射命丸の家の中、きめぇ丸は退屈をもてあましていた。
射命丸は取材に出ており二、三日は帰ってこないだろう。家にいるのは愛想の欠片もな
い鴉たちと自分だけ。そんな空間には耐えられそうになかった。
家から出ることは射命丸から禁止されている。天狗のコミュニティ内部とはいえ、妖怪
の山はゆっくりが住むには余り安全な場所だとはいえない。
野生動物は元より、危険な妖怪も沢山いる。きめぇ丸が安全の内に妖怪の山に住み続け
られているのも偏に射命丸の保護の元にいるからに過ぎない。
しかし、そんなことはきめぇ丸には関係なかった。鴉に馬鹿にされながら射命丸の遅い
帰りを待ち続ける、そんなことに耐えるだけの辛抱強さなど持ち合わせているはずもない。
ヒュンッ、ヒュンッ、と風切音を立てながら不満の
ダンスを踊ってみるも、カァ、と鴉
が嫌そうな鳴き声を上げるだけだった。
きめぇ丸は鴉に一つ眼を付けると、器用に窓を開け家の外へと飛び出していった。
外の危険性すら考えることなく、ただ本能の赴くままに。
カァ、とまた一つ。射命丸を見送るのは無感情な鳴き声だけだった。
『本当にやりたかったこと』
射命丸不在の無聊を慰めるためにきめぇ丸は家の外を探検する。
しかしそこにあるのもまた退屈だけだった。ある程度の発展を遂げているコミュニティ
は多様性が薄れる。道から道へと歩いてみても、そこにあるのは似たような風景ばかりだっ
た。
道行く天狗たちに嫌な顔をされながらも、我が物顔で進んでいくきめぇ丸。
少ないながら虫はいる。花もある。しかしゆっくりだけはいない。ゆっくりを飼ってい
る酔狂な天狗は数少なかったし、その希少な人種もゆっくりを放し飼いにするようなこと
はしないのだ。
小さな虫を追い掛け回しても、人の家の花壇に闖入して次々と荒らして回ってみても、
きめぇ丸の心が満たされることはなかった。
そうして彼方此方と歩き回るうちに、コミュニティのはずれにまでたどり着いた。悪臭
が漂い、人気の全くしない場所。そこは天狗たちが使っているゴミ捨て場だった。
生ゴミの臭気に顔をしかめながら、それでも退屈がきめぇ丸をその場に留まらせた。も
しかしたら何か面白いものが落ちているかもしれない。ゴミ捨て場を不気味に跳ねながら
きめぇ丸は“何か”を探す。
「――っ」
ふとどこからか声が聞こえたような気がした。先ほどから聞こえていた鴉の喚く耳障り
な鳴き声に混じって、どこか人の声のようなものが。
堆く積もったゴミ山の向こう側、そこだけがきめぇ丸が行っていない場所だ。そこには
きっと“何か”がある、そのことを確信したきめぇ丸は素早く、だが静謐に現場へと向か
うのだった。
そこにいたのは大量の鴉。カァカァ鳴きながら何かを突付きまわしていた。
「ゆっ! やめてね、ゆっくりつつくのをやめてね!」
黒光りする羽の隙間から見えたのは赤いリボン。だとすると声の主はゆっくり霊夢に違
いない。
きめぇ丸は外に出て初めて興味の湧くものを見つけた。
鴉はゆっくりにとって天敵の一つでもある。雑食で何でも食べる上に、概ねゆっくりよ
りも知能が高く、そして繁殖期を除いて集団で行動する。小さいゆっくりが家族と離れた
場合に最も餌食となりやすい相手、それが鴉なのだ。
しかしきめぇ丸は鴉を恐れなかった。きめぇ丸がある程度成熟しているとはいえ、十匹
以上もいる鴉に立ち向かうことは愚行以外の何物でもない。しかしきめぇ丸は鴉という生
き物を熟知していた。長年一緒に住んでいる"敵"だからだ。
颯爽と姿を現したきめぇ丸に一斉に鴉が振り向いた。その無機質な瞳は新たな獲物が現
れたことを喜んでいるかのようだった。
一匹の鴉が羽ばたいてきめぇ丸に近づく――ことは出来なかった。
ヒュンッ、ヒュンッと風切音を立て残像さえ残すほどの速度で上下左右に動き回る。き
めぇ丸が長年の研究の末に編み出した闘いのダンス。それは見るものの気分を著しく害し、
発する音は頭痛さえ引き起こす。
一言でいえばただ単に不快なだけなのだが、不快さも極めれば武器にさえなってしまう。
初めは鴉たちも鳴き声できめぇ丸を威嚇していたが、きめぇ丸の動きが加速していくにつ
れて一羽、また一羽とその場を去り始め、直ぐに鴉はいなくなった。
「ゆっ? ゆっくりしてくれるの?」
残されたのは不思議そうに辺りを見回すゆっくり霊夢だけだった。
きめぇ丸は踊りを止めると、ゆっくりと霊夢に近づいていく。その顔はいやらしい笑み
に歪んでいた。
*
きめぇ丸が思うこと、それは『仲間が見つかって嬉しい』などということでは毛頭ない。
いや後半だけは合っている。そして前半の文面を変えると次のようになる。
『嫌がらせをする対象が見つかって嬉しい』
きめぇ丸が好きなのは射命丸だけで、その暮らしは幸せだったが射命丸は家を空けがち
だった。しかも射命丸が飼っているのはきめぇ丸だけでなく、大量の鴉も一緒である。射
命丸が鴉を可愛がるたびに、嫉妬に狂ったダンスを踊る。いつか鴉どもを亡き者にしてや
ろう、などと考えてはみるも多勢に無勢。どうあっても生活に変化は訪れそうにない。
稀に他のゆっくりと出逢うことはあれど、それらは別の天狗に飼われている。軽い嫌が
らせ以上のことをしようものなら射命丸に怒られてしまうのだ。
だから、ここでゆっくりを見つけたことはきめぇ丸にとって本当に幸運だったのだ。
ゴミ捨て場に一人、生まれてからそれほど経っていないであろう小さなゆっくり霊夢。
どのような経緯で妖怪の山に存在するのかは想像だに付かないものだが、確実にこの霊夢
は野生のゆっくりだとわかる。
このゆっくりには何をしても怒られることはないのだ。こんなに嬉しいことはない。
未だに辺りを見回して震えている霊夢に後ろから体当たりをする。
「ゆっ!? な、なに? ゆっくりやめてね!」
ゆっくりが振り返った瞬間、きめぇ丸は可能な限り不快な表情を作る。
「ゆ? ゆ?」
しかし霊夢からは何の反応もなかった。それもそのはず、未だに霊夢は両目を硬く瞑っ
ていたのだ。
きめぇ丸は苛立ちにぷくっと膨れて見せるが、それを見るものは誰もいない。
何度も霊夢を小突いてみるが、
「ゆ~、やめてね! ゆっくりさせてね!」
と泣き叫ぶだけで目を開けようとしない。段々ときめぇ丸に苛立ちが募っていった。
何ど小突いても霊夢が目を開けようとしないので、きめぇ丸は頭を使うことにした。
北風と太陽、昔射命丸に聞かされた覚えのある話を思い出す。嫌がらせに関してはゆっ
くりパチュリー並の知能を発揮するきめぇ丸は自分が何をすればいいのかを直ぐに悟った。
「ゆっ! ゆっ! ……ゆ?」
きめぇ丸は鴉に突付かれてでこぼこになった霊夢の体を優しく舐めていく。相手の姿が
見えない状態だったらそれは安心出来る友愛の行為に見えたことだろう。実際、霊夢も気
持ちがよさそうに「ゆ~♪」と声を上げていた。
しかしきめぇ丸の表情は陰湿を体現したかのような悪辣さを備えていた。控え目に言っ
ても、猫が鼠を殺さずに何度も前足で獲物を撫で回す、そんな時に浮かべる表情である。
「ゆっ! もしかしてゆっくりできるひと? あなたがたすけてくれたの?」
きめぇ丸は一つ頷く。それを目を開いていなくても感じたのだろう。霊夢の体からは力
が抜け、ゆっくりと目を開いていった。
計画通り! きめぇ丸の表情は喜びに震え、更に凶悪なものへと変化した。
霊夢の目が開いたことを確認したきめぇ丸は一つ飛んで、自分の全身像が霊夢の瞳に映
る距離まで離れると喜びのダンスを踊った。
ヒュンッ、ヒュンッ、と音を立てるその踊り、先ほどのものと全く変化はないがきめぇ
丸の中では細かく分類されているらしい。その見るものの恐怖を誘う不気味な踊りを見て、
「ゆゆ? なんのおと?」
霊夢は体を傾げた。
おかしい、何でこいつは逃げ惑わないのか。きめぇ丸は自分の踊りが鈍ったのかと更に
速度と不気味さを上げていく。
既に速度は通常の倍以上。縄跳びで二重飛び、三重飛びをしているかのような音を発し
ていた。
「ゆゆっ! これはさっきもきいたよ! やっぱりあなたがたすけてくれたんだね!」
霊夢はそのまま前方に突進していく。驚いたきめぇ丸は思わず動きを止めてしまう。
ゆっゆっ、と鳴きながら体を摺り寄せてくる霊夢。そうして間近に霊夢を見て漸くきめぇ
丸は気が付いた。
霊夢の瞳はきめぇ丸の姿を映していなかったのだ。
*
盲目のゆっくり、それはきめぇ丸が会った初めての異物だった。生まれつきなのか後天
的なのかはわからない。しかしハンデを持っていること、それは野生に生きるものに対す
る死刑宣告に他ならない。弱者を守るだけの余力がある家族の下に生まれていれば、少し
は違う生もあったのだろう。
しかし何も知らずに無邪気に笑うゆっくり霊夢を見ていればわかる。これは親に捨てら
れたのだ。そしてそのことにさえ気が付かずに、ただ霊夢は来るはずもない親の迎えを一
人で待っているのだ。
霊夢の境遇や、どうやって妖怪の山に来たか。また何故今まで生き延びてこられたのか。
様々な疑問が浮かぶ霊夢の存在だったが、それらはきめぇ丸にとっては些事でしかない。
ようやくいじめ甲斐のある相手が見つかった、それだけがきめぇ丸の喜びだったのだ。
「ここはたべるものがいっぱいあるよ! あなたもなにかたべる?」
霊夢は言う、このゴミ山に住んでそこにある物を食べているのだと。そんなことを言わ
れてもきめぇ丸にとってはゴミはゴミでしかない。より一層嫌な顔をするだけだが、それ
を霊夢は見ることが出来ないのだ。
徒労感を覚え始めたきめぇ丸。ふと気が付くと辺りは薄暗くなり始めていた。ご飯のこ
とを考えた所為かお腹も空き始めてくる。
きめぇ丸は霊夢を捨て置いて家に帰ることに決めた。
「ゆっ……? ど、どこいくの!?」
返答すらせず帰途を跳ねていくきめぇ丸。その背中に、
「あ、あしたもきてね! ぜったい! ゆっくりまってるからね!」
そんな言葉を投げかけられた。
*
霊夢の言葉があったからではなかったが、次の日はゴミ捨て場に行くことに決めていた。
家に居ても退屈だし、鴉との不毛な争いに疲れていたこともある。ゆっくりと寝て昼過
ぎに起き出し、射命丸の置いていった餌を貪り食うと家を抜け出す。今日こそは霊夢の泣
き声を聞いてやるのだと気合を入れながら。
しかしきめぇ丸を待っていたのは生物の気配のしないただのゴミ山だった。
歯噛みするきめぇ丸。自分が霊夢を虐めに来たと言うことを棚に上げ、約束を破った霊
夢に対する怒りをこみ上げさせる。
ヒュオン、ヒュオン。いつもの三割り増しの速度で上下に動く。
直後、ゴミ山の影から顔を覗かす影があった。
「ゆっ! きのうのひとでしょ! きてくれたんだね!」
ふらふらと右に左と揺れながら霊夢はきめぇ丸に近付いていく。音だけが頼りの霊夢は
きめぇ丸から微妙に外れた方向へと跳ねていった。
きめぇ丸は口の端を吊り上げさせる。一息で一間の間を飛ぶと、そこでまた体を動かし
た。
「ゆゆっ!? そっちなの?」
振り向いた霊夢が歩き出すとまた跳躍。
「ゆっ!」
容赦なくきめぇ丸は繰り返す。
「ゆ~!!」
二度三度、では済まなかった。十を越え、二十を過ぎると霊夢の動きも段々と鈍ってい
く。等々疲れ果てて霊夢は立ち止まってしまった。
俯いて震える霊夢を眺めながら、きめぇ丸はようやく目的を達成できた喜びを噛み締め
ていた。
喜びのダンスを踊ろうと跳躍した瞬間、
「ゆー! このあそびなんていうの!? つかれるけどたのしいね! もっとゆっくりや
ろうよ!」
べちゃり、と音を立てきめぇ丸は跳躍した姿勢のまま地面に落下した。
「ゆっ! そっちだね! こんどはみつけたよ!」
音を聞きつけた霊夢がきめぇ丸に擦り寄る。「ゆ~♪」と機嫌よく声を上げる霊夢だっ
たが、きめぇ丸は徒労の余りその日は夜の帳が落ちるまでその体勢のまま動けなかった。
*
「ただいまー」
射命丸の声が聞こえた瞬間、きめぇ丸は走り出していた。
廊下の曲がり角を華麗なドリフトで走り抜け、派手な擦過音を立てながら玄関の前でブ
レーキング。そして靴を脱いでいる途中の主人に目掛けてダイブ。主人に抱かれることを
夢想しながら刹那の間、重力から解き放たれる。
そんなきめぇ丸を向かえたのは硬い鞄の感触だった。
「ごめんねえ、着替えを取りに返っただけだからゆっくり出来ないのよ」
ずりずりと落ちていくきめぇ丸に片手を上げて「ごめん」のポーズを作ると、射命丸は
慌しく家の中へと上がっていった。
そんなきめぇ丸を馬鹿にするかのように鴉が上空を飛びまわっていた。
*
その日から射命丸は家を長い間空けることになった。そしてきめぇ丸もまた同じである。
きめぇ丸の向かう先はいつも同じ、霊夢のいるゴミ捨て場。毎日のように霊夢に会いに
行き、毎日のように様々な嫌がらせをした。
そして、そのどれもが空振りに終わった。
妖怪の山で一人で生きる、そんな奇跡の中を歩いてきた霊夢にとって、他人の悪意を感
じ取る能力が欠如していたのかもしれない。
体当たりをしても、不気味な音を立てても、怨念を込めても、念仏を唱えても、そのど
れもが霊夢を喜ばせるだけに終わった。
だから今日は少し趣向を変えていた。
「ゆっ! きょうもきてくれたんだね。なにをしてあそぶ?」
霊夢はいくらきめぇ丸が探しても見つからない。唯一、霊夢を見つける方法はいつもの
踊りを踊ることしかない。きめぇ丸のことを風切音で認識しているのだ。
音に反応して現れた霊夢に対し、きめぇ丸は口に咥えていた器を放り出した。
「ゆゆ? これはなに?」
きめぇ丸は急かすように霊夢を突付く。
「たべものなの? ありがとう、おいしくいただくよ! むーしゃむーしゃ……」
何も知らずにきめぇ丸が用意したものを霊夢は食べる。それを見たきめぇ丸は心の中で
笑っていた。きめぇ丸が持ってきたもの、それは鴉の餌だったのだ。
それは憎むべき鴉と同一視することで霊夢を蔑むという陰湿な嫌がらせだったのだが、
「おいしー! こんなおいしいものたべたのひさしぶりだよ! しあわせー!」
またもや霊夢の反応はきめぇ丸の想像通りにはならなかった。
余りに美味しそうに食べる霊夢に、きめぇ丸の興味も刺激される。恐る恐るそれを口に
すると――確かに美味しい。
おのれ、おのれ、おのれ、おのれ!
きめぇ丸は鴉に対する嫉妬に狂い、狂気の踊りを披露する。
「ゆゆ? どうしたの? いっしょにゆっくりたべようよ!」
実のところ今日持ってきた鴉の餌は、不精をした射命丸がおつまみのナッツ類を適当に
鴉にやっただけなのだが、そのことはきめぇ丸には知る由もない。
「ゆっ、ゆっ、ゆ~♪」
その日もきめぇ丸の作戦は失敗に終わったのだ。
こうして二匹のゆっくりは日を重ねていく。
きめぇ丸は不満を、霊夢は愛情を募らせながら、ゆっくりと時間が流れていった。
*
その日は珍しく射命丸が家で仕事をしていた。
机に向かって原稿を纏める射命丸。心なしか鴉たちも元気に飛び回っているようだ。
そしてそれはきめぇ丸も変わらない。ぐるぐると机の周りを駆け回り、何度も椅子に体
当たりをし、机の上を反復横飛びを――したところで手刀が飛んだ。
「ごめんっ、これ明日までに仕上げなくっちゃ駄目なのよ。終わったら遊んであげるから
大人しく待ってて!」
手刀はそのまま謝罪のポーズに変わり、射命丸は直ぐに原稿に戻っていった。
弾き飛ばされ、馬鹿にするかのように鴉が飛び回る。そこできめぇ丸の不満は頂点へと
至った。
原稿に集中する射命丸は、きめぇ丸がそっと家を抜け出したことに気が付かなかった。
*
妖怪の山でゆっくりが生き延びる、それは天文学的な確率に支えられた結果だった。い
わばタイトロープ、秒の間に天秤にかけられているのと変わらない。奇跡という言葉すら
陳腐になるほどの僥倖。
だから――そんなもの、長続きするはずはなかったのだ。
霊夢はいつものようにゴミ山できめぇ丸が来るのを待っていた。変な音を立てる奇妙な
仲間。それでいて優しくて暖かくて――そしてとっても大好きなお友達。それが霊夢の中
のきめぇ丸像だった。
どこまでもすれ違う二匹。霊夢は真実に気が付かないまま、怒りを募らせたきめぇ丸を
待ち続けている。
友人を持ってから霊夢は明らかに周囲に対する警戒心が薄れていた。
今までは物音がする度に物陰に隠れていた。しかし今では物音がする度に友達が来てく
れたのではと期待してしまうのだ。
「ゆ! きてくれたの!」
一度緩んだたがはもう元には戻らない。
だから、ゴミ山の影から飛び出してしまった。風切音を聞いたわけでもないというのに。
――グゥゥゥルル!
それは友達などではなく、生ゴミを漁りに来た野犬だった。
本来ならばわざわざゆっくりを襲うことはしない野犬だったが、食事中という気が立っ
ている時に勢いよく現れたその物体に強烈な敵意を示した。
「ゆゆっ!? なに、なーに!?」
時既に遅し。恐ろしい唸り声に反転しかけた霊夢に野犬は躊躇なく襲い掛かった。
「やめてね! ゆっくりさせてね!」
余りの恐ろしさに霊夢は泣き喚き逃げ惑う。しかし盲目の霊夢に素早い野犬から逃げお
おせることなど出来るはずもない。ゴミに躓き動きが鈍った瞬間、鋭い牙が霊夢を襲った。
「い゛! い゛だい゛よ! ゆ゛っぐりやめて゛ね!!」
既に犬は霊夢を敵だとは認識していなかった。それは敵ではなく、食べ物ですらなく、
――玩具
犬は好き放題に霊夢を弄び始めた。
殴られ、噛まれ、振り回される。直ぐに鋭い牙が皮を突き破って中身の餡子にまで到達
した。
「や゛めでぇー!! ゆ゛! ゆっぐり……!」
今、霊夢が生きているのは犬の玩具になったお陰だともいえる。食べ物だと認識されて
いたのならば今頃欠片も残らず四散していたことだろう。しかし、それは果たして幸せだっ
たのか。悪戯に苦痛を長引かせるだけなのではないのか。
世界の存在する純然たる悪意、霊夢はその存在を生まれて始めて感じていた。そして最
後に残されたのは絶望だけだった。
たすけて。
そんな言葉にならない言葉。今、霊夢が助けを求める相手はきめぇ丸しか存在しない。
しかし、霊夢は知らない。きめぇ丸が持つ感情が、霊夢のものと百八十度違うという事実
を。
しかし、知らないからこそ彼女は祈った。
たすけて、たすけて。
犬の口に咥えられ、振り回され、傷口から餡子を迸らせながらただ一心に。
――ゆ?
気が付くと地面に倒れていた。体に突き刺さっていたはずの牙の感覚は既にない。
――なにがおきたの?
もう体を起こすことさえ出来ない霊夢。目も見えず、体の感覚もない。しかし一つだけ
残っていた感覚は確かにその音を聞き取っていた。
ヒュンッ、ヒュンッ、という風切音を。
――ああ、きてくれたんだ
恐ろしい獣のうなり声はまだ残っていたが、霊夢の体からは力が抜けていった。
最早一寸たりとも動かすことの出来ないほど体は傷ついている。大量の餡子が飛び出し
て、いつ死んでもおかしくはない。
それでも――今は安心できる。ゆっくりできる。
この音があればもう大丈夫だ。
――ごめんね、ありがとうね。ちょっとだけゆっくりさせてね
その言葉を音にすることさえも出来ず、霊夢は意識を失った。
*
きめぇ丸が目を覚ましたのは喧しい泣き声によるものだった。
いつもの鬱陶しい鴉どもが泣いているのか、そう思っていたがどこか違う気がした。
その声が何の声だったのかと頭を悩ましていると、段々と声が近付いてくる。
「ゆっ! おきた! おきたよ、おねえさん!!」
耳元で聞こえた声に、怒りをぶつけようと体を起こそうとし、そして全てを思い出した。
結局のところ、きめぇ丸が霊夢を助けたのはただ苛立ちをぶつける相手が欲しかったか
らに他ならない。その対象が何故か自分以外の存在に虐められており、そしてそれが気に
入らなかった。
野犬に立ち向かうと言う蛮行にまで達するほど前後を見失ったきめぇ丸。相手は鴉とは
違う。きめぇ丸に待つ運命は霊夢と同じ――はずだった。
どこか様子がおかしい、射命丸の原稿の進みを遅らせていたのはそんな思いだった。そ
してその思いが結実すると、射命丸はきめぇ丸がいなくなってしまったことに気が付いた。
そしてそこら中を飛び回り、後一歩できめぇ丸の餡子が飛び出すというところで助けるこ
とに成功したのだ。
「全くあれほど外にでちゃ駄目っていっていたのに。でも――ちょっと安心したわ」
きめぇ丸を優しく介抱しているのは、主人である射命丸。横をみると霊夢は先に手当て
を受けていたのだろう。全身に包帯が巻かれた痛々しい姿だったが、命に別状はないのか
しきりにきめぇ丸を心配する声を上げていた。
きめぇ丸は歯噛みする。自分より先に手当てされていた霊夢に対し。
「こら、暴れないで! 手当て出来ないでしょう!?」
射命丸に言われてはきめぇ丸も大人しくするしかない。そう思ったのだが、
ヒュンッ、ヒュンッ。きめぇ丸は餡子がはみ出そうになるのも気にしないで上下に動く。
姿見の端に移っている自らの姿、それを見てしまえば抗議することしか出来ない。
「これが不満なの? うーん、でももう包帯がないのよねえ」
きめぇ丸の傷口を塞いでいたもの、それは餃子の皮だった。
「ほら、同じ小麦だし吸収されそうじゃない? 絆創膏だと剥がすときに皮が剥けちゃい
そうだから」
下手糞なパッチワークのように体中を覆っている餃子の皮。それによってきめぇ丸の姿
は通常の三倍は気持ち悪くなっている。ダンスを踊ればさらに倍率ドン。
射命丸の手によって世にも恐ろしい生命体が生み出されたしまった。
きめぇ丸の怒りは射命丸には伝わらない。ただ霊夢をいじめたい一心、それだけで野犬
に立ち向かったというのに、その行為を射命丸は献身的な愛情と勘違いするのだ。
抗議のダンスを踊れば踊るほど射命丸は、
「はいはい、わかってるわよ」
と楽しそうに笑うだけ。それに対する抗議は最早聞き届けられることはなかった。
霊夢はというと力強さを増していく風切音に「ゆっゆっ♪」と楽しそうに口ずさんでい
る。
「貴方の大切なお友達なんだから、きちんと怪我を治してあげなくちゃね。目は……どう
なのかな。そうね、永遠亭につれていけば何とかなるでしょう。よかったわね、貴方」
微笑む射命丸につられ霊夢も笑う。
きめぇ丸だけがいつまでも不満気に踊り続けていた。
*
「ほら、出てくるわよ」
永琳に連れられて目を包帯で覆った霊夢がやってくる。
それを視認したきめぇ丸は胸いっぱいに空気を吸い込み、倍以上の大きさにまで膨らん
だ。そしてウォーミングアップだとばかりに上下左右、斜め上にまで疾く速く反復運動を
繰り返す。
ヒュゴォウ、ヒュゴォウ。
きめぇ丸は巨大化しつつも、その速度には更なる磨きをかけていた。最早その残像には
質量さえ伴っているのではと幻想するほどに、奇怪を越え怪異の域にまで到達したダンス。
それを直視した永琳は顔を引きつらせて一歩後ずさった。目を逸らして吐き気をこらえ
るように手で口を押さえた永琳だったが、何とか気を取り直したのか咳払いを一つ。霊夢
の包帯を解き、床に下ろした。
ゆっくりと目を開いていく霊夢に、きめぇ丸のダンスにも力が入る。
――とうとう、とうとう自分の目的が達成されるのだ
霊夢の両目が自らの姿を捉えた。そして次の瞬間、
「ゆーーー!!!!」
永琳をして引かせるきめぇ丸の不思議な踊り。それを間近で目撃した霊夢のその叫びに
は、果たしてどんな色を伴っていたのか。
きめぇ丸がそれを悟ることはなかった。
一分の躊躇もなく、両目一杯に真珠の粒を湛えながら、霊夢はきめぇ丸に飛び込んでいっ
た。
「やったよ! みえる、みえるよ! これでまたいっしょに
ゆっくりできるね!!」
動きを止めたきめぇ丸に、霊夢は何度も何度も頬を摺り寄せる。
「あらあら」
「あやややや。情熱的な再会って奴ですねえ」
ヒュオン、ヒュオン、ゆっ、ゆっ。ヒュオン、ヒュオン、ゆっ、ゆっ。
きめぇ丸は霊夢を突き放すように奇妙なダンスを踊り続ける。霊夢もそれに合わせるよ
うに踊りだす。それが気に喰わずきめぇ丸はどんどん速度を上げていった。
射命丸と永琳は二匹を微笑ましく見つめている。そんな中できめぇ丸は霊夢が疲れ果て
るまで不満のダンスを踊るのだった。
――自らの頬が安堵に緩んでいることにも気が付かないままに。
- きめぇ丸の人?格や仕草以外の所を本気で可愛いと思えてきた俺はもう駄目かも判らんね -- 名無しさん (2008-09-12 02:54:38)
- いいなあ -- 名無しさん (2008-10-14 21:48:04)
- きめぇ丸かっこいいよきめぇ丸。描写がすごく上手くて想像しやすかったです。 -- 名無しさん (2008-11-27 00:21:13)
- 文章構成、表現、ネタ、そしてゆっくり愛。
どれも素晴らしいと評価せざるを得ない(つ∀;) -- 名無しさん (2008-11-28 17:15:43)
最終更新:2008年11月28日 17:15