巻七十九 列伝第四

唐書巻七十九

列伝第四

高祖諸子

隱太子建成 衛王玄霸 巣王元吉 楚王智雲 荊王元景 漢王元昌 酆王元亨 周王元方 徐王元礼 韓王元嘉 黄公譔 彭王元則 鄭王元懿 霍王元軌 虢王鳳 道王元慶 鄧王元裕 舒王元名 魯王霊夔 江王元祥 密王元曉 滕王元嬰


  高祖に二十二子があった。竇皇后李建成太宗皇帝李玄霸李元吉を生み、万貴妃李智雲を生み、莫嬪は李元景を生み、孫嬪は李元昌を生み、尹徳妃李元亨を生み、張氏李元方を生み、郭婕妤は李元礼を生み、宇文昭儀李元嘉および第十九子の李霊夔を生み、王才人は李元則を生み、張宝林李元懿を生み、張美人は李元軌を生み、楊美人は李鳳を生み、劉婕妤は李元慶を生み、崔嬪李元裕を生み、小楊嬪は李元名を生み、楊嬪李元祥を生み、魯才人は李元暁を生み、柳宝林は李元嬰を生んだ。


  隠太子李建成は、小字を毘沙門といった。性格は粗忽かつ放縦で、尋常の約束を守らず、色ごとに荒んで酒を嗜み、狩猟には節操がなく、皆博徒や大侠客が従った。

  隋末、高祖が汾・晋間の賊を捕らえるよう詔を受けると、李建成を留めて家を守らせ、河東に居した。高祖が挙兵すると、密かに召されて李元吉とともに太原に赴いたが、隋の人が彼らを手に入れようと追いかけたから、間道より到着し、左領軍大都督を授けられ、隴西郡公に封ぜられた。兵を率いて西河を攻略・平定し、京師の平定に従った。唐が建国されると、世子となり、開府して官属を設置した。また撫軍大将軍に移り、東討元帥となり、一万人を率いて洛陽に布告し、尚書令を授けられた。

  高祖が禅譲を受けて皇帝になると、立てられて皇太子となった。詔して将軍の桑顕和を率いて司竹園の群盜を攻撃し、平定した。涼州の人である安興貴李軌を殺し、軍とともに降伏し、詔して原州に赴いて接収させた。李建成はもとより驕慢で、兵士を憐れまず、酷暑であったとはいえ、昼夜狩猟に走り回り、軍はその労に堪えられず、死ぬ者が過半数となった。帝は李建成に政務を習わせようとし、そこで勅して軍国の大務でなければ決済させた。また李綱鄭善果を宮官とし、謀議に参加させた。稽胡の劉仚成が辺境に侵入したから、李建成に詔して進撃・討伐させ、稽胡を鄜州で破り、斬首・捕虜が千名ばかりで、渠長をことごとく官とし、帰還させて群胡を招かせた。劉仚成は他の大帥とともに降伏したが、李建成はその軍を恐れ、偽って州県を城塞化しようとし、降胡に築城させたが、密かに兵を集めて六千人を殺したから、劉仚成は梁師都のもとに走った。かつて北辺を巡行すると、賊四百人と遭遇して降伏させると、ことごとくその耳を切り取って釈放した。

  中允の王珪・洗馬の魏徴は、の始業に、李建成は謀を司らず、しかも秦王はしばしば大賊を平定し、功績は天下に冠たるものがあり、英雄・豪傑が秦王に帰順し、立てて皇太子とする企てを密かに許しており、勢いの危きこと甚しいと思っていた。ちょうどその時、劉黒闥が河北で反乱し、王珪らは進み出て「殿下は特に嫡長子であるから東宮でありますが、功徳があって人に称えられているわけではありません。今劉黒闥は敗残の反逆者の残滓であり、軍は一万にも満たず、兵は有利でこれを皆殺しにすることは、簡単に決することができるので、征討に行くことを願い出て、そこで山東の英俊の心と結び、自ら勢力を養うのです」と説き、李建成はついに行くことを願い出た。劉黒闥を洺水で破ると、李建成は魏徴に「山東はこれで定まるか」と尋ね、魏徴は「劉黒闥は敗れたとはいえ、殺傷は非常に多く、その魁党らは皆県に処刑すると名指しされ、妻子は捕らわれ、降伏しようにもしようがなく、赦令があったいえ、捕らわれた者は必ず殺され、大いに許されず、賊の残党を恐れて呼び集まり、民はまだ安心することができないのです」と答えた。既に劉黒闥は再び勢力を盛り返し、廬江王李瑗は洺州を放棄し、山東は乱れた。斉王李元吉に命じてこれを討伐し、詔があって降伏する者は罪を赦したが、軍は信じなかった。李建成がやって来ると、捕虜を全員慰撫して帰したから、百姓は喜んだ。賊は恐れ、夜に逃亡し、兵は追撃して戦った。劉黒闥の軍はなおも盛んで、そこで囚人を釈放して互いに告げて「甲冑を脱いで郷里に帰り、もしくは妻子を得た者は、すでに許したぞ」と言わせると、軍は四散し、ある者はその長を縛って降伏し、遂に劉黒闥を捕虜とした。

  は晩年多く後宮を寵愛し、張婕妤尹徳妃が最も寵愛を受け、親戚は分けて宮府に仕えた。李建成は李元吉と通謀し、内は妃御と結んで自ら勢力を固めた。この時にあたって、天下はまだ定まっておらず、秦王はしばしば兵を率いて外部にあり、諸妃は面会を願っていた。洛陽が平定されると、帝は諸妃を派遣して後宮に送り込み、府庫の衣服や宝物を見て、皆が私的に求め、兄弟のために官を願った。秦王はすでに財物を登記して封じ、そして官爵は功績がある者でなければ得られず、妃媛やその輩はこれを恨んだ。ちょうどその時、陝東道行台の職が、詔があって後宮に属して裁定を専らにさせた。秦王は良田を淮安王李神通に給付したが、張婕妤はのために良田の給付を願ったから、帝は手ずから詔して田を賜い、詔が到着すると、李神通は以前に得ていたから、張婕妤も与えるのをよしとしなかった。張婕妤は妄言して、「詔して私の父に賜った田を、秦王は奪って人に与えました」と言ったから帝は怒り、秦王を呼び寄せて責めて「私の詔令はお前の教令に及ばないというのか」と言った。後日、裴寂に向かって「あの子は長らく兵を司って、儒者のために誤まった道に進んでしまい、昔のあの子に戻ることはないな」と言った。秦王府属の杜如晦が騎乗して尹徳妃のの邸宅の門を通り過ぎると、その無礼に怒り、家童を率いて殴打し、指一本をへし折った。尹徳妃の父は秦王を恐れ、そこで尹徳妃に先に秦王の側近がその父に暴行を働いたと訴えさせ、帝は真相を察することができず、大いに怒り、秦王に詰め寄って「お前の側近は私の妃の家を凌辱したが、ましてや百姓ならどうなのか」と言い、秦王は自ら弁明したが、ついにおさまらず、これより疎んじられた。帝は諸王を呼んで酒宴すると、秦王は天下平定前に母がこの世にいなくなってしまったから、一人泣き、帝は顧みて楽しまなかった。妃媛はこれによって秦王を中傷し、李建成のために説得して、「天下が無事で、陛下も長生きされ、楽しまなければならないところを、秦王はたやすく悲しみ泣いていて、本当は私達を怒り忌み嫌っているだけなのです。陛下が御万歳(崩御)された後、秦王の思い通りになれば、私の一族は皆殺しになるでしょう。東宮は慈愛があり、必ず養って全うしてくれるでしょう」と言い、そこで皆悲しんで自分ではどうすることもできなかった。帝は可哀想に思って、遂に太子を変えようとする意思はなくなった。

  突厥が侵攻してくると、は遷都を議論にあげ、秦王は強く諌止した。李建成は帝に面会して、「秦王は外で侵攻を防ぐという名目で、遷都の議をはばみ、その兵を長く有して、簒奪を謀っています」と言うと、帝は次第に不快となった。

  それより以前、秦王を西宮承乾殿に住まわせ、李元吉武徳殿に、上台・東宮を昼夜往来し、皆弓や刀を携え、互いに人の家に行くような礼で待遇した。これによって皇太子の令、秦王・斉王の二王の教は詔勅と入り乱れ、内外の者は恐れ、どれに従っていいのかわからなかった。李建成らは密かに全国の勇者および長安の悪少年二千人を募って宮殿を守らせ、左右の長林門に駐屯したから、「長林兵」と号した。また左虞候率の可達志に幽州の突厥兵三百を募集させて宮中に入れ、西宮を攻撃させようとした。ある者が帝に密告し、帝は李建成を呼び寄せて譴責し、そこで可達志を巂州に流した。

  華陰県の楊文幹はもとより凶悪でひがんでおり、李建成は楊文幹とは昵懇で、慶州総管に任じさせ、兵を募集して京師に送らせ、変事を企てようとしていた。その時、仁智宮に行幸し、秦王李元吉は従い、李建成は李元吉に向かって、「秦王があまねく諸妃に見えようとしているが、彼は金や宝物が多く、これによって賄賂を贈ることがあるだろう。我らはどうして罪人のように簀子に座って災いを受けることができようか。安全か危険かの計略は今日決するのだ」と言い、李元吉は「わかった」と答え、そこで郎将の爾朱煥・校尉の橋公山を派遣して甲冑を輸送して楊文幹に送り、挙兵させようとした。爾朱煥らは恐れ、豳郷に至って反乱の事実を申し上げ、寧州の人の杜鳳もまた変事を上奏した。帝は司農卿の宇文穎を派遣して駅で楊文幹を召還したが、李元吉は密かに宇文穎と結び、楊文幹に告げさせたから、楊文幹はにわかに兵を率いて叛いた。帝は李建成が首謀であるから、裁くのに忍びず、そこで詔して王珪魏徴および左衛の韋挺・舎人の徐師謩・左衛車騎の馮世立を捕らえ、これらを殺して太子の罪を薄めようとした。そこで手づから詔して李建成を呼び寄せると、李建成は恐れ、あえて行かなかった往。徐師謩は挙兵するよう勧めたが、詹事主簿の趙弘智は李建成を諌めて車や衣服を身分の低い者のに変え、軽装で謝罪に行かせた。そこで行在所に詣でて、まだ到着する前から官属が並び、小道から入謁し、叩頭して死罪を願い、地に身を投げ、起き上がることができなかった。帝は怒り、夜に幕中で捕らえ、兵で警備させた。ちょうどその時、楊文幹は寧州を陥落させたから、帝は驚き、宮が賊に近いことから、夜に衛士を率いて南に行き、山行すること十里あまり、明け方に宮に帰還した。秦王に計略を尋ねると、「楊文幹はただの小僧なだけです。役人がただちに捕らえるでしょう。長引いたとしても、一将を派遣すれば十分です」と答えた。帝は「事変には建成が連なっている。応じる者が多いのを恐れるのだ。お前が自ら行って帰ってくれば、私はお前を皇太子とし、建成を蜀王にさせ、蜀の地は狭いから、変事を行うには足りないだろう。もしお前に仕えることができなければ、建成を召し上げて改易しなさい」と言い、秦王は軍を率いて寧州に赴き、楊文幹はその部下に殺され、その首領が降伏し、宇文穎を捕らえて京師に送致した。秦王が行くと、李元吉と妃嬪が変わるがわる李建成のためにお願いをし、封徳彝もまた密かに帝に説いたから、これによって思いが解け、再び李建成に詔して守らせ、ただ兄弟を責めて相いれず、しかし王珪・韋挺・天策兵曹参軍の杜淹が遠方で流謫となった。しかし怨みや猜疑心は日に日に結ばれていった。

  李建成らは秦王を呼んで夜に宴し、毒酒を飲ませると、秦王はにわかに病気となり、吐血すること数升、淮安王李神通は助け抱えて宮に戻った。が病状を尋ね、そこで李建成に「秦王は酒が飲めないのだから、夜に集まってはならない」と勅し、また秦王に向かって、「私が晋陽で決起し、天下を平らげたのは、すべてお前の力だ。東宮に定めようとしたのに、お前はしばしば固辞し、だからこのようになったが立派な志である。また太子を立ててから長年たっており、私はこれを奪うのに忍びない。お前たち兄弟を見ているとついには互いに下とせず、同じく京師にいたのなら、恨んで憎しみ争いあうのが深くなっていくだろう。お前は洛陽行台に戻って、陝より以東をことごとく司り、天子の旌旗を立て、漢の梁の孝王の故事のようにせよ」と言うと、秦王は泣いて、「私の望んでいるところではありません。膝元から遠く離れたくはありません」と言うと、帝は「陸賈は、漢の臣であったが、子どもたちのところにそれぞれ滞在したぞ。ましてや私は天下の主だ。東西両宮であっても、お前のことを思い出せばすぐに行ける。どうして悲しむことがあろうか」と言ったから、秦王は洛陽に行こうとした。李建成らは「秦王が土地と完全装備の兵を持つことになり、必ず患いとなる。秦王を京師に留めるなら、ただの一匹の男なだけだ」と謀り、そこで人を遣わして帝に説得し、「秦王の側近は皆山東の人で、洛陽に帰ると聞いて、皆あっさりと喜んでおり、その思いを見てみると、再び戻ってこないでしょう」と言ったから、この事は果たして沙汰止みとなった。

  にわかに突厥が辺境に侵攻してきたから、太子李元吉を推薦して北に討伐させ、そこでその兵で乱をおこそうとした。長孫无忌房玄齢杜如晦尉遅敬徳侯君集らは秦王に機先を制すよう謀った。秦王はそこで李建成らが後宮とともに乱をおこそうとしていると密奏し、「臣は兄弟に背いていませんが、今臣を殺そうとしており、これは王世充竇建徳の仇をとるようなものです。臣が死ねば、地下のあの世であっても、賊どもを恐れさせましょう」と述べたから、は大いに驚き、「朝になったら徹底的に調査しよう。だから必ず早くに参れ」と答えたが、張婕妤が急いで李建成に語り、そこで李元吉を呼び寄せて謀ると、「宮中の武装兵を集めて、病気だといって参内しないでください」と言ったから、李建成は「よろしい。だが二人共入朝しなければ、事はどうやって知ることができるのか」と言った。夜明けに馬に乗って玄武門にやって来たが、秦王が先に到着していて、勇士九人で自ら守っていた。その時、帝はすでに裴寂蕭瑀陳叔達封徳彝宇文士及竇誕顔師古らを呼び寄せて入らせていた。李建成・李元吉は臨湖殿に到着したが、様子がおかしいことに気づいて、かえって反転逃走したから、秦王は追いかけて呼ぶと、李元吉は弓を引いて射ようとしたが、有効射程に三度入ったが射ることができなかった。秦王は李建成を射ると即死し、李元吉も矢が当たって逃走し、尉遅敬徳が追いかけて殺した。にわかに東宮・斉府の兵三千が玄武門を攻撃したが、閉じていて侵入できなかった。しばらく接戦し、矢が建物に及んだ。秦王の側近数百騎が到着して挟撃したから、軍は遂に潰滅した。帝は裴寂らに向かって、「こうなってしまった今、どうしたらよいか」と尋ねると、蕭瑀・陳叔達は「臣はこう聞いております。内も外も限りなく、父子は親しまず、失っているのに断ずることがなかったので、かえってその乱を受けたのだと。李建成・李元吉は草創以来、まだ謀にあずからず、太子に立てられても、また功徳がなく、あいも変わらず二心を疑い、内部の憂いとなったのです。秦王の功績は天下を覆い、内も外も心服しているので、立てて太子とし、軍国の大務をまかせるなら、陛下の重荷がとけるでしょう」と述べると、帝は「それこそ私の思いだ」と言い、そこで秦王を呼び寄せて、やって来ると慰めて「朕は政務を投げ出したかったことが何度もあったのだ」と言うと、秦王は号泣して泣き止むことができなかった。

  李建成が死んだ時、年三十八歳であった。長子の李承宗は太原王となったが、早くに卒した。李承道は安陸王に、李承徳は河東王に、李承訓は武安王に、李承明は汝南王に、李承義は鉅鹿王に封ぜられたが、全員連座して誅殺された。詔して李建成・李元吉の宗室の属籍を除いた。その与党は罰せられるのではと疑い恐れたが、さらに互いに密告しあい、廬江王の李瑗が遂に叛いた。そこで李建成・李元吉・李瑗の支党は互いに密告し合わないよう詔を下し、これによって遂に安んじた。太宗が即位すると、李建成を息王に追封し、諡を隠とし、これの礼によって改葬し、東宮の旧臣に詔して全員を一同に会させ、宜秋門にて哭礼を行い、子の李福を後嗣とした。貞観十六年(642)、現行の諡(隠太子)を追贈した。

  宇文穎は、代の人である。李密の所から投降し、農圃監となり、化政郡公に封ぜられた。性格は貪欲かつ愚かで、李元吉と非常に親しく、そのため楊文幹の謀に預かった。事変は失敗し、は「朕は楊文幹が叛いたから、卿を遣わしたのだ。そこで同じように叛いたのか」と責めたが宇文穎は答えなかったから、斬られた。


  衛懐王李玄霸は、字は大徳である。幼い頃から聡明かつ弁舌の才があった。隋の大業十年(614)に薨じた。年十六歳で、子はなかった。武徳元年(618)、王号および諡を追贈され、また秦州総管・司空を追贈された。太宗の子の李泰を宜都王とし、その祭祀を継ぎ、芷陽に葬った。李泰が越王に移封されると、改めて宗室の西平王李瓊の子の李保定を後嗣とした。薨ずると、子がなく、国は除封された。


  巣剌王李元吉は、小字を三胡といった。高祖が兵をあげて西に向かうと、太原の留守となり、姑臧郡公に封ぜられ、さらに斉国公に進封建され、総十五郡諸軍事となり、鎮北将軍・太原道行軍元帥を加えられた。が禅譲を受けて皇帝になると、斉王に進封され、并州総管となった。

  それより以前、李元吉が生まれると、太穆竇皇后はその容貌を嫌って、とりあげず、侍女の陳善意が密かに乳を与えて育てた。成長すると、疑い深く兵を好み、辺境に長くいたため、ますます驕った。常に奴客・諸妾数百人に甲冑を着せて戦いの訓練をさせ、互いに撃ったり刺したりさせたから、死傷する者が非常に多かった。後に李元吉が負傷すると、陳善意は止めたが、李元吉は怒り、壮士に命じて連行して殺害したが、私諡して慈訓夫人といった。

  劉武周が汾州・晋州を攻略すると、詔して右衛将軍の宇文歆を派遣して防衛の助けとした。李元吉は鷹や狗を好み、出ると常に狩猟の網を三十車に載せ、「私は三日食べなくてもたいしたことはないが、一日でも猟がないなんてできない」と言い、夜に密かに出て民家で淫らな行いをし、斉王府の門は閉じなかった。宇文歆はたびたび諌めたが、受け入れられず、そこでに上表して「王はしばしば出て竇誕とともに勝手に狩猟をし、民の田を蹂躙し、勝手に左右の者を奪い、畜産は蕩尽されました。事あるごとに道に向かって弓を射て、人が矢を避けるのを見て楽しんでいます。百姓は怨んでいますから、共に防衛することはできません」と述べると、詔があって召還された。李元吉は密かに民にほのめかして宮中に詣でさせて願い出て、そして帰還することができた。劉武周は五千騎で黄蛇嶺に駐屯し、李元吉は将軍の張達が歩兵百人で威力偵察を行わせようとした。張達は兵が少なかったため辞退したが、無理強いしたため、到着すると全滅した。張達は怒り、劉武周を導いて楡次県を陥落させた。李元吉は祁州を防衛したが、賊は急襲してきて、并州に遁走し、賊の勢力が伸長すること甚だしかった。李元吉は司馬の劉徳威に偽って、「公は老弱の兵で守っているが、私は精鋭の兵士を率いて賊を防いだ」と言い、そこで宝物と持ち出し、妻妾を抱えて夜に出て、軍を委ねて京師に逃走したから、并州は陥落した。帝は怒り、これよりしばしば秦王に従わされて征討し、再び軍を単独で率いることはなかった。

  ついで侍中・襄州道行台尚書令・稷州刺史を授けられた。秦王が東都(洛陽)を包囲すると、竇建徳が救援にやって来て、秦王は精兵の騎兵で迎え撃ち、李元吉・屈突通を留めて守らせた。王世充は李元吉らを組みやすしと見て、たちまち出兵したが、李元吉は伏兵を設けて撃退し、斬首八百級で、その将を捕虜とした。東都が平定されると、司空を拝命し、袞冕と服・鼓吹二部・班剣二十人・黄金二千斤を賜り、太子・秦王とともに三鑪鋳銭を賜った。累進して司徒、兼侍中・并州大都督に任じられた。

  当時、秦王に功績があったが、太子は内も外も服属する者がおらず、李元吉は乱を喜び、あわせて謀しようとした。そこで太子に向かって、「秦王の功業は日に日に盛んになり、お上も愛されるところとなっており、殿下は太子であるとはいえ、位は安泰ではなく、早く図らなければ、かえって相次いで災いを受けることになり、殿下のために秦王を殺してください」と言ったが、太子は忍びず、李元吉はしばしばほのめかすことをやめず、これを許した。ここに宮廷と結びつき、厚く中書令の封徳彝に賄賂を贈り、彼らのために遊説させ、帝はついに秦王を疎んじて、太子を愛するようになった。李元吉はそこで多く亡命の壮士を匿い、手厚く賜い物をし、用いさせた。李元吉の記室参軍の栄九思は、李元吉のために詩で風刺して「丹青成慶を飾り、玉帛専諸に礼す(絵画で始皇帝を殺そうとした成慶(荊軻)が描き飾られ、宝石や絹で呉王僚を殺した専諸の像が飾られる。陰謀の犠牲になった勇士が後世称えられるの暗喩)」と詠ったが、李元吉はこれ見ても悟ることはなかった。その典籤の裴宣儼が免官となると、秦王府に仕えたが、李元吉は謀が漏洩するのではないかと疑い、鴆毒で毒殺した。これより人々はあえて何か言う物はいなかった。秦王はかつて帝に従って李元吉の邸宅に行幸し、護軍の宇文宝を寝室内に伏兵とし、秦王を刺そうとしたが、太子が強く止めた。李元吉は怒って、「兄のための計略なのに、私をどうして妨害するのか」と言った。

  突厥の郁射設が侵入して烏城を包囲すると、李建成は李元吉を推薦して北に討伐させ、そこで多く秦王府の勇将である秦叔宝尉遅敬徳程知節段志玄を率いて共に出発し、また秦王府の精兵を借りて麾下を増やした。はこれを知ったが、禁じることはできなかった。李元吉は機会を見て密かに秦王を殺害しようと願ったが、帝は「彼には天下平定の功績があるが、殺すのに罪状がないではないか」と言うと、李元吉は、「秦王が昔、東都を平定した時に、西に帰ろうとせずに、金帛を散財して私恩を植え付けました。どうして叛いていないといえましょうか」と言ったが、帝は返答しんかった。太子は李元吉と謀って、「兵が出発する時、私は秦王とともに昆明池に行って、壮士を引き連れて秦王を連れ去り、突然死したと上聞すれば、お上も信じるしかないだろう。その後に帝を説得して私に国事を預からせ、私はお前を皇太弟として、秦叔宝らを全員殺そう」と言ったが、率更令の王晊がこの謀を秦王に密告し、秦王は幕僚や部下を呼び寄せて謀り、全員が、「李元吉は凶悪で、思い通りにさせたところで、またその兄に仕えることはできないでしょう。最近、護軍の薛宝が「元吉」の字を合わせると、その文は「唐」になると言うとい、李元吉は喜んで、「ただ秦王を除けば、東宮なんか手のひらを返すようなものだ」と言い、乱はまだ成功していないのに、すでにまた傾け奪おうとしているのです。大王は急いでこれを正さなければ、社稷は再び唐の手から離れてしまいます」と言うと、秦王はこれによって計略を定めた。

  李元吉は死んだ時、年二十四歳であった。子の李承業は梁郡王に、李承鸞は漁陽王に、李承奨は普安王に、李承裕は江夏王に、李承度は義陽王となったが、全員が誅殺された。貞観年間(623-649)初頭、改葬し、海陵郡王に追爵して諡した。後に巣王に改封し、曹王李明を後嗣とした。


  楚哀王李智雲は、初名を李稚詮といった。弓射をよくし、書・囲碁を得意とした。隋の大業年間(605-618)末、李建成に従って河東に寓居した。高祖が即位した当初、李建成が太原に逃れると、官吏が李智雲を捕らえて長安に送り、陰世師のために殺害された。年は十四歳であった。武徳元年(618)、王に追封され諡を贈られた。

  母の万貴妃は、性格は恭順であり、に礼遇されたから、宮中の事は毎回諮問に預かった。

  武徳三年(620)、太宗の子の李寛を後嗣とし、また涼州総管・司徒を贈られた。李寛は早く薨去し、国は除かれた。貞観二年(624)、また済南公李世都の子の李霊亀を後嗣とし、魏州刺史とした。政務を行っては威厳があり、盗賊は現れなかった。永済渠を穿って、新市に通し、百姓には利益となった。薨去すると、子の李福が嗣いだが、降格して公とした。亡くなると、子の李承況が嗣ぎ、神龍年間(707-710)に右羽林将軍となり、節愍太子の死と同じくして難をうけた。


  荊王李元景は、武徳三年(620)に始めて趙王となり、魯王酆王の二王とともに同じく封ぜられた。貞観年間(623-649)初頭、雍州牧に累遷した。貞観十年(636)、荊王に移封された。

  翌年、詔して荊州都督荊王李元景・梁州都督漢王李元昌・徐州都督徐王李元礼・潞州都督韓王李元嘉・遂州都督彭王李元則・鄭州刺史鄭王李元懿・絳州刺史霍王李元軌・虢州刺史虢王李鳳・豫州刺史道王李元慶・鄧州刺史鄧王李元裕・寿州刺史舒王李元名・幽州都督燕王李霊夔・蘇州刺史許王李元祥・安州都督呉王李恪・相州都督魏王李泰・斉州都督斉王李祐・益州都督蜀王李愔・襄州刺史蒋王李惲・揚州都督越王李貞・并州都督晋王李治・秦州都督紀王李慎を任命した場所の刺史および功臣に代々世襲させることとした。ちょうどその時、長孫无忌らが固辞したため、ついに廃案となって行われなかった。鄜州に移った。永徽年間(650-655)初頭、位は司徒に進み、実封を賜って千五百戸にもなった。

  房遺愛が謀反すると、子の李則に連座して共に行き来して獄に繋がれた。当時、呉王もまた罪にあたり、高宗は大臣に向かって、「朕は公の願いに従おうとすれば、叔父と兄が死んでしまう」と言ったが、兵部侍郎の崔敦礼は、「陛下は恩を申されておりますが、天下の法を曲げるべきではありません」と言い、遂に死を賜った。しばらくして、沈黎王に追封され、渤海王李奉慈の子の李長沙を後嗣とし、降封して侯とした。神龍年間(707-710)初頭、再び王に陞爵し、孫の李逖を後嗣とした。薨ずると、子なく、国は除封された。


  漢王李元昌は、初め魯王となり、梁州都督に累遷し、のちに漢王に移封された。勇敢で力があり、騎射をよくした。しばしば法令に触れ、太宗は手ずから詔して訓戒譴責すると、怨みを抱き、太子李承乾に従って、贈り物を贈り物を送って誼を通じた。京師に来朝すると、東宮に宿泊し、かつて暴言があった。また帝の側に宮人が琵琶をよくする者がいるのを見て、「事がなったら私に賜りくだされ」と言い、李承乾は承諾し、肘を割って血盟した。事が失敗すると、は誅殺するのに忍びなかったから、死を免れさせようとしたが、高士廉李勣らが厳しく諌めて詔を奉らなかったから、そこで死を賜い、国は除封された。


  酆悼王李元亨は、貞観二年(624)、金州刺史を授けられた。金州を藩地として赴任することになると、太宗はその幼さを憐れんで、心配し、しばしば使者を派遣して慰問させ、金盃を賜って楽しませた。貞観六年(632)薨じ、子がなかったから、国は除封された。


  周王李元方は、武徳四年(621)に始めて王となり、鄭王宋王荊王滕王の四王とともに同時に封ぜられた。貞観三年(625)に薨去し、子がなかったから、国は除封された。


  徐康王李元礼は、性格は慎み深く、騎射をよくした。始め鄭王に封ぜられ、鄭州刺史を授けられた。後に徐王に移封され、徐州都督に移った。絳州刺史となり、統治が優れて名が現れ、璽書で労われ、実封は千戸となった。永徽年間(650-655)、司徒となり、潞州刺史を兼任した。薨ずると、太尉・冀州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  三子あり、李茂は淮南王となり、他は公に封ぜられた。

  李茂は陰険軽薄で行いがなかった。それより以前、李元礼が病となると、愛姫の趙氏の容貌が美しかったから、李茂は迫って密通し、李元礼が譴責すると、李茂は怒り、侍衛が薬や食事を持っていっていたが、「王となって五十年になろうとしているのに、どうして薬を服することがあろうか」と言って、食べさせずに薨させた。李茂が継承した。上元年間(760-761)、事件が発覚して、流されて振州で死んだ。

  神龍年間(707-710)初頭、李茂の子の李璀が継承し、開元年間(713-741)、宗正員外卿となった。薨ずると、子の李延年が継承した。抜汗那王が入朝すると、李延年は娘を嫁がせようとしたが、右相李林甫に弾劾され、文安郡別駕に貶され、余杭司馬で終わり、国は除封された。永泰年間(756-766)初頭、李延年の婿の黔中観察使の趙国珍が朝廷に申し上げ、詔してその子の李諷を嗣王とした。


  韓王李元嘉は、字を元嘉といった。始め宋王となり、後に徐王に改められ、潞州刺史となった。母の宇文昭儀は、宇文述の女であり、高祖に寵愛され、即位すると、皇后に立てようとしたが、固辞した。李元嘉は母の寵愛のため、特にに愛され、後に生まれた諸子で及ぶ者はいなかった。潞州にいた時、年十五歳であったが、太妃が病であると聞いて、涙を流して食事しなかった。喪の哀悼に服するあまり極めて体調を崩し、太宗はしばしば慰問した。若くして学問を好み、蔵書一万巻にもおよび、すべて古文字によって異同を参定した。弟の李霊夔と友愛があり、宴会すると終日庶民の礼のようであったが、邸宅内は整っており、当時の人は称賛した。

  貞観九年(635)、改めて韓王に封ぜられ、滑州都督に移った。高宗の治世末期、沢州刺史となった。武后が政権を獲得すると、昇進して太尉を授けられ、定州刺史に移った。霍王李元軌を司徒に、舒王李元名を司空に、滕王李元嬰を開府儀同三司に、魯王李霊夔を太子太師に、越王李貞を太子太傅に、紀王李慎を太子太保に任じ、外には尊崇と恩寵を示したが、心の中では謀をしていた。

  垂拱年間(685-688)、李元嘉は絳州刺史に遷り、子の李譔および越王子の李沖とともに宗室を糾合して同じく挙兵したが、まだ発覚しなかった。ちょうどその時、武后は宗室に詔して明堂にて朝賀させようとしたが、李元嘉は使者を派遣して諸王に告げて、「大享の後、太后は必ず諸王を全員誅殺するだろう。先に事を起すのにこしたことがない。そうでなければ、李氏は絶えてしまう」と述べ、そこで中宗の詔をつくり、諸王を督促して兵を発した。李沖はそこで兵五千で済州を攻めたが、諸王は慌ただしく出兵したが到着せず、遂に敗れた。李元嘉は京師に到着すると、謀は漏洩し、武后は迫って自殺させた。年七十歳。詔して氏を改めて元嘉・魯王越王を「虺」氏とした。


  李元嘉に六子いた。李訓は、潁川王で、早くに卒した。李誼は、武陵王である。李諶は、上党公である。李譔は、黄公で、巧みに文章を作り、孟利貞はかつて文章を称えて、「劉隣之(劉禕之か)・周思茂もこれほどではあるまい」と言っていた。京師から出されて通州刺史となり、病により辞職して帰ったが、また謀して越王に応じた。李諶は音律に通じ、杭州別駕に任じられ、李譔とともに死んだ。当時、宗室の籍を没せられた者は多く、李沖・李譔の家の書籍は多かったから、皆文句を考察・訂正し、秘府(宮中図書館)とて及ぶところではなかった。神龍年間(707-710)初頭、追って李元嘉の爵位・封土を復し、第五子の李訥を後嗣とした。薨ずると、子の李叔璩が継ぎ、国子司業をなった。薨ずると、子の李煒が継いだ。建中年間(780-783)、鄆王に改めた。後に懿宗が鄆王に即位したから、再び改めて嗣韓王としたという。


  彭思王李元則は、字は彝である。始め荊王に封ぜられ、京師から出されて婺州刺史となった。貞観十年(636)に彭王に封ぜられ、遂州都督となったが、冠服が豪奢で位階を僭越していたから免官となった。しばらくして、澧州刺史となったが、態度を改め行いに励んだ。薨ずると、司徒・荊州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。高宗望春宮でその葬列が通過するのを見て、慟哭した。

  子がなく、霍王の子の李絢を後嗣とし、龍朔年間(661-663)に、南昌王に封ぜられた。薨ずると、子の李志暕が継承し、開元年間(713-741)に宗正卿となった。


  鄭恵王李元懿、初め滕王に封ぜられ、貞観年間(623-649)、京師から出されて兗州刺史となった、鄭王に移封され、鄭州・潞州・絳州の三州刺史を歴任し、実封千戸となった。経学(儒家の経書の研究)を好み、しばしば大獄を断じて、務めて寛大公平であったから、高宗は喜び、璽詔でお褒めの詞を賜った。薨ずると、司徒・荊州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  十子あり、長子の李璥は嗣鄭王に封ぜられ、鄂州刺史となった。薨ずると、子の李希言が継ぎ、開元年間(713-741)、右金吾大将軍となり、再び太子詹事となった。弟の李察言は、二子を生み、李自仙・李䎖がいる。李自仙は楚州別駕となり、李夷簡を生んだ。李䎖は陳留公となり、李宗閔を生んだ。李璥の弟の李琳は、安徳郡公となり、李択言を生んだ、李択言は李勉を生んだ。李勉・李宗閔・李夷簡は全員宰相の位にあり、別に伝があり、当時「小鄭王後」と称し、または「恵鄭王後」といい、これによって鄭王李亮と区別したという。


  霍王李元軌は、武徳六年(623)始め蜀王に封ぜられ、豳王漢王の二王と同時に封ぜられたが、後に呉王に移封された。多芸の才能があり、高祖に愛された。

  太宗はかつて群臣に向かって、「朕の子弟では誰が賢いか」と尋ねると、魏徴は「臣は愚かにもその能力を知り尽くしておりませんが、ただ呉王がしばしば臣と話したところ、いまだかつて自らを失ったことはありません」と答え、は「朕もまた呉王が優れていると思う。だが卿は前代では誰に比肩すると思うか」と尋ねると、「経学と文章の面では、漢の河間王(劉開)・東平王(劉雲)でしょう。孝行の面でいえば、曾子・閔子騫にも劣らないでしょう」と答え、帝はこれによって待遇はますます厚くなった。詔して魏徴の娘を娶らせて妃とした。かつて狩猟に従い、猪の大群に遭遇し、帝はこれを射させると、矢は命中しないものはなく、猪は取り尽くされた。帝はその背中を撫でて、「お前の芸は人を超越しているが、今となっては施しようもない。天下が定まらないようなことがあれば、お前をどうして用いないなんてことができようか」と言った。

  貞観七年(633)、寿州刺史となった。高祖が崩ずると、官を去り、哀悼の余り体調を崩して骨が見えるほど甚だしく、服喪があけると、遂に菜食して終生麻の衣服を着用し、忌日になると、たちまち昼間は食事を摂らなかった。貞観十年(636)、霍王に移封され、絳州・徐州・定州の三州の刺史を歴任し、実封は千戸に至った。至るところで門を閉じて読書をし、事務仕事は長史・司馬に委ねた。謹んで、いまだかつて物を与えるのに物惜しみしたことはなかった。しばしば処士の劉玄平を引見し、庶民の交わりをした。ある人が王の長所を劉玄平に尋ねると、「長所などない」と答えた。尋ねた者は理解できなかったが、劉玄平は「人に短所があるから、長所が見えるのだ。王には備わらないようなところはない。私はどうやって称えればよいのか」と答えた。

  突厥が定州に侵攻してくると、李元軌は城門を開けさせ、旗幟を立てると、敵は疑って、あえて侵入せず、夜に逃げ去った。定州の人の李嘉運が密かに賊と結託したから、詔して一味を全員誅殺させようとしたが、李元軌は敵が近くまた強いから、人心を危ぶみ、ただ李嘉運を殺すだけで、他は罪を及ぼさず、そこで自らを弾劾した。は喜んで、「朕はこの詔を後悔していたところだ。王の明察がなければ、ほとんど定州を失うところであった」と言った。

  王文操なる者がいて、賊と戦ったが敗れ、二子の王鳳・王賢は身を以て父をかばい、父の命を全うできたものの、二子は死んだ。県では隠蔽して申し上げなかったが、李元軌は行いの正しさを知って、使者を派遣して弔祭し、その事を奏上した。詔して王鳳・王賢に朝散大夫を追贈し、その郷里で礼をあらわした。

  李元軌は朝廷に謁するごとに、しばしば上疏して政務の得失を述べ、多く裨益するところがあったから、は尊重し、大事があれば、常に密かに駅伝して諮問した。帝が崩ずると、侍中の劉斉賢とともに同じく知山陵事となった。李元軌は故事を熟知しており、劉斉賢は「これはわれらの及ぶところではない」と嘆いた。かつて国令を派遣して封国の租税を徴収させていたが、交易から利益を取るよう願ったところ、「お前は私の過ちを正さなければならないのに、かえって私を利に誘い引き込もうというのか」と答えて受け入れなかった。司徒に昇進し、京師から出されて襄州・青州の二州の刺史となった。越王が失脚すると、かつて通謀したことを罪とされ、黔州に移されることになり、檻車に載って陳倉に至ったところで薨じた。

  六子おり、李緒は江都王に、李純は安定王に封ぜられ、他は皆陞爵して公となった。李緒は名声があり、金州刺史となったが、誅殺された。神龍年間(707-710)初頭、二人とも官爵を復され、李緒の孫の李暉を嗣王とし、開元年間(713-741)、左千牛員外将軍とした。


  虢荘王李鳳は、字は季成である。始め豳王に封ぜられ、鄧州刺史となった。にわかに虢王に移封され、虢州・豫州・青州の三州の刺史を歴任し、実封千戸となった。狩猟を喜び、官吏や部下に会うと非常に傲慢であった。奴婢に虎の皮を被らさせ、その参軍の陸英俊を恐怖のあまりほとんど死に至らしめる寸前にし、そこで大笑いして楽しんだ。薨ずると、司徒・揚州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  七子おり、長子の李翼が継ぎ、平陽王となった。薨ずると、子の李㝢が継いだ。李㝢に子がなく、爵位は伝わらなかった。次子の李茂融は勇猛さで有名であり、垂拱年間(685-688)に申州刺史となった。黄国公李譔越王とともに挙兵を謀り、頼って助けとなった。当時、諸王・公に詔して東都に赴かせることになっていたが、李茂融は密かに親しくしていた高子貢に尋ねると、高子貢は「来れば必ず死にます」と答えたから、そこで病と称して参内せず、兵を挙げる時期を待った。越王の書簡を得ると、あわてて返答することができず、部下がその書簡を奏上することを勧めたから、太子右賛善大夫に抜擢されたが、にわかにその与党に引き入られるところとなり、誅殺された。

  中宗は改めて李鳳の孫の李邕を嗣王とし、韋后の妹を娶り、秘書監に累進し、知隴右三使仗内諸厩となった。汴王に移封された。しばらくもしないうちに、韋氏は失脚し、李邕はその妻を殺して、首を朝廷に送った、議する者は卑しんだ。爵位を削り、沁州刺史に貶したが、従事しなかった。後に爵位を復し、戸二百を返還され、衛尉卿に累進した。薨ずると、子の李巨が継いだ。


  李巨は剛直で決断が果断であり、ほぼ史書に通暁し、文章を好んだ。天宝五載(746)、京師から出されて西河太守となった。柳勣の与党を援助したことが罪とされ、義陽司馬に貶された。翌年、御史中丞の楊慎矜が罪となると、それに従っていた史敬忠が李巨と親しかったから、また連座して免官となり、南賓郡で禁錮刑を受けた。召還されて夷陵太守を拝命した。

  安禄山が東京(洛陽)を陥落させると、玄宗が将帥を選ぼうとし、張垍は李巨に謀があるから、大事を委ねるべきであるとした。召還されて京師に到着したが、楊国忠に嫌われ、人に向かって、「小児がどうして天子と対面することができるのか」と言い、翌月になっても謁見できなかった。はこれを知って、呼び寄せて禁中に入らせ、対面すると、帝は大いに喜び、宰相に李巨と語るよう勅したが、しばらくしても退出することができず、楊国忠は怠って、李巨に向かって、「この頃来る者の多くが口々に賊を討伐すると言っているが、君もそうではないのか」と言ったから、李巨は「誰が相公のために手ずから賊を討伐する者でしょうか」と答え、そこで陳留・譙郡太守、摂御史大夫・河南節度使を授けられた。翌日挨拶に行くと、帝は驚いて、「どうやったのか」と尋ね、そこで詔して兼御史大夫とした。李巨は奏上して「まさに艱難な時で、賊には偽りが多いので、陛下が臣を召還されるようなことがありましたら、どうやって信を置くべきでしょうか」と述べたから、そこで割符を授けた。


  にわかに嶺南節度使の何履光・黔中節度使の趙国珍・南陽節度使の魯炅の三節度使を統括した。その時、魯炅は戦ってしばしば敗北したから、詔して貶して果毅に任じ、来瑱に代わらせることとした。李巨は奏上して、「魯炅がもし孤城を保つことができたなら、功績は過ちを補うのに充分です。ですからどうしてこのようになされるのでしょうか」と述べると、帝は「卿の処置に従おう」と述べ、李巨が内郷に到着すると、賊将の畢思琛は包囲を解いて逃走し、遂に南陽を救援し、魯炅を白衣従軍に貶したが、その日の暮れに、詔と称して復職させた。

  京師が平定されると、留守、兼御史大夫を拝命した。翌年、太子少師、兼河南尹・東畿採訪使を拝命した。牛に乗って市に出入りする者は、税としてとりたてて財政への助けに用いたが、しかしほとんど私的に溜め込んでいた。その妃の張氏は張皇后の従姉妹であったが、仲は険悪であった。李巨は府県の官の蓄えを私的に用い、妃もまた博徒の少年を引き入れて分党として収賄をし、政事を歪めた。宗正卿の李遵はもとより張氏と密通し、李巨の収賄を暴き、遂州刺史に貶した。ちょうどその時、段子璋が叛き、遂州を通過すると、李巨はあわててどうすればいいかわからず、そこで出迎えたが、段子璋に殺害された。

  子の李則之は、学を嗜み、年五十歳あまりにして、なおも太学で講義を受けており、嗣曹王李皋が推薦した。貞元二年(786)、睦王府長史から左金吾衛大将軍に遷った。従甥の竇申と親しかったのに連座して、昭州司馬に貶された。


  道孝王李元慶は、始め漢王となり、後に陳王に移封され、京師から出されて趙州刺史となった。貞観十年(636)、道王に移封され、豫州刺史を授けられ、実封千戸となった。その当時、諸王の奉給は帝の子より少なく、しばしば困窮するに至ったが、大臣はあえて申し上げる者はいなかった。貞観十八年(644)、黄門侍郎の褚遂良太宗のために従容として申し上げたが、実行することができなかった。高宗の時、滑州刺史に任じられ、治世の成績によって上聞され、しばしばお褒めの言葉を賜った。徐州・沁州・衛州の三州の刺史に遷った。母に仕えて慎み深く、喪となると、身を墳墓に修めることを願ったが、詔して聴されなかった。薨ずると、司徒・益州都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  九子おり、李誘が継ぎ、臨淮王に封ぜられ、澧州刺史となったが、収賄に罪とされて封爵を削られた。改めて次子の李詢の子の李微を後嗣とし、宗正卿で終わった。子の李錬が継ぎ、広徳年間(763-764)、また宗正卿となった。


  鄧康王李元裕は、貞観五年(631)に鄶王となり、貞観十一年(637)に鄧王に移封された。王が移封されると、譙王魏王許王密王の四王と同時に封ぜられた。実封は千二百戸に至った。

  学問を好み、よく名理を語り、典籤の盧照隣と庶民と同様の交流をした。五たび州刺史となり、兗州都督に遷った。薨ずると、司徒・益州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。子がなく、江王の子の広平公李炅を後嗣とした。薨ずると、子の李孝先が継ぎ、開元年間(713-741)、冠軍大将軍となった。


  舒王李元名は、初め譙王に封ぜられ、後に舒王に移封された。高祖大安宮にいると、太宗は朝に夕に尚宮にご機嫌伺いさせた。李元名はわずか十歳であったが、養育係が「尚宮は身分が高いので拝礼してください」と言うと、李元名は「これは帝の侍婢だけではないか。どうして拝しなければならないのか」と言ったから、太宗は意気をよしとし、「本当に我が弟だな」と言った。成長すると、謹厳かつ財を疎んじ、今まで家人の生業を尋ねたことがなかった。五州の刺史を歴任し、実封は千戸に及んだ。

  子に豫章王李亶がおり、江州を治めて、優れた政治で名声があった。高宗は李元名のよく子を導いたことから、手づから詔して褒賞した。また李元名に大州を授けようと思ったが、辞退して、「臣は忝なくも宗室に籍を置いており、どうして州郡を出世の助けとしましょうか」と述べた。石州を治めること二十年、しばしば山林に遊び、俗世を離れた境地にあった。垂拱年間(685-688)、鄭州に遷り、境は東畿に接しており、諸王や貴族・外戚で刺史となった者は家人を勝手に百姓に対して暴虐を働いていたが、李元名がやって来ると、すべてを改め、治世は清廉かつ威厳があった。昇進して司空となった。

  武后の時、李亶丘神勣に捕らえられ、詔獄に繋がれて死に、李元名も連座して利州に移され、ついで殺された。神龍年間(707-710)初頭、詔して官爵を復し、司徒を追贈された。当時、幼子の鄅国公李昭はすでに卒しており、そこで李亶の子の李津を後嗣とし、開元年間(713-741)、左威衛将軍となった。薨ずると、子の李万が継いだ。薨ずると、子の李藻が継いだ。


  魯王李霊夔は、学問にあつく、草書・隸書をよくし、音楽に通暁した。初め魏王に封ぜられ、後に燕王に封ぜられ、幽州都督となった。後に魯王に移封され、実封は千戸にもなった。しきりに五州の刺史を歴任し、太子太師となった。垂拱元年(685)、相州刺史に遷ったが、越王の挙兵の謀事にくみしたことを罪とされ、振州に流され、自殺した。

  子の李詵は、清河王となったが、夭折した。李藹は范陽王となり、越王が必ず失敗すると知って、その謀事を暴いたから、誅殺されなかった。右散騎常侍に任じられたが、酷吏によって殺害された。神龍年間(707-710)初頭、ことごとく追って王爵を復されると、李藹の子の李道堅を後嗣とした。

  李道堅は厳粛で礼法があり、その家門は粛然としていた。七たび州刺史となり、国子祭酒に遷った。開元年間(713-741)、選ばれて汴州刺史・河南道採訪使を授けられた。汴州は水陸の輸送が一度に会し、前後に任じられた刺史は多く利を貪ったが、ただ李道堅だけは清廉によって称えられた。京師に入って宗正卿となった。薨ずると、礼部尚書を追贈された。子の李宇が継ぎ、玄宗に従って蜀に到り、右金吾将軍となった。宝応年間(762-763)初頭、皇太子を魯王に封ずると、改めて李宇を封じて嗣鄒王とした。弟の李道邃は戴国公に封ぜられ、慎み深く寡黙で自らを保全し、山東婚姻の故事を修めたため、しばしば清職に任じられ、尚書右丞で終わった。


  江安王李元祥は、初め許王となり、後に江王に移封され、四たび州刺史となり、実封は千戸に及んだ。性格は田舎じみていて吝嗇で、至るところで財産を経営して飽きることがなかった。当時、滕王蒋王虢王の三王はみな貪欲かつ横暴で、その府官となった者は彼らを憎んで赴任を望まず、そのため当時の人々は「儋州・崖州・振州・白州に流されたとしても、江王滕王蒋王虢王には仕えたくはない」と語った。李元祥は体が大きく、腰回りは十人分あり、食事は数人分を平らげた。韓王虢王魏王もまた大きく立派であったが、李元祥には及ばなかった。薨ずると、司徒・并州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  七子あり、李晫は永嘉王となったが、禽獣の行いがあって、誅殺された。李皎は武陽王となり、他は全員公に陞爵されたが、武后の時、多くが誅殺された。李皎の子の李叢は、幼いから流刑となったが嶺表で死に、南安に葬られ、人々はその墳墓を「天孫墓」と号した。中宗が即位すると、従子の李欽を嗣王とし、また李皎の封が絶えたから、改めて弟の子の李継宗を後嗣としたが、すでに郡王は襲封しなかったから、澧国公に降封された。


  密貞王李元暁は、貞観年間(623-649)虢州刺史となり、実封は千戸に及んだ。沢州に遷った。薨ずると、司徒・揚州都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  子の李穎が継ぎ、南安王となった。薨ずると、子の李勗が継いだが、早くに薨じた。神龍年間(707-710)初頭、李穎の弟の李亮の養子の李曇を後嗣とした。開元五年(717)、改めて李元暁の再従孫の東莞郡公の李徹に詔して後嗣とし、濮陽郡王に移封し、宗正卿・金紫光禄大夫に任じた。


  滕王李元嬰は、貞観十三年(639)初めて滕王に封ぜられ、実封千戸であった。金州刺史となったが、驕慢かつ放縦で節度がなかった。太宗の喪で、役人や部下を集めて宴会して歌舞音曲にふけり、雑役の者と慣れ親しみ、領内を巡察すると、民から犬を借りて網を求め、通過したところで人を害し、丸で人を弾き、逃げ回るのを見て楽しんだ。城門は夜に開き、また節度がなかった。高宗は書簡で厳しく譴責し、「朕は王が親族であるから、法で裁くには忍びない。今王と一緒に上下について考え、王の心が恥じることを願うのだ」と述べた。

  しばらくして、洪州都督に遷った。役人や部下の妻で美しい者がいると、偽って妃のためであるといって召寄せ、迫って密通した。かつて典籤の崔簡の妻の鄭氏に漫罵され、沓で抵抗して李元嬰の顔面に血を流させて、免れた。李元嬰は恥じて、十日たっても政務を見ることがなかった。後に法に触れて戸数および親事官・幕僚の半分を削減され、滁州に流謫された。起用されて寿州刺史となり、隆州に遷ったが、また法に従わなかった。録事参軍事の裴聿はその失政を諌めたが、李元嬰は裴聿を引きずり回して辱めた。裴聿は京師に入って詳細に奏上し、は裴聿を六品上階に遷した。帝はかつて諸王に綵(あやぎぬ)五百を賜ったが、李元嬰および蒋王は貪欲で意地汚いため、書簡を下して「滕王叔父蒋王弟への賜与は待て。麻を二車給付して、銭緡に替える助けとせよ」と述べたから、二王は大いに恥じた。武后の時、開府儀同三司・梁州都督を拝命した。薨ずると、司徒・冀州都督を追贈され、献陵に陪葬された。

  子は十八人おり、長子の李修琦が継ぎ、長楽王となり、他は公に陞爵された。垂拱年間(685-688)、六人が詔獄で死んだ。神龍年間(707-710)初頭、改めて少子の李修信の子の李渉を後嗣とし、開元年間(713-741)、左驍衛将軍を授けた。薨ずると、子の李湛然が継ぎ、玄宗に従って蜀に到り、左金吾将軍に抜擢された。


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最終更新:2025年08月16日 23:39
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