趙国珍
?-768
昆明東の蛮・牂柯の酋長。趙氏は代々牂柯の酋長を世襲した。天宝年間(741-756)に軍功によって累進して黔府都督となり、本管経略等使を兼任した。南詔の閣羅鳳が唐から離反すると、宰相の
楊国忠は剣南節度使を兼任して、その職務を遥任したが、幾度も大敗を喫した。中書舎人の
張漸は趙国珍に武略があるから推薦して、南方の地形を熟知させ、楊国忠はついに奏上して用いることとした。五渓(黔州)にあることおよそ十年あまり、中央では大乱が起こったが、ただ趙国珍の統治する黔中だけは無事であった。代宗が践祚すると、とくに嘉賞し、召して工部尚書に任じた。嗣徐王
李延年の娘婿で、李延年が
李林甫のために貶められて没すると、永泰元年(765)に入朝し、李延年の子の
李諷を嗣がせるよう願い出たため、李諷は嗣徐王となった。大暦三年(768)九月、病のため没し、太子太傅を贈位された。『旧唐書』に伝がある。
列伝・史料
参考リンク
最終更新:2023年06月21日 12:06