趙殷衡 ちょういんこう
834-931
唐末・五代の官人。若くして父を失い、汴州に流れ着き、李譲の養子となり、李譲が
朱全忠の養子となったから、姓を朱氏に改めた。朱全忠の子の乳母の夫の養子となり、名を趙殷衡とした。宣徽副使となり、
張廷範・
蒋玄暉とともに
昭宗弑逆の陰謀に加担した。天祐二年(906)
朱全忠のために九錫を迎えようと、
蒋玄暉が
積善宮の
何皇后を訪れたのを、蒋玄暉が何皇后と謀って唐を復興させようとしていると誣告し、二人を死に追い込んだ。枢密副使となり、唐が滅ぶと後梁に仕えて汝州防禦使、左衛大将軍、租庸使となり、名を孔循と改めた。後唐が成立すると権知汴州となり、荘宗と明宗を天秤にかけて、明宗が即位すると枢密使となり、留守東都となった。忠武軍節度使、横海軍節度使を歴任した。娘は閔帝の皇后孔氏(哀皇后)。『新五代史』に伝がある。
列伝
『新五代史』巻四十三 雑伝第三十一 孔循
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最終更新:2025年01月18日 01:32