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もりりんの頭の中

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sijumatsu

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リーダーもりりんの雑文コーナーです。

【歌詞について普段なんとなく考えていること】 09/12/2009

ストリート・ライブってやつがどうも苦手だ。

地元駅前でよく見かけるパターンは、
アコギ・ジャカジャカ系と、女性ボーカル切々系で、
どっちもオリジナル中心のようなんだけど、
正直、感心したことは一度もない。

特に苦手なのが、その歌われている内容。
いわく「負けないで」「前を向いて」「自分を信じて」「そばについているから」という、
いわゆるよくある“励ましソング”ってやつなのだ。。。

なんかね…稚拙だと思う(ああ~言っちゃった!)。

ええっと、誤解のないように言っておくけど、
ぼくは、こういうポジティブなメッセージ自体を否定しようという気は、ない。

表現の質を度外視して“結論の方向性”だけを云々するなら、
たとえば“苦悩を通して歓喜を得る”ベートーヴェンの作品だって、
ポジティブさを核に持っているという点では
励ましソングと同じじゃないか、という気がするし(笑)。

個人的な好みからいえば、
“白黒くっきり”と“解決する”ものには、
あまり魅力を感じないことが多いのだけど、
ま、それもあくまで趣味の問題だ。

じゃあ、励ましソングのどこに問題があるのかというと、
作品のスケールと、伝えたい主張や物語との間のアンバランスさにあるような気がする。

“3分間ポップス”の中では、そうそう大風呂敷を広げるわけにもいかず、
いきおい観念的な言葉で“物語の上澄み”だけが語られる、
というケースが多くなるように思える。
そして、それはコンビニに置いてあるような“5分でわかる○○の名作”本の類で
あらすじを読まされるのと、似たようなものなんじゃないだろうか。

少なくともぼくは、励ましソングってやつに、
そういう安易さを感じてしまうのだ。

で、だったら、どういう歌詞ならいいんかい?ってことになるけれど、
ぼくは、“大きな物語”を主観的に要約して無理やり3分間に収めるのではなく、
ある“場面”を切り取って、それを生き生きと提示することに専念する、
というアプローチが好きだ。

物語がどう結論するか?は、聴き手が考えればいいことだと思う。

こういう“開いた”アプローチには、
作り手の意図を超えて作品が受け取られる(誤解されてしまう)怖れが往々にあるだろう。
だがそれは、裏を返せば、
再聴するたびに新しい発見や解釈が可能になる、ということでもあるはずだ。

聴き手が大人になるにつれて歌も大人になる、
なんていう楽しみ方が可能であるとしたら、
とってもステキなことだと、ぼくは思うのだけど。。。



【The New Mastersoundsを聴いて思ったこと】 08/15/2008


巷で話題のThe New Mastersounds。
たしかにかっちょいいなぁと思う。

でも…
「まんま」だなぁ、とも思う。
「いかにも」だよなぁ、とも。

オリジナリティってのは
本家本元にない過剰さとか、
勘違いとか、
技術的な限界とか、
要素の置き換えとか、
いろんな原因が重なって「生まれてしまう」ものだと思うけど、
そういう意味では、
いまって、とってもオリジナリティのあるものが
生まれにくい時代なのかもしれん。

だって、その気になれば完コピできちゃうんだもん
(情報量とか技術の進歩とか、いろんな意味で突き詰められちゃう)。
それが幸福なのか不幸なのかはわからんけど…。

で、事情は聴き手の側も変化してきてる気がする。
ひと昔前なら、この手のニューカマーを評して、
「これを聴かなくっても○○とか○○(←オリジネイター)を聴いてればいいんじゃん」
みたいな物言いをする人っていたと思うけど(オレか?)、
いまはそういう物差しってあんまりはやらないというか。

ポップ・ミュージックはもはやポップでもなんでもなくて、
一部の好事家に向けた伝統芸能と化しているのかもしれん。

ま、もしそうだとしても、それがむちゃくちゃイヤなわけでは…ないんだけどね、ぼくも。。。



【類は友を呼ぶのか?~バンドやろうぜ!編】 10/25/2005

“類は友を呼ぶ”と申します。

バンドのメンバーにたとえていうなら、
“似たような音が好き”な連中がいつの間にか集まって……とか、
まぁ、そういったことですな。

でも、バンドのメンバー集めの場合、実は、
大切なのは音楽性だけではなかったりする!ので、
難しかったりもします。

たとえば、以下のようなケースを想像してみてください。

《同じキース・ジャレット好きのAさんとBさん》
Aさん
―愛読誌は『ビッグ・トゥモロウ』
―「オレ様の判断で○○万のカネが動く。あいつら“兵隊”とは仕事の内容がちがうからさ」が自己紹介の定番フレーズ
―サマーカジュアルの間もスーツ。で、ズボンにはなぜかサスペンダー
―「これ○○してね、シルヴプレ」というミョーなおやじギャグが好き
―飼い猫に「茶々(サティーと読む!)」と名付ける
―キース・ジャレットのソロ・ピアノが好き。でも実は『ケルン・コンサート』しか聴いたことがない

Bさん
―愛読書は“フランス書院”
―「人生に必要なことはすべてクレイジー・キャッツから学んだ」が自己紹介の定番フレーズ
―その日着る服は、毎朝匂いを嗅いでチョイス
―「これ○○してね、よろちくび」というミョーなおやじギャグが好き
―飼い猫に「イヌ」と名付ける
―音楽はいなたいやつ全般。最近『フェイシング・ユー』の1曲目を聴いて、キース・ジャレットも好きになった

……2人とも鍵盤じゃ、バンドになんないだろ!
というツッコミにはとりあえず耳を貸さないことにして、
ね、音楽性の一致(?)だけじゃ、
ちっともうまくいきそうな感じ、しないでしょ!?

というか、好きな音楽になんらかの接点があったとしても、
人間的に合うかどうか?はまた別問題なんですね。
音楽の趣味も人間的な気質もピッタリ!
なんてのは、ほぼ、あり得ないでしょう。

ま、上記のような例は論外ですけど(笑)、
“似たもの同志”と言われる間柄でさえ、
微妙にちがうのが人間というもの。

でも、そこがまた面白くもあり、という気がする今日この頃です。

(mixi「みんなでしりとりお題日記」コミュ お題「類は友を呼ぶ」)



【いなたい音楽が好き!】 10/16/2005

いなたい音楽が好きだ。

ぼくにとっての“いなたい音楽”というのは、
オーセンティックな音楽、といいかえてもいい。

オーセンティックである、ということは、
確固たるバックボーンを持っている、ということである。

それは“帰るべき民族的コミュニティを持っていること”
ともいえるだろう。

ブルースしかり、ジャズしかり、
ラテン・ミュージックしかり、である。

彼らがたとえば
「このフレーズは、ただ演奏するだけじゃダメなんだ。
そこに魂をこめないとね」
と言ったとすると、
そこには不思議な説得力が生まれたりする。

対して、現代に生きる日本人の場合は?というと、
……残念ながらそんな土壌は、ない。
上記のようなセリフを口にされようものなら、
とてもじゃないが胡散臭く感じられてしまうだろう。
な~に言ってんだ、こいつ!てなもんである。

それはたぶん、ぼくらが音楽を“情報”として
“お勉強”してきたからだろうと思う。
生活に密着した文化として受け継いできたものなんて、
ことポピュラー・ミュージックに関しては、
ぼくはまったく見いだすことができない。

だからこそぼくは、
いなたい音楽にどうしようもなく惹かれてしまうのだ。

そして同時に、帰るべき場所のないぼくが、
それなりに誠実なやり方で音楽に取り組むとしたら、
どうすればいいんだろう?と考える。

所詮フェイクである自分が、
“すでにいろんなことがやりつくされているんだなぁ”
ということを日々思い知らされながら(泣)、
それでも、いじけずに、あざとくなることもなく、
あらためて耳を傾けるに値するものをつくるには
一体どうすればいいんだろう?と。

……なぁんてね。
いや、最近スランプで曲がかけないんですね(爆)。
けっこうヒマなんだけどな。

肝心の技術はちっとも上達しないのに
言い訳のレトリックだけが先走っていくのって、
ニューウェイブ世代のひ弱さの現れのような気もするなぁ……。

とほほ。

<追記>
1000枚のCDを持っている人よりも、
1000の曲をソラで歌ったり奏でたりできる人のほうが
ずっと音楽的だよなぁと思ったりする今日このごろ。
あ、日記の本文とはあんまり関係ないですね……。
いや、あるのかな?

(mixi「みんなでしりとりお題日記」コミュ お題「帰る」)



【『ラーメン発見伝』を深読みする】 09/08/2005


「つまりオマエはラーメンの知識も技術も豊富なだけに、
 何らかのテーマを与えられたら
 相当なレベルでこなすことはできる。
 だが、今回オレがしたように
 自らテーマを生み出すことはできない。
 前回のようなラーメンしかできない……
 どうしてだと思う?」
「ど、どうしてって……?」
「要するに、オマエには本当に作りたいラーメンがないんだよ!」
「!!」

~『ラーメン発見伝』(作:久部緑郎/画:河合単) 第10集収録作「自分のラーメン」より~

*****************************************************************
『ラーメン発見伝』というマンガが好きだ。
面白いと思う。
しかも、深い。
ラーメン好きのみならず、全クリエイター必読!?といえるだろう。

たとえば冒頭のネーム、
ここで“ラーメン”を“音楽”などの言葉に置き換えてみるといい。
おおぉぉぉ!!!!ってな感じである。

なにかを作り出す、というとき、
―やりたいこと
―やれること
―やらなければならないこと
の3つがうまくバランスをとれているといいのだけど、
実際にはそんなケースは滅多にない。

たいていは、
コンセプト自体は魅力的なのに、それを実現する力がプアだったり、
いろいろこなせるがゆえに方向性が定まらない器用貧乏だったり、
あるいは需要がなくて日の目を見なかったり、
である。

しかも、どの場合も、
当人はそのへんについて、てんで無自覚!
なんてことが少なくないから……痛い。

だから、いざ指摘されると、
ガ~ン!っと打ちひしがれてしまったり、
逆に意固地になってしまったり、ということにもなる。

『ラーメン発見伝』の主人公(器用貧乏タイプ)の場合は、
「自分の原点を見つめ直す」ことによって立ち直っていくんだけど
(↑いかにもマンガだ! でも、説得力はある)、
現実はねぇ……。

どこに転んでも“○○貧乏”ってのはしつこくつきまとうような……

う
ぅ
む
!

……ま、それはそれで、意外に楽しかったりもするんだけども。

(mixi「みんなでしりとりお題日記」コミュ お題「貧乏」)



【リドル・ストーリー】 08/06/2005

「彼」は作家の卵。

大学卒業後、出版社勤務を経て、
フリーター生活の傍ら、
いくつか物した習作を引き出しにしまい、
やっと納得のいく作品をひとつ書き上げる。

奇をてらったところのない
洗練された作風ながら、
そこはかとなくただよう嫌みのない捻りと毒が、
作者の底力を十分に感じさせる一編。

「彼」はそれをいくつかの版元に送ってみる。

するとやがて、
「彼」の作品に興味を持った
ふたつの版元からメールが届く。

A社は、一流一歩手前という感じの中堅出版社。
そこの編集者は「彼」に
「あなたの作品には職人的な筆力と
 感覚的な新鮮さの両方を感じます。
 が、このままの状態では、
 作品としての“打ち出し”が弱いという懸念もあります。
 もっと万人にわかりやすい、フックが欲しいところです。
 つきましては、わが社の○○誌に、
 もう少しメリハリの効いた派手な作品を
 2、3商業ベースで連載していただいて、
 ある程度、作家としての地位を固めたあと、
 今回送っていただいたようなものを
 満を持して発表……というプランを
 当方では考えております。
 いかがでしょうか?」

編集者のいわんとすることは「彼」にも理解できる。
が、しかし、“わかりやすさ”と
「彼」本来の洗練された持ち味とを
良い形で両立させることがきわめて困難であろうこと、
そして、そのとき犠牲になるのは、いったいどちらなのか?も、
「彼」には容易に予測することができた。

一方B社は、いわゆる三流出版社。
この版元の書籍を一般の“街の書店”で見かけることはかなり珍しい。
そこの編集者は
「センセイの作品は……懐かしいけど、新しい!
 なんだかよくわかんないけどイイっすよ。
 もう、すぐに発表しちゃいましょう」

「懐かしいけど、新しい!」という持ち上げられ方には
かなり気をよくした「彼」であるが、
B社がこの不況のなか、つぶれもせずに続いているのは、
オカルトやダイエットをネタにした“トンデモ本”のおかげである
というあまり歓迎できない事実も、また知っていた。

とはいえ、
「彼」には4年間にもなるフリーター生活を影で支えてくれた
ある女性との関係もあり、
この機会を見逃して、新たな作品で再度勝負に出る!という余裕は
現実的には、ない。

賽はいま、投げるしかないのだ。

熟考に熟考を重ねた末、
「彼」はメールの返事を書き始める。
そこには……

<追記>
どっちを選ぶでしょうね? こういう場合って。
あなたならどうします?

(mixi「みんなでしりとりお題日記」コミュ お題「賽は投げられた」)



【魂のゆくえ】 07/09/2005

きのうの夕方、とある店の中で、
流れているFMを何気なく聴いていると、
“フェンダー・ローズをバックに
和製ソウル・シンガー(女性)がせつせつと歌う
デュオ・ライブ”みたいなプログラムをやっていた。

ローズもボーカルもなかなか巧くて、
細かいフレージングまで雰囲気たっぷり。
曲はオリジナルらしく、日本語詞なのだけど
(ただし、いたるところに英語のフレーズが混じる)、
まるで本物の黒人のよう。
いかにも“yeah!な感じ”である。

でも……
いや、だからこそ、なのかな……、
ぼくはこの手のパフォーマンスがどうも苦手だったりする。

引いてしまうのだ……。

ソウル・ミュージックそのものは大好きなのに、である。

これはいったいどうしてなのか?

……なんていうと大げさだけど、
ここで、ちょっと“逆の構図”を思い浮かべてみる。

たとえば、
アメリカの黒人が和服を着て、
日本語フレーズ混じりの英語で、
オリジナルの「○○節」みたいなのを
コブシをコロコロまわしながら歌っている図……。

想像しただけで、実にモンドでしょう!?

それと同じなのかも。

たぶん、ぼくはそういうモンドなものを
ニコニコ楽しめるほど、
聴き手として大人ではないってことなんだろう。

困ったものだ(笑)。

yeah!と盛り上がれたら、楽しそうなんだけどなぁ……。

<追記>
ぼくがザ・バンドやジェームス・テイラーに惹かれるのは、
彼らの音楽に、黒人のそれとは違う
“ホワイト・ソウル”とでも呼ぶべき何かが
聴きとれるからだ、という気がする。

では“ジャパニーズ・ソウル”は?というと、
個人的には、残念ながら、寡聞にして知らず、というしかない。

“やっぱり日本人は太鼓のアンサンブルでしょう!”
みたいなパターンにもついていけないものを感じるし……。

重ね重ね、困ったものである(苦笑)。



【ジャズって苦手なんです!】 06/06/2005

imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (giant steps.JPG)
「ジャズって苦手なんです!」という人、
けっこういますよね。

ジャンルにこだわらずに、わりといろんな音楽を聴くけれど、
ジャズだけは聴かない、みたいな方。

で、そういうジャズ嫌いな方々に
もっとも縁のなさそうな1枚が、
ジョン・コルトレーン『ジェイアント・ステップス』。

ハード・バップからフリーへ至る途上、
モード初期のコルトレーンを捉えた60年録音の名作です。

内容は……ゴリゴリにして、超ハードバイルド(笑)。

たしかに、饒舌に音符を敷き詰めるトレーンのスタイルは
好き嫌いが分かれるところですが、
圧倒的なアドリブだけが彼の音楽性のすべてではありません。

たとえば、ツー・ファイブの手法。

1:C→C→F→G7
2:C△7(9)→A7(b9, b13)→Dm7(9)→G7(b9, b13)
3:C→Eb→Ab→Db
1が基本となるコード進行だとすると、
2は“だれもがジャジィだと感じるような”リハーモナイズの例
3はトレーン以降に一般化した手法
といえます。

3の特徴は、テンション・ノートに頼ることなく
洗練された、しかも意外性たっぷりのハーモニー感を
醸し出している点にあって、
それにはダイアトニック圏外にあるコードを
大胆に活用していることが、大きく関係しているのですが……。

しかも、上記のようなハーモニーのつなぎ方には、
曲の調性を曖昧にする働きもあったりします。
解決の持っていき方がちっとも大げさにならず、
粋で、かつスリリングなんですね。

『ジャイアント・ステップス』の表題曲なんて、
部分転調の嵐のような作風で、
バップ以前のジャズしか知らない人が聴いたら
口アングリになりそうな猛烈なナンバーですが
……いまの耳で聴いても実に新鮮だったりします。

こういうハーモニーのつなぎ方の手法が
ジャズのアドリブ手法のバックボーンとしてのみ機能し、
作曲の技法として他ジャンルの音楽に影響を及ぼさなかったことは
とんでもなくもったいないことだったかもしれません。

すご~く“ポップ”な響きがたくさん詰まっている
と思うんですけどねぇ……。



【アナログ vs デジタル】 04/29/2005

「あなたはアナログ派? それともデジタル派?」
みたいな問いかけ、よくありますよね。

でもって、大抵は、
アナログ:アナクロ、不便、でも暖かみがある
デジタル:最先端、便利、でも冷たい
というお決まりのイメージが引き合いに出されて、
「だけど、わたしはアナログも捨てがたいと思う」
という、これまたお決まりのセリフが出てくるんですけど。

ま、上記のようなイメージ論はさておき……。

そもそも、このふたつの言葉の本来の意味は、
アナログ:連続的な“量”の概念
デジタル:不連続的な“数”の概念
といったところ。

たとえていうなら、
アナログ:すべり台
デジタル:階段
となるでしょうか。

う~む。
語源と、実際的なイメージとの間に
ここまで飛躍があるというのは、かなりすごいことですね。
そもそもは、シンプルに“表示の仕方のちがい”
ということだと思うんですが……。

とはいえ、このふたつ、やはり対照的ではあるでしょう。

本来アナログ的なものである
“自然現象”“感情”などなどを
他者に伝えるうえで、活躍するのが
“記録”“言葉”などのデジタル的手段
……といったふうに。

でも、そう考えてみると、デジタルって
きわめて“人間的”な概念であるような気もしますね。

というか、人間はみんな
その人なりのAD/DAコンバータを持っていて、
それによってコミュニケーションをしている
という言い方もできそうです。

つまり、
表現:デジタル←→解釈:アナログ
という構図。

でもって、コンバータの性質のちがいによって、
思わぬ誤解が生じてしまったり(笑)。

いや、ときには笑えないこともありますが……。

ただし、
人間の持っているAD/DAコンバータは、
経験や学習によって、
スペックを向上させることができそうなので、
そこが救い、というか、面白いところなのかも。

昔好きだった本を
歳をとってから再読すると、
またちがった感情が引き出されたりするのは、
その辺が関係しているのかもしれません。

<追記>
音楽に関していえば、
演奏:アナログ
作編曲:デジタル
って感じでしょうか?

どう思います?



【ディシプリン】 02/22/2005

今年に入ってから、ときどき
「HANON」をさらったり、いろんなキー/リズム/テンポでブルースやモードを弾いたりして、
指のトレーニングをするようになりました(以前はまるで練習しない人だった!)。

ぼくは11歳のときにクラシック・ピアノをやめてしまって、
あとは完全に自己流でやってきたんですが、
やっぱり技術的な面で限界を感じることがありまして……。
というか、自分のボキャブラリーの幅の狭さが、ときどき情けなくなってしまうんですね。

「テクはなくてもセンスで勝負!」なんて言う人はたくさんいますが、
そういうことを公言して開き直ってしまう人が、
本当にセンスのいいプレイヤーであったことは、ほとんどないような気がします。
センスって日々の修練のなかで無意識のうちに形成されていくものだと思うし。

いろんなボキャブラリーを知っていた方が、
自分のなかの表現したいものをより表現しやすいのは当たり前のこと。
流暢にしゃべれるにこしたことはありません。

え? レトリックだけで中身の弱い人っていうのも世の中にはたくさんいるだろうって?

それはそうなんですが……もったいないですよねぇ。
でも、一度そういう境地になってみたい気もします(笑)。
空虚な饒舌って、なんだか本人はとても楽しそうだし。
ま、ぼくには縁のない世界ですけど。



【ブルースの謎】 02/13/2005

imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (feel like going home.JPG)
きのう吉祥寺バウスシアターのレイト・ショーで、
マーチン・スコセッシ監督『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』のリバイバル上映を観た。
昨年夏に順次公開されていった“ザ・ブルース・ムービー・プロジェクト”の1作である。

この映画の特徴はなんといっても
“ブルースのルーツを辿って西アフリカへ……”というコンセプトにある。
案内役のブルースマンは映画の終盤でサリフ・ケイタにめぐり会うというのだからちょっとすごい! 
ブルースを情緒的な解釈のもとに受け入れ、楽しむ、ステレオタイプな日本のファンの多くは、
さぞかし面食らったことだろうと思う。

ぼくはというと、面食らいこそしなかったが
(ブルースのルーツを辿ってアフリカへ、という道筋は一応は納得できる)、
やはり違和感は感じた。

ギターの弾き語り形態などを基本とするブルースと、
“笛やタイコなどによるヴァンプ”というアフリカ音楽によくみられるスタイルとの間には、
大きな断層が存在するように思えてならないからだ。
両者の間には個人の音楽と部族の音楽、ケの音楽とハレの音楽という違いもあるような気がする。

問題は、この差異がどのようにして生まれていったか?ということなのだが、
映画の中ではそのへんについての言及はまったくない。

ぼくは、
―ブルースの12小節様式はいったいどのようにして生まれたのか?
―ブルースのコード伴奏にトニック=7thコードを用いるようになったのはなぜか?
(ちょっと専門的な話になるが、ブルースの旋律で使われるペンタトニックのなかのb3rd音と、
 7thコードのなかの3rd音とは半音でぶつかってしまうのだ)
―アフリカ起源のポリリズムは、なぜブルースでは見られなくなったのか?
といったことに、とても興味があるのだけど……。

ほんとうに突然変異といっていいくらいの変化だと思う。
キューバやブラジル音楽の多くに西アフリカの痕跡が意外にはっきりと聴き取れることを考えると、
なおさらその感が強まる。

ついでにいえば、
“語り部、お囃子に、笛&撥弦楽器&タイコなどによる伴奏”という形態による“部族のヴァンプ”は、
アフリカに限らずアジアにも広く存在する(もちろん日本の民謡にも!)。
そのへんの共通性というかグローバル性も、
ぼくにとっては実に興味深い問題だったりするのだが……。
う~ん、だんだんとんでもない話になってきたぞ。

閑話休題。

ま、そんなこんなで、
ブルースはぼくにとってたいへん謎の多い(=興味の尽きない)音楽である。
映画を観て、そのことをあらためて認識した次第。



【キーボード・セッティングを考える】 10/24/2003

キーボードをステージにセッティングする際、
もし目立ちたがり屋さんならどうするか? 
まず考えられるのが、
前方に出てきて、なおかつ機材の背を客席に向けて
(つまり、客席からプレイヤーの姿が正面に見えるようにして)セットするパターン。
いかにも“どーだ!”って感じである。
でもこれ、実は冷静に客席側から見てるとあまりかっこいいものではない。
なぜなら、機材が邪魔になってプレイヤーの手元が見えないから。
演奏者が何を弾いているかよく“見えない”のに、
陶酔した表情だけがよく見えるってのは、けっこう不気味なものである。

そこで代わりにお薦めしたいのが、
機材の背をステージ中央に向けてセットする方法。
この場合、プレイヤーは客席から見ると横を向くことになるが、
手や腕の動きをアピールできる点は、なによりもまず優先すべきだろう。
極端な話、たとえばミニムーグやアープ2600のような楽器で“つまみの操作をアピールしたい”なら、
いっそのこと機材をステージ後方の壁に向け、
プレイヤーが客席に背中を見せるのだって筆者はアリだと思う。

“出音”と“プレイヤーの動作”が一致してはじめて
ライブ・パフォーマンスならではの臨場感やナマっぽさが生まれる、という意味では、
“視覚的ダイナミクス”に乏しいキーボードは、
他のパートに比べてもともとかなりのハンディを負っている。
ならばどうするか? 
まずは楽器のセッティングからじっくり考え直してみてもいいのではないだろうか。



【キーボーディストが目立つには?】 10/24/2003

のっけからナンだが、
一般的に言って、キーボーディストというものはバンドの中では地味な存在である。
セッティングはステージ後方、しかも端っこに追いやられるのが常。
メンバーからは
「ここピアノ、ここはブラスで、サビはストリングスも一緒にやってね。
あと、ギター・ソロの前に効果音よろしく!」
なんてムチャな注文をつけられたりする。
いつも重い機材を持ち運び、セッティングだってひと苦労だ。
そ・れ・な・の・に……求められる役割は単なる“味付け”。
これじゃあ、やってられん!てなもんだろう。

では、この状況を打破し、
キーボーディストがそれなりにかっこよく目立つにはどうしたらいいだろうか? 
その方法を、独断と偏見を交えつつ考えてみた。

●方法その一:コスチュームに凝る。派手なアクションを取り入れる。

これはだれでも考えるパターン。目立つことは目立つだろう。
でも、バンドのキャラクターに合わないと“単に浮いてるだけ”ってことになりかねないし、
バンドのキャラに合ってれば合ってるで“みんなが派手だから結局目立てない”ってことになる。
というわけで、これはとりあえず却下。

●方法その二:馬鹿テクをアピールする。

素質と努力次第では可能な方法である。しかし、落とし穴はある。
苦労して馬鹿テクをモノにしたとしても、
聴き手に“だからどうしたの?”と思われるようでは、それでおしまいなのだ。
つまり“音楽的必然性があったうえでの馬鹿テク”でなければ意味がない、ということ。
それに通常、リスナー側は“馬鹿テクなフレーズ”よりも
“キャッチーなフレーズ”のほうに、より反応したりするもの。
なので、ここでは“方法その三”へ進んで、この“キャッチーなフレーズ”ってやつを考えてみよう。

●方法その三:曲自体の印象を決定づけるような、キャッチーなリフ、パターン、イントロなどを弾く。

これに関しては、実例を挙げていったほうが手っ取り早いだろう。

<ピアノ~エレピ編>
1.「What'd I Say」Ray Charles
  wurly=レイ・チャールズ/収録アルバム=『What'd I Say』/1959年
  http://www.youtube.com/watch?v=xPP8w0wMRgQ

2.「Mais Que Nada」Sergio Mendes & Brasil'66
  pf=セルジオ・メンデス/収録アルバム=『Sergio Mendes & Brasil'66』/1966年
  http://www.youtube.com/watch?v=9U1v01SGtGE

3.「Feelin' Alright」Joe Cocker
  pf=クリス・ステイトン/収録アルバム=『Mad Dogs & Englishmen』/1970年
  http://www.youtube.com/watch?v=XPrTDAEj79Q

4.「I Feel The Earth Move」Carole King
  pf=キャロル・キング/収録アルバム=『Tapestry』/1971年
  http://www.youtube.com/watch?v=-JYkQo1Qxt0

5.「Right On」Marvin Gaye
  pf=マーヴィン・ゲイ/収録アルバム=『What's Going On』/1971年
  http://www.youtube.com/watch?v=Vh9tU8O1LfY

6.「Do It Again」Steely Dan
  wurly=ドナルド・フェイゲン/収録アルバム=『Can't Buy A Thrill』/1972年
  http://www.youtube.com/watch?v=tgYuLsudaJQ

7.「Living For The City」Stevie Wonder
  rhodes=スティーヴィー・ワンダー/収録アルバム=『Innervisions』/1973年
  http://www.youtube.com/watch?v=ZRT3Te21sXM

8.「Wake Up And Make Love With Me」Ian Dury
  pf=チャス・ジャンケル/収録アルバム=『New Boots And Panties!!』/1977年
  http://www.youtube.com/watch?v=c-VeOakGGPQ

9.「What A Fool Believes」The Doobie Brothers
  pf=マイケル・マクドナルド/収録アルバム=『Minute By Minute』/1978年
  http://www.youtube.com/watch?v=XZ2ZgA3S_rc

10.「Airhead」Thomas Dolby
  pf=トーマス・ドルビー/収録アルバム=『Aliens Ate My Buick』/1988年
  http://www.youtube.com/watch?v=96bsUwvoHxc

<オルガン編>
11.「Gimme Some Lovin'」The Spencer Davis Group
  hammond=スティーヴ・ウィンウッド/収録アルバム=各種ベスト盤/1966年
  http://www.youtube.com/watch?v=VxA3atHD2QM

12.「Light My Fire」The Doors
  VOX=レイ・マンザレク/収録アルバム=『The Doors』/1967年
  http://www.youtube.com/watch?v=flOvM4Z355A

13.「Hope You're Feeling Better」Santana
  hammond=グレッグ・ローリー/収録アルバム=『Abraxas』/1970年
  http://www.youtube.com/watch?v=P_vJBz2_LtE

……キリがないのでこのへんにしておこう。各曲解説は省くが、こうやって挙げてみると、
<ピアノ~エレピ>バッキング・パターンで勝負
(ただし、このパターンがまんまイントロになってることが多い)
<オルガン>独自のイントロ・フレーズで勝負
という構図が見えてきて面白い。

あと、“曲そのものの印象を決定づけるようなパートを担う”ということは
“味付け的な役割を放棄する”ということにもつながる
(人間、手はふたつしかないんだから当たり前だ)。
要は、便利屋じゃないんだから管や弦の“代役”なんてやんないよってこと。
メンバーから「ここでシンセ・ブラスを……」と言われても
「芸風じゃないから」とひとことで済ませる。
となると必然的にセッティングもシンプルになるし、移動だってラクになるだろう。
ただし、一緒に演奏する仲間は選ぶようになるかもしれないが……。

●方法その四:自分より目立つパートを排除する。

もしどうしても“オレがイチバン”を目指すなら、この方法しかない。
“方法その三”を駆使しても、やっぱり最も目立つパートはボーカルだったりするからだ。
なので、ボーカルは排除。インストをやる。
テーマのメロディは当然キーボードで、というわけ。
ピアノでリリカルにやるのもいいし、オルガンでファンキーに迫るのもいい。
これなら絶対目立つだろう。

ただし、当然のことながら、
フロントを張れるだけのテク、センス、キャラが要求されることは言うまでもない。
それに、歌モノよりもインストのほうがずっとマイナーなスタイルであることも
否定できないところだろう。

じゃあ、どうするか? 
フロントにボーカルを立てたまま、
やつらをできるだけ目立たなくさせるような(苦笑)手はないものか? 
これが実はなくもない。
“ボーカル・パートにダブルやコーラスを多用する”というのがその方法。
たとえば、女声ツイン・ボーカルをフィーチャーしたセルメンのブラジル66やシックなんかがいい例だ。
こういう編成だと、個々のボーカリストのキャラクターはどうしても曖昧になる。
よってその分、演奏パートへの注目度は高まることになるだろう。

しかし、この“方法その四”、発想がどうにもネガティブである。
“そこまでして目立ちたいんか!? ”という声も聞こえてきそうだ
(筆者もそう思う。書いててなんだか哀しくなってきた)。
なので、今回はこのへんで……失礼しましたっ!











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