巻二百二十三下 列伝第一百四十八下

唐書巻二百二十三下

列伝第一百四十八下

姦臣下

盧𣏌 崔胤 崔昭緯 柳璨 蒋玄暉 張廷範 氏叔琮 朱友恭


  盧𣏌は、字は子良である。父の盧弈は忠義伝に見える。盧𣏌は弁舌の才能があり、体は醜いこと甚だしく、鬼のような容貌で顔色は藍色であり、衣が粗末であったり粗食なのを恥じることなく、人はいまだその情がないのを悟らず、皆、祖風の節があると言った。蔭位のため清道率府兵曹参軍となり、僕固懐恩が朔方府に左遷されると書記となり、病により免職となった。鴻臚丞に補任され、出て忠州刺史となる。上役に節度府の衛伯玉がいて謁したが、衛伯玉は喜ばず、そこで謝して帰った。次第に吏部郎中に遷り、虢州刺史となった。上奏して、虢州に官豚が三千あって民の患となっていることを述べると、徳宗は、「沙苑に移せ」と言った。盧𣏌は、「同州もまた陛下の百姓です。臣は食べると役に立つと思います」と言った。は、「虢州を守りながらも他の州を憂う。宰相たる人材である」と言った。詔して豚を貧民に賜り、遂に意あって重用された。にわかに召されて御史中丞となり、論奏すれば合わないことはなかった。翌年御史大夫に移り、十日たたずして、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。

  思い通りになってからは、賊は険阻の地によって野営し、賢者は媚び売って、能者は嫌い、小人は自身に逆らい、死地にかしずかずして止まなかった。将軍は大樹となって威を振るい、軍は権力を弄んでは脅かし、それによって自身の地位を固めた。楊炎は盧𣏌とともに輔政したが、楊炎は盧𣏌の才能が低いから卑しんだから、盧𣏌は嫌い、いまだ半年もしないうちに、讒言して楊炎を罷免させた。当時、大理卿の厳郢と楊炎は仲が悪く、そこで厳郢を抜擢して御史大夫として自らの助けとし、楊炎はついに追われて死んだ。張鎰は人材が豊かでゆとりがあり、忠誠心があり、帝はいつくしみ、いまだ間柄が悪くなるようなことはなかった。たまたま隴右で兵を用い、盧𣏌はそこでを見て、偽って行くことを願ったが、帝は許可せず、そこで張鎰を推薦して鳳翔を守らせた。すでにまた厳郢と仲違いしていた。当時、幽州の朱滔朱泚に言うことが食い違っており、その軍の司馬の蔡廷玉を誣告して仲悪く言い争いして、これを殺すことを願った。にわかにして朱滔が叛き、帝はこれを斥けようとすれば朱滔を喜ばせるだけだとし、御史の鄭詹に按状を下し、柳州司戸参軍に貶め、勅吏が護送した。蔡廷玉は朱滔の所に送られようとしているのだと疑い、よって自ら黄河に身を沈めて自殺した。盧𣏌は上奏して、朱泚が詔によって殺されようとしているのだと疑うことを恐れ、願って鄭詹を三司の共同審理に下して、あわせて御史大夫の厳郢を弾劾した。それより以前、鄭詹と張鎰は仲が良く、盧𣏌に伺っている時に時間があるごとに、ひとり張鎰に詣でており、盧𣏌はこれを知っていた。他日に鄭詹が伺って来ると、そこでただちに張鎰の別室に行き、鄭詹が避けて逃げていくと、盧𣏌はにわかに陰謀を企み、張鎰はやむをえず、「鄭侍御はいました」と言ったから、盧𣏌は表向きは驚いたように「本来言わなければならないところで言うところを、他人の所ではないのに聞かせたということか」といい、ここにいたって合わせて事件とし、詔があって鄭詹は杖死とし、厳郢を費州に流刑とした。杜佑判度支は、帝が最も寵礼するところであったが、盧𣏌はその罪を醸成し、ついに蘇州刺史に貶めた。李希烈が叛くと、盧𣏌はもとより顔真卿が諌言を呈するのを憎んでいたから、そこでその軍を宣慰させ、ついに賊のために殺害された。もと宰相の李揆は名望があり、再度任用されるのを恐れて、遣して吐蕃会盟使とし、行って卒した。李洧は徐州を降したため、経略があったが、使人が誤って先に張鎰に申し上げたため、盧𣏌は怒り、これを瓦解させ、使者に功があるとはしなかった。その狙害隠毒なこと、天下は痛憤しない者はなく、盧𣏌がの信頼を得ているから、そのため敢えて申す者はなかった。

  この当時、兵は河南・河北に駐屯し、兵は連ねて解散することができず、財は日急を要した。ここにおいて度支軍を維持するための分を計算して申請するところを給付すると、月費は緡百万あまりとなり、しかし蔵にはわずかに三か月分しかなかった。盧𣏌はそこで戸部侍郎の趙賛を判度支とし、その党の韋都賓らは建言して「商人の蓄えた銭千万は、自らの業とすることを許します。千万を過ぎた場合、その溢れたものを貸して軍での決裁とします。軍が解散したら、約束して官が補償します」と言い、はこれを許した。京兆はにわかにその期を責められ、校吏は大いに街を捜索し、疑列を占めているのに尽きていないことを疑い、笞うってこれを掠い、人は怨みにたえず、自ら溝に落ちて死ぬ者が相継ぎ、京師は騒然として静かになる日はなかった。しかし田宅・奴婢の価値をつくしても、緡は八十万止まりであった。また僦櫃(櫃の貸し借り)・質舎(家屋の賃貸)・粟を商う者は、四分の一を利とするから、わずかに二百万に至るのみであった。しかし長安は店を閉ざし、民は皆宰相をむかえて祈り訴えるも、盧𣏌は説き伏せることはなく、走り去ってしまった。帝は民の愁忿を知り、所得が足りないのに軍に給付するのを止めた。趙賛は政略が窮地に陥り、ここにおいて間架税除陌銭を設けて、意をほしいままに暴虐した。その法は、屋は二架を一間とし、住宅の質に応じて税とし、上は二千、中は千、下は五百、吏は邸・室に入ってこれを測量し、ごまかせば二架ごとに罪にあたり、密告者には銭五万を与えた。おしなべて公私の貿易は、旧法では千銭ごとに二十を数え、請うて五十を加え、仲買人が売るところを注し、その算を役人に入れた。互市より、私に借りた場合は自ら申請し、ごまかした場合、千銭ごとに二万を没収し、密告者には一万銭を与えた。これによって仲買人がその私用で操っていたところを得て、悪事をすれば、公に入るところは常に半分にもならず、しかも怨嗟の声は天下に満ちあふれた。涇師の変におよんで、市で「商人の僦質を奪わないのに、間架税除陌銭を税とするな」と叫ぶものがいて、その唱和や造作は怨みを増して乱のきっかけとなり、すべて盧𣏌がやったことである。

  が奉天に逃げると、関播とともに従った。後数日して、崔寧が賊中より来て、関播に向かって、帝が奉天に逃げることになったのは盧𣏌の責任とだと言いたてたから、盧𣏌はそこで崔寧が叛いていると誣告し、帝は崔寧を殺した。霊武の杜希全が塩州・夏州の二州の兵六千を率いてやってきたが、帝は進撃すべき道について議論すると、盧𣏌は道を漠谷にするよう願った。渾瑊は、「そうではありません。彼は険が多く、かつ賊に乗じて来たのですから、道を乾陵の北にするのにこしたことはありません。鶏子堆を越えて駐屯し、兵を分けて挟撃すれば、賊を打ち破ることができます」と言ったが、帝は盧𣏌の議に従った。賊ははたして隘路によって進路を塞ぎ、兵は進むことができず、邠州に逃げ帰った。

  李懐光が河北より帰還すると、しばしば賊を破り、朱泚は解囲して撤退した。ある時、王翃趙賛が、「聞いたところによると、李懐光が、かつて宰相が謀ができず、度支の租税を割り当てや取り立てが重く、京兆は刻々と軍賜を損なってきたのだから、これらを誅殺して天下に謝すべきである、と言ったそうです。李懐光は功があり、お上は必ずその言を聴き用いるでしょう。らには何と危ういことでしょうか」と二人は盧𣏌に申し上げた。盧𣏌は恐れ、そこでを欺いて、「李懐光の勲功は宗社にあり、はこれを憚って肝を冷やしています。今その威によって、一挙に平定すべきです。もし来朝を許せば、労って一か所に留めることになります。そうすると賊は残党を集結させることができ、守備の計画を全うされてしまいます。こうなっては謀ること実に難しいので、有利な状態で勝利を収め、京師を平定させるにこしたことがなく、そうすれば破竹の勢いとなるでしょう」と言った。帝はそうだと思い、詔して李懐光を朝拝させず、進ませて便橋に駐屯させた。李懐光は自ら千里の艱難の勤めをし、大功があったが、姦臣のために間隙を阻まれて、天子に一度すらの謁見もできなかった。心は晴れ晴れとせず発するところとてなく、ついに謀反し、よって盧𣏌らの罪悪を暴露した。士議は騒ぎだし、盧𣏌を指弾させたから、帝ははじめて悟るところがあり、盧𣏌は新州司馬に左遷された。

  これより以前、が即位すると、崔祐甫が宰相となり、専ら道徳によっての意を導いた。そのため建中年間(780-783)初頭、綱紀は設けられ、明々と輝く様は貞観の風があった。盧𣏌が宰相になると、に仄めかして刑名をもって天下を糺し、混乱が相継いだ。その弊害・偽りは、国にたむろしているとはいえ主を辱めるだけで、やかましく勝手にこれを行った。後に排斥されたとはいえ、しかし帝の盧𣏌への思いは衰えなかった。興元年間(784)の赦令によって、にわかに吉州長史に移された。盧𣏌はそこで、「お上は必ずまた私を用いるだろう」と言った。貞元元年(785)、詔して饒州刺史を拝命した。給事中の袁高がまさに詔書を作成しようとした際に、草稿を作成するのをよしとせず、宰相(盧翰)に、「𣏌は背いて天常を変え、万乗の君をして播遷(さすらい)の憂き目に合わせました。赦されて誅されなかっただけも幸運なのに、また大州を委ねるようなことがあれば、天下の望みを失うことになります」と言ったが、宰相は喜ばず、そこで別の舎人を呼び寄せて制をつくらせようとしたが、袁高は固執して制を下すことができなかった。ここに諌官の趙需裴佶宇文炫・[盧景亮]]・張薦らの多くが奏上し、厳しく諌めて、盧𣏌の罪を四海に棄てて、今またこれを用いれば、忠臣は肝を冷やし、良士を骨を痛め、必ずやまた災いの発端があるとした。その言は懇切丁寧であった。帝は宰相に語って、「盧𣏌に小州を授けてはどうか」と聞いたが、李勉は、「陛下が大州を与えるのもまた難なしとすれば、全国の謗りは一体何のでしょうか」と答えたから、そこで詔して澧州別駕とした。後に散騎常侍の李泌が謁見すると、帝は、「袁高らが盧𣏌の事を論じたから、朕はこれ裁可した」と言ったから、李泌は頓首・祝賀して、「連日外では陛下のことを漢の桓帝・霊帝のようであると言われていましたが、今は堯・舜のような英主だと知りました」と言ったから帝は喜んだ。盧𣏌はついに澧州で死んだ。

  それより以前、尚父郭子儀の病が甚だしく、百官は見舞いしたが、侍妾を退けなかった。盧𣏌がやって来ると、そこで侍妾を退け、脇息を隠して待った。家人は怪訝にその理由を聞くと、郭子儀は「彼は外には心が狭く、内はとげとげしく、左右は見れば必ず笑うが、後に権力を得てしまったら、我が一族に類する者はいないのだ」と言った。


  崔胤は、字は垂休で、宰相崔慎由の子である。抜擢されて進士に及第し、累進して中書舎人・御史中丞に遷った。陰謀を喜び、権勢の強い者に付き従い、表向きは自分で自分のことを処置し、荘厳にして持重であったが、心の中では陰険で恐るべきものがあった。崔昭緯がしばしば推薦し、そのため戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。まさに王珙兄弟が河中を争い、崔胤を節度使としたが、赴任することができず、半年してまた中書侍郎に復し宰相に留まった。崔昭緯が罪によって誅殺されると、罷免されて武安節度使となり、陸扆が国事を司った。当時、王室は振わず、南司(政府官僚)・北司(宦官)はそれぞれ党派をたてて藩鎮と結び、内部では宰相に凌ぎ脅かした。崔胤はもとより朱全忠と仲良く、心を委ねてこれと結んだ。朱全忠は崔胤に功績があり、外に出すのはよろしくないといい、そのため宰相に戻って陸扆を追放した。

  光化年間(898-901)初頭、昭宗は華州より到着すると、任務は反乱側を慰撫することで、崔胤は密かに朱全忠の地とし、兵を放って四たび追討させた。はその行いを醜いとし、罷免して吏部尚書とし、陸扆を復帰させて宰相とした。たまたま清海に帥がおらず、よって崔胤は清海節度使を拝した。それより以前、崔昭緯が死に、王摶らはその死体を発くことを申し、崔胤はこれに連座して罷免されたから、心に恨みを含んだ。すでに王摶と同じく宰相となり、崔胤は議してことごとく宦官を去らせようとしたが、王摶は助けず、おもむろに請うてこれを謀った。王摶に宦官を排除する意思がないとみて、その語を朱全忠に漏らし、王摶を公開弾劾して勅使を交えて共に国を危うくするとし、罪は誅殺に相当した。崔胤は湖南に行き、召還されて司空・門下侍郎・平章事(宰相)となり、領度支・塩鉄使・戸部使を兼任し、王摶に死を賜い、あわせて中尉の宋道弼景務修を誅殺し、これによって権力は天下に震い、宦官といえどもまた吐息をひそめた。ここに至って、四たび宰相を拝命し、世に「崔四入」と言われた。

  劉季述を東宮内に幽閉し、徳王を奉って監国としたが、朱全忠の強気を恐れて、深く崔胤を怨んでいたにも関わらず、敢えて殺すことなく、宰相を罷免するのに留まった。崔胤は朱全忠に軍を西進し、帝が幽閉されている所以を問う手紙を出し、朱全忠はそこで張存敬をして河中を攻め、晋州・絳州を攻略した。神策軍大将の孫徳昭は常に宦官が天子を廃し辱めているのに憤り、崔胤は判官の石戩をしてともに遊ばせ、間に乗じて本心を伺った。孫徳昭は酒を呑めば必ず泣き、崔胤はその心をおしはかることができ、そこで石戩をして説いて、「劉季述が天子を廃してより、天下の人は未だかつて忘れず、武夫や義臣は手をこまねていて憤っています。今、謀反者はとくに劉季述・王仲先のみで、他の人は威に脅かされるだけで、ともにすることはありません。君はよく乗じてこの二豎子を誅殺し、天子を復位すれば、功名を取れるのではないのでしょうか。即ち早計ではなく、まさにこれを先んじる者があろうとするでしょう」と言い、孫徳昭は感激して目覚め、そこで崔胤は謀を告げると、孫徳昭は許諾し、崔胤は帯を斬って誓いとした。にわかに劉季述・王仲先を誅し、功によって司徒に進んだが、就任せず、また宰相に復し、あわせてまた戸部司・度支司・塩鉄司も復した。帝はこれを恩義とし、朝廷であっても名で呼ばず、字で呼んだ。寵遇は比類なきものであった。

  天復元年(901)、朱全忠はすでに河中を取り、進んで同州・華州に迫った。中尉の韓全誨は崔胤と朱全忠とが仲良かったから、朱全忠を誘致してくることを恐れ、君側より除こうとし、そこで宰相を罷免することを申したが、いまだ罷免される前に、切迫してを携えて鳳翔に行幸させた。崔胤は帝が廃位されたことを怨んでいて、従うのを承諾せず、朱全忠を召喚して兵で天子を迎えることとし、太子太師の盧渥をして群臣を率いて朱全忠を迎えさせた。それより以前、朱全忠は華州に至り、幕府の裴鑄を遣わして奏事し、帝はやむを得ず来朝を聴(ゆる)した。ここにいたって崔胤はこの謀をなし、そこで兵で行在に迫った。帝は詔を下して鎮に帰還する趣意を示し、よって詔して盧渥らを遣わしてともに西行した。朱全忠は上表して具さに、「書簡をみてみると詔は皆崔胤宰相の意思ではないことを知りました。時間を無駄にするところでした。軍は関に入り、李茂貞と和約することを得て恨みを解き、乗輿(昭宗)を迎えることを願います」と述べた。李茂貞は弾劾して、「崔胤は死士を蓄え、度支使を用いて利益を独占し、自ら陳班を信じ、京兆府の募兵を与え、居るところの坊を守らせています。天子が出軍駐屯し、使者を五人派遣して、横になって動かず、もっぱら表を奉って陳謝いたします」と奏上した。当時、帝は朱全忠の上表文を見て、また大いに怒り、そこで詔を下してあきらかに責め、工部尚書の地位をもって崔胤の知政事(宰相)を罷免し、崔胤を京師から出して華州におらしめた。

  それより以前、天復年間(901-904)以後、宦官はもっとも屈して崔胤に仕え、事があれば諮問しないことはなかった。禁中で議政するごとに、暗くなって燭台を継ぐほどになり、ことごとく宦官を誅殺することを請い、宮人には内司の事のみを司らせようとした。韓全誨らは密かにこれを知って、共にの前にてなおも憐憫を請うた。そこで崔胤に詔して後にまさに密封すべしとしたが、口頭で述べることがなかった。宦官はますます恐れ、いよいよその謀を得ようとし、そこで知書美人の宗柔らの側近より陰謀についてを探ると、崔胤の計略は次第に露わとなり、宦官はある者は互いに困難な状況に泣き、自ら心を落ち着かせられず、昭宗を奪う謀を固めた。

  華州にいる時、朱全忠のためにしばしば醜計を謀った。朱全忠は兵を引き上げて河中に駐屯し、崔胤は迎えて渭橋に謁し、觴(さかづき)を奉って朱全忠の寿を祝い、自ら歌って酒を呑み干した。たまたま李茂貞韓全誨らを殺し、朱全忠と和約した。は急いで崔胤を召還し、出された詔は墨詔は四・朱札は三であったが、すべて病気だといって辞退した。帝が鳳翔を出るにおよんで、朱全忠の軍に行幸し、そこで迎えて道中で謁し、また平章事(宰相)を拝し、位は司徒に進み、判六軍諸衛事を兼任し、詔して邸宅を右軍に移し、帷帳器用十車を賜った。崔胤はついに、「高祖太宗は内侍を典軍にすることなく、天宝年間(742-756)以後、宦官は次第に盛んとなり、徳宗は羽林衛を分けて左右神策軍とし、宦官を主とし、二千人を率いさせました。その後、機密に参与・掌握させ、内務百司に至ってはことごとく宦官の手に帰し、それぞれが補っていますがこれは不法であり、朝廷は微弱となり、禍はここに始まるのです。請うらくは左右神策軍・内諸司使・諸道監軍を廃止せんことを」と奏上し、ここにおいて内外の宦官はことごとく誅殺され、天子が詔命を伝導するときは、ただ宮人の寵顔らのみが用いられた。

  帝が鳳翔にある時、盧光啓蘇検を宰相としたが、崔胤は全員追放して殺し、行幸に従った近臣陸扆ら三十人あまりを分けて追放し、ただ裴贄は一人だけ留まっていたから、留めてともに政務に当たった。は動静を崔胤に一決し、敢えて言うことはなかった。崔胤は皇子を元帥とし、朱全忠を副元帥とし、功績を褒め称えることを示すよう議した。朱全忠は心内で輝王(後の哀帝)が幼くて利するとし、そのため崔胤の奏上にかりて輝王とするよう願った。帝は「濮王は年長だが、どうか」と言ったが、禁中に帰って、翰林学士の韓偓を召して謀した。韓偓は陰で崔胤を助けていたから、ついに崔胤の奏は退けられなかった。朱全忠は東に帰還し、長楽に至った。群臣は並んで見送りの言葉を送り、崔胤は一人霸橋に至って酒宴を行い、乙夜(夜十時頃)に帰還した。帝はそこで崔胤を召して「朱全忠の安否はどうか」と問い、ともに飲み、宮人に命じて舞剣曲を演奏させ、戊夜(午前三時)に退出し、二人の宮人を賜ったが、固辞して許された。この時、天子は孤独で危うく、威令はまったく去ってしまい、崔胤の傲慢な様はこのようであった。侍中・魏国公に累進した。

  鳳翔より帰還すると、朱全忠がまさに簒奪しようとしていると考えられたから、自身が宰相であることを振り返ってみると、一日で禍が及ぶかと恐れ、兵を掌握して自ら固めようとし、偽って朱全忠に、「京師は李茂貞が迫っており、防備することができません。是非とも軍を募って守らなければなりません。今、左右龍武軍・羽林軍・神策軍は、鳳翔への行幸の余党で、兵にみるべきものはありません。願わくは軍に四人の歩将、将を二百五十人、一人の騎将、将を百人を置き、交代制で近侍させます」と言い、京兆尹の鄭元規を六軍諸衛副使とし、陳班を威遠軍使とし、兵卒を市で募った。朱全忠は真意をわかっていたが、表向きは相応しいとして許した。崔胤はそこで仏寺を破壊し、銅鉄を取り出して兵仗とした。朱全忠は密かに汴人数百人を応募して、その子の朱友倫を宿衛に入らせた。たまたま朱友倫が毬戯(ポロ)をしていて、馬から落ちて死んだから、朱全忠は崔胤の陰謀を疑って大いに怒った。その時、崔胤がまさにを携えて荊州・襄州に行幸しようとしていたが、そこを朱全忠が乗輿(昭宗)を脅して都を洛陽にしようとしていると伝えられたから、異議があるのを恐れて、密かに崔胤が専横して国を乱していると上表し、誅殺を請うたから、そこで宰相を罷免されて太子少傅となった。朱全忠はその子朱友諒に兵で開化坊の邸宅を包囲させて崔胤を殺害し、汴の兵は皆突出し、市の人は争って瓦礫を投げてその死体を撃った。年五十一、鄭元規陳班らも皆死んだ。実に天復四年(904)正月のことであった。

  崔胤は罷免されてからおよそ三日で死に、死んでから十日で、朱全忠を脅して洛陽に遷都し、長安の居人を発してことごとく東に向かわせ、家屋の木を撤去して渭水より黄河をたどって下り、老いも幼きも道に続き、泣き叫ぶ声は絶えず、皆大いに罵って、「国賊崔胤が朱全忠を導いて社稷を売り、我々をこのような目にあわせた」と言った、これより先、朱全忠は河南を根拠としていたが、強者を顧みて諸侯と互いに対峙していたから、未だ敢えて国を移すまでに決しなかった。崔胤が内隙を間として、互いに結び、その禍いの手引きを得て、朝権を取って強大となり、ついに天下は滅び、崔胤の身も屠られ唐室は滅んだ。世に言うところでは、崔慎由は晩年になっても子がなく、異僧に遇って術を求めると、そこで崔胤胤が生まれ、小字を緇郎としたという。宰相となるに及んで、その叔父の崔安潜が唸って、「我が父や兄が刻苦して門戸を保ったが、ついに緇郎のために壊されるとは!」と言ったという。


  崔昭緯は、字は蘊曜で、その先祖は清河の人である。進士に及第した。昭宗の時になると、仕えて次第に頭角を現し、戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり、位にあることおよそ八年、尚書右僕射に累進した。性格は陰険で、密かに宦官と結び、外は列強諸侯と結び、内は天子を制してその権力を固めた。族人の崔鋋をして王行瑜の邠寧節度使の幕府に仕えさせた。他の宰相が建議するごとに、または詔令が自分に有利なものではないとき、必ず崔鋋をして密かに王行瑜に告げ、上書させて誹謗攻撃し、自身は陰でおもんねって助けた。まさにこの時、帝室は衰え、人主は臣下の為に動かされて危うい状態のようであった。それより以前、帝は杜譲能に委ね兵や兵糧を調えて鳳翔を討とうとしたが、崔昭緯はまさに李茂貞・王行瑜を頼って重んじられていたから、密かにその計を知って、そこで走って告げた。兵を使う機会だとして宮中に向かわせ、遂に杜譲能を殺した。後にまた三鎮の兵を導いて韋昭度らを殺した。帝の性格は厳格かつ公正であり、忍ぶにたえず、たまたま王行瑜を誅殺し、そこで崔昭緯を罷免して右僕射とした。また朱全忠が自薦し、また諸王に賄賂をあつくしたから、奏するところとなり、梧州司馬に貶され、詔を下してその五罪を数えあげ、死を賜うこととなった。任地に赴く途上で江陵に行くと、使者が到着し、斬られた。崔鋋もまた誅殺された。


  柳璨は、字は炤之で、柳公綽の族孫である。人となりは粗野で、その家は諸柳氏の末葉のようではなく、幼くて独り身で貧しかったが好学で、昼は薪を採って費とし、夜は葉を燃やして書を照らし、博覧強記となり、多く通暁するところであった。劉知幾の『史通』を過失や欠点をあげて非難し、『史通析微』を著し、当時、ある者はこれを称えた。判史館の顔蕘は、柳璨を引き上げて直学士としたから、これによってますます名を知られた。左拾遺に遷った。昭宗は文を好み、李磎を待って最も厚遇したが、李磎が死ぬと、心では常に李磎に似た者を求めた。ある者が柳璨の才能が高いのを推薦し、文を試験してみると、帝は善とし、翰林学士に抜擢された。

  崔胤が死ぬと、昭宗は密かに柳璨を宰相にするとよいと思ったが、外には知る者はなかった。日が暮れて禁中から出ると、士が走って伝えて宰相を呼んだから、人は皆大いに驚いた。翌日、帝は学士承旨の張文蔚に、「柳璨の才能を用いるべきで、今宰相に抜擢したいが、何の官を授ければいいだろうか」と言ったから、答えて、「賢を用いるのに素質を計ることはありません」と言った。帝は、「諌議大夫ではどうだろうか」と言ったから、「はい」と言った。ついに諫議大夫・同中書門下平章事(宰相)となった。布衣(平民)から身を起こして、ここにいたるまで四年もならず、そのにわかに貴くなること近世にいまだなかった。裴枢独孤損崔遠は宿望の旧臣で、ともに宰相の位を同じくしたが、すこぶる軽んじられて、柳璨は心内では怨んだ。朱全忠は簒奪弑逆をはかり、宿衛の士を皆汴人とし、柳璨は一層あつく朱全忠と結び、蒋玄暉張廷範と最も互いに得た。既に朱全忠を擁して、そのため朝権は皆柳璨の手に帰した。中書侍郎・判戸部に進み、河東県男に封じられた。

  天祐二年(905)、長星が太微・文昌の間より出て、占者は、「君臣皆不利で、多くを殺せば天変を塞げるでしょう」と述べた。蒋玄暉張廷範はそこで柳璨と謀って大臣宿老で有望な者を殺し、柳璨は手づから上疏して妬んだ者を敵とするように独孤損ら三十人あまりを全員誅殺したから、天下は冤罪であるとした。朱全忠はこれを聞いて不善であるとした。その後九錫(皇帝より臣下に下賜された九種類の最高の恩賞)の授与を急がせたが、宣徽北院使の王殷は柳璨らと事を構え、九錫の授与には二心があると言い、そのため九錫の礼は至らなかった。蒋玄暉は恐れ、自ら行って弁解した。朱全忠は怒り罵って、「お前と柳璨らの輩は私を阻み、九錫をもたらさなかったが、天子のためにそうしたのか」と言った。柳璨は恐れ、そこで哀帝を脅して、「人望は元帥に帰しています。陛下は天子の位を譲って授けてしまってください」と言い、柳璨は自ら行くことを請い、昇進して司空を拝し、冊礼使となり、即日道を進んだ。蒋玄暉が死ぬと、朱全忠は柳璨が自分に背いたことを怒り、登州刺史に貶め、にわかに除名して平民とし、崖州に流刑し、ついでこれを斬った。刑に臨んで悔いて舌打ちして、「国賊を負った柳璨は、死んで当然だ」と言い、弟の柳瑀・柳瑊もみな拷問死した。


  蒋玄暉は、幼い頃は卑賎で、その系図は著すことができなかった。朱全忠に仕えて腹心となった。昭宗が東遷すると、蒋玄暉は枢密使となった。帝が陝州に駐屯すると、術家は星緯が異常で、かつ大変があり、冬に洛陽に行幸すべきであると言った。は朱全忠が必ず簒奪すると思っていたから、衛官の高瓌に命じて帛を持って詔を王建に賜い、遷都を脅されていることを告げ、また、「朱全忠は兵二万で洛陽を治め、まさにすべて我の左右から去らせようとしている。君は李茂貞李克用楊行密と同盟し、檄文を襄州・魏州・幽州・鎮州に伝え、それぞれが軍で我を迎えて京師に帰還させるべきである」と述べた。また朱全忠に詔して、「皇后はまさに妊娠しているから、十月になってから東に行くべきである」と述べたが、朱全忠は帝に謀があるのを知り、寇彦卿を遣わして圧迫催促し、天子はやむを得ず、遂に行幸した。穀水に至って、朱全忠は左右の黄門・内園の小児五百人をことごとく殺害し、禁衛をすべて汴兵に代えた。それより以前、朱全忠は鳳翔に至って、邠州に侵攻すると、節度使の楊崇本は降伏し、その家族を人質とした。楊崇本の妻は美しく、朱全忠はこれと姦淫し、そのため楊崇本は怒った。ここにいたって使者を遣わし李克用・李茂貞と会し、南は趙匡凝および王建に告げ、同じく兵を挙げて脅かして遷都を強行したのを詰問する書状を出し、朱全忠は大いに恐れた。

  は関中から出て以来、今後や予想できないことを恐れ、常に黙って座って涙を流していた。蒋玄暉と張廷範は様子を探って、必ず朱全忠に報告していた。朱全忠は帝が帝位を禅譲する気がないことを恨み、そこで弑逆を謀って人望を絶やすこととし、よってその部下の李振に蒋玄暉を説得させた。蒋玄暉は龍武統軍の朱友恭氏叔琮とともに夜に勇士百人を選抜して行在を叩き、急奏があると言って、帝に謁見を請うた。宮門が開くと、門に十士を留めて守らせた。椒蘭院中に至ると、夫人の裴貞一が関を開くとこれを殺し、そこで殿下を走った。蒋玄暉は、「お上はどこにおわしますか」と言い、昭儀の季漸栄が「院使よ、お上を傷つけてはなりません。むしろ私を殺しなさい」と言ったが、士は剣を持って侵入し、帝は聞いてにわかに単衣を着たまま逃げ、柱の周りをまわったが、ついに弑逆された。季漸栄は身をもって帝を庇い、また死んだ。また皇后を捕らえたが、皇后は憐みを請うた。蒋玄暉は朱全忠が帝を弑逆したものだとして、そこで皇后を釈放した。翌日、宰相は対面を要請したが、日暮れになっても出ず、蒋玄暉は遺詔を偽って、帝が夜に昭儀と愛し合い、裴貞一と季漸栄のために弑逆されたと言って、二人の首を出した。朱全忠は河中より来朝して、李振に、「晋の文帝(司馬昭)は高貴郷公(魏の廃帝髦)を殺したが、罪は成済に帰させた。今よろしく朱友恭らを誅殺して、天下の謗を解くべきだ」と言い、朱全忠は西内(大明宮)を走って臨み、嗣天子に対して自ら弑逆は本謀ではなく、皆朱友恭らの罪であると言い、泣いて下がり、罪人の討伐を願った。この時洛陽城は旱魃で、米一斗の値は銭六百にあたり、軍に穀物を掠奪する者がいたから、都人は怨んでいた。そのため衆を喜ばせようと、朱友恭・氏叔琮を斬った。朱全忠が九錫を迎えると、蒋玄暉は自ら詔を持って汴に走って申し上げた。洛陽に帰還すると一日もしないうちに、朱全忠は詔を偽って逮捕拘禁し、役人はこれを車裂の刑とし、凶逆百姓に貶め、死体を都の門外で焚いた。


  張廷範は、俳優であったことから朱全忠に愛され、東遷に付き添って御営使となり、金吾衛将軍・河南尹に進んだ。朱全忠は廷範を太常卿に任命したかったが、宰相の裴枢が不可としたから、ここにいたって裴枢は罷免されて追われた。柳璨は朱全忠の意に迎合して詔を下したが、内も外も責めて妄りに流品清濁を言うことができず、ついに張廷範を太常卿とした。たまたま天子がまさに郊祀をしようとすると、修楽県使となり、また蘇楷らとともに昭宗の諡号を論駁した。朱全忠が九錫の授与の件で怒っており、王殷は張廷範と柳璨らが天を祀って唐室の延長を祈っていると誣告したから、蒋玄暉は死に、柳璨は誅殺され、そこで張廷範を莱州司戸参軍に貶し、河南市で車裂の刑に処された。


  氏叔琮もまた汴州の人であり、中和年間(881-885)末に感化軍に属し、騎士として奮戦し、性格は沈着勇壮で胆力があった。朱全忠黄巣を陳州・許宗の間で撃破してから、右諸将と名乗り、親校となった。時溥朱宣と戦い、戦功を重ねて検校尚書右僕射、宿州刺史となった。趙匡凝を襄陽に攻めたが勝てなかった。また李克用と洹水で戦い、曹州刺史に遷った。天復年間(901-904)初頭、沢州・潞州を陥落させ、太原を攻撃し、晋慈観察使を授けられた。朱全忠が鳳翔に駐屯すると、李克用は絳州を襲撃し、臨汾を攻めたが、氏叔琮は二人の壮士で沙陀に似た者を原に牧馬させ、李克用の軍とともに進み、隙を伺ってそれぞれ捕虜を一人得て帰還した。李克用は大いに驚き、伏兵があるのかと疑い、遂に屯蒲に退いた。たまたま朱友寧が兵三万を率いて来援に来たが、氏叔琮は、「賊は逃げてしまった。功を立てようとしても無理だな」と言った。そこで軍を潜めて夜に遊騎を派遣し、数百を殺して、進んでその砦を破り、捕虜・斬首は一万人、馬三千を鹵簿し、遂に長駆して汾州を奪取し、転戦して太原に迫ってから帰還した。検校司空に遷り、再び昇進して保大軍節度使となった。

  朱全忠は帝を洛陽に遷そうとし、上表して氏叔琮を右龍武統軍としたが、ともに帝を弑逆し、そのため朱全忠は請うて氏叔琮を白州司戸参軍に貶し、これを斬った。氏叔琮はまさに死のうとしている時、「朱温(朱全忠)は私を売って天下を取る。神理というのは何なのか」と叫んだ。


  朱友恭は、本名は李彦威である。寿州の人で、汴州に客人となった。財を任俠に殖え、朱全忠は愛して子として養い、長剣都を領した。功績を積み、上表して検校尚書左僕射となった。乾寧年間(894-898)、汝州刺史、検校司空を授けられた。楊行密が鄂州に侵入すると、朱友恭は将兵一万あまりで杜洪に援軍し、江州に至り、還って黄州を攻めてここに入城し、楊行密の将を捕虜とし、捕虜・斬首は一万ばかりを数えた。また安州を襲撃して守将を殺した。潁州刺史・感化軍節度留後に遷った。帝が東遷すると、左龍武統軍となったが、崖州司戸参軍に貶められた。刑に臨んで、「朱温(朱全忠)が私を殺せば、また一族が滅ぶだろう」と言った。また張廷範に語って、「お前もこうなるぞ」と言ったという。


  賛にいう、木がまさに倒壊しようとしているとき、虫は実に発生している。国がまさに滅ぼうとしているとき、妖は実に産み出された。そのため三宰は女傑に嘯かれて天下を奪われ、李林甫を用いて黄屋を奔らせ、鬼質(黄巣)に敗れて興元府に潜み、崔胤柳璨は李家の宗室を倒して覆した。嗚呼、国家にある者は、戒めとしないべきだろうか。


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最終更新:2025年07月12日 02:19
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