時間と時観・さくやのせかい

  時間と時観


 1



 はふはふと言いながら、男はラーメンをすする。300円にしてはうまいほうだ、という言い方をせざるを得ないほど、あまりに普通である。
縮れた麺は格別うまいとも思えないが、しかしゆですぎたわけでもないし、スープはしょうゆベースの、うまいともまずいとも言いきれない代物だ。

 もっとも、ここ、大学の食堂以上にひどい専門店も無くは無いから、平均点であることだけはありがたい。というより、すぐ近くのラーメン屋がそうなのだが。

「……普通よね」

「フムン、まったくだ。……ところで、チャーシューくれ」

 しかし、唯一うまいという単語がふさわしいのが、じっくりと煮込まれ、脂がとろとろのバラ肉をブツ切りにしたチャーシューである。
焼いていないのでチャーシューとは言いがたいが、しかしチャーシュー丼なるメニューが存在するため、それで通っている。

 目の前でニコニコと笑いながらラーメンをすすっていたさくやは、笑顔のまま毒を口から吐く。

「お断りだ、このブタ野郎」

「さっさとよこせ」

 がっき、と男とさくやの箸が空中で絡む。何をやっているのかと思うが、もう後の祭りだ。周りからは生温かい、じっとりとした視線を向けられている。
ゆっくりさくやから巻き上げるってそれは人として恥ずかしくは無いのか、というものだが、そのときは気付いては居ない。

「自分のがあるでしょ……!」

「後生大事に取ってるからだろ、いらないのかと思ったンだ」

「おいしいものは最後まで取っておくっていう言葉をしらない、やばんじんはこれだから困りますわ……!」

 みしり。杉の割り箸が、もうこれ以上耐えられぬ、という悲鳴を上げ始める。だが、力を抜こうものなら、即座においしく食べられてしまう。
と言わんばかりの調子で、彼は顔を真っ赤にして、言ってはならない類の台詞を吐き始めた。

「誰が……金を出してると思ってる!」

「うわ、そんなこと言いだすとかマジ引きますわ。ていうか、おおもとは親じゃない!」

「事実を言うんじゃない!」

 ばき、という高い音を立て、お互いの箸が折れる。
どちらともなく互いに力を抜き、立ち上がった。替えを取りに行くためと、さすがにこの争いは醜い事この上ない。

「……」

「……」

 彼は全身に冷たい視線を浴びながら、すごすごと帰って来た。
その姿に哀れを催したのか、さくやはこう言う。

「……そんなに欲しいならあげますわ」

「フムン」

 さて、そこまで言われてしまえば、実のところ欲しいとも思わなくなってくる。隣の芝は青いというやつで、奪うという行為そのものが見かけの旨さを水増ししていたのだろう。
改めて見てみると、塩辛いスープに浸かった、ただのバラ肉だ。

 改めて見て見る、といえば、ゆっくり全般はともかくとしても、この咲夜はどうもだれにも見えなかったらしい。
眉つばな話だが、しかし彼の友人のいずれも、この男が知らせなければ気付きもしなかったし、ゆっくり咲夜も実のところ、友人の姿は見えなかったという。
肝を潰している様子だったし、そのときに話を聞いて、ようやく分かった。

 大学をゆっくりがうろちょろしているから、何事かと思い、変に構ったのがいけない。
だいいち、相手の方も話し掛けなければ、こちらに干渉してくることはないし、基本的にどうでも良いようだ。居ようが居まいが無関心。

 たまに頭が春なやつがちょっかいを出しているが、たいていの場合、逆さ釣りにされるか、死んだほうがマシな、恥ずかしい目に遭わされてしまうし、馬鹿が馬鹿をやっている、としか思われない。
ちょうど、ゆっくり咲夜にちょっかいを出している彼のように。

「最悪だ、こいつ……」

「自覚してる」

「ていせいするわ、最低最悪ね」

「落ちるところがないのは良いことだ。おれは地に足をつける主義でな」

「奈落のそこに落ちろよ、このクズ……」

 ひょいひょい攻撃ならぬ口撃をかわしていたのは良いが、さくやの口がもぐもぐと動いているのを見る、はて、と思ってさくやのどんぶりを見ると、チャーシューは浮いていた。
なんだろう、と思い、自分の丼に目を向けると、肉が姿を消していた。
さくやの口の端には、肉のかけらがついている。

「……おい」

「てんばつですわー」

 さくやは、自分の丼の中身を急いでかきこむと、あっという間に、離れていく。
というより、眼前から消えたと思っていたら、既に入り口の辺りまで逃げられていた。
まるで時間を止めたかのように。

「……」

 予鈴の音が、教室に向かう生徒で入り口が詰まっている食堂に響く。数瞬、男は動くことが出来なかった。


 2



 男は走る。皮膚の下の筋肉がびくびくと痙攣を始め、朝に食べたトーストが胃からカムバックを果たそうとし、心臓が破裂しそうな勢いで血液を送り出す。

 走る理由が無ければ、元来走ろうなどと考えない男である。そこからかんがみるに、走るに足る理由があるのだ。
要は、試験日前日に知識を詰め込む努力をし、まんじりとしていたらば、時計の針は、ちんたら歩いていれば間に合わないと告げていた。

 ただ遅刻するだけであれば、そもそも不真面目が服を着て歩いているような男だ。
ゆうゆうと遅刻していき、教授のごく短いおしかりを拝聴して、舌を出してそれで終わりだ。
しかし、試験である。
これを受けなければ後日配られる成績表という用紙が、彼の生命を地獄の釜にくべることになりうる力を持つこととなる。

 良い悪いなどではない、ともかく心臓と、足と気力のもつ限り、走り続けて間に合わせなければならない。だが、その障害はあっさりと現出した。

「めいびーぶらっくみーさっ!」

 上機嫌に歌いながら、物影から出現したのは、さくやである。
問題は、走っている方も、呑気に歌を歌っている方も、全く相互の存在を意識していないということだ。
男はそれに気付き、進路を変更しようとするが、間に合わない。ならばと言うことで、飛び越えようとするが、痙攣を始めた筋肉が言うことを聞いてくれず、しゃっくりのような奇怪な動きをする。

 ぐにゃあ、とさくやのほほが曲がり、復元力が作用したのがいけない。
腰の辺りを軸に、足が上側にえびぞりになり、顔から落下する。

 男は、したたかに顔を地面に打ちつけ、痙攣する足を伸ばそうとして、顔の痛みにのたうつ、という、舞踊と言うにはあまりに不様なありさまだ。
さくやはさくやで、ほほがひどく痛み、こちらはこちらでのたうっている。
男は骨折していないだけマシであったが、さくやはさくやで、空のかなたにぶっ飛ばされていないだけマシだった。
痛み分けというには、いささか不公平であったが。

「どこ見てんだこのボケ!」

 ある程度落ち着いた互いが発した言葉は、あまりに口汚ない。
とはいえ、両方とも、鼻から赤い液体がしたたり落ちているのだから、その怒りようは当たり前ではある。

「あああ、遅刻、遅刻しちまう!」

 鮮血がみっともない穴からぼたりぼたりと時計にへばりつくが、さほど気にした様子もなく立ち上がろうとしたが、今度は痙攣した足が、また悲鳴を上げた。
立ち上がろうとして、また地面と接吻を交わす。

「……だ、だいじょうぶなの?」

「大丈夫に見えるのか……? 節穴か、てめぇの目はよッ!」

 光景だけをみれば非常に間抜けであるが、当人にとってはのっぴきならない悲劇である。
他人の悲劇は、見ている側には喜劇であるとはよく言ったものだ。
全くもって喜劇である。

 それを見たさくやは、遠巻きにやじ馬たちをちろりと横目に見てから、時計のような物を、いずこからか取り出し、男に声をかけた。

「ゆっくりしていってね!!!」

「してる場合に見えるのか!……ン?」
 おかしい。男がはじめに思ったのは、それだ。
いつか、単独で二日かけて登山したときと同じ違和感を、感じたのだ。
いや、これはもっとひどい。音が、耳に届かない。

 次に襲いかかってきたのは、言いようのない恐怖。違和感の正体を、視覚で知覚したのだ。
それが、男に恐怖をかんじさせる。
それは、人類が知覚する以前から機能してきた、万古不易の物理法則が音を立てて崩れたからだ。みっともなく叫び声を上げなかっただけ、まだしもましな方であったろう。
二回目だったからこそ、ある程度落ち着いて居られた。

「とりあえず、足をどうにかしてからはなぢを拭いた方が良いと思いますわ」

 いつの間にか血が拭いさられているさくやは、微笑しながら言う。ああ、と生返事をしながら、つま先を持ち、痙攣を起こし、引っ張られる方向とは逆側にぐいいと引っ張る。
しばらくそれをやっているうち、痙攣はおさまる。
水が不足しているのか、はたまた塩分が不足しているのかはわからないが、ともかくどちらかが足りず、鼻血の方もどこかべたりとしている。

「はい、ティッシュ」

「ああ、これはどうも……ってどこから……」

「どこかから。どーでもいいじゃない、そんなこと」

 どこか芝居がかった、歌うような調子でさくやは言う。
確かにこのティッシュは血をぬぐえるし、どこから出ようと、所詮は紙だ。

 しかし、彼はさくやにぞっとしたものを覚えたことは、確かだ。それが正しい懸念かどうかはともかく、無から有を生じさせ、時間を止めるという、物理法則を破る行為を平然と行っているわけだ。

 いかんせん、さくやのこの丸っこい体を見れば、その懸念が薄れてしまうのであるが。

「……待てよ」

 しかし、時間が止まって、自分が動けているということは、遅刻をする懸念が全くないということだ。
理屈としては、遅刻するはずの試験そのものが、時間が止まっている以上、やってこないだけであるのだが、実際上の問題としては、さしたる違いは無い。

「……いつまで止めていられる?」

「わりとながくとめられますわー」

 よし、と男は口の中でつぶやき、やおらさくやを抱えて、再び走り始める。
本来は水を飲むなり、塩分を取るなりすべきであるのだが、しかし、動いているのは男とさくやのみであり、蛇口をひねって動かしたところで、中の水の時間が止まっていれば、水など出てこないのである。
自動販売機で飲み物を買おうとしても、時間が止まっているということは、金が入った、という信号自体が伝わらないため、結局入れていないのと同じなのだ。

 しかし、光は目に届き、そして重力も作用していることから、完全な静止と言うわけでもなさそうである。

 試験が行われる建物の前に到達したが、血のついた腕時計と、教務課の事務所に掛かっている掛け時計の時間は、移動した分ずれていた。
男の腕時計は、彼の主観時間が動いていたことを如実に示している。

「……いや、ありがとう。おかげで助かった」

「今日はワンタン麺が食べたいですわー」

 なるほど、それが代価か、と考えつつ、さくやを降ろすと、音が耳に届くようになり、彼女の姿は消えていた。

 やれやれ、とひとりごちつつトイレに入り、時計と、顔まわりを水で洗い、シャツについた血を、うっすらと見える程度に洗い落とすと、予鈴が鳴り始める。
そろそろだ、と男は鞄をかけ直して、少しばかり痛む胃を抑えながら、歩き始めた。


 3


 男の試験は、無事に、というよりはある程度の苦みを覚えさせる結果となった。追試の恐れは無いにしても、成績の方に反映される部分は想像するだに恐ろしい。

 いい加減、己の怠惰を改めねばならぬときが来つつあることは悟りつつも、しかしそれに浸ってしまう。
怠惰とは、ある種の麻薬である。

 もっとも、それが長続きするような手合いであれば、なるほど、今回の手痛い失敗は良い教訓ともなろうが。

「……終わった」

 絶望が口をついて出るうちは、まだ余裕があるのだという。要は、絶望を口にすら出来無い状況に追いやられては居ない、というのは幸運ではあった。

 父母の脛かじりだ、などと口さがない親類縁者に言われていても、かじる脛のあるうちは、少なくとも絶望や不平を口にすることも出来ようものだ。

 口にする、といえば、彼の胃は次の食物を受け入れる準備が出来たぞ、という空腹感が宿る。

「おなかがすきましたわー」

「俺も空いたが、どこから現れたんだ、お前」

 いつの間にやらとなりに出現していたさくやは、ワンタンが楽しみでならない様子だ。
しかし、実のところそう甘くもない。席取り合戦を含め、ともかく生徒数に比べ、圧倒的に様々な物が足りない。
食事に関してはある程度以上余裕が見られていたが、だからと言って目当ての物が残っている保証など、ない。
言うまでもないが、ワンタン麺はある程度以上コンスタントに出るものである。
そして、売り切れも早い。

「……なあ、時間を止めてくれはしないか?」

「……それは……こまりますわー」

 さくやは、どこか困惑のような色を覗かせている。体力や、さまざまなものが目減りするのかとは思うが、しかしそう言ったふうでもない。

 先ほど、男はさくやに困惑を見て取ったが、よくよく見てみれば、同質のようでいて、また違う色を見て取った。

 さくやの顔に浮かんでいるのは、困惑などではなく、不安である。
つまるところは、わからないものへの不安であった。

 ならば、なぜあの時時間を止めた、という男のぶしつけなふうを装った質問に、さくやは、あの時はいかにもまずかった。
時間がともかく欲しかったのだと答える。
なるほど、確かにお互い身を整えるにせよ、なんにせよ必要な物は、千金積んでも得ることは不可能だ。
ならば、それを積まずとも得られるさくやは、ともかくまず時間を得ようとするだろう。

「……道理だな」

「気取るな、ばか」

 この野郎、野郎じゃないけどこの野郎、とつぶやき、一つつねってくれようかと考える。
しかし、あまり漫才の種ばかり生産していたところで、空腹が満たされようはずもない。

 で、どうするのだ、と時計を指さして迫ってみせると、さくやはふうとため息をついた。
また、あの時と同じように、音が聞こえなくなった。
ちょうど目の前を飛んでいた紋白蝶すら、羽根の動きを止めていた。

 さくやに見せた時計は、こちこちとムーブメントをゆっくりと、しかし確実に動作させている。
不気味と、その音だけが耳に残った。


 4


 時間を止めるというのは、いたく便利な物である。
しばらく、さくやの能力を利用し、そしてその恩恵にどっぷりと浸かりながら、男がそう思ったときには、何か違和感に近いものを感じていた。
起きる時間も寝る時間も徐々に遅くなり、遅刻の危機はいや増すばかり。
そして、まともに動いていた時計が、ひどく狂ってしまった。
男は時計を買い替えたが、こちらもじきにまともでなくなった。

 さくやは、もう止めた方がいいのでは、という。
しかし男は遅刻するわけにもいかないという理由で、さくやの力に頼る。
そして、さくやはしぶしぶ力を振るう。もう、何も要求はしなかった。


 5


 おかしい。男はそう考えた。さくやも、力を貸さなくなった。いや、そもそもさくやは男の姿を見て居はしなかった。男の友人知人も、果ては母や父すらも。

 おれはここに居る、ここに居るのだと男は往来で叫び、自動車の前に立ちはだかる。しかし、自動車は一瞬驚が、ガードレールに突っ込んでしまう。テレビでは、そこは怪奇現象がおこるスポットとして取り上げ、いんちきな霊媒屋がここには強い地縛霊が居るのだという。
男は笑いの発作を起こし、テレビを強く蹴飛ばした。いや、蹴飛ばそうとした。


 6


 ビルから落ちて、死のうとした。男は死ねなかった。さいきんはふわふわと浮かぶようになった。落ちもしない、触れもしない。地に足がついていない。

 かみそりをざくざくと腕に立てる。立てようとする。しかしそれもかなわない。
水を飲もうとする、蛇口がひねれない。
自分の首を捻ろうとする。適わない。
 最近は、絶望の叫びすら上げなくなった、いや、そもそも音すら聞こえなくなった。
うっとうしいこちこちと言う音も。


 7


 何も、見えなくなった。

 これで時を止めるという怪異に触れ、静止した怪異そのものとなった男の話は、終いである。
時折、敏感な人間や、ゆっくりが血を吐き散らす男の姿を見るという。
迂闊に声をかけようものなら、彼らもまた、姿を消した。


 時間と時観 了





あとがき

……なんだろう、ホラーが書きたかったんじゃないんだけどなあ。ゆっくりと動物の人でした。
あと、きめぇ丸のからだを書いたのは私です。
今更ながら。あと、Crysisをcrysysとtypoしてるのに同じく今更気づきました。蒸気で買ってた筈なのに!

  • これはいいホラー -- 名無しさん (2009-06-27 23:03:18)
  • 途中でさくやが歌ってるのはStill Alive? -- 名無しさん (2009-09-27 05:36:23)
  • 2009-06-27 23:03:18 >
    そういってもらえるとうれしいんだぜ!

    2009-09-27 05:36:23 >
    当たりです。PortalのStill Aliveですね。
    空間に関連した歌というと、パッと思いついたのがこれでした。 -- ゆっくりと動物の人 (2009-10-02 17:48:40)
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最終更新:2009年10月02日 17:48