――行こう、れいむ。
その日、私は夜中にこっそり家を出た。
お供するのはれいむと心細さと高揚と、それ以外の全部を埋める胸に満ちた感情。
行く当てなんて何処にも無い。
ただなんとなく、でも無性にそうしたい気分になったから。
自転車の前カゴにれいむを乗せて、おっかなびっくり夜道を行く。
こんな時間に一人で出歩くなんて、生まれて初めて。
どうしたものか、そう思う間にも、考えるより早く、私の体はいつもの道を歩き出す。
家を出て、市街地とは反対側へと向かい、川沿いの堤防を通ってのんびり歩く、れいむと私の散歩コース。
初めてなのに平凡などと言うこと無かれ。
変わらない日常と言うのはとても大切で、いとおしい。
静かな夜だ。
幹線道路からは離れているから、通る車も今は無い。
からからと、ちょっと古びた自転車の音でさえも、今は世界を満たすみたい。
れいむはじっと眠っている。
出掛けにちらりと見た時計の針は、午前3時。
でも、別にいい。
一緒に居てくれれば、それでいい。
ゆっくりが、ゆっくり眠っていて何の問題があるのか――
そんな思考につられるように、私の足も知らずのうちにゆっくりと。
小さなおばあちゃんがいつも座っている小さなタバコ屋を越え、それでも足は遠く、さらに遠くへ。
見上げた夏の夜空は雲ひとつ無い。
コンビニですらもここから遠く、工場なんかも反対側。
人工の明かりに遮られる事無い夏の星は、本当に綺麗。
何処までも広く、全てを飲み込むように深く、遠く在り続けているようにも見え。
あるいは星にさえ手が届きそうな程に近く、全てを閉ざすように狭くも見え。
明かりの少ない夜の空は境界線があいまいで、そんな矛盾を私の心に植えつけていく。
空を彩る無数の瞬き、夏の星座。
れいむはゆっくり寝るのが大好きだったから、夜更しなんかしたこと無い。
いつだって、どんなときも、早寝遅起。
もしかしたら、こんな夜空を見せるのは初めてだったろうか。
そんな事さえ埋もれて思い出せないくらい、当たり前のように過ぎていく毎日。
一際輝く三つの星は、夏の大三角形。
鷲と白鳥、それに琴。
織姫様と彦星だ。
真っ赤に輝く大きな星は、サソリの心臓、アンタレス。
そこから天の川を通って、W字をしたカシオペアと、誰でも一度は目にするだろう柄杓型の北斗七星。
それぞれの、ある星同士を結んだ距離を5倍と7倍伸ばしてみれば、北天に閃くそのものずばり北極星が静かな光を放っている。
ぐるりと首をめぐらせて見れば、低くではあるが秋の大四辺形の姿も見え始めている。
夏の空は、沢山星座がある時期――らしい。
そうは言っても、特別興味を持たない私が知っているのはそんな有名どころくらいだ。
それでも、見上げながらわかる範囲で、れいむに聞かせるように指折り数え、時には指差し。
市街地に比べればとても間隔の広い街灯の下を、増えだした羽虫を避けつつ、川の方へ。
次第に強くなりゆく草の匂いとせせらぎの音。
虫の姿が目に付きだすのもその所為だ。
秋の気配はまだまだ遠いが、虫の声は賑やかしいを通り越して、騒々しいと言った方が近い。
人が駆逐された夜の野の、人口の音より遥かに大きな、虫達が奏でる命の音色。
でも、この大合唱も、あと少しで一旦お開き。
数時間後に控える夜明け。
それ故逆に、今は一番闇が濃い時間。
数年前に舗装されて、人も獣も歩き易くなった道を川に逆らうように上がって行く。
緩やかな弧を描いて、ずーっと続く道はれいむお気に入りの散歩道。
確かに、機能上周囲よりも高くそびえる堤防は、れいむ達の体高でも充分に周りを見渡せる見晴らしのいい場所だ。
転がり落ちるのも好きだったけど、普段見慣れぬ高さからの光景は、昼と同じ様に今も吹きぬける風と相まって、さぞ心地がいいものだったのだろう。
ここら辺りまでやってくると、人が作った光も遠く、街灯さえも見当たらない。
細長く闇を切り裂く自転車のライトだけが、私達の先行きを照らす道しるべ。
川と、虫と、風が渡り、そよぐ草木の葉ずれの音と。
何者の手も入らない、自然が奏でる微かなアンサンブルを堪能しながら、これで散歩道は大体半分。
もう少し歩いた先には、河川敷へと降りる道。
広大な敷地の河川敷公園は、人も獣もゆっくりも、みんな揃って遊べる憩いの場。
ただ、残念な事に――当然といえば当然だが――この時間、場内の明かりは落とされている。
さすがに真っ暗闇の中はおっかないから、降りて行くのは止めにして、横目に見ながら通り過ぎる。
唯一灯る、入り口近くの管理小屋のすぐ脇にある常夜灯。
その下にぽつんと置かれた、おもちゃのスコップとゴムボールだけが昼の名残。
うだるような真昼の熱も、流石にこの時間まで留まっていることはない。
――楽しかったねぇ。
本当に、とっても楽しかったねぇ。
――――あ。
いけない。
そんなつもりじゃなかったのに。
追いつかれる。
キィ、と、ブレーキの音を軋ませて。
タイヤの動きに制動をかけてサドルに飛び乗ると、腰を下ろす事無く一気にペダルを踏み込んだ。
風が、速い。
粘りつくような温い空気も、何もかもが飛んでいけと。
付いてくるな。
耐え難い何かから逃れるように、沸き立つものを振り切るように、ぐんぐんと、ぐんぐんと。
真っ直ぐに、ただただひたすら。
矢の様に、れいむと私は堤防の上を一直線に駆け抜けて行く。
本当は、そんなつもりじゃなかったのだ。
長い道を、ゆっくりと、ゆっくりと。
れいむと一緒の散歩を楽しむつもりだったのに。
でも、私はもうあそこにはいられない。
あそこにあるのは夢の残り香。
一夜だけの旅、短い短い夏の夜に想う、果てなく尽きる事の無い記憶。
でも、旅には必ず終わりがやってくる。
ましてやこれは散歩だから。
旅の終わりがどこかなんて分からないけど、散歩の終わりは決まっている。
散歩の終わりは始まりの場所。
――ああ、もう家が見えてきた。
長い旅の最後の短い散歩。
私とれいむがこの道を並んで歩く事は無い。
これもひとつの終わり。
物事には、何事もいつか必ず終わりがやってくる。
その中の一つを知って、私は今日、一つ大人になったのだろう。
こんな事を誰かに言ったら絶対に怒られるけど、“それ”はきっと、お婆ちゃんかお爺ちゃんが私に教えてくれる事だと思っていた。
でも、私にそれを教えてくれたのは。
気が付けば、私の足にさっきまでの勢いは無い。
漕ぐ力も無く、いつの間にか地に下りて、のろのろと這いずるように、自転車に引きずられるように。
嫌だ。
帰りたくない。
でも、このままじゃいられない。
止まってしまえばいい。
でも、止まってはいけない。
止まれない。
止まらない。
家が近づくにつれ、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
重苦しい思考の渦に引かれ、俯いた先でざか、ざり。
合成樹脂の靴底がアスファルトに削られる。
行きと違い、その音が、嫌に大きく耳に付く。
道行きは、あと二つ。
目の前の街灯を曲がり、小さな橋を越えた十字路を右に曲がれば――
パパもママも、お姉ちゃんも。
みんなが玄関に出てきていた。
――ただいま。
門扉を置いて、3メートル。
私の言葉が合図のように、お姉ちゃんが飛び出してきた。
いつもきつい化粧に派手な洋服。
世の中楽しい事ですって風なお姉ちゃんだけど。
今は何もへったくれもない、まるで寝不足のトナカイみたい。
こんな顔を見るのは、久しぶりかもしれない。
ばか。
それだけ言って、お姉ちゃんは自転車のカゴからそっとれいむを取り抱いた。
――ごめんなさい。
お姉ちゃんの言う通り。
こんな夜中に黙って出て行くのは、一般的には悪い事だろう。
事情はさておき、心配をかけたことには違いない。
でも、怒ってるかなって思ったけれど、パパは何も言わなかった。
ただ、小さく頭を小突いたあとに、不器用そうに髪をぐしゃぐしゃ引っ掻き回して。
黙ったまんまで、家の中に入っていった。
ママがそっと出してくれたハンカチを、いらないの一言で切り捨てて、私もさっさと家に上がる。
長い散歩はこれで終わり。
寝て、起きて、目が覚めれば新しい一日の始まりだ。
昨日までとは違う、新しい一日。
そうか、今日はこれで終わりなんだ。
日付はとうに変わっている。
そんな事、遠足だとかお泊りだとか、楽しい時しか考えた事なかった。
ああ、今が夏休みで本当に良かった。
運良く学校の仕事も入っていない。
こんな状態で学校なんか、行けっこないに決まってる。
何やってるの。
ママの声で、我に返る。
私が思う以上に私はぼんやりしていたらしい。
靴も脱がずに、今だ玄関に突っ立っていた。
ほら、ちょっとこっち来なさい。
そのまま荷物みたいに、ママに引きずられてキッチンに連れて行かれる。
これでも飲んで、落ち着いたら早く寝なさい。
私を置いてさっさと部屋に戻ったママが用意してくれたのは、私の大好物。
真夏の太陽を落とし込んだように、爽やかな黄色を湛えたレモネード。
そっと口を付けると、ハチミツの量はいつもより沢山。
れいむは「あまくてすっぱくてなんだかふしぎ」なんて言ってたっけ。
ぽろり。
――あれ。
終わりは始まり。
ここから生まれた感情は、ここへいつか帰って来る。
追いつかれたの?
それとも、生まれてきたの?
あるいは、最初から、此処にずっとあったの?
さっきまでは、我慢出来たのに。
レモネードを飲んだ分が、押し出されてあふれたみたいに、ぽろぽろと、ぼたぼたと。
頬を拭った先、次から次へと流れ出して。
まずい。
引き攣った呼吸の気配に咄嗟に押さえた口元、そこからやっぱり漏れるように声が染み出してくる。
何かを思うより先、私は机に突っ伏した。
迷惑だ。
夜だから、みんな寝てる。
私は白々しい嘘に必死でしがみつく。
聞こえちゃいけない。
パパにも、ママにも、お姉ちゃんにも。
れいむにも。
机に倒れこんだまま、自分の息の根を止めるように歯を食いしばり、鼻と口と目をぎゅっと塞ぎ続けて――
――あれ。
気がついたら、いつの間にかうとうとしていたらしい。
目を指す光の眩さに、私は意識を取り戻す。
身じろいだ拍子に、いつの間にかけられていたのか、ばさりと毛布が肩から落ちた。
まだぼんやりと滲んだ視界の中、私はいつもの癖でれいむの姿を探す。
……いた。
あの後で、お姉ちゃんが連れて来てくれたのだろうか。
いつも使っていた毛布に包まって、れいむは私の顔のすぐ横で佇んでいた。
――れいむ。
呼んでみても、返事は無い。
涙の染みが残った指で、頬をそっと撫でてやる。
いつもよりずっと冷たくて、柔らかくも硬くも無い不思議な感触。
静謐。
人の造り出した物以外に遮られる事の無い、美しい朝焼けに照らされたれいむの表情は、とても穏やかでゆっくりしていた。
思い出す。
――れいむはゆっくりまってるよ。みんなはたくさんゆっくりしていってね!
私の耳から、記憶から、心から、魂から。
これから先、死ぬまで一生消える事が無い言葉。
もう一度、会いたい。
話したい、遊びたい、叶うのなら、私の方から出向いて行っても構わないと思えるほどに。
それは誰もが一度くらいは大なり小なり想い、でも今は思ってはいけないことなのだろう。
それはずっと先、嫌でも必ず訪れるいつかの先にあるべき話なのだから。
だからそれまで私は、私は、
――それでも、やっぱり。
また、鼻の奥に熱が生まれだす。
日が昇り、これから始まる夏の暑さよりも、さらに激しく、とめどない熱。
ぽたり、ぽたり。
痛みと共に閉じた瞼の裏に広がる、れいむと歩いた真夏の星空。
ひとつ、またひとつ。
夜明けの星がこの世に生まれ、きらきらと、新たな朝の陽光の下輝き始める。
見上げたあの空とは似ても似つかぬ不恰好な輝き。
れいむのためだけに生まれて輝く星の海。
地上に出来た夜明けの星空は、天の星座にまつわる話をなぞるように、れいむの姿をその身に映して静かな光を放ち続けていた。
作・話の長い人
最終更新:2009年05月11日 12:15