李紃
(存否不明)
唐末の皇族。『新唐書』『資治通鑑』では、宰相
崔胤が朱全忠の意を受けて、皇子を元帥とし、朱全忠を副元帥とする議を述べた際、朱全忠は輝王(後の哀帝)を推したのに対し、昭宗は「濮王は年長だが、どうか?」と述べている。この濮王は、『旧唐書』『新唐書』の伝には昭宗の皇子としては、いずれもみえない。ただ『資治通鑑考異』が引用する孫光憲『続通暦』には、「濮王、名は紃。昭宗の子なり。母は太后王氏という。哀帝殺され、朱全忠、紃を冊して天子となし、天寿と改元し、明年位を梁に禅る」とあるというが、昭宗には王皇后がなく、『金鑾記』に「濮王、蓋し
徳王の改封なるのみ」とあり、昭宗の長子徳王
李裕が改封されたものとする。実際、『旧唐書』には、天祐二年(905)二月に「霊駕発引し、濮王已下従う」とあり、また『新五代史』によると、
朱友恭らが昭宗弑逆した時、同時に諸王宗属数百人(同書本紀では「千余人」)も皆殺害されて、龍興寺の北の一坑(同書本紀では「三穴」)に同じく埋められたが、後唐の荘宗の時に唐の内人の景姹が証言して一塚に改葬するのを願い出たため、詔して濮王を首として一品の礼で葬ったとあるから、「濮王」=「徳王
李裕」とみなすべきであろう。
列伝・史料
『新唐書』
巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 姦臣下 崔胤
『資治通鑑』巻二百六十四 唐紀八十 昭宗 天復三年二月戊寅条
『旧唐書』巻二十下 本紀第二十下 天祐二年二月丁未条
『新五代史』巻四十三 雑伝第三十一 李彦威
最終更新:2023年01月03日 20:45