管崇嗣
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唐代の武将。天宝十四載(756)、
哥舒翰の部将となって潼関を守備したが、潼関が陥落すると逃れて霊武の粛宗の行在に行った。行在の朝堂で宮闕に背中を向けて座って談笑したため
李勉に弾劾された。広平王(後の代宗)の都虞候となったが、広平王の出陣の儀式の際に、王よりも早く乗馬してしまい、今度は
顔真卿に弾劾された。二度の弾劾も粛宗によって沙汰止みとなっている。上元元年(760)に
郭子儀の副将となるも、出陣はなかった。上元二年(761)に河東節度使となるが、放埒のため鄧景山に交替させられると、今度は厳格な
鄧景山を嫌って軍乱が起こっている。
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最終更新:2023年04月09日 23:33