「ゆ、おじさん、ゆっくりしないでまりさのぼうしをなおしてね!」
「ああうるせぇ、判ってるから耳元で騒ぐんじゃねぇよ……っと」
まりさをハエでも払うかのような仕草で追い払い、男はゆっくりと体を起こした。
汗が重力に従って流れ落ち、目に入る。
その僅かな痛みに顔をしかめて目元と額を拭うと視線を上げ、
「さてさて、どんな具合かね」
見上げた先、忘れ去られまいと存在を主張するように帽子が風に大きくはためいている。
その様子からしてどうやら乾いちまったかと、億劫そうに腰を上げて男は帽子を手に取った。
外面とつばを撫で、ひっくり返して内面の具合も確かめ、最後に一番乾きにくいと思われるリボンの内側に指を差込んでひとつ頷く。
洗う前ではよく判らなかったが、乾燥まで終わった今の状態で触ってみればなかなか良い手触りだ。
どういう材質かは知らないが、そこらの安物よりは良いかもしれない。
男は視線の向きを変える。
目をやったのはまりさではなくれいむ、でもなく、その頭上。
そこにはまだ目を開けることも無く、静かに眠る8匹の子供がいる。
ちょうど4匹ずつれいむとまりさに分かれているが、視線の先にあるのはまりさ達だ。
男の握りこぶしより小さい子供だが、その頭にはすでにしっかりと帽子が付いている。
茎がどこから生えているのか、何故被っている帽子から落ちないのか、どうしてもう飾りが付いているのか。
気にしないようにしよう、気にしても仕方が無いとここ数日のように言い聞かせるが、どうしても耐え切れない事というものが世の中には存在し、
「あのよ、まりさ。お前、帽子って小さくなったらどうしてんだ?」
とりあえず視線をまりさに戻して問うてみた。
洗う前は無理だなんだと散々言ったが、よくよく考えればどうもおかしい。
最初から出来ないと決め付けていたから今まで考えもしなかったが、あのリボンや帽子はどうやってサイズを直しているのか。
飾りの洗濯はやろうとすれば出来ない事もなさそうだと思えるが、こればっかりは手を加えないとならない。
となれば、それは一体どういうことだろうかと。
考え込むときの癖で無意識に腕を組もうとし、帽子が潰れる感触に慌てて腕を戻し。
自分でしなくても良いならば好都合という思いと、残りの興味と、期待もせずに軽い気持ちで投げた問い掛け。
だが世の中そうそう上手くいくはずも無く、ましてや相手はゆっくりで、
「そんなのしらないよ! そんなことよりゆっくりしないでなおしてね、おじさん!!」
急かす様に跳ねるまりさが返した答えは、男の想定した返答の範疇を軽々と飛び越えて、相当の時間を持ってからようやく着地し、
「ああ、そうかよ……? あ? 今なんつったよお前」
「しらないっていったんだよ! おじさんきこえてなかったの!? ぼうしもはやくかえしてね!!」
見下ろした先には、バカな事を聞くなとばかりに頬を膨らませたまりさ。
セミの声を背景に視線が絡み合い、しばしの膠着の後、男の肩と首が落ちた。
泣き喚いて暴れるくらい大切なもののくせに、
「あ、そ……」
落ちた肩と首をすぐには戻せず。
脱力感という奴は物理的な重さがあるらしい。
どうやらゆっくりと言う奴は、自分が知らない世の中の真理を教えてくれるようだ。
落ちた視線の先、あくせくと働くアリの数をぼんやり数えながら思索の世界にしばし逃避。
しかし、自分の中に以前ほど苛立ちなどの感情が生まれないという事は、少しは自分にも耐性という奴が出来てきたという事だろうか。
それは果たして、良い事だと手放しで喜んでいいものなのかね、と。
また新しい難題だと男は落ちた首をまわす動きでほぐしながら、
「おい、れいむ。お前はどうなんだよ」
同じ意味の問いをもう1匹に放った。
「ゆっ! おじさんまりさをむししないでね!」
「うるせぇ、お前にゃもう聞いただろうが。で、どうなんだ、れいむ?」
「ゆゆ? ゆっくりまってね、れいむゆっくりおもいだすよ!」
指摘どおり発言の後半は無視しているが、その事実すら無視して膨れたまりさは放置する。
ゆっくりの餡子脳の話を聞いたそばから鵜呑みにするなどとてもじゃないが自分にはできない。
する様な奴は、よほどのお人よしかそれこそゆっくり並みの餡子脳の持ち主だけだろう。
ましてや、先ほどの不思議回答を聞けばなおさらだ。
だから男はれいむにもののついでと問うてみる。
無論、それを口に出して説明する事はしない。
言うほどの事でも無いし、言えばバカがバカにするなと騒いで話が長くなるだろうなと予想は付く。
だから、男は黙ってれいむの返答を待った。
午後の日差しはようやく傾きを見せつつあったが、それでも衰えを感じさせる事無く照りつけ続けている。
雲ひとつ無い、よく晴れた空だ。
その青の下、騒ぐまりさを尻目に口を閉じ、つりあがった眉に少し膨れた顔のれいむ。
ゆっくりなりにこれでも真面目な表情なのだ。
だが、小さく伸び縮みしつつゆんゆんとうなっている姿は、人間からすればそういう態度だと受け取られる事はまず無いだろう。
どうでもいいな。
この態度についてはどうでもいいと割り切れるぞと、わけの判らない手ごたえを抱いて暑さの中を男はさらに待つ。
動きを止めた体に大粒の汗が再び浮かび上がるが、それでも彼は彼なりの考えの下、急かす事なく不動のままたたずんでいた。
しかし、ぞんざいに扱われ、今も相手にされず帽子も返してもらえないまりさにとってはゆっくりと待てるはずなど無く、
「ゆぅぅぅぅぅぅ! おじさん、ゆっくりむししないでね! ゆっくりしてないでまりさのぼうしかえして、ねっ!」
ゆっくりらしいと言おうからしからぬと言おうか、痺れを切らして帽子に飛び掛った。
が、男は何も答えない。
れいむに向けた視線を動かす事すらせず。
見せたのは、右手を上げる動き。
ゆっくりに空中で方向を変える術などある訳が無く、たったそれだけの動作に帽子の下をすり抜けて、自ら一直線に地面へと飛び込んでいく。
「ゆゆっ、じめんさんこっちに……ゆべっ! ゆ゙っ! ゆぐっ!?」
着地に使う手も足も無いので当然のようにそのまま顔面から落ち、さらに弾んで転がる豪快な着地。
背後から聞こえる音とくぐもった声で男は予想通りの結果を察するが、
「うるせぇぞ。れいむがゆっくり考えてるだろ。お前は黙って待ってろ、れいむの邪魔になる」
何やってんだかと付け加え、振り返ることも無く捨てておく。
男の興味はまりさではなくれいむに向けられていた。
どうせゆっくりの事だから、ゆっくり考えるといったものの10秒たたずに思い出すのを止めると思っていたのだ。
だが、れいむはうなりながらも予想を遥かに上回る時間を記憶の精査に費やしている。
人間からすれば短く、だが思い出すにはゆっくり過ぎるだろうが、今のまりさと比較して何と我慢強い事かと妙に感嘆した。
そして、そのまりさと言えば、
「ゆぐ、ひっ、いだい、ぺっ、ぺっ、おかお、ぺっ、いたいよ、れいむ……」
砂と土にまみれた顔面に涙を浮かべ、しかしいつものように大声で泣き喚きはせずぶるぶる震えて苦悶の声を押し殺していた。
伴侶の邪魔になると言われ、まりさなりに涙ぐましい努力をしているのだろう。
半泣きの表情で普段は靴が置いてある石台まで戻ると、砂と唾液を今度は遠慮なく庭先に吐き始めた。
男が一瞬不快そうな目を向けるものの、自分もタバコの吸殻を捨てたりする身だしな、と短い吐息で許容して興味を失ったようにまた視線を戻す。
それを良い事に、今までの恨みも込めてとばかりにさらにまりさは唾を庭に吐きだした。
「ぺっぺっ、けほっ……ゆふふ、ゆっへん!!」
散々砂と唾を吐き散らし、果てに若干むせるところまで行ってようやくまりさはささやかな、だが大きな反撃の一歩を打ちどめる。
頬を濡らした涙はどこへ行ったのか、その顔は上気し、常のふてぶてしさと合わせて非常にやり遂げた感のある笑みを形作っていた。
今までのお返しだざまぁみろと、胸のすくような気持ちで縁側へと上がり、まりさは自慢げに男を見上げる。
「……どした? おう、もういいのか」
その声に、久しぶりに顔を向けた男がそのまま何気なく足を横に払う。
「ゆ、ゆぅっ!?」
眼前で起こった光景はまさに天国から地獄、まりさの至福の時間は早くも終わりを迎えていた。
大きく目を見開いた先、たった1度男が足を動かしただけで努力と反撃の証が蹴り上げられた土と砂の下へと埋もれていく。
それだけでは終わらずに、さらに2度、3度と。
男はまりさの思惑に気づいていたわけではないが、唾を吐いたら埋める。
タバコを吸う男の正直無いよりマシ程度のマナーの前に、まりさのささやかな抵抗は儚くも埋もれ、後には中途半端に均された庭だけが残るだけとなっていた。
「な、なんでぇぇぇぇ!? どうじでえええええええ!?」
涙を堪えた我慢も唾と一緒に吹っ飛ばしたのか、叫びと共に膨れ、縮み、伸び、跳ね、転がりと奇妙な踊りを舞い始めるまりさ。
奇行はいつもの事だと先ほど自覚した耐性の下、暇つぶしもかねて男は冷静にまりさの真情を推察しようと試みる。
何かの運動だろうか。
それとも、ゆっくりなりの暇つぶしだとか。
いやいや、もしかすると猫のように粗相を自分で埋めたりする習性でもあるかもしれない。
饅頭の考える事はよく判らんが、もしそうならば悪い事をしてしまった可能性も有るか。
……駄目だ、どれもありそうでなさそうな気がする。
まりさが悶える真実を知る事無く、無精髭の伸びだした顎を撫でながらため息ひとつ。
「……で、れいむ。そろそろ何か思い出したか?」
別にゆっくりの奇行そのものにさして興味は無い。
とりあえずの問い掛けの答えを待っているれいむに催促する。
記憶容量が少なそうな割に時間がかかるのはきっと思い出す速度もゆっくりだからで、それをやっているこのれいむはゆっくりなりに誠実なのだろうと推測する。
とはいえ、長い。
いささか長かった。
人間の感覚では、物事を思い出すにしては無駄な時間が多すぎる。
まさか寝ているんじゃなかろうかと冗談半分の問い掛けにもれいむは反応しない。
一旦訝しげに眉根を寄せ、まさか日向に置いてたから暑さにやられたのだろうかといささかの動揺を抱いて男が手を伸ばした矢先、
「ゆぅーーーーーん!!!」
れいむがそんな声と共に伸び上がった。
ぴんと立った眉に三角開きの口、実に晴れやかな表情。
この真夏の陽気の中、少し暑苦しいというか、正直何かうっとうしいとさえ感じる笑み。
「…………おい、大丈夫か? ちょっとくらい、ああ、ちょっと、ほんのちょっとでいいから、なんか思い出せたか?」
本当に壊れてしまったのかと、伸ばした手を戻すのも忘れて男が恐る恐ると尋ねるが、
「ゆ! ゆっくりかんがえたけどよくわからなかったよ!」
「……ああ、そう。無事なようで何より」
盛大に引き伸ばした割にあっけらかんとしたれいむに、まるでまりさの時のそれを再現したようなため息が男の口から漏れた。
思ったほどに落胆は無い。
予想していたとも。
どこか投げやりに自分を納得させてみるが、それは強がりか諦め、どちらかの成分が強かっただろう。
さらに、もしかしたら自分への嫌がらせでここまで待たせたのかと疑心暗鬼に陥りかけるが、この数日の経験でさすがにそれは否定する。
とにかくこいつらは人間の常識とは違う生き物で、だから自分の常識で裏表を考えても仕方が無いのだと。
そして、判らないという答えも推察の材料としては無いよりもいい。
男は組み立てた推論を補強するために、まだ笑みを保ったままのれいむに確認を取る。
「……少なくとも、自分や家族で何かしたり、してもらったりはないんだな?」
「れいむはしてもらったことないよ!」
「まりさもないのか?」
「おぼえてないけどたぶんないよ! だからはやくしてね!!」
自慢げに言うことでも無いだろうが、ともかく2匹からはほぼ同じ内容の返答。
少なくとも、一緒になってからはお互いに何もしていない。
そして、それにも関わらずサイズが変わっている。
ならばそれは、
「勝手にでかくなってる、……ってことでいいのかねぇ」
つまり、体の一部みたいなものなのだろうか。
正面、赤ちゃん達の頭上には先ほど見たとおり小さいながらも、汚れをまだ知らない飾りが付いている。
男は首を下方へ傾けた。
視線はれいむから動き、少し手前にいるまりさが見え、さらにずっと動いてほぼ真下を見るような角度で自分の右手が見える。
首が窮屈だったので、若干戻す。
視界のずれに合わせて右手も上げた。
体の一部、ね。
どう見ても綺麗に分離している。
手を返してみるが、内部を見せた帽子には幾つかの穴が開いている以外はやはり何も無い。
緩やかに波打つ金髪を掻き分け、まりさの頭から怪しげな管などが伸びていたりという事も同じく無い。
ふむ、と顎に手を当てて次を思考する事しばし。
男は結論を悟られぬよう目だけをまりさに向けると、帽子を小脇に抱え無言のまま右足を一歩踏み出した。
続く動きは、足から続く腰のひねりと、それと共に右半身が前へと流れる動き。
「なに? やめてね、さわらないでね!!」
その動きに、男の狙いを悟ったかとっさの反応か。
ともかく自らに向かう悪意にまりさは後ずさった。
だが、当然のようにゆっくりが下がる動きよりも男の手の方が早い。
五指は狙い違わず、髪を絡めるようにしてまりさの頭部を捕らえた。
「ゆぎっ! いたいよ、まりさのかみになにするの!? ゆっくりはなしてね!!」
速さと捕獲の意識で自然と力が篭ったか、まりさが痛みに声を上げる。
「おじさん、いたいっていってるよ、まりさをはなしてね! まりさをはなしてあげてね!!」
「別に何もしねぇよ。ほら、まりさも暴れるな」
「うそだよ、いたいよ! はなしてね! ゆっくりしないではやくはなしてえええ!!」
「おじさんやめてあげてね! どうしてそんなひどいことするのぉぉぉぉぉ!?」
「だから暴れるから引っかかるんだろうが。じっとしてりゃ大丈夫だって……」
宥める男の声も耳に入らず、まりさは暴れまわり、暴れるが故に生まれる伴侶の苦鳴にれいむも思わず声を上げる。
水の一件以外はほとんど酷い目に合わされた覚えの無いれいむからすれば、この男はそれに安全な人間らしいと思っていた。
それが今、自分の大切な伴侶に傷みを与えている。
しかし常ならば即座に体当たりのひとつも出来ただろうが、如何せん頭部に子供を実らせたままの身、ひたすらに男を罵倒するしかない。
頭を掴まれ動きを封じられたまりさと2匹合わせて盛大に喚きたてるが、その口喧しさも男を止めるものとはなり得なかった。
眉根を寄せたまま、時折小さくふむ、だの、うーむ、と漏らす以外は、抗議の声など意に介する風も無く無言でまりさの頭部を調べていく。
いつの間にか両手となったその動きは、撫でると言うよりはかきまわすと言った方が近い、そんな動き。
少年が頭を洗う時に似ている、そう言えば伝わるだろうか。
「やめてぇぇぇぇ! まりさのきれいなかみにさわらないでね! ぐしゃぐしゃにしないでええええ!!!」
無論、まりさにとっては迷惑極まりない。
基本的に手足が無い種が大半のゆっくりなのだ、普段の生活で固定される事など滅多に無い。
あるとすれば、それは体格差のある相手からの圧し掛かりや木や石の隙間に挟まったりなど、事情はともかく望んでの状況でない事が大半だ。
故に、固定される事はゆっくりにとって非常に大きなストレスとなる。
まりさもその例に漏れず、人間の拘束から逃れようと右往左往するが、体は動きこそすれ指は一向に外れる気配が無い。
完全に頭上を押さえられているためその手に噛み付くことも出来ず、恫喝も嘆願も通用しないようだ。
どうやら単純に動いての脱出は不可能らしい。
それを悟ると、まりさは喚くのを止めて実力行使で脱出を図る事に切り替える。
口の端を噛み締め、「ゆぐぐぐぐ」といちいち声に出して力を溜めつつ、その瞬間を待つ。
圧倒的な力に一方的に頭をかきむしられる不愉快な感覚。
今度はゆっくりと耐えに耐え、男の手が頭から離れた瞬間、諸々の恨みも込めて全力で男に向かって跳躍した。
だが、
「ゆぎゃっ!!」
攻撃を加え、男が怯んだところで拘束から逃げ出そう。
そう考え、真正面の腹部を狙って跳んだ所で痛みに悶え、目標の遥か手前で無様に落下する羽目になった。
「どうじで!? どうじでなんにもないのにまりざのあだまがいだいのぉぉぉぉ!?」
「何やってんだ、お前……」
ぼやいた男と悶えるまりさの頭の間、流れるような金の輝きが互いを繋いでいる。
その髪が枷となってまりさの逃亡を阻み、なおかつ跳躍の頂点から振り子のように床へと叩きつけたのだ。
「いだいいいいい! れいむ、いだいよ、あたまがいだいよぉぉぉぉ!! ゆっくりできないよおお!!!」
「まりさ、じっとしててね! すりすりしてあげるからすぐにゆっくりできるよ! ぺーろぺーろ、いたいのいたいのゆっくりとんでってね!」
予想外の痛みに子供のように泣きじゃくるまりさと、そのまりさを慰めようとれいむがにじり寄っていく。
ぷにぷにの頬を摺り寄せあったり舐めたりと、子供をあやすかのような仲睦まじく微笑ましい光景。
が、れいむの誠意はさておきまりさが痛いといっている場所は頭だし、痛みなどはゆっくりどころかさっさとおさらばしたいものの代表格だろう。
どうにも滑稽な情景に苦笑いしつつ、男は呆れたように肩をすくめ、
「お前な、さっき自分で髪がって言ったろうが……」
やはり盛大に呆れていた。
髪に指を突っ込んで、それをさらにかき回すのだから絡まらない訳が無く。
事ここに至ってようやく男もまりさの狙いに気が付いたが、そもそもまりさの髪と男の腕では、後者の方が長い。
つまり髪を抑えられた時点で、どうやってもまりさは男に対して有効打を与えられない詰みの状態だったのだ。
腕の無いゆっくりには理解できない現象ではあるだろうが、絡まる事くらいは判りそうなものだと男は思う。
まりさの場合、普段は帽子を被っているから枝とかにも案外絡まらないのだろうか。
男なりに当たりをつけてみようとするが、そこを突き詰めようとすると限りが無さそうだと頭を振って思考を中断する。
「まぁ、いいか……おい、外してやるから今度は暴れるなよ」
盛大に嘆息すると、絡まった髪を外しにかかる。
とりあえずの目的は果たせたと判断せざるを得ない。
触ってみた結果、導き出される答えは「何も判らない」だ。
判らない事が答えなのかもしれない。
世の中、人間にはうかがい知れない事なんてごまんとある。
そもそも、人間が人間の事を全て判っているかと言えば、答えは否だ。
まあ、こいつらが能天気で馬鹿で非常識で、そして考えている事は人間にはよく判らない。
それで、いいか。
石台に膝を付く形で男は腰を落とすと、帽子を傍らにおいて少しずつ絡まった髪を解き始めた。
ゆっくりに顔が近づくため、必然的にまりさの大声が耳を責め立てる。
親になるんだからガキみたいに泣き喚くなと悪態をつくが、2匹の耳にはまるで入っていない。
男は顔をしかめつつ、少しでも騒音を和らげようと肩と耳をくっつけるようにして作業に没頭する。
こちらに注意がまるで向いていないのをいい事に、解く手を止めて頭を撫でてみるが、やはり髪以外は特に異物感があるわけでもない。
落ち着いて触れてみれば、伝わる感触は意外と柔らかく繊細なもの。
「ゆぅ……ゆぅん……ゆふふ……」
まりさもいつの間にか泣き止んでおり、目を細めて男にされるがままになっていた。
まるで猫のようだなと思い、人の話を聞かないだの気分屋だの、あながち外れていないが可愛くはねぇだろと、自分で苦笑する。
基本的にゆっくり同士のスキンシップは、体の構造と今の2匹を見ての通り、体をくっつけ合うか舐めるかくらいしかない。
後はその強さや早さなどで微妙な機微が加わるものだが、さすがにそこまで男は知らないし、判る感覚でもないだろう。
しかし、それは判らなくともゆっくりの舌や体など比べ物にならぬほど繊細に動く人間の指だ。
野生のゆっくりには決して味わう事の出来ない体験をしているだろう事は、まりさの恍惚の表情を見れば一目瞭然だった。
その様子に、質問の答えは当てにならないが、こちらからならもう少し丁寧に説明してやりゃあ良かったかと、男は一抹の気まずさに頭を掻く。
事に及んだ理由が「単に気になった」というそれだけだったが、それだけのつまらなさにかえって説明したくなかった。
そもそも、れいむはさておきまりさの方はどうにもふてぶてしい。
人間の無意識に染み付いている、人間>ゆっくりという図式。
男の感覚も知らぬうちにそれからは逃れられず――その図式が染み付いているからこそ、飼うことに躊躇するのだが――何と無く、ゆっくり相手だしまぁいいやと。
ゆっくりに対して温厚ゆえに変人とも取られるであろう男にして、この扱いのぞんざいさがゆっくりの存在の軽さの証ともいえた。
だが、今はそれも遠いどこかの話のようにのどかな光景が広がっている。
傍から見ればやはり不服であろうが、まさしくペットのようにまりさを撫でる男。
そして、泣き止んだまりさに寄り添ってすりすりするれいむと、背中と頬の感触に目を細めるまりさ。
れいむの頭上には夫婦であり、母の証である8匹の子供。
誰も彼もが幸せそうな笑みを浮かべている…………かと思えば微妙にそうではなかった。
それは始めは小さな、やがて深く、はっきりと。
場の空気にそぐわない、男の眉間に深く刻まれた皺。
原因は、まりさを撫でているその足(?)元。
月日を経て色褪せた木板が、いつの間にかそれとは異なる色彩に彩られていた。
男は開いている左手で少し大きめの塊をそっとつまみ上げる。
じゃり、と小さな音を立てたそれは、指の動きに分解されて木板の上でぱらぱらと音を立てた。
その一連の様子に、男の眉間の皺がさらに深くなる。
「れいむ、お前もしてほしいか?」
今度は過たず、男はれいむに声をかけてから左手を伸ばした。
「……ゆ? ――ゆっくりなでてね!」
その動作に、すりすりを止めて振り向いたれいむが首を傾げ、やがてゆっくり理解したのか、まりさにくっついたまま位置を若干男の方へとずらす。
羨ましかったか、と今までとは色の異なる息を男は吐いた。
まりさに擦り寄りつつも、横目でこちらをちらちら見る様子に何とはなしに気がついていたが、ここまで正直だとさすがに可愛げが有る。
少し、暑さが和らいだような。
男は小さく喉を鳴らして笑った。
待ちきれないと瞳を輝かせるれいむの髪に、ゆっくりと手を伸ばしそっと触れる。
まりさと比較して、癖が無い分若干硬めでしっかりとした手触り。
指の上を零れ落ちる様は、ふわふわというよりさらさらと言おうかつるつると言おうか。
どうにも上手く表現できない自分の語彙の少なさに、男の眉間に皺がまた1本。
いや、別に相手はゆっくりで女口説いてるんじゃないからいいだろ、とあまりにも寂しい負け惜しみは口の中だけで消えて、誰の耳には届く事は無く。
自爆気味に仏頂面の男と喜色面々に湛えた2匹のゆっくり。
セミの音と、時折どこからか響く鳥の声と「うー♪」という間抜けな声。
風に揺れる梢の音が1人と2匹を包む、ゆっくりとした時間。
ふと、「なるほど、これが収穫か」
そんな風に。
よく判らない事が判った。
髪の事や撫でられるのが嫌ではないと言う事。
どれも、些細な事だ。
だが、小さく意味が無いように思えても、糧になったと思えばそれは悪いことではないし、決して無駄ではない。
お互い分かり合えそうなこともあるのだから、出来る範囲で優しくしてやろう。
それで、いいか。
先ほどと同じ言葉を、異なる心持ちで思い、男はそっと2匹から手を離した。
「――さて、そろそろ終わりな」
「ゆぅぅ、ゆぅ……? ゆ、おじさん、もっとしてね! まだれいむゆっくりできてないよ!」
後からやって来たからか、それとも単に遠慮が無いのか。
ともかく、れいむが撫で足りないと不満の声を上げる。
しかし、男はその声に取り合わず、一点をじっと見つめている。
視線が注がれているのは左手、今までれいむを撫でていたその指先。
僅かだが、爪の隙間に茶色い粒が入り込んでいた。
爪を噛むようにしてこそぎ取り、庭に即座に吐いて捨てる。
今まで何故気が付かなかったのだろうか。
程度の差こそあれ、2匹とも髪の中は地味に砂まみれだった。
男が思い出す限りここ数日洗った事は無いし、そもそも水に弱く手足の無いゆっくりの事、しっかりと水浴びをするという事は無い。
まりさに至ってはさらに山の中を泥だらけで走り回った上に、さっきも砂にまみれていたのだから、この事はもっと早くに気が付くべきだったのだ。
「……おいお前ら、ちょっとこっち向け」
「ゆゆ?」
「ゆ?」
れいむもまりさも、先ほどの怒りはあっさりと幸福の記憶で塗りつぶされたのか、男の言葉に素直に顔を向ける。
男の方も何とかしなければと声をかけては見たのだが、特に何か考えがあるわけではない。
どうしたものかと腕を組み、れいむの様に唸ることしばし。
もぞもぞと腕組みを解き、先ほど撫でていた手をそのまま2匹へと差し出した。
「ゆぅーーん♪ ゆっくりなでてね! ゆっくりなでてね!」
再び撫でてもらえると、れいむが満面の笑みで男の手の真下に移動する。
しかし、
「ゆっ! なに、おみず!?」
「ゆ? れいむ、どうしたの!? おみずさんからゆっくりにげてね!」
頭に落ちてきた滴に驚き、慌てて不器用に後ずさる。
まりさの方ではまだ何事も起こっていないらしく、れいむを案じて身を捩るがその頭上に滴が落ちるや、
「ゆゆっ! こっちにもおみずがおちてきたよ! まりさゆっくりにげるよ! れいむもゆっくりにげてね!」
「おみずさんやめてね! おじさんたすけてね! たすけてよまりさぁぁぁぁぁ!!」
れいむはあっという間に半泣きになり逃げようとするが、頭上を気にして下がる速度は亀かカタツムリのようなそれ。
一方、助けを求められているまりさはと言えばあっさりと身を翻しその場を離れていた。
伴侶が這いずっている姿をよそに、助かったとばかりに息をつく。
しかし、安心して緩んだその背中を先程よりも勢いと数を増した水滴が打った。
「ゆ!? おみずさんとはゆっくりできないよ! ゆっくりにげるよ!」
逃れたと思ったのもつかの間、ゆっくり出来ない状況に再びまりさはぽよんと1跳ねでその場を飛びのきまた一息。
後ろを振り返り、何も無いことを確認してまたゆっくりしようと力を抜いて……
「どうじでえええええ!? おみずさんこっちにこないでねえええええ!!」
「ゆ……まりさ、どうしたの? まりさー?」
水滴の更なる襲撃に再び逃げ惑う。
その様子を、今はもう落ち着いたれいむが不思議そうに見つめていた。
最初に少し落ちてきた水滴から後は、自分の所には全く何も落ちてこない。
それなのにまりさが水と連呼して逃げ回る状況に小さく体を傾げるが、外は雲ひとつ無い青空で、上を見れば迫り出した屋根がある。
ゆっくりと考えてみるが、餡子脳では残念ながら満足な回答は導き出されなかった。
無論、原因は一人しかいない。
「動けない嫁さんほっとくのはよくねぇわな。にしても、これじゃ風呂に入れるなんざ夢のまた夢かよ……」
いつの間にか手を突いて部屋に身を乗り出していた男が、にやけた笑いとため息を起用に共存させる。
まりさを襲っていた物の正体は、男が腕を振って飛ばした汗だ。
単なる嫌がらせ、では無く、最初は単に水をどれくらい嫌がるのかと思って少し汗を落としてみるだけのつもりだった。
が、まりさの発言についお灸を据えてやろうと、おちょくり半分のつもりが何時しかやりすぎてしまったという次第。
しかし、ここまで水を嫌うとは。
風呂に入れてさっさと髪を洗う算段が一瞬でご破算になってしまったと、汗の浮いた髪を汗の浮いた手で撫で付けるように掻き、
「ま、いいか。とりあえず風呂入ってくるから、まりさ、お前の帽子はその後な?」
結論を先延ばしにすることにした。
現状、ゆっくりに使わせている場所はこの部屋と縁側だけだったので、それ以外に入らせなければとりあえず被害の拡散は防げる。
この部屋はもう仕方無いが、他は閉めておけばしばらくの間はそれで良いだろう。
今はそれよりも風呂にしようと、手を着いていた板を見て思う。
光が生み出す陰影とはまた別のそれは、詰まる所ただの汗の痕跡だ。
帽子が乾くのを待っていた分と、天狗と会話していた分と、今のなんとも間抜けた一幕。
それだけの間に体内に溜まった熱が、その証をべったりと木板に刻みつけていた。
「ゆ、おふろ? そこはゆっくりできるところなの?」
耳慣れぬ言葉に興味を持ったのか、れいむが男に問いかけるが、
「ん、まぁゆっくりは出来るぞ」
「ゆっくり」と言う単語に、何時の間にか戻ってきていたまりさと2匹目を輝かせる。
しかし、それに続けて、
「こう、たっぷりの水と言うかお湯をだな、人間がすっぽり入れるくらいの浴槽に入れて、そこにゆっくりと浸かるんだ」
と、男が大きな四角を空に描いたところで、
「ゆゆゆ、そんなおみずさんはだめだよ、おちたらゆっくりできなくなっちゃうよ!」
「ゆっくりおうちにかえるよ!」
お湯や浴槽といった言葉が判るのかは知らないが、恐らくたっぷりの水、に反応し、2匹とも震え上がって部屋の中へと戻って行った。
ありゃあお前らに貸した部屋であって家じゃないんだがなぁと男はその背中を見送って、大事な大事な落し物を片手にゆっくり後を追う。
「ほれ、まりさ。返してやるからとりあえず持ってろ」
ようやく日陰の座布団の上でゆっくりしたまりさの頭上で、男が無造作に帽子を手放した。
穴が開いて空気抵抗の小さくなった帽子は、ふわりと漂う事も無く渇いた音を立てて安住の地へと降り立つ。
数時間ぶりに触れ合う髪と帽子。
己の半身が戻ってきた喜びにまりさは涙――――しなかった。
「ゆっ! おじさん、まだあながあいてるよ! ゆっくりしてないではやくなおしてね!!」
「あ? ああ、濡れても良いんだったら今やってやるが……」
約束が違うと膨らんで遺憾の意を表す。
今回ばかりは自分に分があると怒るその目の前で、男は腕に指を這わせた。
まりさからは見えないが、拭われていく先から指に沿って汗が溜まっていく。
やがて、それなりの量が集まると、自重で腕を伝い、大粒の滴となって畳に弾け幾つかの染みを残していく。
「な? お前さんらにゃ判らんだろうが、人間はこういう風に全身から汗って水みたいなのを掻くんだよ。判ったか?」
「ゆ、ゆゆぅ……ゆっくり、りかいしたよ……」
涙くらいなら自分達も流すが、人間が水を作り出すと言う事実にあっさり意気消沈してまりさは小さくしょげ返る。
水は天敵だし、濡れてびしょびしょになった帽子の感触などは、そういうときの体験と相まって二度と思い出したくも無い。
せっかく乾いて綺麗になったのに、またあんな風になるのは嫌だった。
不承不承といった感を撒き散らしつつも、まりさにできる事は承諾する事しかない。
「……まぁ、天狗だとか色々な無駄話があったからなぁ。ゆっくりしないで出てくるから、少しだけ待っててくれや」
萎んだ姿に、自分ものんびりし過ぎたかなと居た堪れなくなった男がそっと声をかける。
「ぜったいだよ? ゆっくりしないでね?」
「ん……まぁ、なるべくな。それなりに冷まさないとまた汗かいちまうからな」
「ゆぅ……じゃあ、あんまりゆっくりしないでゆっくりしてきてね……」
矛盾甚だしいまりさのせめてもの頼みに、これは断る事も無くあいよ、と手を上げて、男の背中は隣の部屋へと去って行った。
数分後。
「おじさんゆっくりしすぎだよ!! ゆっくりしたけっかがこれだよぉぉぉぉぉぉ!!!」
あっという間に我慢の限界に達したまりさの絶叫は、脱衣場と浴室の壁に阻まれてゆっくり水風呂に浸かる男に届く事は無かった。
続く。
- とても楽しく拝読させていただいています。続きを楽しみにしています。 -- ゆ (2008-10-08 19:30:44)
- きた! 話の長い人きた! これで勝つる!……ゆっくりまってたよ! -- 名無しさん (2008-10-11 09:18:59)
- 最後のまりさに笑ったww思いっきりガラスに突っ込むまりさを幻視しました -- 名無しさん (2008-10-29 14:09:07)
- 続きはどうなることやらwww -- 名無しさん (2010-06-09 21:10:56)
- つづきが楽しみ -- 名無しさん (2010-11-28 02:51:47)
最終更新:2010年11月28日 02:51