唐書巻一百五十三
列伝第七十八
段秀実 子伯倫 孫嶷 文楚 珂 劉海賓 顔真卿
  段秀実は、字は成公で、もとは姑臧の人である。曽祖父の段師濬は、仕えて隴州刺史となり、留って帰らず、改めて汧陽の人となった。段秀実が六歲のとき、母が病となると、自分は少量であっても飲食しないこと七日にもなり、病がすこし良くなってから自分が食べることをよしとしたから、当時の人々は「孝童」と号した。成長すると、沈着重厚で判断力に優れ、心を奮い立たせて世の中を救う意志があった。明経化に推挙されたが、その友に譲った。段秀実は、「文章を探し集めたり章句を摘出するのでは、功績を立てるに足りない」と言い、そこで捨て去った。
 
  天宝四載(745)、安西節度使の
馬霊詧に従い護密(ワハン)を討伐して功績があり、安西府別将を授けられた。馬霊察が罷免されると、また
高仙芝に仕えた。高仙芝が大食(アラブ)を討伐すると、怛邏斯(タラス)城を包囲した。ちょうど敵の救援軍が到着すると、高仙芝は兵を退き、兵士も失われた。段秀実は夜に副将の
李嗣業の声を聞いて、そのことを知り、そこで「敵を憚って逃げるのなら、それは勇ではない。自分だけが免れて軍を陥れるのなら、それは仁ではない」と責め、李嗣業は恥じ入り、そこで段秀実とともに離散兵を収容して、再び軍を編成し、安西に帰還したから、段秀実を判官とするよう要請した。隴州大推府果毅に遷った。後に
封常清に従って大勃津(バルチスタンボロール)を討伐し、賀薩労城に行き、敵と戦い勝利した。封常清は敗走する兵を追撃すると、段秀実は、「賊は弱兵を出しており、我らをおびき寄せようとしています。大規模な索敵をしてください」と言い、ことごとくその伏兵を発見し、敵軍を殲滅した。綏徳府折沖都尉に改められた。
  粛宗が霊武にいて、
李嗣業に詔して安西兵五千で行在に急行させようとした。節度使の
梁宰は逗留したまま変の様子を見ようと思い、李嗣業も密かにそうだと思った。段秀実は「
天子は今危急にあるのに、臣下が安易に落ち着こうとしている。公は常々自分のことを立派な男子と称していたが、今本当は幼い少女なだけだ」と責め、李嗣業はそこで強く梁宰に願い、遂に軍を東に向け、段秀実を副官とした。李嗣業は節度使となったが、段秀実は父を喪ったから、李嗣業は上表して段秀実を起用し、
義王友、充節度判官とした。
安慶緒が鄴に逃げると、李嗣業は諸将とともに包囲し、輜重を河内に委ね、段秀実を兼懐州長史、知州事、兼留後に任じた。当時、軍は老兵ばかりで財が乏しく、段秀実は兵糧を督促して道に送り出し、兵士を募集して馬を買って軍を助けた。諸軍は愁思岡で戦うも、李嗣業は流矢にあたって戦死し、軍は
荔非元礼を推して代わってその軍の将とした。段秀実はこのことを聞くと、ただちに
白孝徳に書簡を送って、兵士を発して葬列を河内に護送し、自ら将・役人とともに境まで出迎え、私財を傾けて葬った。荔非元礼はその義を高雅なものとし、奏上して光禄少卿に抜擢された。にわかに荔非元礼が部下に殺されると、将校の多くが死に、段秀実に恩信があって兵卒が心服しているから推薦し、全員が連なって拝礼し、段秀実をあえて害せず、改めて
白孝徳を推薦して節度使とした。段秀実はおよそ参府の補佐となり、ますます名が知られた。
 
  当時、吐蕃が京師を襲い、
代宗は陝州に逃げると、
白孝徳に勧めて即日堂々と太鼓を鳴らして進軍して援軍に向かった。白孝徳は邠寧節度使に遷ると、支度営田副使に任じられた。邠寧は食料が乏しく、そこで奉天に駐屯することを願い、畿内から給付されるよう仰いだ。当時、官衙の蓄えが乏しく、県吏は出すことができず、皆逃げ去り、軍はたちまち四方へ掠奪に走り、白孝徳は制することができなかった。段秀実は、「私を軍候とするなら、どうしてこのような事態になろうか」と言い、司馬の
王稷がそのことを申し上げたから、知奉天行営事となった。すべてに厳命・号令し、軍中は恐れて収束した。兵が帰還すると、白孝徳は推薦して涇州刺史となり、張掖郡王に封ぜられた。
  当時、
郭子儀は副元帥となって蒲州におり、子の
郭晞は検校尚書領行営節度使となって、邠州に駐屯した。兵士は放縦で法を守らず、邠州の人々で悪行を行う者は、賄賂を贈って名前を軍籍の伍中に属し、そうしてしたい放題し、役人は問責することができなかった。白昼群行して市を奪い、それに飽き足りず、たちまち市の人を撃って傷つけ、鍋・大釜・瓶・土鍋を毀して道に放り投げ、妊婦を殴って殺した。白孝徳はあえて弾劾せず、段秀実は州から報告を出して幕府に申し上げ、善処するよう願った。「天子は行きている人を公に託されましたが、公は人が暴力や殺害されても、平然とされていますが、大乱を引き起こすことになります。どういうことでしょうか」と言い、白孝徳は「どうすればいいか教えてくれ」と言うと、「私秀実は、人々が敵に襲われず、味方の暴力で死に、これによって天子の国境を乱す原因とするのに忍びないのです。公は都虞候にしていただければ、公のために乱を止めさせます」と答えたから、白孝徳はただちに都虞候に任命したことを全軍に布告した。にわかに郭晞の兵士十七人が市に入って酒を取り、亭主を刺して、醸造の器械を壊したから、段秀実は兵士を列べて捕らえ、首を槍の先に串刺しにし、市の門外に並べた。軍営すべてが大騒動となり、全員が完全武装し、白孝徳は恐れ、段秀実を呼び寄せて「どうするればいいか」と聞いた。段秀実は「軍から去らせてください」と言い、そこで佩刀を解いて、老人一人を選んで馬の轡を持たせ、郭晞の陣営の門下にやって来た。兵士が出てくると、段秀実が笑って入り、「一老兵を殺して、何の兵士か。私は自分の頭をかけて来たぞ」と言い、兵士は驚いた。そこで教え諭して、「尚書(郭晞)は本当にお前のようなものにやらせようというのか。副元帥(郭子儀)は本当にお前のようなものにやらせようというのか。どうして乱によって郭氏を失脚させようとしているのか」と言うと、郭晞が出てきて、段秀実は、「副元帥の功は天地を塞ぎ、すべてのことに当たられています。今尚書が勝手に横暴をすれば、天子の国境を乱させることになり、誰が罪を負うべきでしょうか。罪はまた副元帥に及ぶでしょう。今邠州の悪子弟が金銭で名を軍籍中に潜り込ませ、人を殺害し、累々とこのようになっており、日を経ずして大乱にならないのでしょうか。乱の理由は尚書から出ているのです。人々は皆、「尚書は副元帥に頼っており、だから兵士を止めないのだ」と言っています。だからこそ郭氏の功名は、どれほどのものでしょうか」と言ったか。郭晞は再拝して、公がありがたくも教えてくださり、郭晞は軍を捧げて従わせてください」と言い、そこで左右を叱りつけて全員武装解除し、「あえて騒ぐ者は死罪だ」と命令した。段秀実は、「私はまだ昼食をいただいておりませんから、ごちそうしてください」と言い、食べ終わると、「私は具合が悪くなりました。門下に泊まらせてください」と言い、遂に軍中に寝た。郭晞は大いに驚き、衛兵は音を鳴らすことを禁止して守らせた。翌朝、郭晞とともに白孝徳の所に行き、謝罪するもできず、邠州はこれによって安んじた。
  それより以前、段秀実は営田官となった。涇州の大将の焦令諶は人の田を取って占有し、農民に田を給付し、実ったら半分を納めることを約束させた。この年、大旱魃となり、農民は収穫がないことを報告したが、焦令諶は、「私はどれだけ収入があるのかを知っているが、旱魃のことなど知らない」と言い、厳しく責め立て、農民はこれによって納付するあてがなく、段秀実のところに行って訴えた。段秀実は牒を発給して免除し、そこで人を派遣して丁寧に焦令諶に教え諭した。焦令諶は怒り、農民を召し出して、「私が段秀実を恐れているというのか」と責め、牒を背中の上に置いて、大杖で二十回打ち据え、輿で役所に送り出した。段秀実は泣いて、「私がお前を苦しめたのか」と言い、そこで自ら衣服を割いて傷を包んで薬を塗り、自分の馬を売って代償とした。淮西の将の尹少栄は非常に剛直で、入って焦令諶を罵って「お前は本当に人なのか。涇州の野は赤土のようになって、人々は飢えて死んでいるのに、お前は必ず穀物を得て、無実の者を打ち据えている。段公は仁信のある立派な方で、ただ一頭だけの馬を売って穀物を買ってお前のところに納めさせたのだ。お前はこれを取って恥と思わないのか。だいたい人として天災を侮って、立派なお方に手出しし、無実の者を打ち据えるなど、奴隸であっても恥じないであろうか」と言い、焦令諶は聞いて、大いに恥じて汗を流し、「私はついぞ段公に見えることはできない」と言い、一晩で自らを恨んで死んだ。
  馬璘が
白孝徳に代わると、事あるごとに諮問に及んだ。馬璘の死刑判決が不当であると、厳しく争い、従わなければ止めなかった。始め、馬璘は涇州を根拠地の城とし、段秀実は留後となり、功労によって御史中丞に任じられた。大暦三年(768)、遂に涇州に遷った。この軍は四鎮・北庭より国難に赴き、征伐はしばしば功績があったが、相次ぐ転戦で兵士同士が怨みの言葉を吐いた。別将の
王童之が謀って乱をおこすこととし、「合図の太鼓を聞いたら決起せよ」と約束した。段秀実はこのことを知って、太鼓を打つ人を呼びつけ、表向きは音が悪いと怒っているようにみせ、「時間が来るたびに打って知らせなさい」と教え、そこで数刻を延ばし、四更(午前二時)から太鼓を打ち続けて夜明けとなった。翌日、また密告する者がいて、「夜に藁を積んだのを放火して、火を消すのを合図として反乱すると約束しています」と言ったため、段秀実は警備を厳重にした。夜中に果たして火がつけられると、軍中に命令して、「敢えて火を消した者は斬る」と言い、王童之は外にいて、入ることを願ったが許さなかった。翌日、捕らえて、その党八人とあわせて斬って晒し、「この首級を動かす者は族だ」と書いた。軍は遂に涇州に遷った。この時、糧食はしばらく蓄えがなく、城郭には住む人がおらず、朝廷の患いとなっており、馬璘に詔して鄭州・潁州の二州を領させて軍を助けさせ、段秀実に命じて留後とした。軍は資材の欠乏から脱し、二州はこれによって治った。馬璘はその成績をよしとし、奏上して行軍司馬、兼都知兵馬使とした。
 
  吐蕃が辺境に侵攻し、塩倉で戦い、軍は不利となった。馬璘が敵に遮られて、戻ることができず、都将が敗兵を率いて先に入ったが、段秀実は責めて、「兵法では将を失えば、麾下は斬刑である。公らは死を忘れ、その家を安んじることを考えよ」と言うと、全城中の兵士は、猛将に統率され、東原を拠点に奇兵を配置し、賊に対して戦おうとする姿勢を示した。敵はこれを望み見て、あえて迫りくることなく、にわかに馬璘は帰還できた。
  しばらくして、馬璘が病気となり、段秀実に節度副使を摂領することを願った。段秀実は軍備を調査して変事に備え、馬璘が卒すると、将の馬頔に命じて喪主とし、
李漢恵を賓客の主とし、家人は堂に位置し、宗族は役所に位置し、賓将は牙軍内に位置し、尉・役人・兵卒は軍営に位置し、親族でなければ喪側にいることができなかった。朝夕三日で止んだ。一族で自立したいと談じた者は、全員捕らえた。都虞候の史廷幹・裨将の崔珍・張景華が叛乱を企てようとし、段秀実は史廷幹を京師に送り、崔珍・張景華を外に送り、全軍はついに落ち着いた。
  四鎮北庭行軍・涇原鄭潁節度使を拝命した。数年、吐蕃はあえて辺塞を侵犯しなかった。また格令を調査し、官費は二料のうち一を取り、公の集まりでなければ飲酒を楽しむ会を挙行できず、部屋に愛妾はおらず、わずかな蓄財もなく、賓佐がやって来て、軍政を議しても私的な事には及ばなかった。大暦十三年(778)朝廷にやって来て、
蓬莱殿で対面し、
代宗は辺境が落ち着いている理由を尋ねたから、昼にやってきて報告し、箇条ごとに分けて報告した。
帝は喜び、賜物は非常に手厚く、また第一級の邸宅を賜い、実封は百戸となった。藩鎮に帰還した。
徳宗が即位すると、検校礼部尚書を加えられた。建中年間(780-783)初頭、宰相の
楊炎が
元載の議をむしかえし、根拠地の城を原州にしようとし、宦官に詔して報告を尋ねたが、段秀実は「春になろうとしているのに土木事業をおこしてはなりません。農閑期に実施されますように」と言ったから、楊炎は自分を阻んだのだと思い、遂に召還されて司農卿となった。
  朱泚が叛くと、段秀実が兵権を失っているから、必ず怨みを抱いていると思い、また平素より人望があるから、騎兵で迎えに行かせた。段秀実は子弟と訣別して入り、朱泚は喜んで、「公が来たのだから、我が事は成就するだろう」と言った。段秀実は、「将兵が東に征伐すると、宴は賜っても豪華ではなく、役人よりましなだけだ。人主はどうしてこのことを知っているだろうか。公はもとより忠義によって天下に知られた人間で、今慌ただしく変をおこし、まさに軍に禍福によって諭し、宮室を掃き清め、
乗輿を迎えるのが、公の職である」と言い、朱泚はそうだと思った。段秀実はできないことを知って、表向きは迎合し、密かに将軍の
劉海賓・
姚令言の判官の
岐霊岳・都虞候の
何明礼と共に朱泚を抑え込もうとした。三人は、全員段秀実が普段から大事にしていた人物である。ちょうど、
源休が朱泚に対し、
天子を偽って迎えるよう教示し、将の
韓旻に精兵三千を率いて奉天に急行させた。段秀実は宗社の危機で受け入れるわけにはいかないと思い、そこで人を派遣して大吏の
岐霊岳に諭して密かに姚令言の印を取ろうとしたが、得られず、そこで司農印の印を逆に捺印してその兵を追いかけた。韓旻が駱駅にやって来ると、官符を得たから帰還した。段秀実は劉海賓に向かって、「韓旻が戻ってきたら、我らは根絶やしになるだろう。私はただちに賊を撲殺し、そうでなければ死ぬだろう」と言い、そこで緊急時には後を継いで行うことを約束して、何明礼に外部と内応させた。翌日、朱泚は段秀実に謀の事で呼び寄せ、源休・姚令言・
李忠臣・
李子平は全員が同座した。段秀実は戎服で源休と一緒に語っていると、朱泚が皇帝の位を僭称する話にいたり、段秀実は急に勢いよく立ち上がり、源休の腕をとり、その象牙の笏を奪い、奮って前に出て、朱泚の顔に唾を吐いて大いに罵って、「狂賊め。万段に磔になろうとも、私はどうしてお前に従って国家に叛くことがあろうか」と言い、遂に撃ちすえた。朱泚は肘をあげて笏を防いだが、額にあたり、流血して顔に鼻血を流し、匍匐して逃げた。賊軍はあえて動かなかったが、劉海賓らもやって来なかった。段秀実は大声で叫んで、「私は一緒には背かないぞ。どうして私を殺さないのか」と言い、ついに殺害された。年六十五歳。劉海賓・何明礼・岐霊岳らは全員が相継いで賊に殺害された。
帝は奉天にあって、段秀実が才能を尽くさなかったことを残念に思い、涙を流して悔み哀しんだ。
 
  それより以前、段秀実は涇州から京師に召還されると、その家族に戒めて、「もし岐州を通過したら、
朱泚は必ず贈り物を贈ってくるが、慎んで受け入れてはならない」と言ったが、岐州に、朱泚は大綾三百を贈ってきたから、家人は拒んだが、拒みきれなかった。都に戻って、段秀実は怒って「私は決して自分の邸宅を汚すことはない」と言い、そこで司農省の治堂の梁間に贈り物を置いた。役人が後でそのことを朱泚に報告したから、朱泚が取り出して見てみると、その封や包み紙は真新しいままであった。
  段秀実はかつて禁軍が寡兵で弱く、備えが非常に不足していたから、
帝に「古えには天子の軍を万乗といい、諸侯の軍は千乗といい、大夫の軍は百乗といったのは、思うに大を以て小を制し、十を以て一を制したからでしょう。今外部には朝廷に従わない敵がいて、内には強権の臣がいるのに、禁軍の兵は寡少ですから、大事となったらどうやって対処いたしますか。また猛虎を百獣が恐れるものである理由は、爪や牙があるからです。もし取り去ってしまえば、犬・猪・馬・牛のすべてが猛虎の敵となりうるでしょう」と言ったが、帝は採用しなかった。涇州の兵乱がおき、神策六軍を召集したが、一人としてやって来るものはおらず、世間は段秀実を智謀にたけた人物とした。
  興元元年(784)、詔して太尉を追贈され、諡を忠烈という。封戸五百と、荘園・邸宅はそれぞれ第一級のものを賜った。長子に三品、諸子に五品を与えられ、双方に正員官を賜った。
帝が都に帰還すると、また詔によって祭祀が行われ、その故郷の門に表彰され、帝が親らその碑に銘を書いたという。大和年間(827-835)、子の
段伯倫は始めて廟を建立し、詔して儀仗兵を給付され、度支より綾絹五百を賜り、少牢によって祭られた。
  段伯倫は官職を重ねて福建観察使となり、太僕卿で終わった。当時の宰相の
李石が
文宗に対して、葬家に金銭・衣服を加給するよう申し上げ、
鄭覃は「古より身を殺して社稷に利した者は、今まで段秀実のような者はおりません」と言ったから、
帝は心を痛め、廃朝して、その要請を裁可した。
 
  段嶷は鄭滑節度使から京師に入って右金吾衛大将軍となり、西平郡公に封ぜられた。甘露の変で、段嶷は誅殺されるところであったが、
裴度が忠臣の後裔であるから、死刑を免じられるべきであると奏上したから、循州司馬に貶された。
 
  段文楚は、咸通年間(860-874)末に雲州防禦使となった。当時、
李国昌が振武軍節度使となると、李国昌の子の
李克用が雲中を奪取したいと思い、兵を率いて攻撃し、闘鶏台下で殺害された、沙陀の乱はここから始まった。
 
  段珂は、
僖宗の時に潁州にいた。
黄巣が潁州を包囲し、刺史は城とともに降伏しようとしたが、段珂は少年を募って防御戦を行い、軍は兵糧を包んで従うことを願い出たから、賊は遂に潰滅し、潁州司馬を拝命した。
 
  劉海賓は、彭城の人で、義侠によって知られた。涇原の兵馬将となり、段秀実と友人となって親しかった。戦功を重ね、御史中丞を兼した。
劉文喜が涇州によって叛くと、劉海賓は子の劉光国とともに、劉文喜を欺いて奏請した。朝廷に入って奏上の場に出ると、そこで劉光国は劉文喜のことを邪な悪人であるから誅殺すべきであると報告した。帰還すると、劉光国は手ずから劉文喜を斬って宮廷に献上し、左驍衛大将軍を拝命し、五原郡王に、劉海賓は楽平郡王に封ぜられた。太子太保を追贈され、実封百戸を賜った。
 
  顔真卿は、字は清臣で、秘書監の
顔師古の五世の従孫である。幼くして父を失い、母の殷氏は自ら訓導を加えた。成長すると、博学で文章に巧みとなり、親に仕えて孝であった。
 
  開元年間(713-741)、進士に推挙され、また制科に選ばれた。醴泉県の尉に調任された。監察御史に遷り、河・隴(河西・隴右)に派遣された。当時、五原郡に冤罪なのかどうか決着が長年つかない事案があり、天候もまた旱魃となっていたが、顔真卿が裁決をすると雨が降り、五原郡の人々は「御史雨」と呼んだ。また河東に使者として派遣され、朔方県令の
鄭延祚のことを、母が死んで三十年埋葬しなかったと弾劾奏上し、詔があって鄭延祚は終身任用停止となったから、聞く者は恐れ慎んだ。殿中侍御史に遷った。当時、監察御史の
吉温が私怨によって御史中丞の
宋渾と事を構え、賀州に流謫すると、顔真卿は、「どうして一時の怒りによって、
宋璟の後嗣を危機に陥れようとするのか」と言ったから、宰相の
楊国忠は憎んで、御史中丞の
蒋洌をそそのかして、蒋洌の奏上によって顔真卿を東都採訪判官とし、さらに武部員外郎に転任させた。楊国忠は永遠に京師から去らせようと思い、そこで京師から出して平原太守とした。
  安禄山のことを謀反を起こす邪悪な人物であるとし、顔真卿はたびたび安禄山のことを必ず叛くといい、表向きは長雨にかこつけて、城壁を強化して堀をさらい、壮兵の点呼を行い、兵糧を蓄えた。日々賓客とともに舟を浮かべて酒を飲み、これによって安禄山の疑いを緩めさせた。果して顔真卿は書生であるから、心配するほどでもないと思われた。安禄山が叛くと、河朔の地はことごとく陥落し、ただ平原城のみ守備が備わり、司兵参軍の李平に急ぎ奏上させた。
玄宗ははじめ乱を聞いて、「河北二十四郡には、一人の忠臣もいないのか」と嘆いたが、李平がやってくると、
帝は大いに喜び、側近に向かって、「朕は顔真卿がどのような人か覚えていないが、その行いはたいしたものだ」と言った。
 
  当時、平原には静塞軍の兵三千がおり、そこで兵士を募集して増やすと、一万人となり、遣録事参軍の李択交に率いさせ、刁万歳・
和琳・徐浩・馬相如・高抗朗らを将とし、分けて五部隊とした。大いに兵士と城の西門で宴会をし、怒り嘆いて涙を流し、軍は深く心に感じて心が勇み立った。饒陽太守の
盧全誠・済南太守の
李随・清河長史の
王懐忠・景城司馬の
李暐・鄴郡太守の王燾はそれぞれ軍を掌握し、北海太守の
賀蘭進明に詔があって精鋭五千を率いて黄河を渡って援軍となった。賊が東都を陥落させ、段子光を顔真卿のもとに派遣して
李憕・
盧弈・
蒋清の首を伝えて河北にさらすと、顔真卿は軍が恐れを懐くのではないかと心配し、諸将を欺いて、「私は普段から李憕らのことを知っているが、この首はすべて違う」と言い、そこで段子光を斬り、三人の首を埋めた。後日、茅を結んで体を作って繋げ、埋葬して葬儀をし、哭礼を行なった。
  この時、従父兄の
顔杲卿が常山太守となり、賊将の
李欽湊ら斬り、土門を制圧した。十七郡が同日自ら帰順し、顔真卿を推して盟主とし、兵二十万で、燕・趙の交通路を途絶させた。詔して戸部侍郎を拝命し、
李光弼を助けて賊を討伐させた。顔真卿は李暉を副官とし、
李銑・
賈載・沈震を用いて判官とした。にわかに河北招討採訪使を加えられた。
  清河太守は、清河郡の人である
李萼を派遣して顔真卿に援軍を要請した。李萼は「聞けば公は首や肘を振るって大義を唱えられ、河朔は公を防衛の要としている。清河郡は、西隣であり、有長江・淮水にあっては財産を集めて北方の軍に備え、「天下の北庫」と呼ばれてきた。その備蓄を計算してみたところ、平原の三倍にもなり、兵士は平原の軍の二倍にもなる。公はそこで慈しんで自らのものとし、これによって心臓部とするのなら、他の城はこれを運ぶこと肘や指のようになるだろう」と言ったから、顔真卿は彼のために兵六千を出撃させ、「我が兵はすでに出撃したが、あなたは何を私に教えてくれるのか」と言うと、李萼は「朝廷は
程千里に軍十万を率いさせ、太行県から東に向かい、𡻳口に出ようとしているが、賊に阻まれて前進ができなくなっている。公がまず魏郡を討伐し、賊の守将の
袁知泰を斬り、強兵で𡻳口を突破し、官軍を出して鄴・幽陵を攻撃させ、平原・清河合わせて十万の軍で洛陽に示し、精鋭を分けて敵の攻撃を制するのだ。公は固く守ったまま戦わなければ、数十日もしないうちに、賊は必ず潰滅し、内部崩壊するだろう」と言ったから、顔真卿はその通りだと思った。そこで清河郡等に檄文を送り、大将の李択交・副将の范冬馥・
和琳・徐浩が清河・博平の兵五千とともに堂邑に駐屯した。袁知泰は将の白嗣深・乙舒蒙らの兵二万で防衛したが、賊は敗北し、斬首一万級となり、袁知泰は汲郡に敗走した。
  史思明は饒陽を包囲すると、別働隊を派遣して平原の交通路と援軍を遮断し、顔真卿は敵わないのではないかと恐れ、そのため書簡で
賀蘭進明を招き、河北招討使の職を譲った。賀蘭進明は信都を破った。ちょうどその時、平盧の将である
劉正臣が漁陽とともに帰順すると、顔真卿はその意志が堅固であることを願い、
賈載を派遣して海を越えて軍資十万以上を送り、子の顔頗を人質とした。顔頗はわずか十歲で、軍は顔頗を軍中に留めるよう強く求めたが、従わなかった。
 
  粛宗が霊武で即位すると、顔真卿はしばしば使者を派遣して蝋丸(蝋で機密文書などを封じて丸めたもの)で意見陳述した。工部尚書兼御史大夫を拝命し、再び河北招討使となった。当時、軍費は欠乏し、
李萼は顔真卿に景城の塩を収め、諸郡に逓送させるよう進言し、すると軍費が欠乏しなくなった。
第五琦が
賀蘭進明の参軍となり、後にこの塩法を実施すると、軍の費用はこれにより充実した。
 
  安禄山が虚に乗じて
史思明・
尹子奇を派遣して河北を猛攻すると、諸郡は再び陥落し、ただ平原・博平・清河が固く守っていた。しかし人心は危うく、再び盛り返さなかった。顔真卿は軍に謀って、「賊の攻撃は激しく、抵抗することができない。投降して国家を辱めるようなことは得策ではない。小道から行在に赴くのが最善で、朝廷に敗軍の罪で誅殺されても、私は死んでも恨まない」と言った。至徳元載(756)十月、平原郡を棄てて黄河を渡り、間道・関をたどって鳳翔に赴いて
帝に謁し、詔して憲部尚書を授けられ、御史大夫に遷った。
 
  朝廷は秩序が整っておらず、閑暇がなかったが、顔真卿は規則をただすことは平日のようであった。武部侍郎の
崔漪・諌議大夫の
李何忌の二人を弾劾して降格させた。
広平王が兵二十万を率いて長安を平定することとなり、出発の日、
粛宗はあえて見送りしなかったが、広平王は走って馬止め柵から騎乗した。王府都虞候の
管崇嗣が広平王の先に騎乗していたから、顔真卿は弾劾した。
帝は奏上文を戻し、顔真卿をなだめて、「朕の息子たちは宮城を罷る際に、諄々と教えさとしているので礼を失することはない。崇嗣は老将軍で、しかも足が不自由だ。ひとまず大目に見てやりたい」と返答した。百官は粛然とした。長安・洛陽の両京が回復すると、帝は左司郎中の李選を派遣して宗廟に報告し、「嗣皇帝」と署名したが、顔真卿は礼儀使の
崔器に向かって、「
上皇は蜀においでになるが、崩御後につかう嗣皇帝でよろしいか」と尋ね、崔器はにわかに奏上して改め、帝は優れた識見をもっていると思った。また建言して、「『春秋』によると、新宮が火災に遭うと、魯の成公は日々参じて哭礼を行なっています。今太廟は賊に破壊されましたので、野外に壇を築き、皇帝陛下におかれましては、東は長安に向って哭礼なされ、その後に使者を派遣していただきたい」と述べたが、受け入れられなかった。宰相はその発言を嫌い、顔真卿を京師から出して馮翊太守とした。蒲州刺史に転任し、丹陽県子に封ぜられた。監察御史の唐旻に誣告・弾劾され、饒州刺史に貶された。
  乾元二年(759)、浙西節度使を拝命した。
劉展が叛こうとしており、顔真卿はあらかじめ戦闘の準備をしようとしたが、都統の
李峘が事を荒立てる措置であると奏上し、顔真卿を非難したから、そこで京師に召還されて刑部侍郎となった。劉展がついに挙兵して淮水を渡河すると、李峘は江西に逃亡した。
  李輔国が
上皇を西宮(太極宮)に遷すと、顔真卿は百官を率いてご機嫌伺いをしたから、李輔国は憎んで、蓬州長史に貶された。
代宗が即位すると、起用されて利州刺史となったが、拝命せず、再び吏部侍郎に遷った。荊南節度使に任じられたが、任地に赴く前に、尚書右丞に改められた。
 
  帝が陝州より帰還すると、顔真卿は、まず陵廟に拝謁の上、宮城にもどるべきであると奏請したが、宰相の
元載が迂遠なことであるとしたから、顔真卿は怒って、「採択するか却下するかは公の一存にあるが、意見を述べて何が悪い。だが朝廷の事を公が再三にわたって滅茶苦茶にするのが我慢ならないのだ」と言ったから、元載はふくむところがあった。にわかに検校刑部尚書となって朔方行営宣慰使に任じられたが、まだ現地に赴任する前に、留知省事となり、魯郡公に改封された。当時、元載は多くの私党を引き連れていたが、群臣の論奏を恐れ、そこで帝を欺いて、「群臣の奏事は、讒言を目的としたものが多いのです。今後は論奏の事があるたびに、すべてまず各長官に上申させ、長官は宰相に上申させ、宰相が可否を判断してから上奏することにさせていただきたい」と述べたが、顔真卿は次のように上疏した。
 
  「諸司の長官は重い官職であり、全員が専ら天子に上達することができる者です。郎官・御史は、陛下の腹心であり、耳目の臣です。そのため全国に出向させるのは、事実を重要なことであろうと些細なことであろうと得失なく、すべて現地調査させ、戻って上奏するのです。これは古の「目が四方に明らかに届き、耳が四方のことをよく聞きとれる(『書経』虞書 舜典)」なのです。今陛下は自ら耳目を塞ごうとされていますが、耳も聞き取れず目も届かないのでしたら、天下は何を望みとすればよいのでしょうか。『詩』に「営々たる青蝿、棘(まがき)に止まる。讒言きわまりなし、こもごも四国を乱す(『詩経』小雅 甫田之什 青蝿)」とありますが、これによって白を変じて黒となし、黒を変じて白となすのです。詩人はこのことを憎んで、ですから「あの讒言する人を捕らえて、豺(やまいぬ)や虎に投げ与えて追い払え。豺や虎が食べなければ、北方の異民族に投げ与えて追い払え(『詩経』節南山之什 巷伯)」と詠ったのです。昔、夏の伯明(夏の后羿の簒臣である寒浞の誤り)・楚の費無極(楚の平王の奸臣)・漢の江充(前漢武帝の奸臣)は、全員讒言する人であり、陛下がこれらを憎まれるのはよろしいことです。どうして心をあまねく廻らせて良し悪しを考えないことがありましょうか。虚言や誣告を言う者は讒人であれば、誅殺すればよろしい。誣告を言わない者は正しい人なので、奨励すればよろしい。正しい人を捨てて行わなければ、大衆は陛下のことを、良し悪しを考えることができず、見聞きすることに倦んだというでしょう。このように言われることは、臣が密かに残念に思うことです。
    昔、
太宗は民政に労を勤められ、その「司門式(門司式)」に、「宮城の城門通行証なき者であれ、緊急の上奏を行なう場合には、城門警備担当官をして当番の衛士とともに案内して上奏させ、妨害してはならぬ」と明記されているのは、隠蔽されるのを防ぐためです。あわせて
立仗馬二匹を置かれるのは、奏上者が乗ることを許されているのです。これが太宗の時代に天下が治まった理由なのです。天宝年間(742-756)後半、
李林甫が寵遇を得て、群臣でまず宰相に諮問してから政事を奏上しなかった者は、他の理由にかこつけて中傷され、なお百官に明らかな約束をせず、先に国政の機密書類に目を通すことができるようになったのです。当時、宦官の
袁思芸が日々宣詔を中書省に持って行きましたが、その時に
天子の動静を必ず李林甫に報告したので、そのため李林甫は天子の意に先んじて奏請することができ、
帝は神のようであると驚喜し、そのため権勢は日増しに強まり、道行く者はたがいに目と目で合図して意志を伝えるほかはない始末となりました。かくして上意は下に達せず、下情は上に達せず、これは権臣が主君に隠蔽しているからで、太宗の法を従わなかったのです。次第に衰えて今に至り、天下の弊害はすべて陛下に集まり、従い集まる者は次第に少なくなっていったのです。艱難の初めより、百姓はまだ衰え尽きておらず、太平の治はなおもできるでしょうが、しかし
李輔国が権勢を得て、宰相として政権を握ると、互いに息を潜めました。三司による獄を開き、謀反の党派を誅殺し、賊の残党を北は党項(タングート)に逃げ込ませ、人々は混乱して失意にあり、権力の座にあるものは驚き恐れ、
史思明は危惧し、互いに引きあって叛き、東都は陥落し、
先帝はこれによって辛い務めに寿命を損なわれたのです。臣はこのことを思うたびに、痛みは心や骨を貫くのです。
    今、天下の傷跡はいまだに癒えず、戦争は日に日に増えておりますが、陛下はどうして広く道理にあって正しい言葉を聞いて、見聞を広めることがないのに、忠義の諌めを遮断することができましょうか。陛下が陝州におわします時、奏上する者は貴賤を限らなかったので、群臣は
太宗の治がつまだてて待っているのだろうと思っていました。そもそも君主が忌憚のない言論の道をからりと開いたとしても、臣下たちは存分に意見を述べようとはしないものです。ましてや宰相がそれを抑えつけ、御史台が条目をつくるので、直接進言することができず、これより人々は意見を奏上しなくなるのです。陛下が耳にされる情報は、せいぜい数人のものにしかすぎません。天下の人士は、口を閉ざして沈黙し、陛下は発言する者がだれもいないのを目にされるでしょうが、どうして恐れを知ってあえて進言する者がおりましょうか。それは
李林甫・
楊国忠のような人間がまた今日に現れる事態なのです。臣は今日の事を言っているのであって、未曾有のことなのです。李林甫・楊国忠であってもあからさまにこのようなことをしたことがありませんでした。陛下がお気づきにならなければ、次第に孤立していき、後悔しても取り返しがつかなくなるでしょう。」
  これによって宦官らは宮中の内外に顔真卿の上疏文を散布した。後に太廟の祭祀を摂事すると、祭器が充分ではないと言上したから、
元載は誹謗であると上奏し、峡州別駕に貶された。吉州司馬に改められ、撫州・湖州の二州の刺史に遷された。元載が誅殺されると、
楊綰の推薦によって、刑部尚書に抜擢され、吏部尚書に昇進した。
帝が崩ずると、礼儀使に任じられた。そのため列聖の帝王の諡が繁多であることから、初めに定められた諡に従うよう奏請した。しかし
袁傪は頑なに拒否したから、取りやめとなった。当時、戦乱の後で、典法は散逸し、顔真卿は古今に博識であったが、しばしば改正を建議したが、権臣のために抑えられ、多くが途中で放置されたという。
  楊炎が宰相になると、顔真卿の剛直さを受け入れられず、太子少師に転任させたが、それでも礼儀使のまま留め置いた。
盧𣏌が宰相になると、ますます嫌われ、太子太師に改められたが、ともに礼儀使は罷免された。しばしば人を派遣して藩鎮ならどこがよいかと尋ね、京師から追い出そうとした。顔真卿は盧𣏌に会いに行き、挨拶して「あなたの父上の
中丞殿の首が平原に伝送されると、顔からは血を流しておられたから、私は衣で拭うことがしのびなく、自分の舌で舐めとったのです。あなたは忍んで許してくださらぬか」と言ったから、盧𣏌は思わず席を下りて拝礼したが、かえって怨みは骨に刻まれることになった。
 
  李希烈が汝州を陥落させると、
盧𣏌はそこで顔真卿を派遣するよう建言して、「顔真卿のことを全国が信認しておりますから、もし派遣して説諭できれば、軍を労さずとも平定できるのです」と言ったから、詔して裁可されてしまい、公卿は全員顔色を失った。
李勉は「一元老を失って、朝廷の恥を残すことになる」と思い、密かに上表して固く留めようとした。顔真卿が河南に到着すると、河南尹の
鄭叔則は、李希烈が謀反をしていることは明らかであるとして、行かないよう勧めたが、顔真卿は、「君命である。どうしてこれを避けようか」と答えた。李希烈に面会すると、詔旨を宣り給い、李希烈の養子の千人以上は刀を抜いて我先にと進み出て来て、諸将は皆罵り、顔真卿を喰らおうとしたが、顔真卿の顔色は変わらなかった。李希烈は身を以てかばい、その軍に退くよう命じ、そこで宿館に招き入れた。無理やり上疏文を書かせて自分への疑いを雪ごうとしたが、顔真卿は従わなかった。そこで偽って顔真卿の兄の子の顔峴を従う役人数人とともに京師に相継いで帰らせて請願させたが、
徳宗は答えなかった。顔真卿は子どもたちに与える書簡を記すごとに、ただしっかりと家廟を守ること、親を亡くした一族の子どもを大切にすることを書くだけで、ついに他の言葉はなかった。李希烈は
李元平を派遣して説得させようとしたが、顔真卿は「お前は国の委任を受けたのに、命を尽くすこともできなかった。私に兵がおらずお前を殺すことができないのをよいことに、私に説得しようというのか」と叱りつけ、李希烈は大いにその郎党を集め、顔真卿を呼び寄せ、俳優に朝廷を侮らせた。顔真卿は怒って、「公は人臣ではないか。どうしてこのようなことをする」と言い、衣を払って去った。李希烈は大いに恥ずかしく思った。当時、
朱滔・
王武俊・
田悦・
李納の使者が皆同座して、李希烈に向かって、「太師のただならぬ名望を耳にすることかねて久しい。公が大号を称されようとしているときに太師がたまたまやって来たのは、宰相を求めるのに太師が先にやってきたのではないのでしょうか」と言ったが、顔真卿は「お前たちは
顔常山を聞いたことがないのか。我が兄だぞ。
安禄山が叛くと、先んじて義軍を挙兵し、後に捕らえられたとはいえ、賊をさんざんに罵倒した。私の年は八十歳になろうとしており、官は太師で、節義を守って死ぬのみだ。どうしてお前らの脅しを受けようか」と叱りつけたから、賊どもは顔色を失った。
 
  李希烈は顔真卿を捕らえ、完全武装の兵士で守らせていたが、掘一丈(3m)四方の穴を官衙の庭に掘って、これから生き埋めにすると伝えた。顔真卿は李希烈を見て、「死ぬか生きるか、とっくにわかりきったこと。余計なことをするに及ばぬ」と言った。
張伯儀が敗北し、李希烈は使節の旗印と首級を持って顔真卿に見せつけさせると、顔真卿は慟哭して身を地に投げつけた。ちょうどその時、その党の
周曾・
康秀琳らが李希烈を襲撃し、顔真卿を節度使にかつごうと謀った。謀事は漏洩し、周曾は死に、そのため顔真卿を拘束して蔡州に送った。顔真卿は死が免れないとし、そこで遺表・墓誌・祭文をつくり、寝室の西の壁の下を指さして「ここが私の殯の場所だ」と言った。李希烈が皇帝を僭称すると、儀式について問い合わせしたが、顔真卿は「私は耄碌した。かつて国礼を司ったが、覚えているのは諸侯が天子に朝覲する儀礼だけだ」と答えた。
 
  興元年間(784)も後半になると、王師は再び勢力を盛り返し、賊は変事がくるのを恐れ、将の辛景臻・安華を顔真卿の所に派遣し、薪を庭に積み上げて、「節を曲げることができないのなら、焼け死ね」と言ったが、顔真卿は立ち上がって火に向かっていったから、辛景臻らはにわかに遮った。李希烈の弟の
李希倩が
朱泚に連座して誅殺されると、李希烈はそのため怒りを発し、宦官に顔真卿を殺害させることにし、宦官は「詔である」と言うと、顔真卿は再拝した。宦官が「卿に死を賜う」と言ったから、「老臣は何もできず、罪は死に相当します。ところでご使者は何日に長安から来られたのか」と言うと、宦官は「大梁から来た」と答えたから、顔真卿は罵って「それは逆賊だ。なにが詔だ」と言い、ついに縊り殺された。年七十六歳。嗣曹王
李皋が顔真卿の死を聞いて、涙を流し、参軍は全員が慟哭し、そこで顔真卿の大いに節義を保ったことを上奏した。淮西・蔡州が平定されると、子の顔頵・顔碩は葬列を護送して帰還し、
帝は五日間廃朝し、司徒を追贈し、諡を文忠といい、布帛・米粟を贈った。
  顔真卿は朝廷に立っては威儀をただし、剛直でありながら礼があり、公に言ったり直言しなければ、心にも芽生えなかったのである。世間では姓名によって呼ばず、ただ魯公とのみ呼んだ。
李正己・
田神功・
董秦・
侯希逸・
王玄志らのような者は、全員顔真卿がはじめに招き起用し、後で全員が功績を立てたのである。楷書・草書をよくし、筆力は剛健かつ柔美で、世間では宝として伝えられた。貞元六年(790)、赦状によって顔頵に五品正員官を授けた。開成年間(836-840)初頭、また曽孫の顔弘式を同州参軍とした。
  賛にいわく、唐人の
柳宗元はこう述べている。「武人の輩はにわかに奮いたって死を恐れずに名声を得ようとするものだ、というのが世間の
段太尉評のおおむねだが、それはまちがいである。太尉の人柄はしとやかであって、いつも頭をたれ手をこまねいて歩き、語気は弱々しく、人に対してたけだけしい態度をとったためしはなく、それを見た者は儒者だと考えた。けしからぬ事態に遭遇しながら、あくまでその志をとげたのは偶然ではない」柳宗元はむやみに人を許すはずはなく、本当にそのような人物だったのであろう。孔子のいわゆる「仁者は必ず勇有り(『論語』憲問篇)」というものではあるまいか。
安禄山が叛乱をおこすと、たけりたって噛みつかんばかりの勢いに立ち向かう者はいなかったが、
魯公はひとり烏合の衆をもってその鋭鋒を冒し、成功はしなかったものの、その志は見あげたものである。晩年の人生ははかばかしくなく、
奸臣におとしいれられ、
賊の手によって命を落とした。毅然たる気概はくじかれてもひるむことなく、忠というべきである。二人の事跡を詳しくながめてみると、その当時においても君主からすっきりと信用されることはなかったのだが、ただならぬ節義の場面に直面するや、そこに踏み込んで表情ひとつ変えることがなかったのはなぜであろうか。かの忠臣義士は、人から信用され期待されなくても、わが身を振りかえって正道のなんたるかを理解し、そのうえで納得してそれを実行するのである。ああ、千年、五百年の後であれ、その英烈の行ないは高大であり、厳霜烈日のごとく畏敬するに値するのだ。
最終更新:2025年08月30日 13:13