李曄
867-904
唐第22代(在位888-904)の皇帝。姓名は李傑。即位のとき、名を敏と改め、のちまた嘩に改めた。諡は昭宗聖穆景文孝皇帝。廟号は昭宗。祖父は
宣宗。
懿宗の第7子。母は
恭憲皇后。6才で寿王に封ぜられ、11才で幽州盧竜軍節度使。宦官
楊復恭に推戴され、兄
僖宗をついで即位。
黄巣滅亡4年後には、すでに唐朝の勢威は地におち、天下は有力藩鎮の争覇にあけくれていた。特に山西に拠る
李克用、河南汴梁(開封)の
朱全忠、陝西西方に拠る
李茂貞の3者が政権をめぐって抗争をつづけていた。896年には李茂貞の長安侵入のため、いちじ華州にのがれ、900年には宦官
劉季述らが帝を幽閉し、徳王
李裕をいったん帝位につけたが、901年に劉季述らが殺されて昭宗は地位を保った。同年側近の脅迫により鳳翔へ移ったが、903年勢力を増した朱全忠に迎えられて長安にかえり、宦官一味をみな殺しにした。以後全く朱全忠の意のままとなり、904年洛陽にうつってのち、朱全忠の部下の手で殺された。名目的に子の
哀帝がたてられたが、やがて907年の禅譲への準備にほかならなかった。皇后は
何皇后。
哀帝を含み10男子があった。陵名は
和陵。
年号
龍紀 889
大順 890-891
景福 892-893
乾寧 894-898
光化 898-901
天復 901-904
天祐 904-(907)
后妃
何皇后
李昭儀(李漸栄)
斉国夫人
扶風郡夫人
高陽郡夫人
魏国夫人陳氏
趙国夫人寵顔
晋国夫人可証
楽安郡夫人
新秦郡夫人
広陵郡夫人
太邱郡夫人
雲安郡夫人
河東郡夫人(裴貞一)
馮翊郡夫人
子女
宰相
韋昭度 881-888
孔緯 886-891、895
杜譲能 886-893
張濬 887-891
劉崇望 889-892
崔昭緯 891-895
徐彦若 891-893、894-900
鄭延昌 892-894
崔胤 893-895、895-896、896-899、900-901、903-904
鄭綮 894
李磎 894、895
陸希声 895
王知柔 895
王摶 895-896、897-900
孫偓 895-897
陸扆 896、899-903
朱朴 896-897
崔遠 896-903、904-905
裴贄 900-903
王溥 901-900、901-903
裴枢 901、903-905
盧光啓 901-902
韋貽範 902
蘇検 902-903
独孤損 903-905
柳璨 904-905
朱全忠 903-907
本紀
参考文献
『アジア歴史事典5』(平凡社、1960年)
外部リンク
最終更新:2025年06月24日 12:59