楊国忠 ようこくちゅう
?-756
唐代の外戚・姦臣・宰相(在任752-756)。蒲州・永楽の人。本名は楊釗。
楊貴妃の親戚として監察御史に任じられると、楊貴妃に
玄宗の意向を探らせ、宮中府中の紛糾にはこれを利用して糾弾を行なった。宰相
李林甫ともむすび、内紛にはその与党となった。度支郎中に移り、財政的手腕を認められ、御史大夫・京兆尹を兼ねてのちも、財政をつかさどった。国忠の名は、このとき玄宗から与えられた。751(天宝10)年、南詔を再征するときは、知節度事として7万の軍を率いたが、敗れてのちも実情を報告しなかった。752年、宰相李林甫が死ぬと、その後任となり、たちまち李林甫の派を排斥し、従来、仲のよかった
安禄山とも不和となった。安史の乱は、その挑発が原因だといわれる。754年に司空となる(在任754-756)。帝にしたがって四川にのがれる途中、馬嵬で殺された。夫人
裴柔との間の子に
楊暄・
楊昢・
楊暁・
楊晞がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2024年12月21日 21:55