※直接的な描写はありませんが、ゆっくりが死ぬことを仄めかす文があります。ご注意ください。
~罪と嘘~
人生は迷いと後悔の連続である。戸惑い、振り返るのも人生である。
だが、いつまでもそこに留まるのは愚かな人間。
大切なのは、前に進もうとする意志だ。
人間の混乱、憤り、恐怖、不安、焦り…ありとあらゆる負の感情が入り混じった叫び声が絶え間なく響き渡る。
「今、14匹運ばれました!」
「状態は!?早く言え!!」
「1が7匹、2が3匹、3が4匹です!!」
「クソ、ダメだ!すでに床は埋まってる!軽傷の奴は一端どかせ、新手の1はその場での応急処置に留めろ!」
「ちくしょ!!追いつかなねえ!!この際、3も切り捨てろ!」
「イヤです!まだ、命があります!見捨てるなんて…できません!」
「バカヤロー!!!全体を優先しろ!そいつの1匹に代わりに何匹救えると思ってるんだ!確実に救える命の灯火を消すな!」
「もうすぐで小麦粉が尽きそうです!」
「誰か!本部に連絡しろ!ヘリで持ってきてもらえ!!」
そんな怒号と悲鳴と…ゆっくりたちの鳴き声も響き渡る。
ここは東南アジアのある国。―――国民は全てゆっくり。
農耕も鉱工も商業も経営も政治も、あらゆることがゆっくりの力のみで行われ、社会は成り立っている。
だが、ゆっくりによる政権争いの過激化が引き金となり、多くの一般のゆっくりたちをも巻き込む大内乱が勃発してしまった。
ここの所、状況は更に悪化した。
ゆっくりたちがゆっくりサイズの銃、毒ガスといった新兵器を戦いに取り入れたのだ。
これにより大量の殺人が可能となり、現在の治安は最低のレヴェル。
今、混沌に巻き込まれ、対応に追われている人間たちはNGOの組織の1つ『ゆっくりを支える会』の要請に応じた医療関係者たちだ。
ただ、彼らは医療関係者と言ってもゆっくりの治療を生業としてるが。
先程の医師たちの会話の中で出てきた数字は患者の危険度を示している。
1が軽傷。危険度は低く、少し治療すれば治る状態。
2が中傷。命の別状はないが、出来る限り迅速な治療が必要な状態。
3が重傷。今すぐ処置を施さなければ、命が危ない状態。
4が致命傷。最早、いかなる治療も手遅れで命が消えるのを待つしかない状態。
こういう災害発生時や、戦場などの迅速な対応が求めれる医療の場合、出来る限り多くの患者を救うこと、ゆわゆる”個人主義”ではなく”全体主義”が重視される。
例えば、危険度4の患者は容赦なく見捨て、3→2→1の順に優先的に治療を行ってゆくという基本マニュアルがある。
元々、欧米諸国ではこのような考え方・医療の有り方は古くから根付いていた。
日本ではやや遅れたものの、阪神・淡路大震災で6000人以上の命が失われた反省により、災害医療に特にこの思想が徐々に取り入れられる。
2005年4月25日、JR西日本の福知山線脱線事故の際、初めてこの災害医療が適用・実践された。
(後に助けなかった基準が曖昧と遺族が憤慨。その為に、災害医療の有り方が更に議論されているのだがここでは割愛させて頂く)
一介の青年がこの医師たちの中にいた。彼は若干25歳。某国立大学の医学部に浪人することなくトップの成績で合格し、医師免許を獲得。
頭の良さは折紙つきで、『期待の新人』と称される。野心を宿した彼の瞳はギラギラとした輝きに満ち溢れていた。
今回のこの『ゆっくりを支える会』の活動も自ら強く志願した。必ず良い経験になると。きっと多くのゆっくりの命を救う助けになると。そう思って。
…だが、現在の彼の瞳には、生気がまるで感じらず、よく見るとくまは深く、額にはしわが何本か浮かんでいた。
彼だけではない。ここにいるものは皆辟易していた。医療器具も、人員も、物資も、臨床も、何もかもが足りない。
それなのに、毎日津波のように患者が押し寄せてくるのだ。
ゆっくりたちを助けたい・救いたいとい想いが強くとも、現実はあまりに厳しすぎた。
なんとかこの日の一難は過ぎ去った。それでも現場の緊張は続く。
助けようとした命の半分程度しか救えなかった上に、またいつ荒波が押し寄せてくるかと思うと油断は許されないのだ。
安らぎは睡眠のみ。それでも、悪夢を見たり、熱帯雨林気候特有の蒸し暑さに苦しむばかりなのだが。
あるベテラン看護婦が椅子に座ったまま動けないでいた青年に近づいた。
「お疲れさん。これ飲む?」
差し出されたのはこの場に不似合いなコカ・コーラだった。
「…遠慮しときます…」
律儀な断りにも力がなかった。彼は、もう丸1日、何も口にしなかった。…否、何も食べられないというべきか。
この多忙さと惨状の最中ではでは、食事を取る気すら起きないのだ。
「そうかい…でも、倒れて余計な手間が掛かるのも面倒だからねえ。…後で死んじまったゆっくりでも食べておきなよ。」
その言葉が耳に入った瞬間、青年の中の煮え滾る何かがキレた。
気がついたときには、看護婦の胸倉を掴んでいた。
「…ゆっくりは…そんな軽い命じゃねぇ!!」
正気を失っていた。完全に怒り任せ、このまま殴りかかる勢いだ。
にも関わらず看護婦は動揺することなく、冷静に青年の手を払いのける。
「それだけ元気があれば大丈夫ね。若いんだから私ら年寄りより頑張んなよ。」
彼女は、わざとハッパをかけたのだ。それに気付くと青年は自らを恥じ謝罪した。
「まあいいって…それよりもまだ治療が済んでないまりさがいるんだけど診てやってくれない?」
拒む理由がなかった。
教えられた病床へ行くと、ぽつんと子まりさが一匹座っていた。状態2という紙が貼ってある。
通常なら、それなりに優先的に診る筈なのだが…人手が足りないのか、忘れられてしまっていた。
まりさ右の頬には、銃弾が貫いた後があった。
「…ゆ…おにいさんはゆっくりできるひと…?」
その声には張りがまるでなかった。
「ああ、ゆっくりできるよ。お兄さんは君を治療しに来たんだ。」
できる限り不安を取り除こうと、やや無理に明るく振舞った。すると、子まりさはこう返す。
「ゆ…おにいさん…まりさよりも…おかあさんや、おねえちゃん…いもうとをなおしてあげて…」
しかし、その場にまりさの言う家族は居なかった。どうしようかと苦笑を浮かべていると、あるまた別の看護婦が近づき、耳打ちする。
(この子の家族…もう既に死亡確認が取れてます…)
そう教える彼女の目は潤んでいた。
もう何度目だろうか。家族を失ったゆっくりと接するのは。
家族と一緒に居る。そんな当たり前の幸せすら、ここでは実にあっさり奪われてしまうのだ。
青年は更に取り繕った笑顔を作る。
「大丈夫…大丈夫だから…まりさを治した後にお母さんも、お姉ちゃんも、妹も…診るからな。約束する。」
すると、子まりさは幾分か気力を取り戻したようだ。
「ゆ…!?おにいさん、ありが…とう…」
子まりの眼前一面にはさぞ希望が広がったことだろう。こんな嘘も何度目か…
青年は平常、正直者で通ってきた筈だったが、嘘をつくことに対する罪悪感は日に日に薄れていった。
子まりさの頬を見る。流れ弾が命中したようだが、幸いにも急所は外れている。
それでも、なるべく早く治療を施した方が良い。早速、メスを入れることにした。
「ゆぎぎ…い、いたいよ…!」
「ごめんな。我慢してくれ。」
子まりさは歯を喰いしばって痛みをこらえた。本当は麻酔を使用したいところだが、既に果てていた。次に届くのは1週間先だ。
出来る限り痛まぬよう、慎重に周りの餡を掻き出し作業を続けた。
「よし…見つかった…」
存外早く弾丸が埋まった箇所に辿りつけた。素早く取り除くと、餡子を再び詰め、表面を小麦粉で固め、治療は終わった。
「まりさ、終わったぞ。よく頑張ったな!もう、大丈夫だ。」
「ゆ!!ほんとだ、もういたくないよ!おにいさん、ありがとう!」
彼の心は少し救われた。この地獄もまだまだ捨てたもんじゃない。
この屈託の無い笑顔がある。ここでは、確かにゆっくりが生きてるじゃないか。
青年は、ポケットに弾丸をねじ込んだ。
その後、子まりさはやけに青年に懐いた。青年も気を良くし、子まりさとの会話をいつしか楽しみにしていた。
こんな状況だからこそ、気兼ねなく話せる子まりさの存在は彼が思っている以上に大きいものだった。
「ねぇ、おにいさん!」
今日もいつものように子まりさが話しかける。
「どうしたんだい?」
「おにいさんは、どうしておいしゃさんになろうとしたの?」
中々難しい質問で思わず唸る。
「そうだなあ…おれは…少しでもみんなの命を助たいと思ったからかな。」
脳に鞭打つが良い答えが思い浮かばず、漠然と誤魔化したが、まりさは目を輝かせていた。
「ゆ!おにいさんはすごいね!ゆっくりえらいよ!!」
「はは。そんなことないさ。…ところで、まりさは何になりたいんだ?」
そう尋ね返すとまりさは間誤付いた。
「ゆ…わ、わらわない…?」
「わらうもんか。他人の夢を笑う奴は生き物じゃねえさ。」
おどけた声で言うと子まりさは安心した表情を見せる。
「あ…あのね…まりさ、おにいさんみたいにえらい…ドスまりさになりたい!」
青年の胸に何かが引っ掛かった。
「おれ…みたいに…か…」
自嘲と皮肉を込めて呟く。
「そうだよ!おにいさんはすっごくゆっくりしたおいしゃさんだもん!おにいさんみたいに、なかまをたすけたいよ!」
子まりさは太鼓判を押し、改めて決意を表した。しかし、青年の顔にはどことなく影が映っている。
この地に来て、医療の現実を知った。
救いたくとも救えない命があることを知った。
己の無力さを知った。
青年はこの2ヶ月間。たった2ヶ月で彼の自信は地に堕ち果てた。
こんな無様な者にはなって欲しくないというが彼の率直な感想だった。
「ゆ!おにいさんはまりさのおかあさんたちも、なおしてくれたんだもんね!」
「……え……?」
完全に虚を突かれた。
そう、子まりさは彼の嘘を信じていた。その純粋な眼差しで見つめられると急に居心地が悪くなってしまう。
「…あ、ああ…そうだよ…」
彼の罪悪感は完全には滅んでなかった。正直に言うべきか否か…葛藤するも、今更引き返せまい。
「…そうだよね…ゆ…でも…おかあさんたちとどうしてあえないの…?…」
言葉が詰まる。いや、いっそ…正直に話せば…今ならば、まだ間に合ったかもしれない。
「…今、お母さんたちは安静にしてなきゃだめなんだよ。…だから、すぐには会えないんだ。ごめんな…」
さらに重なっていく嘘に胸が痛む。
「ゆ!ゆっくりりかいしたよ!おかあさんたち、ゆっくりはやくなおってね!」
いつもの屈託の無い笑顔へと戻る。青年は居ても居ても立っても居られず、この場をずこずこと退出した。
診療室の椅子に投げやりに座るとふうーと、大きく息を吐き、天井を仰いだ。
しばらくそうしていると、視界に紙コップが入ってきた。
「ほら、あんたコーラ飲まないから。水だよ。」
例の看護婦だった。別に飲みたいとは思わなかったが、いけ好かないのを理由にして、頑なに断りを入れるのも阿呆臭い。
奪うようにして受け取り、一気に飲み干した。その後、2人は何もすることなく黙り込み、場は静寂に包まれた。
看護婦がセブンスターを取り出して吹かす。青年は眉を顰め看護婦の方を睨んだ。
彼はタバコがからきし受け付けない人種だった。それに、『医療に携わるものはタバコを吸ってはならぬ』という信条を持っている。
彼女への心証は悪くなる一方だ。わざとらしい咳払いをするも、彼女は無頓着を貫く。
3本目に突入したその時、沈黙に耐えかねてか看護婦の方から口を開いた。
「あの子まりさ、どうだい?元気になった?」
漂ってくる不快な煙と臭いに顔を顰めて、だが、あくまで無感情を装った声で青年は答える。
「ええ。概。もう1週間も経てばここから出れますよ。」
「…あの子、孤児になっちまったからね。…しばらくはここに置いておいた方がいい。」
それは、全く言葉通りである筈なのに…彼は非難されているかのように感じてしまう。
「あいつ…家族がまだ生きてるって…オレの嘘…信じてるんです…」
彼女への嫌悪の色は薄れ、代わりに後悔めいた影を落す。
「どうかい…嘘ついたのかい…それは困ったね。あんた、今更家族みんなぽっくり逝ったなんて言えるのかい?」
彼女の口調は実に乾いていた。やはり…非難されているのか…?
「……嘘は……罪なんでしょうか…?」
「さあね。詐欺で金巻き上げたら罪になるんじゃない?…だけどね、嘘つかないとこんな仕事やってれないよ、あたしゃ。それに、人間は嘘の塊だよ。」
そう、病院側は、嘘をつかねばならない時がある。
患者を傷つけない為に…患者の希望を勝手に壊してしまわぬように。
それでも、最近は聞く権利、告知する義務、QOL等が騒がれ患者に対して幾分か単刀直入な態度を取るようになったが。
どちらが正しいのかはケースバイケースだ。
「まぁ、嘘なんてあたしらが生きてる社会で茶飯事なんだからさ。少なくともそのこと自体であんたを責めたりはしないよ。だけどね…」
一瞬言うか言うまいか躊躇した。
「…だけど何です?はっきり言ってください。」
「そうかい、じゃあ遠慮なく言うけどね。あたしゃあんたが大嫌いさ。」
青年はムッして言い返した。
「そりゃ奇遇です。私もあなたみたいな人間を生理的に受け付けることができません。」
売り言葉に買い言葉だ。
「ほう、そりゃ都合がいい。…あのね、そのなまじっかな優しさを見ると虫唾が走るんだよ!!」
語尾が強くなってゆき、最後には荒れていた。
「……患者への優しさがなければ医者は終わりです……」
努めて冷静ではあったが。必死に怒りを抑え込むように肩が微かに震えていた。
だが、看護婦は溜息をつくといつものようにさぞ、どうでもいいように答える。
「…あんたと言い争う気はハナからないよ。ただ、これだけは覚えておきなよ。『中途半端な思いやりは、必ず相手を傷つける』。」
そう言ったきり、看護婦は外に出ていってしまった。
「クソ!!!」
青年は思わず、机の上に置いてあった鉛筆を壁に叩き付けた。
ある日、尊い犠牲となってしまったゆっくり達の墓を作るという作業が行われた。ある若い看護婦が提案したものだ。
皆、疲労困憊でこれ以上の重労働は厳しいが、反対する者は誰一人としていなかった。
結局、命に対する想いは一緒なのだ。
気付くと、診療所で安静にしていたゆっくり達も作業の手伝いを申し出に来ていた。
「らんしゃま…わからないよー…!!!」
「…おかーさん…れいむは…おかあさんがいなくても大丈夫だよ…」
「おちびちゃん…とかいはだったおちびちゃんのぶんもおかあさんはゆっくりいきるからね…」
「むきゅ…おねえちゃん…」
「ぱちぇりー、まりさがついてるからだいじょうぶだぜ…」
大声で泣き叫ぶ者、静かに家族を追悼する者。沈んでいるゆっくりを励ます者。
ゆっくり達だけでなかった。ここの医療スタッフもまた、同じようにしていた。
そんな光景を見ると居た堪れない。息が詰まりそうだ。
こんな空気に耐えかねて、青年は外れへと向かった。すると、例の子まりさが近づいてきた。
「ん?なんだ…お前さんも手伝いに来たのか。えらいな。」
「ゆ!あたりまえだよ…みんなかぞくがしんじゃってかなしんでるのに…まりさだけゆっくりしているわけにはいかないよ!」
その健気な言葉に青年は目頭を咄嗟に抑え込んだ。
…ああ、なんという皮肉か!この子まりさは家族を皆失い、慰められる側にいる筈なのに…
空は鉛色に変わり始めた。
この作業もほとんど終わりへと近づいてきた。もう一息だと活を入れていると子まりさが急にぴたっと止まる。
「ん?どうし…」
言い掛けて、青年は…全てを気付いてしまった。
子まりさの先には、子サイズのまりさとれいむ、成体サイズのれいむが一匹ずついた。
胸の中で硝子にひびが入る。
ガタガタと震え、叫び声をあげた。
「お゛があ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁざあ゛あ゛ああああぁぁぁぁん゛ん゛ん゛んん!!!!!」
子まりさは、母親や姉妹に声をかけたり擦り寄りはじめた。だが…残酷にも返事はない。
青年にどうしようもなく、子まりさに近づこうとする。だが、鬼の形相で睨み返された。
「じね゛ゆっぐりじね゛!!みんななおったっていったのに!!うそつき!!じね゛!!」
青年の目の前の世界が歪み始めた。
「……ごめん…な……」
それしか言えない。
「ごろじでやるう゛う゛!!!みんな゛のがだぎをどっでやるうう!!!じね゛ゆっぐりじね゛!!」
子まりさは発狂した。「ころす」、「しね」この二言を壊れたラジカセのように繰り返しながら青年に体当たりを仕掛ける。
しゃがみ込むと、咄嗟にポケットの中に手を突っ込んだ。
…そうだ、確か、鎮静剤入りの飴があった筈だ。落ち着かせてから話を聞いてもらおう。
…きっと分かってくれず筈だ…あった…
「まりさ!おちついて…ほら、これでも食べて。」
子まりさの前でてのひらを広げると、そこにあったのは………銃弾だった。
硝子は、脆く、儚く、悲しい響きを立てて崩れ落ちる。
「いやあああ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁ!!!ま゛り゛ざの゛ぼっぺにあだっだやづうううう!!!い゛゛や゛あ゛あ゛ああ!!じにだくないいいい!!!」
…最悪だった。
痛み、怒り、哀しみと記憶が錯乱し、子まりさは最早まともな状態ではなかった。
その只ならぬ様子に慌てて数名のスタッフが子まりさを抑え鎮静剤を打つ。
子まりさがようやく落ち着きを取り戻し始めると男が青年へと近づいた。
そして…青年の顔面を殴った。
青年はなす術なく地面に倒れ込む。
「ハァ…ハァ…バカヤロー!!!何やってんだ!!」
男は更に続けようとしたがこの瞬間、計ったようにスコールが来た。
男の―――否、子まりさの怒りを代弁するかのように激しく、男を打ちつける。
このスコールを合図に作業は終了となった。ゆっくりが濡れぬよう、スタッフが慌てて誘導してゆく。
青年は1人、その場に膝をつき残された。
「…はは…ははは…」
力なく己を嘲った。
彼は、あの看護婦の忠告の意味をようやく理解した。
この地に来てから何度目かも分からない後悔をした…いや、今回は今までの比ではない。
スコールは未だ止まぬ。
その翌日から子まりさは診療所から姿を消した。
謝罪することすら叶わず、それが青年を一層歯痒くさせた。
彼は毎日、子まりさの家族の墓を拝むのを日課とした。
この家族もきっとあの世で青年を恨んでいることだろう。いや、いっそ呪われた方がどれだけ気が楽か。
それから4ヶ月余り、全く生きた心地のしないまま、青年の任期は終える。
最後の日。
今日もいつものように墓へと向かう。すると、そこには思わぬ人物がいた。
「…どうしたんですか…こんなところで。」
後姿しか映らなかったが、それは紛う事もない。あの看護婦が墓前で手を揃えている。
彼女は、振り返らず答えた。
「あんたの優しさの尊い犠牲となった子まりさに代わって、あの子の家族を弔いに。」
言葉こそとげとげしかったが、口調は柔らかく拍子抜けした。
「治療した患者の頬に埋まっていた銃弾を返そうとするとか。あんた稀に見るおたんちんだわ。」
「はは、そうですね。死んだ方がいい。」
冗談でも何でもない。本当に死んで詫びても構わない。これが彼の願いだった。
「……絶対に死ぬんじゃないよ……」
「え?…」
見透かされているような気がしてぎょっとした。
看護婦が振り返り、青年の手を強く握り締めると、てのひらに何か置いた。
「これは…」
銃弾だった。あの後、彼がすぐに捨てた筈の。
「この銃弾、死ぬまでずっと持っておきな。あんたは一生を賭して十字架を背負って行くんだからね。その証拠さ。」
「…………」
青年は黙るしか他なかった。
「これから先、ゆっくりの命を全力で救いなさい。それがあんたに出来る唯一の罪滅ぼし。勝手に死んでおめおめ恥を晒したら、私が地獄まで追ってぶん殴ってやるよ。」
「…言われなくとも分かってます。」
青年は看護婦に背を向け、去ってゆく―――いつかのように弾丸をポケットにねじ込んで。
「…頑張んなよ…」
その後ろ姿が消えるまで看護婦は見届けた。
彼の背中に罪が突き刺さる。
それから5年の歳月が経ちかつての青年も三十路を越え、見違える程変わった。
駆け出しの頃の迷いの目は影すらなく、幾つもの修羅場を乗り越えた者だけが有することがゆるされる精悍な面魂を手に入れた。
それを裏付けるように、彼は都内…いや、日本でも有数のゆっくりの医者と称されている。
「―――君、ちょっといいかね。」
腹が出た人の好さそうな白髪交じりの男が近づく。
「なんでしょうか、病院長。」
「いや、あのね。君が5年前に行った、ゆっくりの国なんだがね。とうとう内戦が終結したそうなんだよ。」
懐かしい…あの地で様々なことを学んだ。彼の原点とも言える。
「それは朗報ですね。」
「うむ。それでだ。まだ復興の途中で人材がちっとも足らないらしいだよ。どうだい?医療スタッフとしてまた行ってはくれないかね?」
「はぁ…急に言われましても…それに、こういう機会は僕みたいな年寄りよりが枠を埋めるよりももっと若い人の為に使った方がよろしいのでは?」
「はっはっはっ!君もまだまだ十分若いじゃないか!ま、私は君を信頼してるからこの話を持ち出したんだ。2、3日中には結論を出してくれ。では、失礼するよ。」
一息ついて帰路に就く。あの国が気にならない訳ではなかったが…やはり、それでは若手は育たぬ。
命を預かる者には、経験と挫折が必要なのだ。その貴重な機会を奪ってしまうのは好ましいものではない。
そんなことを考えている内に自宅に着いた。
ソファーに横たわりテレビを点けるとニュースが始まろうとしていた。
『今日、日本時間14:20、ついに激化していたゆっくり王国の内戦が終結しました。2年前、1匹のドスまりさの台頭により力を付けた革命軍が、とうとう政権を掴み取った模様です。』
ドス…まりさねぇ…そういえばあの子まりさもドスになりたいとか言ってたけな…元気でやってるだろうか。
『その時の声明の映像を流します。』
画面が切り替わるといきなりまりさの顔がドアップで映った。思わず茶を噴出してしまう。
と、徐にワイドに切り替わる。
「…クソッ!油断した…なんてカメラマンだ…」
多種多様のゆっくりが広場に集い、ドスまりさの声明を今か今かと待っていた。
と、ついにドスが大きく息を吸った。
「ドスはここに、ゆっくりのゆっくりによるゆっくりのためのせいじをおこなうことをひょうめいするよ!!」
歓声とドスコールが巻き起こる。ここには活力と希望で満ち溢れているようだ。画面越しからでもその熱気が伝わってくる。
「ゆ!せいしゅくにしてね!ドスがここまでこれたのは、ここにいるみんなと…あるおにいさんのおかげだよ!!」
…ある…おにいさん…?
「そのおにいさんはおいしゃさんで、ドスのほっぺのケガをなおしてくれたんだよ!」
今度は一斉におにいさん、ゆっくりしていってねっと合唱が響き渡る。
彼は絶句した。…いや、まさか…そんな馬鹿な…
「でも、おにいさんはドスのおかあさんやおねえちゃん、いもうとがしんだことをドスにうそついてかくしたんだよ!」
すると、ゆっくりたちがざわめき始めた。
「ドスはおこってなんどもおにいさんに『しね!』ってのろったんだよ!」
先刻の賞賛から掌を返すようにゆっくりしねと叫び出す者も出てきた。
「ゆ!おにいさんをわるくいうのはゆっくりやめてね!!だけど、おにいさんはドスのかぞくのはかをつくって、まいにちおいのりにきてくれたんだよ」
彼は確信した。ああ、あの時のまりさに違いないと。
「ドスはきづいたんだよ。おにいさんはドスのためにうそをついて、ドスのためにおいのりしてくれたんだって!」
ドスまりさは実は知っていたのだ。毎日墓に来る慇懃な青年の姿をしっかり見ていたのだ。
「だからドスはお兄さんみたいにやさしいドスになって、ここをゆっくりできるくにかえようってけついしたんだよ!」
今一度、盛大な歓声が巨大な渦を作り出した。
「ゆ!にほんのどこかにいるおにいさん!ドスはもうおこってないよ!もしよかったら…ドスのくににあそびにきてね!それで…ドスたちとゆっくりしていってね!!」
ここでVTRは終わった。
『ドスに道を示したお兄さんとは誰のことなんでしょうか?日本人とのことですが―――』
キャスターの言葉が終わらない内にテレビの電源を消し、天井を仰ぐ。
「ははは…はは…」
彼は笑った。笑わずにはいられなかった。道化師に騙されたような気分だった。
罪を背負い続けて5年来。彼はとうとう解放されたのだ。
携帯電話を取り出し電話を掛ける。3回の呼び出し音の後、相手が出た。
「夜分恐れ入ります。―――です。例の件なんですが…ええ、喜んで引き受けさせていただきます。…はい、ありがとうございます。全力を尽くします。」
彼は未だ、常に持ち歩いているあの銃弾をポケットから取り出しそれを見つめながら、心の中でごめんなさい、ありがとう、おめでとう。この3つの単語を繰り返した。
―――あいつにあってすぐに言えるように。
-fin-
- GJ! -- 名無しさん (2009-01-17 22:35:34)
- なんというドキュメンタリー!感動しました
-- 名無しさん (2009-01-19 02:49:26)
- 感動しました、まりさが理解していたのも(TдT) -- 名無しさん (2010-06-23 16:30:40)
最終更新:2010年06月23日 16:30