郭子儀 かくしぎ
697-781
唐、
安禄山の乱時の名将。華州・鄭県(河南省鄭州)の人。字は子儀。諡は忠武。父郭敬之は各州刺史を歴任した。子儀は武挙に応じて初めから武官として立身し、754(天宝13)年(安禄山の乱がおこる前年)には、天徳軍使兼九原太守朔方節度右兵馬使となった。彼の軍事活動は、安禄山およびその余党に対する時期と、吐蕃侵入に対した時期とに分けられる。安禄山の乱は、いうまでもなく、唐朝の存亡を根底からゆり動かしたものであった。郭子儀は
李光弼とともに、とくに賊勢の強かった河北の地に転戦し、悲運の唐朝を軍事的に支えた第1の功労者であった。安禄山およびその余党の勢力を討つには、中原の賊は一時放置しても、ただちにその根拠地范陽をつくべしとする郭子儀・李光弼・
李泌らの主張は、
玄宗をついだ
粛宗に採用されなかったが756(至徳2)年回紇(ウイグル)の応援を得てようやく長安・洛陽を回復すると、粛宗は卿のおかげで国家を再造することができたと郭子儀の功績を賞した。その後の郭子儀は宦官に排斥されて兵権をとかれ、不遇であったが、次の
代宗朝に吐蕃の侵入が始まると再び活躍した。当時は、吐蕃と連合して
僕固懐恩が反したために、763(広徳元)年10月には代宗は陝州に避難する有様であり、ついで765(永泰元)年には、懐恩・吐蕃・回紇の30万の連合軍が侵入した。郭子儀は、回紇を懐柔してついに主力である吐蕃を大敗せしめ、唐朝の危機を防いだ。徳宗即位(779)ののち、尚父の号を賜い、太尉中書令に昇進した。
参考文献
参考文献 『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2024年08月15日 11:16