唐書巻一百三十一
列伝第五十六
宗室宰相
李適之 李峴 李勉 李夷簡 李程 子廓 李石 弟福 李回
李適之は、
恒山湣王の孫であり、初名は李昌といった。神龍年間(707-710)初頭、左衛郎将に抜擢された。開元年間(713-741)、通州刺史に遷り、優れた統治によって上聞された。按察使の
韓朝宗が朝廷に申し上げ、秦州都督に抜擢された。陜州刺史・河南尹に遷った。その政務は厳格な細かさはなく、そのため部下に頼りとされた。
玄宗が穀水・洛水の毎年の氾濫によって徭力が損なわれることを憂い、李適之に詔して禁銭(内帑金)によって三大堤防をつくらせた。上陽・積翠・
月陂がそれで、これより水に煩わされることはなかった。石に刻んで功績を著し、永王
李璘に詔して書させ、皇太子
李瑛が署額した。御史大夫に昇進した。開元二十七年(729)、幽州長史、知節度事を兼任した。李適之は
祖父が廃されて、父
李象も
武后の時に追放されたから、葬儀には欠陥があった。ここに至って昭陵の闕中に陪葬されることを願い、詔して裁可された。賜った葬儀用の器物は街を光り輝かせ、道ゆく人々にため息をつかせた。刑部尚書に遷った。李適之は賓客が来るのを喜び、一斗ばかり飲酒しても乱れなかった。夜に宴会を楽しみ、昼に政務を決済したが、事案は滞ることがなかった。
天宝元年(742)、
牛仙客に代わって左相となり、累進して清和県公に封ぜられた。かつて
李林甫と権力を巡って争って不仲であり、李林甫は陰険残忍で、そこで親しげに李適之に向かって「華山は金を産出するから、これを采れば国を富ませることができる。
お上はまだご存知ないと思う」と言い、李適之は粗忽者であったから、この発言を信じて、ある日おもむろに
帝に向かってこのことを言った。帝は喜んでこの事を李林甫に尋ねると、「臣は昔から知っておりましたが、華山は陛下の本命で、王気のあるところだと思っていましたから、掘り出すことができません。だからあえてお耳に入れなかったのです」と答え、帝は李林甫が自分を愛していると思い、李適之を軽んじて親しまなかった。ここに
皇甫惟明・
韋堅・
裴寛・
韓朝宗は全員李適之と非常に親しかったから、全員が李林甫の企てによって罪におとしめられた。李適之は恐れて自らを安心させることができず、そこで宰相職を返上して閑職を求め、そこで太子少保となって罷免されたが、自ら災いから免れたと思って喜んだ。にわかに
韋堅の罪に連座して、宜春太守に貶された。ちょうどその時、御史の
羅希奭が密かに詔を受けて韋堅らを貶所で殺害したが、州県は震撼し、宜春を通過すると、李適之も恐れ、毒薬を仰いで自殺した。
李峴は、呉王
李恪の孫である。能力があれば自分よりも地位が下の人に屈し、官吏として統治にたけた。天宝年間(742-756)、京兆尹に遷った。
玄宗は毎年温泉に行幸し、畿内では供給を巧みにして
お上に媚びへつらったが、李峴は一人献上を行わず、
帝は優れた人物だと思った。
楊国忠が客の
蹇昂・
何盈に
安禄山の陰謀を摘発させ、京兆尹の李峴をほのめかしてその邸宅に踏み込ませ、
安岱・
李方来らの安禄山との叛いたという証拠を得て、彼らを絞殺した。安禄山は怒り、上書して自ら申し上げたから、帝は変事になることを恐れ、李峴を京師から出して零陵太守とした。李峴は政務を行うと人心を得ることができ、当時、京師の米が高騰すると、百姓がそこで「粟を安く欲しいのなら、李峴についていけ」と歌いあった。ついで長沙に遷った。
永王が江陵大都督となると、李峴を任じて長史とした。至徳年間(756-758)初頭、
粛宗は召還して、扶風太守、兼御史大夫を拝命した。翌年、京兆尹に抜擢され、梁国公に封ぜられた。
乾元二年(759)、中書侍郎によって同中書門下平章事(宰相)となった。ここに
呂諲・
李揆・
第五琦も同じく宰相となったが、李峴の位は古株であったため官の声望が高く、政務の多くを一人で決したから、呂諲らは不平を持った。
李輔国が権力を用いるようになると、制詔はある時は中書から出ることなく、百司はあえて覆奏することがなかった。李峴は頓首して
帝の前に出て、言を厳しくしてその悪手を述べたから、帝は悟って、ようやく制を調べるようになり、李輔国はこれによって行軍司馬を譲ったが、だが深く李峴を恨んだ。鳳翔府七馬坊で押官が強盗を働き、天興県令の謝夷甫がこれを殺した。李輔国は押官の妻をそそのかし、法をまげて訴えさせ、監察御史の孫鎣に詔して取り調べさせると、謝夷甫を正しいものとした。その妻は再度訴え、御史中丞の
崔伯陽・刑部侍郎の
李曄・大理卿の権献らに詔して三司として尋問させ、事実無根であるとした。妻は承諾せず、李輔国はこれを助け、そこで侍御史の
毛若虚に再審査させた。毛若虚は委細謝夷甫を罪とし、御史が法を不正に用いていると申し上げたから、崔伯陽は怒り、直接尋問しようとしたから、毛若虚は駆けて自ら帝のもとに行き、帝は毛若虚を簾中に留めた。しばらくして崔伯陽らがやって来ると、毛若虚が宦官を助けて有罪の人を失うと訴えたが、帝は怒って崔伯陽らを叱責し、崔伯陽を高要県の尉に、権献を杜陽県の尉に貶し、李曄を嶺南に追放し、孫鎣を播州に流した。李峴は責めが非常に重いと思い、入って帝に向かって「毛若虚は権力者に迎合して刑を用い、国法を乱しています。陛下は毛若虚を信じてあれこれなされたので、御史台はなきに等しいと示したようなものです」と申し上げると、帝は怒り、
李揆はあえて諌めず、そこで李峴を京師から出して蜀州刺史とした。当時、右散騎常侍の
韓択木が宮中に入って奏上すると、帝は、「李峴は権力を専らにしようとしていたのだろうか。毛若虚に任せて御史台はなきに等しいと示したようなものだと言ってきたのだ。朕は今李峴を外任に出したが、法を非常に寛大にしていたと思っていたのだ」と言うと、韓択木は、「李峴の申し上げたことは直言であって、権力を専らにしていたわけではありません。陛下が李峴を許されれば、ただ盛徳を増すでしょう」と答えた。
代宗が即位すると、荊南節度、知江淮選補使に改められた。京師に入って礼部尚書兼宗正卿となった。
乗輿が陜州に逃れると、商山を経由して帝のところに走った。京師に帰還すると、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。故事では、
政事堂では客と接しないことになっていた。
元載が宰相となってから、宦官で詔を伝える者は引き連れて堂にあがり、榻(いす) を持ち込んで待っていた。李峴がやって来ると、ただちに吏に命じて榻を撤去させた。また常参官は才能が諌官・憲官となるべき者を推薦するよう奏上し、定員を設けなかった。一か月もしないうちに、代宗の近臣に讒言されて、遂に恩寵を失い、罷免されて太子詹事となった。吏部尚書に遷り、知江淮選使に復職し、検校兵部尚書兼衢州刺史に改められた。卒した時、年五十八歳であった。
それより以前、東京(洛陽)が平定されると、
陳希烈ら数百人は罪の判決を待ち、議論する者は全員が死罪に相当するとし、
帝の意もまた天下に懲らしめようと思い、そのため
崔器らに法律を厳しくさせた。李峴は当時三司となり、ただ一人、「法は首謀者と従犯がおり、情には軽重がありますが、もしすべてを死罪に問えば、陛下が天下とともにここに一新しようという意ではなくなります。また異民族が乱れることは常であり、凌辱されないものはおらず、衣冠の者は逃亡し、それぞれ自分の生命を顧みたとして、全員を責めることができましょうか。陛下の親戚や勲功のある旧臣の子や孫が、一日のうちに全員が刑具で血塗られているのに、あわれんで罪を許さないのでしょうか。『書』に「その首領は殺さなければならない。しかし脅されて加わった者たちの罪は問うな」とあります。ましてや河北の残党は官吏を脅して屈服させましたが、その人々は非常に多く、今自ら一新する道を開かずに全員を誅殺すれば、これは叛く者の心を頑なにし、賊をして死に至らしめることになります。獣は困窮してなおも戦いますが、ましてや数万人ではどうでしょうか」と述べた。ここに崔器と
呂諲は二人とも恭しい文吏であり、常に議論を操り、大礼に及ばず、顔を真っ赤にして厳しく論争したが、数日して許された。衣冠の者は更生することができ、賊もまた人々が自ら帰順したから
天子を恨むことができなかったのは、李峴の力であった。
李峴の兄に
李峘・
李嶧がいる。李峘は
上皇に従い、李峴は粛宗を補佐したから、勲功によってそれぞれが高貴となり、同時に御史大夫となり、ともに判台事となり、また二人とも制によって公に封ぜられた。李嶧は戸部侍郎・銀青光禄大夫となり、同じく
長興坊内の邸宅に住み、門に三戟を並べた。
李勉は、字は玄卿で、鄭恵王
李元懿の曾孫である。父の
李択言は、累進して州刺史となり、安徳郡公に封ぜられ、官吏としての統治を称えられた。
張嘉貞は益州都督となると、性格は簡潔を重んじ、管轄の刺史に対する態度は傲慢であったが、李沢言は漢州を守り、ただ一人引き連れられて同じ榻(いす)に座り、政事を講釈したから、名声は同時代に重んじられた。
李勉は若い頃から学問を好み、内面は常に沈着で、外面は端正で整っていた。始め開封県の尉に任命されたが、汴州は水陸の輸送が一度に会し、習俗はおびただしく交雑し、治めるのが難しいといわれていたが、李勉は悪者を摘発して有名となった。
粛宗に霊武で従い、監察御史に抜擢された。当時、武臣が勃興し、決まりを守らず、大将の
管崇嗣が宮闕に背中を向けて座り、談笑して浮ついだ言動をしたため、李勉に恭しくしないことを弾劾された。
帝は「私は李勉がいたから、朝廷の尊いことを知った」と感嘆し、司膳員外郎に遷った。関東から捕虜百人を献じられ、ただちに死ぬところであったが、嘆く者があり、李勉は通り過ぎたときに尋ねると、「脅されて賊の官についたのであって、あえて叛いたわけではありません」と答えたから、李勉は朝廷に入って帝に謁見して、「戦乱の汚辱は天下を半ばしており、心を改めようとしても自ら帰るところとてありません。彼らを全員殺してしまうようなことがあれば、駆けて行って賊を助けるでしょう」と言うと、帝は騎馬を走らせて全員を許したから、後に帰順する者は日に日にやって来た。
累進して、河東の
王思礼・朔方河東都統の
李国貞の行軍司馬となり、梁州刺史に昇進した。李勉は
王晬を南鄭県令に任じたが、王晬は朝廷の権勢者によって誣告され、詔して誅されることになった。李勉は、「宰相に任じられて人民の父母となった者が、どうして讒言によって郎吏を殺すのだろうか」と言い、ただちに王晬を拘束し、彼のために赦免を願った。王晬は後に推薦されて龍門県令となり、果して有名となった。
羌・渾・奴剌が梁州に侵攻してきて、李勉は守ることができず、召還されて大理少卿となった。しかし天子はもとよりその実直さを重んじて、太常少卿とし、信じて任用しようとした。しかし
李輔国が自分にくだるよう唆させたが、李勉はよしとせず、そこで京師から出されて汾州刺史となった。河南尹を経て、江西観察使に遷った。兵を励まして近隣と友好関係を結び、賊がたむろするのを平定した。部下の父が病気となり、蠱毒で呪いする者を探し、木偶に李勉の名を書いて埋め、掘り出されたが病気は癒えた。李勉は「これはその父のためにやったことだから、孝である」と言って、釈放して殺さなかった。京師に入って京兆尹兼御史大夫となった。
魚朝恩が国子監を領すると、権力や恩寵は威を振るったから、前任の京兆尹の
黎幹が諂らって魚朝恩に仕え、魚朝恩が入ってくるのを待ち、吏に命じて数百人分の食事を用意していた。李勉の時になって吏がそのようにするよう要請すると、李勉は従わず、「私が
太学に侍るのは、彼が享(まつ)りをしようとするからであって、食事を用意するためではない。軍容(魚朝恩)が京兆府に来られるのなら、そのときに用意するとしよう」と言ったから、魚朝恩は恨んで、再び太学にやって来ることはなかった。
ついで嶺南節度使を拝命した。番禺の賊の
馮崇道・桂の叛将の
朱済時らが険阻の地によって叛乱をおこし、叛乱は拡大して十州あまりを残すのみとなったから、李勉は将軍の
李観を派遣して容州刺史の
王翃を率いて討伐して斬り、五嶺は平定された。西南夷が舶で毎年やって来るのはわずかに四・五隻で、検査が厳しかった。李勉は清廉であったから、また突然の征伐を行わなかったから、翌年やって来たのは四十隻あまりとなった。官にいること長い間であったが、かつて器を飾り、車服を用いたことはなかった。後に召還されて帰還する途上、石門までやって来ると、ことごとく家人が貯蓄した財貨や犀・象といった諸物を探し出して、長江の中に投棄し、当時の人は前朝の
宋璟・
盧奐・
李朝隠を継ぐことができる人物であると言った。部下は宮中を訪れて頌徳碑の建立を願い、
代宗は許可した。工部尚書に昇進し、汧国公に封ぜられた。
滑亳節度使の
令狐彰が死の間際、李勉を自分の代任にするよう上表し、これに従った。李勉は鎮にあること八年になろうとしており、長老たちに重んじられ、権力を行使せずに治まり、東の諸帥の凶暴な悪漢は者すべて李勉を尊び憚った。
田神玉が死ぬと、李勉に詔して汴宋節度使としたが、まだ出発する前に、汴の将の
李霊耀が叛くと、魏将の
田悦が兵でやって来て、汴を攻略して駐屯したから、李勉は
李忠臣・
馬燧とともに合同して討伐した。淮西軍は汴の北を根拠地とし、河陽軍はその東を防衛し、大将の
杜如江・尹伯良は田悦と匡城で戦ったが勝てなかった。陣営を移して李霊耀を合流し、李忠臣の将軍の李重倩が夜にその陣営を攻撃し、河陽軍とともに合流して騒ぎ、賊は布陣せずに壊滅し、田悦は河北に逃げた。李霊耀も韋城に逃げたが、杜如江の捕虜となり、李勉は捕縛して宮中に献上し、宮殿の下で斬られた。その後李忠臣は汴を支配し、そのため李勉は滑台に帰還した。翌年、李忠臣は麾下に追放され、再び李弁に詔して治所を汴に遷した。
徳宗が即位すると、同中書門下平章事(宰相格)を加えられた。にわかに汴宋・滑亳・河陽等道都統となった。
建中四年(783)、
李希烈が襄城を包囲すると、李勉に詔して出兵して救援させ、
帝はまた神策将の
劉徳信を派遣して兵三千で援軍と合流した。李勉は奏上して、「賊は精兵で襄城を攻撃しているので、許州は必ず空となっていますから、兵で直接許州をつかせ、そうすれば襄城の包囲は解けます」と述べたが、返答はなく、その将の
唐漢臣に劉徳信とともに許州を襲撃させようとしたが、数十里も行かないうちに、詔によって詰問され、二将は恐れて帰還したが、扈澗に行くと、備えが整わず、賊に隙を乗ぜられて、殺傷される者が十人中五人となり、輜重はすべて失った。唐漢臣は汴州に逃げ、劉徳信は汝州に逃げた。李勉は東都が危うくなるのを恐れ、再び兵四千を派遣して守らせ、賊はその背後を絶って帰らせなくさせた。ここに李希烈は自ら軍を率いて李勉を攻撃し、李勉は意気が喪失しながらも、守備すること数カ月に及び、援軍は到着することがなく、募兵した一万人の兵は壊滅して包囲から脱出し、東は睢陽を保持するだけであった。
興元元年(784)、李勉は都統職を辞退し、検校司徒平章事の職にとって召還された。
帝に謁見すると、素服で処罰を待ったが、詔して辞退を許されず、李勉は心の中では恥じ入り、職位のみとって、あえて与えられた職にはつかなかった。貞元年間(785-805)初頭、帝は
盧𣏌を起用して刺史としようとしたが、
袁高は詔を差し戻したから下すことができなかった。帝は李勉に「みなが盧𣏌を悪人だと言っているが、朕はそんなこと知らないぞ。どういったわけで言っているのか」と尋ねると、李勉は「天下は皆知っていますが、陛下お一人がご存知ではないのです。これは悪事を働いたのが原因なのです」と言ったから、この時はその返答に同意したが、これよりますます疎んぜられた。宰相の地位にあること二年、位を辞して、太子太師の職によって罷免された。卒した時、年七十二歳で、太傅を追贈され、諡を貞簡という。
李勉は若い頃は貧困で、梁・宋の間をさまよい、諸生と共に旅館に宿泊したが、諸生は病気で死ぬところであり、白金を出して「周囲で知る者はいない。君がこれで私を葬って、余ったなら君が使って欲しい」と言った。李勉は許諾し、葬ったが、密かに余った金は棺桶の下に置いた。後にその家族が李勉に面会すると、一緒に墓を開いて金を出して家族に与えた。位は将軍・宰相となり、受け取った賜い物は、すべて親類縁者に贈り、李勉が死ぬと、少しも残らなかった。朝廷にあっては、剛直かつ清廉で、宗室の臣下として表した。賢人の部下にいつも礼をつくし、かつて李巡・
張参を引き入れて幕府におらせたが、後に二人が卒すると、宴会となると、そこで空席を設けて酒食で祀った。守兵を派遣し、常に兵糧を監視させ、春と秋に家族を慰問したから、そのため人を得ると死力を尽くすことができた。鼓琴をよくし、李勉自らつくったのは、天下が宝とし、楽家が『響泉』・『韻磬』を伝えるのは、李勉が愛したものである。
李夷簡は、字は易之で、鄭恵王
李元懿四世の孫である。宗室の子であるから始め鄭県の丞に補任された。
徳宗が奉天に逃れると、
朱泚は表向き
天子を迎えると示して、使者を派遣して東は関を出て華州に到り、候吏の李翼はあえて尋ねることはなかった。李夷簡は「朱泚は必ず叛く。幽州・隴州の兵五千を向かわせて襄城を救援しても、それは賊の旧領だから、この将は追い返されるだけだろう。
お上は越えて外にあらせられ、天下の兵を呼び寄せているがまだやって来ず、もし凶悪な連中が西に戻れば、朱泚が死後に葬送の礼を送ることを助けるのだから、何と危ういことだろうか。試されることを願う」と言ったから、李翼は駆けて潼関に到着すると、やはり召還の官符を得たから、白於関の大将の
駱元光に申し上げると、そこで賊の使者を斬り、偽の官符を収容し、
行在に献上した。詔があって、駱元光は華州刺史を拝命した。駱元光は功績を奪い取ったが、そのためこのことを知る者はいなかった。
李夷簡は官を棄てて去り、進士に選ばれて及第し、抜萃科に合格し、藍田県の尉に任命された。監察御史に遷った。ささいな罪に連座し、左遷されて虔州司戸参軍に遷った。九年後、再び殿中侍御史となった。元和年間(806-820)、御史中丞となった。京兆尹の
楊憑の性格は傲慢かつ軽率で、始め江南観察使となったが、財にくらかった。李夷簡はその属州の刺史となり、楊憑に礼されるところではなかった。ここに至って楊憑の貪欲さを告発し、楊憑は臨賀県の尉に貶され、李夷簡は金紫を賜り、戸部侍郎の職によって判度支となった。
にわかに検校礼部尚書・山南東道節度使となった。それより以前、貞元年間(785-805)、江西の兵五百で襄陽を守備し、
蔡の右脇を抑えとしていた。そのため度支の供給を依頼し、後に守備兵が死亡して尽きようとしても、毎年度支の供給の財貨を取って留めなかった。李夷簡は「もはや空文と化しており、いやしくも軍の興隆に関することであるのに、こんなことでいいのでしょうか」と言って奏上してこれを廃止した。三年後、剣南西川節度使に遷った。巂州刺史の王顒は悪者からの収賄を積み上げたから、属部の蛮は怒り、叛いて去った。李夷簡は王顒を追放し、通告文にて禍福を諭し、蛮の集落は再び安定した。それより以前、
韋皋は「奉聖楽」をつくり、
于頔は「順聖楽」を作り、常に軍中で演奏していたが、李夷簡はたちまち廃止し、礼楽は諸侯が勝手につくるべきものではないと言って、その部下に「私は前任者の非を覆わんとしている。これによって後任者へ残す戒めとするのだ」と語った。
元和十三年(818)、召還されて御史大夫となり、昇進して門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。
李師道が叛こうとすると、
裴度が宰相となり、帝は頼って賊を平らげようとし、李夷簡は自らの才能が裴度を上回ることがないと言い、そこで外に遷ることを求め、検校尚書左僕射平章事によって淮南節度使となった。
穆宗が即位すると、役人が廟号を議論しており、李夷簡は建言して、「王者の祖は功績があって、宗は徳があってつけられます。
大行皇帝は武功があるから、廟号に祖をつけて称えるべきです」としたが、公卿・礼官に詔して議論させたが、合わず、沙汰止みとなった。しばらくして、老年によって辞職を求めたが、朝廷は李夷簡が年齢・体力ともに任にたえられるとして、許さなかった、右僕射として召還されたが、辞退して拝命せず、また検校左僕射兼太子少師、分司東都となった。翌年卒し、年六十七歳であった。太子太保を追贈された。
李夷簡の位は顕官にいたり、直言によって自らを守り、語気をへつらって人を喜ばせるようなことをしたことがなかった。三藩鎮を歴任したが、家に財産がなかった。病となっても医者を呼ばず、臨終になろうとすると、戒しめて厚葬してはならず、仏事を行ってはならず、神道碑を立ててはならず、ただ墓に記すのみとした。世間では自身の行いによって終始をよくすることができる者だとした。
李程は、字は表臣で、襄邑恭王
李神符五世の孫である。進士に選ばれ宏辞科にて、「日五色」を賦し、詩作は抜群であり、名士によって推薦された。藍田県の尉に任じられ、県では獄の判決が十年滞っていたが、李程は言を出し尽くして判決した。京兆府は考課を最も優れたものとし、監察御史に遷った。召還されて翰林学士となり、再び司勲員外郎に遷り、渭源県男に封ぜられた。
徳宗が季秋(九月)に狩猟に出たが、寒さを感じたから、側近に振り返って、「九月に衫、二月に袍なのは、適宜ではない。朕は月を改めたいと思うが、どう思うか」と言うと、側近は素晴らしいと称えたが、李程一人が「
玄宗は『月令』を著し、十月に裘を着始めるとしましたから、改めるべきではありません」と言うと、
帝ははっとして沙汰止みとした。翰林学士は出勤すると、常に日影を見て待機したが、李程の性格はものぐさで、太陽が八塼を過ぎてからやって来たため、当時の人々は「八塼学士」と号した。
元和三年(808)、京師から出されて随州刺史となり、政務をよくしたから金紫服を賜った。
李夷簡が剣南西川節度使となると、成都少尹に招聘された。兵部郎中となって京師に入って知制誥となった。
韓弘が都統となると、李程に命じて汴州を宣撫した。御史中丞・鄂岳観察使を歴任し、京師に戻って吏部侍郎となった。
敬宗が即位した当初、本官の吏部侍郎によって同中書門下平章事(宰相)となった。
帝は暗愚で、宮殿の造営や狩猟を好み、範囲が広大であった。李程は諌めて「
先王は倹約によって天下に徳化しましたが、陛下は諒暗の喪に服されており、まだ造営事業をおこすべきではありません。願わくば使用する費用を回して園陵を奉られますように」と述べると、帝は喜んで受け入れた。また侍講学士を設置し、名臣を選んで訪問に備えるよう願った。中書侍郎を加えられ、彭原郡公に進封した。宝暦二年(827)、検校吏部尚書・同平章事となり、河東節度使となった。さらに河中節度使に遷った。召還されて尚書左僕射を拝命した。にわかに検校司空となり、宣武軍節度使・山南東道節度使となった。再び僕射となった。これより先、元和・長慶年間(806-825)、僕射が政務を視ると、百官は皆祝賀し、四品以下の官は答拝した。大和四年(830)、詔して答拝しないこととなった。
王涯・
竇易直はこれを行って平然たるものがあったが、李程はその故事に従ったが、自らを安心させることができず、朝廷に申し上げた。御史中丞の
李漢は答拝しないことは礼において非常に重要であるからと言ったが、
文宗は許さず、大和の詔書を用いることを聴(ゆる)した。議論する者はよくないこととした。
李程の人となりは口達者の知恵者であったが、無頓着で礼儀がなく、華やかで親しい者であっても、名声がなかった。最も
帝に厚遇されており、かつて「高く飛翔する翼は、長者の前にあるという。卿は朝廷の羽根や翼だ」と言われた。
武宗が即位すると、東都留守となった。卒した時、年七十七歳であった。太保を追贈され、諡を繆という。
子の
李廓は、進士に及第し、刑部侍郎となった。大中年間(847-860)、武寧節度使を拝命したが、軍を治めることができなかった。補闕の
鄭魯が奏上して「新麦は実っていないので、徐州は必ず乱れるでしょう」と言ったが、その後果たして李廓は追放され、そこで鄭魯を抜擢して起居舎人とした。
李石は、字は中玉で、襄邑恭王
李神符五世の孫である。元和年間(806-820)、進士に及第し、
李聴の幕府に招かれ、従って四鎮の幕府で歴任し、優れた人材とされ、吏務に明るかった。李聴が征伐に出撃するたびに、必ず李石を留めて後務を司らせた。大和年間(827-835)、行軍司馬となった。李聴は兵で北を渡河し、李石に入奏させ、奏上の口上が華麗かつ敏捷で、
文宗は優れた人物だと思った。幕府を辞めると、工部郎中、判塩鉄案に任じられた。
令孤楚が河東節度使となると、引き抜かれて副使となった。京師に入って給事中に遷り、戸部侍郎、判度支に昇進した。
帝は
李宗閔らが党派によって互いに排斥しあって、公に背いて政事に害をなしているのを憎んで、おおよそ旧臣はすべて疑って用いなかったが、後出の孤立した者を抜擢して、旧臣を懲しめて一掃しようとし、そのため
李訓らを宰相とした。李訓が誅殺されると、そこで李石を抜擢して本官(戸部侍郎)によって同中書門下平章事(宰相)とし、よって度支を領した。李石の人の器は雄遠で、宰相として政権の中心となるにあたって、くじけることがなかった。
この時になって、宦官の気勢は盛んであり、朝廷で横暴を極め、
延英殿で対するごとに、
仇士良らが往々として
李訓をそしって、これによって大臣をくじこうとしたが、李石はおもむろに「京師で乱をおこした者は李訓・
鄭注であるが、だが彼らを昇進させたのは、一体誰が先に行ったのだろうか」と言ったから、仇士良らは恥ずかしくなって萎縮し、答えることができず、気はますます奪われたから、貴紳は李石を頼って強気になった。他日、
紫宸殿で、宰相が進み出て陛に至ると、
帝はため息をついて嘆いたから、李石は進み出て、「陛下の嘆きは、臣はもとよりまだ理解しておりません。あえてその理由をお聞かせください」と言うと、帝は「朕は統治の難しさを嘆いていたのだ。朕は即位してから十年になろうとしているが、統治の根本を得ることができない。だから以前は病気になったりしたのだが、今はこのように恐れおののいて不安となり、すべて自ら統治の難しさを取りあげるのだ。億兆もの民に上にあることを委ねられていながら、豊かな利益を百姓に及ぼすことができないのに、どうして長らく無事でいることができようか」と述べたから、李石は「陛下がおのれを罪とするのは当然でしょうが、しかし自らの統治を責めるには非常に早すぎで、十年間勤勉に徳を養ったとはいえ、たまたまそうなっただけなのです。天下が治まるのも治まらないのも、今から見る必要があるのです。また人の気や志は、賢聖であってもなお優劣があり、だから仲尼(孔子)は「三十にして立つ、四十にして惑わず」と言ったのです。陛下の年齢は若く、多くの人の間にいるわけではないのに、人の心の偽りをご存知です。今自らご覧になってみて即位の時からいかがでしょうか」と言ったから、帝は「違いがある」と言った。李石は「古の聖賢は、必ず書物を見てから考察して物事を行い、その後に統治の功をなしたのです。陛下は十年を積み、盛徳は日々新たであるのに、かえって病気になったり恐れおののいて不安となったりする理由は、天がこうやって陛下の志を揺るぎないものにしているのではないのでしょうか。本当に努力して将来の政事を修められているのは、
太宗が即位して天下を平定した時期を見ても、なおまだ遅くはありません」と言ったから、帝は「これを行えばたどりつくことができようか」と言った。李石は「今四海は太平一統で、ただ才能がある人物を登用・抜擢し、大小それぞれその職に任じさせ、人を愛して時節に利用し、国に余力があり、下には賦税を加えられないことが、これが太平の術なのです」と述べた。
この当時、大臣が新たに族滅され、この年厳寒で、外情は不安定であった。
帝は「人心がまだ安らがないのはどうしてか」と尋ねると、李石は「処刑が非常に多く、だから天地が不和となり災害が発生するようになったのです。この頃
鄭注が多く鳳翔の兵を募集し、今になって誅殺されて捜索はまだやんではいません。臣はこれによって変乱がおこるのではないかと恐れています。詔を下して慰撫してくださいますよう」と答えたから、帝は「よろしい」と言った。また「どうして太平の難となるのか」と尋ねると、
鄭覃は「天下を治めようと思うのでしたら、人を憐れむのにこしたことがありません」と答えたから、李石はそこで称えて「憐れんで統治の術を得たのですから、なおどうして太平の難でしょうか。陛下が用いる所を節約され、余剰な食事を取り去れば、簿最(収入役)はその悪事に手を下すことができず、そうすれば百官が治まります。百官が治まれば、天下は安泰なのです」と言い、帝は胸をいたませて「私は貞観・開元の時を思って今日を見ているが、その気は私の胸を払うのだ」と言ったから、李石は「治道は上を根本とすれば、下の者があえて不服従でいることはありません」と言うと、帝は「そうではない。張元昌は左街副使となっていたが、金の唾壺を使っており、この頃連座して誅殺された。私は禁中に金鳥の錦袍が二領あったと聞いており、昔、
玄宗が温泉に行幸した時に
楊貴妃に与えて着用したが、今富人の所に往々としてあるではないか」と言ったから、李石は「毛玠は清徳によって魏の尚書となりましたが、人はあえて美しい衣服や美食をしませんでした。ましてや天子一人法とすべきではないのでしょうか」と言った。
この時、宰相・役人・兵士は宮中の政変によって死ぬ者が多く、江西・湖南に詔して、助けとなる者を募り士で力となるものを呼び寄せた。李石は建言して、「宰相は天子の左右にあって教化し、もしくは正道に従って私事を忘れるなら、宗廟や神霊は、助けとなるでしょうから、盗賊がいても害にはなりません。有如奸悪を抱いているような者がいて自ら欺き、権党を植え付け、正直者を害して、これを防ぐことを加えようとしたとしても、鬼神が誅殺するでしょう。召募するような事変がおこらないので、直ちに金吾を護衛とされますように」と言った。
帝はかつて
鄭覃を振り返って、「鄭覃は老いているから、今更媚びるような妄言はないだろう。試しに私が漢のどの主のようであるか言ってみよ」と言うと、鄭覃は「陛下は文帝・宣帝のような主です」と言った。帝は「どうしてあえてこのようなことを望もうか」と言ったから、李石は帝の志を強めて怠けさせないようにと思ったから、そこで、「陛下が問われて鄭覃が答えた件についてですが、臣皆そうではないと思っています。顔回は匹夫であるだけですが、自らを舜に匹敵すると言っていました。陛下は四海にあって、春秋富ませており、得失を前代にみてみると、長い年月を要すれば、堯・舜といった聖君と等しいというべきで、どうして文帝・宣帝と比べて、また自ら及ばないと思われるのでしょうか。思いますに陛下はその志を隠さずありのまま見せられ、文帝・宣帝と等しいとして自らを安心させなければ、大業はなるでしょう」と述べた。
宦官(
田全操)が辺境から戻ってきて、馬を走らせて
金光門に入り、道路で妄言して兵がまたやって来たと言ったから、京師は騒動となって塵がまきおこり、百官はある者は襪(くつした)のまま馬に乗り、台省の役人は次第に逃げ去った。
鄭覃も逃げようとしたが、李石は、「事はまだわかっていないのだから、座してその定めを待つべきである。宰相が逃げると、それは乱である。もし変が不慮の事から出たなら、逃げるのは安全をもたらすのだろうか。人の担うべきところは、たちまちにすべきではない」と述べ、ますます出納簿を治め、泰然とすることは平時のようであった。村々の無頼の者たちは皇城の南を望んで、密かに武器を手にとって変乱を待った。金吾大将軍の
陳君賞が軍を率いて
望仙門に立ち、内使が門を閉じるよう伝えたが、陳君賞は従わず、日没になってから沙汰止みとなった。この時にあたって、李石の沈着、陳君賞の謀がなければ、ほとんど変乱がおこるところであった。
開成の赦令で、京畿に一年間の免租を賜い、方鎮の正・至・端午の三歲の献を停止し、その費用を百姓への配り銭に代えた。天下の薬物・茶果ではないものは、他の貢物をことごとく禁じた。また宣索(財物の徴用)・造営事業を取り止めた。
帝は「朕はその実にあることを務め、空文につかえることを望まない」と言い、李石は、通常時以外の詔令によって
天子が多く決まりを越えてしまっていたことから、そこで「宮中に赦令一通を置き、いつも顧みるようにしましょう。十道黜陟使の派遣を送り出すときに、政治の根本を勅し、長吏とともに施行させれば、病や利益は尽き果てるでしょう」と要請した。
にわかに中書侍郎に昇進した。帝はかつて、「朕は晋の君臣を見るに、平広によって覆滅しており、当時の卿大夫の過ちではないか」と言うと、李石は「そうです。古詩に「人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである」とあるのは、恐れて逢わないことで、「秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦である」とあるのは、暗い時が多いことで、「なぜ明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのか」とあるのは、これを照らすのを勧めることなのです。臣は身命を捨てて国家を助けることを願っており、陛下は詳察して惑わなければ、人を安らかにし国を強くするのに近いのではないのでしょうか」と述べた。また「治世への道を行うには人材を得ることにあります。
徳宗は猜疑心が強く、仕えても昇進への道は塞がれ、奏請してもたちまち従うことはなく、東省は門を閉じること数カ月になり、南台にはただ一人の御史がいるだけでした。そのため河東・河西の諸侯は競って豪傑を引き抜き、兵士で利を喜ぶ者の多くは諸侯のもとに走り、用いられて謀略の主となり、そのため藩鎮は日に日に横暴となり、天子は晩遅く食事をとるほど多忙となったのです。元和年間(806-820)任用される賢人は日に日に広がり、陛下が位を継がれると、有能な賢人を任用して意見を聞かれ、士は皆朝廷にいるのです。彼の領土や兵士はこのようであって、疲労して逆らわずに屈する者は、士は助けることがないのです」と言うと、帝は「天下の勢はなお均衡を保っており、この首が重ければ彼の尾は軽くなるのである。私のために広く士を選ぶなら、朕もまた用いよう」と言い、李石は「咸陽県令の
韓遼が興成渠を修理していますが、渠(運河)は咸陽の右十八里にあたり、左は永豊倉にあたり、秦・漢の時の故漕です。渠が完成すると、咸陽から潼関まで、三百里は車で曳く労がなく、轅下の牛はすべて耕作に用いることができますので、長く秦中の利益となるでしょう」と奏じたが、
李固言は「しかし徴を用いるのにその時期ではないのを心配なのだが、どうするのか」と言うと、帝は、「陰陽に拘畏するというのか。いやしくも人に利益があるのだから、朕はどうして心配しようか」と言い、李石は
韓益を用いて判度支案としたが、収賄によって失脚した。李石は「臣はもとより韓益が財利を知っているので、その貪欲さを保つことはないと思っていました」と言うと、帝は「宰相が人を任用するのに、知れば用い、過ちがあれば捨てるから、これを至公(公正)というのだ。他の宰相が用いるところは、強くその過ちを隠しているから、これは私なのだ」と言った。
開成三年(838)正月、朝廷に参じようとして、馬に乗って
親仁里までやって来ると、盗賊に狙われ、石を射られて負傷し、馬が速かったから、盗賊は坊門で待ち伏せして斬りつけたが、馬の尻尾を切り落としただけで、逃れることができた。
天子は驚愕し、使者を派遣して慰撫し、良薬を賜った。始めて六軍の衛士二十人に命じて宰相に従わせた。この日京師は震撼し、百官で朝覲した者はわずかに十人中一人であった。李石はそこで家で臥せって宰相を辞職することを願い、詔があって中書侍郎平章事の地位によって荊南節度使となった。それより以前、
李訓・
鄭注の乱で、権力は宦官の手中に帰して、天子は脅迫を受け、ほとんど立つことができなかった。李石が宰相に起用されると、身をもって国に従い、近臣を憐れまず、権力の再構築を行い、王室を強化しようとし、権威を復活させた。しかし
仇士良に憎まれ、危害を加えられようとしたから、
帝はそうであることを知ったが、まだどうすることもできず、遂に罷免して去ったのである。見送りの日、宴会や賜い物はすべて欠けていたから、士人は怨み怒った。李石は中書侍郎を譲って、検校兵部尚書に代えたが、他は聴(ゆる)されなかった。
会昌三年(843)、検校司空となり、河東節度使に遷った。ちょうど
潞の討伐にあたって、詔して太原の兵を用いて
王逢の軍を榆社で助けた。李石は横水からわざと千五百人で、別将の
楊弁に軍を領させた。常日ごろ軍は興り、一人あたり二縑を賜って武装させたが、ちょうどその時、財物が不足して支給が半分となったから、兵士は怨んだにも関わらず、また行くよう促したから、楊弁は隙に乗じて軍を激発させて軍乱をおこし、兵を戻して李石を追放した。詔して太子少傅によって分司東都となり、にわかに検校吏部尚書となり、そこで東都留守を拝命した。卒した時、年六十二歳で、尚書右僕射を追贈された。
弟の
李福は、字は能之である。大和年間(827-835)、進士に及第した。
楊嗣復が剣南東川節度使となると、幕府に招かれた。
崔鄲が宰相となると、兼集賢殿大学士となり、引き揚げられて校理となった。藍田県の尉に任命された。後に
李石が宰相となると、李福について人を治めるにたえるべきであるとして推薦し、監察御史から戸部郎中となり、州刺史を歴任し、諌議大夫に昇進した。大中年間(847-860)、党項・羌の侵攻で騒乱がおき、議する者は武臣を任じると貪って敵の怨みを産むから、儒臣を選んで辺境を治めるよう議した。そこで李福に夏綏銀節度使を授け、
宣宗は前殿に御して諭し見送った。李福は善政で有名で、鄭滑節度使に遷り、再び兵部侍郎、判度支に遷ったが、京師から出されて宣武節度使となり、京師に入って戸部尚書に遷った。当時蛮が蜀に侵入したから、李福に詔して持節して使者として宣撫し、そこで剣南西川節度使、同中書門下平章事を拝命した。蛮と戦って敗北し、蘄王傅に貶され、分司東都となった。
僖宗が即位した当初、検校尚書左僕射によって東都留守を拝命し、山南東道節度使に改められた。
王仙芝が山南に侵攻すると、李福は郷里の兵を訓練し、険阻の地で迎えて待ち受けた。賊はあえて入ってこず、転進して岳州・鄂州を掠奪して、江陵に迫った。節度使の
楊知温は救援を李福に求め、そこで自ら州兵を率い、沙陀の勇騎五百を率いて赴いた。賊はすでに江陵の外郭を掠奪していたが、李福がやって来たと聞いて、ただちに逃走した。功労によって検校司空・同中書門下平章事となった。朝廷に帰還すると、太子太傅によって卒した。
李回は、字は昭度で、新興王
李徳良六世の孫であり、本名は李躔で、字は昭回であったが、
武宗の諱を避けて改めたのであった。長慶年間(821-825)、進士に抜擢され、また賢良方正科に対策して優秀な成績で及第し、義成節度使・淮南節度使の幕府に招聘され、しばらくして監察御史に遷り、累進して起居郎となった。
李徳裕は常に見知っていた。人となりは有能で、望むところがあると弁論しないことはなかった。職方員外郎より判戸部案となった。四度職を遷って中書舎人となった。
会昌年間(841-846)、刑部侍郎によって兼御史中丞となった。当時まさに
劉稹を討伐しようとしており、
武宗は河朔の藩鎮が列して密かに盟約して出兵をくじこうとしているのではないかと恐れ、李徳裕は李回を推薦して使者となって持節して
何弘敬・
王元逵を諭させ、「沢潞は京・洛に近く、河北三鎮のように国家は代々土地を子孫に伝えることを許してはいない。また
劉稹父子は功績がなく、道理にもとるのだ。お上は邢・洺・磁の三州を河北とともに境に比定し、軍を用いて魏鎮に便することはない。また王師は軽々しく山東に出ることを望まず、公らと三州を取って天子に報いること願う」と述べると、二将は命を聴いた。また
張仲武に幽州の兵をもって回鶻を攻撃させたが、
劉沔と不仲であった。李回がやって来て、大義を諭すと、張仲武は釈然とし、そこで太原の軍と合同で潞を攻めた。再び李回を使者とし、督戦して蒲東に到り、
王宰・
石雄は矢と弓を収めて道の左に停止したが、李回は行軍を緩めず、左右に顧みて直史を呼んで賊を破るよう通牒したから王宰らは震撼し、六十日を期限として潞を奪取し、そうでなければただちに死ぬものとした。まだ二十日にもならないうちに、賊は平定された。戸部侍郎によって判戸部事となった。にわかに中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に昇進した。
武宗が崩ずると、山陵使となり、門下侍郎、兼戶部尚書に遷った。京師から出されて剣南西川節度使となった。
李徳裕と親しかったから、
呉湘の獄を裁決したが、当時、李回は御史中丞で、糾弾・摘発しなかったのを罪とされ、湖南観察使に貶された。にわかに太子賓客によって分司東都となった。給事中の還制(制書中の過誤を糾弾すること)により、李回を責めるには軽いと言って、遂に賀州刺史に貶された。撫州刺史に遷った。卒し、大中九年(855)、詔して湖南観察使に復し、刑部尚書を追贈された。
賛にいわく、周の卿士は、周・召・毛・原で、皆同姓の国である。唐の宰相は宗室で昇進した者は九人。
李林甫は人を陥れる悪事によって、ほとんど天下を滅ぼすところであった。
李程は柔和で、宰相の位にあっては新たに行うことはなかった。その他は優れた人材であることによって宰相職を称えられ、賢宰相と号された。秦・隋が親族を捨てて賢人を侮ったから、双方二世にて滅んだ。周・唐は人を任用して疑わず、親族の賢人を用いる道を得て、国を受け継ぐこと非常に長かった。ああ何と盛んであることか。
最終更新:2024年12月18日 01:19