salary 1

ゆっくりが私のところへやってきたのは、一ヶ月ほど前の、週末の深夜だった。

その日私は誘われた飲み会から早々に逃げ出して、ビール片手にゲームに埋没していた。
ゲームは"東方Project"という同人サークルの作品をやることが多かった。
このサークルの出す作品群はジャンルとして弾幕STGと呼ばれるもので、
いくつものタイトルが製作されていたが、どれも私にとっては難しいものだった。
"文花帖"というゲームで行き詰まり、気晴らしにインターネットで配布されている新作の体験版もやってはみたものの、
私にはシューティングゲームの才能はないようだった。
パルスィかわいいよパルスィ。
ビールはいつのまにか焼酎へ変わり、酒の気を帯びた私はとろんとした眠気に襲われていた。
昼までぐっすり眠ってしまってもよかったが、せっかくの休みなのだから思いきり使いたい。
そんなしょうもない理由で私は意地になって起きていた。
意固地になっていても眠いことには変わりないのだから、頭はのぼやけた斑のように曖昧だ。
うつらうつらと頭を回しながら私は"ゆっくり愛で専用Wiki"というサイトの、誰かの書いた小説を読み流していた。
このところインターネット界隈では"ゆっくりしていってね!!!"と呼ばれるAA(アスキーアート)が流行っていた。
人の生首をデフォルメした饅頭のようなデザインをしていて、大体は短く"ゆっくり"と呼ばれていた。
ゆっくりの多くは"東方Project"に登場するキャラクター達を模して作られている。
それぞれ設定は様々だが共通するのはどれも自信満々の顔をしていること。
"ゆっくりしていってね"の特質であるところの、人を食ったような図太い顔は、
世に生を受けたキャラクター達の多分から漏れることなく、人によって判断のわかれる顔をしていたものだから、
ゆっくりを知る人達は概ねゆっくりをどう扱うかで様々に住み分けを行っていた。
私が普段利用する大型匿名掲示板にも、ゆっくりを扱うスレッドが多くあった。
短小説を投稿している場所はそのうち二つで、ゆっくりを可愛がりたいのと虐待したいのとあって、
(私がそれらを見つけた頃は二つだったというだけで、今はどうなのかわからない)
私はゆっくりが好きだったし気の弱い方だから、殆ど可愛がっている方ばかり読んでいた。
その日の更新分を大方読み終わり、もう目も開けていられなくなった頃、私は視界の隅に見慣れない文字を見つけた。

"ゆっくりれいむ"

サイトのメニュー項目に文字が増えていた。
霊夢、なんだろうか。それともゆっくりれいむなのだろうか。
ゆっくりなら魔理沙が好みなのだけれど。
(霊夢も魔理沙も、東方Project作品群の主人公だ)
文字はリンクになっていて、クリックするとダウンロードするか否かのウインドウが現れた。
ファイル名にはたしか"yukkuri.lzh"と記されていたと思う。
こんなリンクを勝手に貼ってもいいのだろうか。メニューの項目なのに。
このサイトはwikiなのだから、きっと誰でも編集できるのだろう。
編集者でもない私には誰がこんなことをしたかはわからないし、実際出来るのかもわからなかったが。
心のどこかに「悪戯かもしれない」という用心はあった。
ただし、そのときの私はそれを自身に喚起するほど明晰ではなかった。
募る好奇心とのしかかる眠気に負けて、ファイルをダウンロードしてみることにした。
さっさと謎は解いて寝てしまいたかったのだ。すぐにダウンロードは終わった。
さっさと終わらせよう、さっさと。
粘りつく眠気に苛立ちながら画面に現れたアイコンを展開したが、なぜか目当てのファイルは現れなかった。
なにか間違えたのだろうか。
もう一度解凍しなおしてみようと画面を見直すと、
ダウンロードしたばかりのlzhファイルはどこにも見当たらなくなっていた。
おかしい。
こんな経験は初めてだった。
まさかウイルスかなにかだろうか。
疑ってみたけれどウイルスなどに感染したことなどない。
全てウイルス対策用のソフト頼みだ。
私にはどうにも判断のつけようがなかった。
もう一度同じ場所からダウンロードしてみようとしたそのとき。
唐突に、後ろから声が聞こえた。

「ゆっくりしていってね!!!」

子供のような高い声だった。
私は驚いて振り返ったが、なにも見つけることはできなかった。
背筋がぴん、と伸びた。
急に恐ろしくなり、椅子に座ったまま部屋を見回した。誰も、いなかった。
確かに声は聞こえて来た。間違えようがない。あんなにはっきりした空耳があるものか。
心臓が高鳴った。もう眠気も酔いも醒めてしまっていた。
いや、もしかして自分はとうに泥酔してしまっているのか。
起きている振りをして、本当はもう夢の中なのかもしれないと、目を覚ませと念じた。
手を抓ると中途半端に痛かった。
怪談を聞くのは好きだけれど、当事者になるなんて真っ平ごめんだ。
身構えていると、声がふたたび聞こえた。

「どうしたのおにいさん!!!」

思わずひ、と漏らした。声が自分の足元からきこえて来たから。
下を向けば、生首がいた。

私は思わず悲鳴を上げて椅子から飛びのいた。
饅頭のようなボールのような、大きな赤い髪飾りをつけた不可解なものは、自信に満ち溢れた表情でこちらを見つめていた。
ゆっくり。
まさか、そんな。
どうしても考えがまとまらなかった。
何度見返してもそこにはふてぶてしい顔をした饅頭みたいなものがいて、
でもここは幻想郷(東方Projectの作品郡の舞台)なんかじゃなくて、自分はただの会社員で給料もそんなにもらえてなくて。
頭の中を様々な思考が飛び交って混濁して、結果として外面的には全く動かず、方向を見出すことが出来なくなっていた。
なぜ?なぜ?まさか部屋ごと幻想郷に迷い込みでもしたのだろうか。
生首が私のそばまでやってきた。
私を見上げて、絵に描かれていたとおりの、自信に満ち溢れた表情で。
声を上げる。

「おにいさんだいじょうぶ!!?ゆっくりしていってね!!!」

ゆっくりしていってねと言われてもできるわけがない。
こっちは非常事態なのだ。
どうしようどうしようそうだもう深夜だ、静かにしてもらわないと近所が怖い。
サッカーボールよりもう一、二周り大きいだろうか。
間断なく叫び続ける生首に私は静かにしてほしいと訴えた。
 ――静かに、静かにしてください。
口から出た言葉はどうしてだか敬語になってしまって、声も裏返っていたから、少し自分が情けなかった。
必死の訴えは通じたようで、生首はきょとんとした顔をすると

「わかったよ!しずかにゆっくりするよ!」

と、部屋の中をずりずりと探索しはじめた。
図らずもこちらの意思が通じることはわかった。ものわかりが良いということも。
ゆっくりがものわかり良く人の言うことを聞く、というのは、私にとっては少しばかり驚くことであった。
もっと理不尽で我を通す生き物だと思っていたものだから、
あっさりと私の意志を尊重してくれたことに拍子抜けさえしてしまった。
だからといって事態を解決させる手立てを思いつくわけでもなく、途方に暮れることには変わりはなかったが。
固まった足を床から引き剥がす難事をようやく成し遂げた私は、台所へすり足で移動した。
落ち着こう、まずは落ち着こう。
私は自分に言い聞かせて蛇口を捻った。
水を飲んでから、もう一度居間を見た。
どう見ても何度見ても、ゆっくりれいむはそこにいた。
この現実に際して私は最適な方法というものを考えあぐねていた。
知らない人間がアポも取らずにやってきたのならお引取り願うところだ。
だが相手は人間でもなく、ましてや野生動物でもなく、どこまでもどこまでも"ゆっくりしていってね"だった。
AAが現実にやってきたときの対応など頭のマニュアルに記載されているわけもなく・・・。
匿名掲示板に"ゆっくりが部屋にきたんだけどなにか質問ある?"とか、スレッドでも立てればいいのだろうか。
信じてはくれないだろう。
目の当たりにしている私でさえ信じきれないのだから。
どうするかまごついているうちに、探検に飽きたのだろう、ゆっくりれいむは跳ねながらこちらへやってきた。
幸い私の部屋は一階だったから、飛び跳ねられるのはかまわななかった。
話が通じることはさっきのやりとりでわかっていたから、しゃがみこんで、どこからきたの、と尋ねてみた。
ゆっくりは私の額のあたりを見ながら答えてくれた。

「おねえさんにつれてきてもらったんだよ!」

おねえさんとは誰だろう。尋ねてはみたが「おねえさんはおねえさんだよ!」と返された。
名前を教えられていないのだろう。
ただ、もし現実に幻想郷があるのなら、例のスキマ妖怪くらいしか思い浮かばなかったのだけれど。
動悸も治まり、落ち着いた次に私が気にしたのは、恥ずかしいことに自身の世間体だった。
この生き物(?)をどうするか。まさか外に出すわけにもいかなかった。
もし捕まれば、良くて見世物にテレビ出演か動物園に引き取られるか、悪ければ解剖か。
誰かに気付かれでもしたら…。
気鬱になれば良いものは見えない。
マイナスになる想像しか浮かばなかった。
唐突な出来事に動揺していたのかもしれないが、このときの私は真面目にそんなことを考えていた。
私の渋面を見て自分が歓迎されていないと思ったのだろう。

「れいむ、ゆっくりできない?」

ゆっくりは後ずさりながら私に尋ねた。
彼女(でいいのだろうか?)の目はなにかに怯えていて、
丸い体はいつ叩かれるかわからないといった様子で、ぎゅっと強張っていた。
眉を下げたその姿は私に己の失態を気付かせるのに充分なものだった。
私は慌てて言葉を返した。
 ――そんなことはないよ、来てくれてありがとう。
なぜ"ありがとう"なのかはそのときの私はよくわからなかったが、とにかくも彼女は嬉しそうに飛び跳ねた。
いたずらに怯えさせても仕方がないし、変に刺激して逃げ出されでもしたらどうすることもできない。
彼女はどうしてここへ来たのだろう。
私は取り立てて特別なもののない月給取りだったし、己がこういったことに巻き込まれる日が来るとは思いもしなかった。
なにか計画や運命のようなものが渦巻いているのかもしれないし、
ひょっとすれば"ゆっくりしていってね"が現れたのは私のところだけではないのかもしれない。
なんとかして確かめたかったが、確かめようにも誰にどう聞けばいいのかもわからなかった。
残念なことに私には同僚は多くいても友人はそれほどいなかった。

相手を暇にさせるのはよくない。そう思ってゆっくりに座布団を薦めた。
テレビのスイッチをつけて、私自身はお湯を沸かしにもう一度キッチンに立った。
ゆっくりれいむのデザインはゲームの主人公"博麗霊夢"が元になっている。
その霊夢は緑茶が好きだ、という設定があった。
なら緑茶が一番無難ではないだろうか。
キッチンから居間を覗くとゆっくりはブラウン管を眺めてはしゃいでいた。
きっとテレビを見るのは初めてだったであろうし、めまぐるしく変わる像は大層新鮮だったに違いなかった。
薬缶をコンロにかけて、スイッチを捻った。
そうして薬缶を睨みつける。
湯が沸騰するまでのあいだ、どうしても事態と直面せざるをえなくなってしまった。
外に出すのはまずい。
しかしここに置いたままで果たしていいのだろうか。本当に?
大袈裟に言わなくても未知の生命体なのだ―――
逡巡から抜け出すことは出来ず、新種の生物を個人の家で保有するのは何の条約に違反するのか、
というところまで行き着いたところで、シュンシュンと音がした。
湯飲みに茶を注いで、冷蔵庫にあった回転焼の残りも一緒に居間へ持っていくと、ゆっくりは声をあげて饅頭を食べ始めた。

「むーしゃ!むーしゃ!」

ゆっくりのAAはなにか食べるとき、"むーしゃ♪むーしゃ♪"と食べている様子をあらわした文字がつくことがある。
本当に言いながら食べるんだな、と、妙に感心してしまった。
幸せそうに饅頭を飲み込む饅頭を眺めながら、いつ尋ねようか窺っていると、饅頭は湯飲みの前で体を左右に揺らしはじめた。
しばらくすると、その動きにあわせてなにか湯飲みを覗き込むような上下運動も加わった。
湯飲みになにか浮かんでいるのだろうかと眺め続ける私に向かって、苛ついたような困ったような、そういう声が飛んできた。

「おにいさん!」

ゆっくりは湯飲みと私を交互に見やって言った。

「のめないよ!!!」

彼女に言われてようやく私は気がついた。なるほど飲めるわけがない。手がないのだから。
 ――ああごめんね、ちょっと待っていて。
私は台所に駆け込んだ。
でもどうやって飲ませればいいのだろう。きっと工夫が必要だった。
しばらく悩んだものの妙案の浮かばなった私は、ストローとクッキーの入った缶をふたつ持って居間に戻った。
テーブルに新聞紙を敷いて、その上に缶をふたつ重ねてゆっくりに座ってもらい、目の前に湯飲みを置いてストローをさした。
ストローは幻想郷にあるのだろうか。
私の不安をよそに、ゆっくりは懸命にストローを吸いはじめた。

「しあわせー!!」

やがてお茶も饅頭も平らげて、ゆっくりは一息ついたようにげふうと声を漏らした。
満足してもらえたようだ。
座っていた缶の中のクッキーに気付かれたのは予定外だったけれど。
 ――おいしかったですか?

「とってもおいしかったよ!」

ある程度伸ばしたり縮めたりできるのだろうか、
ゆっくりはデフォルメされたキャラクターのように縦に縮んでは上に向かって体を伸ばした。
その様子は腹ごなしの運動か、食べ過ぎた人が体をゆすっているように見えて、いちいちユーモラスだった。
私は尋ねたかったことを口から出した。
 ――きみはどうしてここへきたの。
満腹だからか、ゆっくりは機嫌よく座布団の上を転がりながら教えてくれた。
彼女は生まれたときは森にいたらしい。
家族と共に暮らしていたらしいのだが、
ある日れみりゃ(これも"ゆっくりしていってね!!!"のキャラクターだ)に襲われ、散り散りになってしまったのだと言う。
それ以来一人で暮らしてきたらしかった。
家族は見つかったのかと聞いたが、どこか諦めたように「みつからないよ」とだけ呟いた。
しまったと、私は思った。
見つかって一緒に暮らしているなら、この部屋に来た時点でまず家族はどこかと聞くものだ。
今起こっている事象は彼女にとっても異常事態なのだから。
彼女の話はとぎれとぎれに続いた。
食べ物がとれず、空腹のあまり畑の野菜を盗ってしまい人間に追われ、
あわや潰されんとしたところで例のおねえさんが助けてくれた。
おねえさんから「ゆっくりできるところにつれてってあげる」と言われ、気付けばここにいたのだと、そう言った。
わずかに間があって――
話の途中から予想はしていたが、やはりというかなんというか、

「だからここはれいむのおうちだよ!!!」

これでわかったろう、どうだ!と言わんばかりにふんぞりかえる彼女に、
私はここが自分の家であることを主張しなければならなかった。
ここは君のいた森とは違う世界であるということ。外にでると危ないということ。
まだ仲間がいるかどうかはわからないということ。
ここは私の家であって君のものではないということ。他にも色々。
話すたびに泣いたり喚いたり、説得は難渋だったが、
時計の短針が二週もする頃には漸う理解を得ることが出来るようになっていた。
私にとって幸いだったことは、彼女の頭は予想よりもいくらか賢く、
根気よく話せばきちんと話を聞いてくれるということだった。
結局のところ彼女に寄る辺はなかったし、野良で生きていくことは難しかった。
そのことをゆっくりれいむはちゃんと理解していた。
どう戻ればいいのかもわからない自分の故郷。
新しくやってきたのはどこかもよくわからない土地、仲間もいない。
不安だったに違いない。
あの小憎らしい顔は散り散りとなって、全く消えてしまっていた。
ゆっくりれいむはうつむいて、涙をこぼさんと必死に堪えていた。
あるいはゆっくりという生き物は、いつも虚勢を張って生きているのかもしれない。
頭も良くなければ強くもない。彼等を取り巻く環境は彼等に対して優しくはない。
身に不釣合いなほどの厚かましさを持たなければ、耐えられなかったのではないだろうか。
目の前の哀れな子に対して、私は、ついに同情の念に駆られないわけにはいかなかった。
だから言った。
 ――(現実にいるとは思わなかったが)私は君が好きだし、一人暮らしだ。
 今外にはでるのは危ない。でもここならきっと安心して暮らせる。だからここで暮らしたらどうかな。
私の知る生き物の、そのどれとも違う質感をした黒い髪の饅頭は私を見上げて、少し悲しそうな顔をした。

「ここにいてもいい?」

と私に尋ね返した。
 ――もちろん。君の仲間が見つかるまで、好きなだけここにいるといい。
 だから安心して。おねえさんの言うとおりだよ。ここならゆっくりできる。
 だから、ゆっくりしていってね。
ゆっくりはとうとう涙の堰を切らして私にぶつかってきた。

体中の液体を全て使い切るのではないかと思うくらい泣いて、
泣きつかれて、うとうとしだしていたから座布団の上に置いて居間の電気を消した。
今日の話で"おねえさん"は何度も出てきた。
結局名前はわからなかったが、ゆっくりが最後に見たとき、その女性の紫色の服を着ていたらしい。
やはりそうなのだろうか。
私の中で推測は確信に変わっていた。
ああ、本当に幻想郷はあるのだろうか。

どんなこともやってくるときは唐突だ。
自分でここにいるといい、などと言ったものの、先が見えないことに溜息を隠しきれなかった。
まだなにも解決していない。
悩んでいるうちに、れいむは寝息を立てて傾いていた。



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最終更新:2008年12月07日 15:48