、上書の言は多くは恭しさを失っていた。天下の罪人・亡命者は多く亡命し、強くその無実を並べ立てた。累進して検校司徒・同中書門下平章事となった。
宝暦年間(825-827)初頭、巫者が
李師道が兵とともに瑠璃陂に駐屯していると妄言したから、劉悟は恐れ、祈祷を命じ、千人の膳を供して、自ら赴いて哀悼した。衣を着替えようとした時、喀血すること数斗に及び、卒した。太尉を追贈された。上表してその子の
劉従諌が継承した。
劉従諌は、母は微賎の出身で、若くして狡猾であった。
李師道の時、父の
劉悟が屯営に出されると、劉従諌を門下別奏に任じた。劉従諌は李師道の諸奴とともに毎日博奕で遊んで交流を持ったが、詳細にその陰謀・密事を知ったから、すべて劉悟に伝え、そのため劉悟は功績を立てることができた。劉悟が卒すると、劉従諌は知留後となり、金や絹を権勢者に賄賂として贈った。朝議で上党の内鎮(沢潞節度使)は河朔とは異なるから許すべきではないという発言があった。左僕射の
李絳が「劉悟の死を秘匿し、軍は必ずしも同じく乱をおこなさいでしょう。劉従諌には威厳や恩恵がまだないので、もし詔してこの鎮の大将に節度使を領させ、馳せて軍を入れ、それがまだ備わっていないのを迫って、軍の心理によって属させ、自ら屈するよう謀るのです。もし命令を拒むことがあったとしても、三州では勢いは一人で存在することは難しく、数カ月で覆することができましょう」と奏言した。当時、
李逢吉・
王守澄はその賄賂を納め、しばしば要請があったから、
敬宗はそこで
晋王を節度大使とし、劉従諌に詔して主留事とし、将作監主簿、検校左散騎常侍に起用した。晋王は帝の最愛の子で、劉従諌は贈り物を献上すること行き来が多く、しばらくもしないうちに節度使を拝命した。大和年間(827-835)初頭、
李聴が館陶で敗北し、浅口に逃亡し、劉従諌は鉄騎を率いて黄頭郎で救援したから、李聴は死を免れた。検校尚書左僕射に昇進し、司空を拝命し、沛国公に封ぜられた。
昭義軍は
劉悟の時から邢州を治所としていたが、人々は上党を懐かしく思い、劉従諌は治所を潞州に戻した。劉悟は苛烈であったが、劉従諌は寛容で温厚であったため、部下はますます従った。壮年になると功績を立てたいと思うようになった。大和六年(833)、入朝を願い、
文宗は待遇に等級を加えた。翌年、藩鎮に帰還し、同中書門下平章事に昇進した。公卿の多くに私的に託し、また権力者に仕えることは一人ではなかったから、遂に内心では朝廷を軽んじ、驕慢の様子をみせた。
李訓が劉従諌に
鄭注の誅殺を約束したが、甘露の変がおこると、宰相は皆一族皆殺しとなり、その罪ではないのに死んだという伝聞があった。劉従諌は不満をもち、三度上書して
王涯らの何の罪があって殺されたのかと問い、宦官を痛烈に非難した。当時、宦官は思い通りとなり、天子は弱体化し、
鄭覃・
李石は新たに宰相となったが、劉従諌の異議申し立てに仮託して権力の再構築を行い、宦官は劉従諌を憚って恨んだ。また
蕭本が
貞献蕭太后の弟ではないと弾劾奏上した。
仇士良は怒りが積もり、俳優に劉従諌の本意は隙を伺っていることだと言わせた。劉従諌もまた君側を清めると妄言し、そのため朝廷と二心を疑われた。
武宗が即位すると、兼太子太師となった。
性格は奢侈にふけり、居室や輿や馬を飾り立てた。遠大な計略はなく、貿易の計算をよくした。長子の劉道を移して潞州に入れ、毎年馬で遠所に行く商人に税金をかけ、また塩を煮て、銅銭を貸し、銭十万緡を納めた。商人の子が良馬・金絹を献上すると、ただちに牙将に任命し、商人に州県に行かせると、同地で横暴貪欲となり、子を責めて銭を貸し、吏が命に応じないと、ただちに劉従諌に訴えた。論奏しようとし、ある者が客を派遣して遊説したから、天下は怨み怒った。劉従諌の畜馬は高さ九尺で、これを
帝に献上したが、帝は受け入れず、
仇士良に阻まれたと疑い、怒って馬を殺し、ますます不満を持った。また仇士良の寵遇が手厚いから、いよいよ心配となり、自ら入朝したいと思っても、禍いから逃れられなくなるのではないかと恐れ、そこで病となり、卒した。年四十一歳、太傅を追贈された。それより以前、大将の李万江なる者は、もとは退渾部(吐谷渾)の出身で、
李抱玉が回紇におくると、太原を通過し、部族をあげて従って潞州に到り、津梁寺に放牧し、地は水草うまく、馬は鴨のように健やかで、これが世間でいうところの津梁種である。毎年馬の価格数百万を得た。子弟で軍と婚姻関係にある者は四十八人で、劉従諌は山東に移し、他郷に移住して変事が起こることを恐れた。子弟もまた豪気かつ勝手気ままで、劉従諌を若いとみて、あまり礼遇しなかったから、そこでその謀反を誣告され、三族皆殺しとなったのが、およそ三百家あまりに及んだ。姫妾でわずかにお渡りがあった者も、たちまち殺された。人々は皆まさに滅亡するだろうと知った。
従子の
劉稹は、父の劉従素は仕えて右驍衛将軍となった。
劉従諌が後継者としたが、病は重く、妻の
裴氏と謀って、軍事を司らせ、大将の
王協・
郭誼・
劉武徳・劉守義らを劉稹の補佐とした。秘して喪を発表せず、協謀して将の
姜岑を派遣して朝廷に医者の派遣を願った。宦官が医者とともに到着すると、その時劉従諌が死んですでに二十日ほどで、劉稹は「公は重病で詔を受けるのに耐えられませんから、劉稹が代わりに拝受させて下さい」と言ったが、宦官は「寝ているところを見せなさい」と言い、母夫人が侍っていると言って辞退したが、退けることができなかった。宦官は直ちに入ろうとしたが、劉武徳らが戸の前にあって、宦官は変事があることを恐れて、走り去り、贈り物百万を賜った。後に使者が相継いでやって来たが、劉従諌がすでに死んでいることを知り、まだ数舎の距離に到る前に、軍は恐れ、劉武徳は将の
董可武とともに兵一万人を出して迎えて労い、牙門に到着したが、前進することができなかった。諸将はそこで監軍の
崔士康のところに行って陳述し、河朔の故事のようにすることを求めた。崔士康は臆病で、あえて拒まず、そこで喪次に到り、劉稹に介添えされて出たが、絁(あしぎぬ)の頭巾に「勅使を殺そうとしてはならない」と書いてあり、諸将は大声で笑い、遂に三軍から出された。
帝は前の使者が入れなかったことを怒り、流謫して
恭陵に隷属させた。劉稹が派遣した
姜岑・梁叔文・梁叔明の三人は、皆京兆府で杖殺された。詔して父の劉従素に、劉稹に葬列を護衛して東都に帰るよう書簡で命令させたが、劉稹は詔を奉らなかった。群臣に詔して議させ、
李徳裕は「劉稹が恃むところは、河朔だけです。もし大臣を派遣して上旨を説諭し、山東の兵を出兵させれば、劉稹を必ず破れます」と建言し、詔があって
劉従諌・劉稹の官を奪い、諸軍に詔して討伐に進軍させた。
ここに河陽節度使の
王茂元は兵で万善に駐屯した。河東節度使の
劉沔は昂車関を守備し、楡社に立て籠もった。魏博節度使の
何弘敬は肥郷柵を築き、平恩に侵入した。成徳軍節度使の
王元逵は臨洺に行き、任・尭山・向城を攻略した。河中節度使の
陳夷行は冀城を造営し、冀氏県に侵入した。王茂元は別に将軍を派遣して天井関に陣営を構え、賊将の
薛茂卿に敗北し、四将を捕らえられ、十七柵に放火された。張巨は万善に侵攻したが、降すことができなかった。王茂元は逃走しようとしたが、たまたま日暮れに、賊が自ら潰え去った。忠武軍節度使の
王宰に詔して本軍で懐沢の行営に入らせ、陳許の兵士は勇敢であったから、賊軍はもとより憚り恐れた。しかし薛茂卿は戦勝によって、あつい恩賞を願った。ある者が「その兵は王師を攻撃して深く攻略し、朝廷はまた怒っています。節約してますます与えるべきではありません」と言ったから、劉稹はそうだと思った。そのため薛茂卿に大望があり、王宰と通じており、そこで偽って戦いを挑み、しばしば敗北し、天井関を委ねて去り、左右の七営はすべて潰滅した。薛茂卿は沢州に逃走し、間諜を通じて王宰に対して「沢州を奪取すべきである。私も内応する」と述べたが、王宰は疑って進まず、期を失い、薛茂卿は腕をにぎって残念がった。劉稹はその二心を聞いて、召還して誅殺した。王宰は進撃して
劉公直を破り、陵川を陥落させた。劉沔もまた石会関を奪取した。
李石は劉沔に代って河東節度使となり、劉稹はそこで李石の兄の洺州刺史の李恬に書簡を送って降伏を願い、李石は上奏し、右拾遺の
崔碣が上表して受け入れるよう願ったが、
帝は怒り、崔碣を鄧城県令に退けた。詔して、敢えて出兵をやめるよう言った者は賊の境で誅殺するとした。お上は李石に劉稹を縛り上げたら許すと答書して、李石は急行して受諾したから、劉稹は出ることはなかった。にわかに太原の将の
楊弁が李石を追放し、劉稹とともに連合し、劉稹は諸将と建議して、「私は襲封を求めているのに、彼は兵と叛いた。もしこれに与すれば、これとともに叛く者になる」と言い、その使者を拘禁して京師に送り、
康良佺に鼓腰嶺に駐屯させ、太原の兵を破り、捕虜は七百であった。帝はなおも赦さなかった。
それより以前、
劉従諌が死のうとしている時、劉稹に奴婢たちに笞打ちの恥辱を与えてはならないと述べ、そのため李士貴らは
王協とともに最も用いられ、兵士が戦って、功があっても報奨せず、部下には戦意がなかった。府中の財貨はなお山のように積まれたが、王協は商人に課税を要請し、劉渓らに等分させ実際に調査した分を出させたが、劉渓ならびに斉の民はその財貨を閲し、十のうち二を取ったから、百姓は始めて怨んだ。劉従諌の妻の弟の
裴問に邢州を守らせ、募兵五百があり、「夜飛将」と号し、多くが豪族の子で、その家は臨時の輸送の時、劉渓に捕らえられた。裴問はそのことを申し上げると、劉渓は大いに怒り、裴問はそこで劉渓を殺し、刺史の
崔嘏とともに大将を斬って、自ら成徳軍に帰順した。
王釗は洺州を守り、兵士に細織布一端を給付し、劉稹は檄して歳出に代えた。王釗は軍に向かって、「庫物はなお多いのに、徴発したのを賞にしようとしている。これはよいことなのだろうか」と言うと、兵士は皆喜んだ。ことごとく有するところを給付し、魏博軍に誼みを送った。磁州の将の
高玉・尭山県の将の魏元談らは行って成徳軍に降伏したが、
王元逵は長らく賊の守りとなっていたから、殺害した。
劉稹は三州が降ったのを聞いて、大いに恐れた。大将の
郭誼は
王協とともに始めて劉稹を陥れようと議し、
董可武に劉稹を誘わせて北の邸宅に到らせ、酒を置いて酒宴がたけなわになると、そこで斬首し、ことごとく
劉従諌の子で襁褓を穿いていた者二十人あまり、および従子の劉積・劉匡周らを殺した。
張谷・
張沿・
陳揚庭・
李仲京・
王渥・
王羽・
韓茂章・
韓茂実・
賈庠・
郭台・
甄戈の十一族を誅殺し、一族皆殺しにし、軍中でもとより従わなかった者もすべて殺した。劉稹の首を箱詰めして
王宰に送り、京師に献じ、廟社に告げ、
帝は
興安門に御してこれを受けた。
劉公直もまた王宰に降伏した。
石雄は兵で国境を守ったが、軍は大いに掠奪し、郭誼は書簡を送って責めたから、石雄は怒って根に持った。劉稹が死ぬと、郭誼は劉従諌の妻を斥け夾室(宗廟の東西にある部屋)に伏せさせ、その財貨を収めて自身で私有し、大きい厩を建設し、毎日旌節を望み見た。宰相の
李徳裕が「劉稹は平凡以下の人物で、乱は郭誼より始まり、軍が到着すると窮地に陥り、そこで劉稹を陥れて栄華を迎えようとしているのです。誅殺しなければ、これによって奸臣を懲らしめることがなくなります。兵が国境に及んだ時に、ことごとく逆党を捕らえて京師に送還し、法に従って判決すべきです」と建言した。これより先、狂人がいて潞州の市で「石雄の七千人がやって来た」と叫び、劉従諌は捕えて誅殺させたが、そこで詔を要請して石雄は兵をその通りの数を率いて入った。石雄が潞州にやって来ると、郭誼および王協・劉公直・安全慶・李道徳・李佐堯・
劉武徳・董可武らを捕縛して京師に送り、あわせて死刑とした。
崔士康を杖殺した。
白惟信という者は、潞州の梟将で、しばしば石雄と戦い、恐れてあえて降らず、武郷県より都将の
康良佺を殺し、
盧鈞に降伏しようとした。石雄は人を派遣して降伏させようと招いたが、白惟信はこれを殺し、ついに盧鈞に降伏した。詔があって「劉従諌は死のうとする時、劉稹を軍事に任命した。棺を割いて死体を市に三日さらすべきである」とし、石雄はあばいて見てみると、顔は生きているかのようで、一目はまだ開いており、石雄は三度斬り、仇の人はその骨を割いたから、ほとんど残らなかった。
郭誼は、兗州の人である。兄の郭岌は、
劉悟に仕えて牙将となり、常楽県の滏山が高く峻厳であるのを見て、「私が死んだら必ずここに葬ってくれ」と言い、望気する者は「その地は三世にあたって都頭異姓となろう」と言い、河北で都頭異姓というのは、貴顕となるの言いである。「しかし二丈以上掘ると不利である」とも言った。郭誼は郭岌を仮の刺史とし、三丈掘り、石の蛇および卵三つを得たが、工人は破壊し、すべて流血した。ここに至って、郭誼および郭岌の三子は同じく誅殺された。
張谷・
張沿・
陳揚庭は全員文章で有名であり、時折、古今の成敗について
劉従諌を補佐し、そのためよくこの三人を厚遇した。張谷は邯鄲の人の李嚴の娘を娶って侍人となり、妻は新声と号した。劉従諌が密かに窺い脅そうと謀ると、新声は張谷を諌めて「始め天子は劉従諌を節度使とし、会戦や攻城の功があったわけでないのに、直ちにその
父が斉の十二州を捧げて天子に返したから、去就の間にその後嗣を奪うことができなかっただけなのです。自ら沢潞にいるだけで、未だに一本の細い糸や一つの蹄のようなつまらない物で天子の寿をするようなことを聞いたことがなく、側近は全員頼りないのです。武を朝廷にあきらかにし、しばしば諸鎮を顛覆させ、皆英雄の才、傑物の器であっても、なお天子の恩を固めることができないのです。ましてや劉従諌は女子供の手中から抜擢されたので、いやしくも法によって得ず、また法によって終るべきではありません。あなたはまさに族を脱して西に去り、大丈夫たる者一飯の恩義を顧みず、骨肉によって健児の食を汚すのです」と言い終わると涙を流して悲しんだ。張谷の判決は三ヶ月決しなかったが、発言が漏れるのを恐れて縊死した。
甄戈は、非常に任俠の人で、
劉従諌は厚く賜い物をし、上座に座らせ、自ら荊卿と称した。劉従諌は定州の守将と不仲で、甄戈に殺害を命じ、そこで宿舎で拝謁し、留まって飲むこと三日、間隙に乗じてその首を斬った。他日、また甄戈に仇人を殺害させようとし、そこで甄戈は不逞の者十人ばかりを率いて襲撃した。劉従諌は喜ばず、「偽荊卿」と号した。
劉従諌の妻の
裴氏は、
弟が功績を立てたから、詔してその死罪を免れるところであった。しかし刑部侍郎の
劉三復が不可を執奏し、ここに死を賜り、死体を返還した。裴氏の父の裴敞は、
裴冕の後裔で、
劉悟の幕府に辟召(地方高官の裁量による下僚の登用)され、劉悟は優れた人物だと思ったから、劉従諌にその娘を娶らせた。裴氏は年十五歳で、火光が内掛の下におこり、家人は怪だと思ったが、結婚を許した。燕国夫人に封ぜられた。寛大でありながら謀略に優れ、ことあるごとに劉従諌に入朝して子孫の計略とするよう勧めた。劉従諌に妾の韋氏がいて、夫人に封じられたいと願い、これを許され、詔が到着すると、裴氏は怒り、詔を破壊して与えなかった。劉従諌は他日に裴氏の党と面会し、再び詔が出されたが、裴氏は拒絶して、「淄青の
李師古は四代にわたって命を阻みましたが、側室を封じたなんてことは聞いたことがありません。あなたは朝廷のその場しのぎを受けましたが、自ら斥け削り、洗い濯ぎことを求めるべきです。婢を夫人とするようなことなんて、一族は何日もしないうちに滅ぶだけです」と言い、劉従諌は恥ずかしく思って止めた。韋氏が京師にやって来ると、そこで「
李丕が降ると、裴氏は大将の妻を集めて号泣して「私のためにあなたの夫に語りなさい。先公の恩を忘れてはならない。子母を託させてください」と言うと、婦人がたもまた涙を流し、そのため潞州の諸将の叛はますます堅く結束したのです」と言い、これによって禍いが及んだのである。
それより以前、術者の
李琢は重んじて絹を与え、招いて大将に任じた。会昌年間(841-846)初頭、劉従諌に向かって、「往年、長星が斗を通過しましたが、公の生れはこれにあたります。今鎮もまた至り、まさに災いがあるでしょう」と言い、劉従諌はそこで軍を山東に移し、毬場を開き、柳泉を穿ち、大いに土木工事をおこして厄払いとした。病となると、李琢のおこした土木事業はすべて歳を逆にしており、異謀があるのを疑うと述べる者がおり、
劉稹にその罪を数えあげさせて殺し、府中はおどおどとし、にわかに
李丕が降伏した。
李佐之なる者があり、
李兼の孫である。河南県の尉に任命され、「彊直」と号した。かつて潞州をさまよい、劉従諌に礼遇され、留まって去ることができず、遂に観察府支使に任じられ、そこでその従祖妹を娶った。劉従諌は傍系の親族に冷たく、嫁いだ者は貧乏となり、李佐之にもまた冷たかったから、送られてきたものは非常に少なかった。劉従諌が病となると、李佐之は東都に帰るよう力説したが、劉従諌は従うことはできなかったとはいえ、その発言に感服した。病が進行すると、
王協らは李佐之の妻母が何か言うことを恐れ、そこで母を輦車に載せて東都に返した。たまたま李佐之の奴が、李佐之が賓客と交わり、軍中のあれこれを漏らしていると言ったから、李佐之は
劉稹に捕らえられた。妻に非礼であったと訴えられ、劉稹は遂に李佐之を殺した。
武郷県令の
唐漢賓は、
唐倹の末裔の子孫で、
劉稹が朝廷の命令を拒むと、強く帰朝するよう諌めたが、聴されず、一族をあげて殺害された。
李師晦は、もとは宗室の子で、始め
劉悟が任命し、
劉従諌が次第に専横となると、長生の術を求めると言って暇乞いし、事に預からなかった。劉従諌は東都に帰らせようとすると、李師晦は
張谷・
陳揚庭らによって謗られることを恐れて、居たまま関わることを願い、劉従諌はこれを疑わなかった。
劉稹が敗れると、彼のために
帝に申し上げる者があり、伊闕県令に抜擢され、
薛茂卿に博州刺史を追贈された。大中年間(847-860)初頭、また
唐漢賓に武郷県令を追贈した。
この間、河北の諸将が死ぬと、皆まず遣使して弔祭し、次に冊を贈り、次に近臣が宣慰し、軍に派遣して節を与えるべくも、軍中は出すことを許さず、そこで兵を用い、大抵半年もせず平定することができず、そのため驕将や謀反する子は皆このために備えたのであった。
劉稹ははじめ
帝が怒って討伐されるとは思わず、
王茂元が詔を写したものを劉稹に示したのを得て、一族をあげて慟哭し、自ら帰順したいと思ったが、愚かにも臆病で決断することができなかったという。
劉悟から劉稹まで三世、およそ二十六年であった。
李丕は、弁論術をよくし、
劉従諌と非常に親しく、大将に任じられた。劉稹が朝廷の命を阻むと、軍中ではその才能を憎んだから、李丕は恐れ、遊弈使となって深入りすることを願ったが、これは軍営で立て籠ろうと謀ったのであり、遂に自ら帰順した。議する者には賊に遣わされたのかと疑う者もいたが、
李徳裕は「賊を討伐すること半年、始めて降伏する者があらわれました。賞によって他にも勧めるべきです」と奏言したから、
帝は召見し、忻州刺史に抜擢した。李丕は楡社県を奪取することを願い、東は武安県を道として賊を討伐するために入れば、邢州・洺州がまだ降っていないとはいえ、兵は潞州を救援することができないと述べた。聴されなかった。
楊弁が叛くと、使者を派遣して李丕を誘ったが、李丕は使者を斬り、兵で逃げて集まるのを抑えた。李徳裕は帝に「度支・戸部の物資が代州に集積しています。今李丕がその道を塞ぎ、賊を破りました」と申し上げたから、そこで李丕を派遣して楊弁を討伐させることとしたが、兵がまだ到着する以前に楊弁はすでに捕らえられた。汾州・晋州の二州の刺史となった。大中年間(847-860)初頭、振武節度使、検校刑部尚書を拝命した。党項(タングート)が叛くと、鄜坊節度使に遷り、卒した。
賛にいわく、伝(『易』繋辞上伝)に「易の作者は、たしかに盗みということの心理を察知していたに相違ない」とある。だからこそ盗みということの心理は、聖人でなければ知ることができないのである。唐は半ばで衰え、姦雄が取り巻いて様子を見て奮い、魏・趙・燕の地をあげ、がさつで境に侵入し、入り乱れて百年叛き、その人が夷狄となって、戻すことができなくなるのである。上が暗愚で補佐が凡庸なのは、ただ盗みの理由を知らないからである。妖しげなのを引いて暗いところにつき、奪ってそれを明るいとするのは、どうして
蕭俛・
崔植らのことを言っているのであろうか。
最終更新:2025年02月14日 11:43