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劉隠

劉隠 りゅういん

874-911
五代十国、南漢の事実上の建設者。諡は襄。917年追尊して襄皇帝。廟号は烈祖。祖父の劉仁安は河南の生まれで、福建に移り南海の商人から潮州刺史となった。しかし福建に渡来したアラブ人の商人であったという説もある。父の劉知謙は広州の牙将から軍功をたて封州刺史となり、賀江鎮遇使を兼ねた。劉隠はその長子で、母は韋宙の娘。父が死ぬと、配下の諸将が反乱を起こしたが、これを平定して父の任をつぎ、厳正で威望すこぶる高かった。唐の昭宗のとき、唐室の嗣薛王李知柔が清海軍節度使として広州に赴任すると、牙将の盧琚・譚玘の反乱が起こったが、劉隠は封州の兵を率いてこれをたいらげ、李知柔により行軍司馬とされ、兵賦の権をゆだねられた。その後、李知柔に代わり宰相徐彦若が広州清海軍節度使となると、節度副使となって軍政をまかされ、徐彦若の死後、軍中に推されて留役となった。昭宗はこれを認めようとしなかったが、どうにもできず、劉隠がとりもちを頼んだ朱全忠のすすめで、905(天祐2)年、ついに節度使となり、ここに南漢王朝の基をひらいた。唐末になると各地の藩鎮が、そこに拠る兵士ら在地勢力の力でしだいに自立していくが、広州もまた例外ではなかった。唐が滅び後梁になると、検校太尉兼侍中を加えられ大彭郡王に封ぜられ、さらに交州静海軍節度使を兼ね南平王に進封され、のち後梁末帝から南海王にすすめられ、その年没した。劉隠は唐末の騒乱で長安を去った朝士を多く招いて、南漢文臣政治の基をひらいた。陵名は徳陵。『旧五代史』『宋史』に伝が、『新五代史』に世家がある。

世家・列伝

『旧五代史』巻一百三十五 僭偽列伝第二 劉隠
『新五代史』巻六十五 南漢世家第五 劉隠
『宋史』巻四百八十一 列伝第二百四十 世家四 南漢劉氏 劉隠

参考文献

『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』劉隠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%9A%A0

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最終更新:2026年07月15日 00:30
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