李勉

李勉 りべん

717-788
中唐の宗室・藩鎮・宰相(在任784-786)。字は玄卿。その世系は、高祖→鄭恵王李元懿→嗣鄭王李璥李択言→李勉である。若い頃は貧しく、梁・宋付近をさまよい歩いた。開封県の尉に任命されたが、安史の乱の時に粛宗の行在のある霊武に駆けつけ、監察御史に抜擢された。河東・朔方の行軍司馬を歴任し、梁州刺史となったが、羌の侵攻により失落して任地を失い、大理少卿となった。宦官で権臣の李輔国にさからって汾州刺史となったが、河南尹、江西観察使となった。大暦二年(767)京兆尹兼御史大夫となり、権臣で宦官の魚朝恩にさからったため罷免されたが、大暦四年(769)嶺南節度使となった。工部尚書に昇進し、汧国公に封ぜられた。大暦八年(773)令狐彰の推薦により滑亳節度使となり、大暦十二年(777)汴宋節度使となり、叛将の李霊耀李忠臣馬燧とともに合同して討伐した。徳宗が即位すると同中書門下平章事(宰相格)、建中元年(780)汴宋・滑亳・河陽等道都統となったが、建中四年(783)李希烈が叛くと、徳宗の干渉もあって初動に失敗し、本拠地の汴州も陥落して睢陽を確保するだけとなった。興元元年(784)任地を失ったから都統職を辞職したが、長安に呼び戻され、徳宗より「朕は宗廟の守りを失おうとも、李勉が安全である方がよい」と称され、これまでの文官でありながら藩鎮としてあげた功績によって検校司徒平章事(宰相)に任じられた。しかし職名のみで、実権を行使することはなかった。寵臣盧𣏌の復帰を拒絶したため、疎んじられ、太子太保として致仕した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻一百三十一 列伝第五十六 宗室宰相 李勉
『旧唐書』巻一百三十一 列伝第八十一 李勉

外部リンク

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最終更新:2024年10月05日 11:31
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