コップ

「どうも、こんにちわ~」

「…おう。まあ、上がれや」

「ゆっ、あ! おねーさんだ! 男一人でむさ苦しい部屋だけど、ゆっくりしていってね!!!」

「はいはい、こんにちわれいむちゃん。片付いていない部屋ですけど、ゆっくりしていきますよ」

「お前らな…」

今日は特に予定が無く、いつもの様にれいむとぐーたら惰眠を堪能するつもりでいたんだが…。
目の前にいるゆっくり好きの同じ職場のやつに『あなたはれいむちゃんを愛でられているんですか! 私ちょっと不安になって来ました、視察しにいきます!』とよくわからない名目の下家にお邪魔されたという訳だ。

「ふう、それにしても本当に片付いていないですね…、あ! あう、こ! これはななななんですか!!!」

片付いていないだなんて男の一人暮らしにしてはべらぼうに綺麗な方なのに、心外な! と口に出さないように毒ついている所、急にあいつは何かあたふたし始めて、小柄な顔を真っ赤にしてソレをつまみながら俺にソレを問掛けた。

「…? それは、ティッシュだが」

「そんなことは分かりきっています!!! 一体どうして、なんで女の子が部屋に遊びに来るのにも関わらずちゃんと処理していないんですか!」

「おにーさん、不潔だね!」

…なるほど。要するにあいつは、俺が夜またはさっきこのティッシュを使用したと勘違いしたわけか。
そりゃあ、もしそうだったなら流石に俺とて健全な男、ごみ箱に入れてカモフラージュを試みるがいかんせんそのティッシュは俺が鼻を噛んだ時に使用したもので、残念ながらあいつが期待しているその様なイカガワシイ物ではない。
俺だって、出来るなら処理したいさ! ただ、家のどこにいてもずっとれいむが見てるし、俺の家のはずなのに安息の場所が無いだなんて、とほほ…。
しかし、普段事務室では『氷の微笑』『恐怖』と呼ばれているあいつがこんな反応をするなんて予想外だし、…ギャップがあって可愛いななんて思ってしまった。なんてことだ!
しかし、思った事実は変わらないし、もっと反応を見てみたいと考えたのもまた事実。
職場ではいつも尻に敷かれているし、仕返しも兼ねてちょっかいを出してみる事にした。

「ああ…? ああ。処理に使った時、ごみ箱に捨てようとしたんだけどな、それすらもおっくうになって」

「だ、だからって私が来る事はわかっていたんじゃ無いですかっ!」

「お前の事を考えると、抑えられなくなって…」

「…え? …―え!!!!??」

「鼻を噛んだのさ」

「…」

あいつは手でつまんでいたティッシュをくしゃりと握り潰しごみ箱に捨てると、無言で俺の頭を叩いてきた。痛い。
背中からもれいむからだろうか、ばいんばいんと張りの良い感触が俺を襲う。気持ちいい位なのだが、れいむとしては必死に俺の事を体当たりしているつもりなのだろうし、何も言わないのがマナーだろう。
内心してやったり~! なんて思ったんだけどな。ただ、失礼な事をしたことも事実。この痛みは罰だと思って、甘んじて受け入れよう。

「…全く! そんな下らない事ばかりするから職場でも立場が低いのですよ、おにーさんっ!」

「…お前まで、その名前を使うのか」

「だって、名前で呼ばれるのが恥ずかしいのでしょう?」

…そうなのだ。隠しているつもりはないが、俺は子供の頃から自分の名前にコンブレックスを抱いているのだ。
理由はしごく単純なもので、名前が女の子っぽいからだ。名前を授けて貰った両親には申し訳無いが、俺はこの名前のせいで小中高と、挙げ句の果てには職場にまでからかわれる人生を送って来た。
逆に言えば、この名前のお陰で人見知りしがちな俺でも友人を隔たり無く作る事が出来たのだけれども。その点では確かにありがたいが、コンプレックスを抱いている事には変わりがない。
いい年こいたおっさんがその様な名前で呼ばれるのはとても恥ずかしい訳で、できれば避けて貰いたいと言うのが俺の正直な心情な訳だ。しかし…。

「おにーさんってのも、なんだか小っ恥ずかしいな…」

「どうしたんですか、おにーさん?」

「そうだよ、おにーさん! 人の好意を受けとるのも、一種の思い遣りだよ!」

「…うむむ」

故意犯なのだろう、あいつら二人は息を合わせて執拗におにーさんと繰り返し呼んで来るが、名前で呼ばれるよりかはましか。
俺は手慰みに、まあ。一応、折角来てくれたお客さんに何か飲み物でも差し出すため台所に行き、コップを二つほどテーブルに置きオレンジジュースを冷蔵庫から取り出した、その時だった。

「ゆっ! ゆっくりしていってね!!!」

れいむはテーブルにぴょんと乗り出し、なんとコップに向かってゆっくりしていけと呼び掛け始めたではないか!
最初は自信たっぷりに胸を張り眉を強めて叫んでいたが、もちろんコップから返事が返ってくる訳も無く最後には『あれれー?』と疑問を口にしながら眉をしかめてしまった。

「おにーさん、この人返事をしないよ?」

「はっはっは! れいむ、それはコップと言って、物なんだよ」

「ゆぅ、コップ? 物さんなの?」

れいむが体をかしげてコップにまじまじと注目する。
うーん、れいむが家に来てからそこそこ時間が経過しし見掛けたとは思っていたんだけど…。れいむはまだコップの存在を知らなかったみたいだ。
かわいいな、こやつめ! れいむを撫で倒そうとした、やはりその時だった。

『ゆっくりしていってね!!!』

「「!?」」

俺とれいむは驚き目を合わせ、どこから声がしたのか辺りを探ってみるとテーブルのすぐ下にあいつが潜り込んでいた。
いつの間に、あいつは何をやっているんだ…。れいむはテーブルの上に乗っているので、ちょうど気が付いていない様だけど。

「ゆ…、ゆっくり?」

れいむは驚き怯んだ様子でコップにじりじりと近付いて呼び掛ける。
すると、あいつはやけに甲高い声色で『ゆっくり!』とコップの声を演じた。へえ、あいつあんな声だせたのか、意外だなあ! …ともかく。
もう一度、今度はきちんと声を聞いたれいむは曇っていた表情をぱあっと輝かせ、『おにーさん、コップさん喋ったよ!』とぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねながら俺に話しかけてきた。
うーん、本当はあいつが声を吹き込んでいるだけなんだけど、今事実を言うのは躊躇われるしなあ…。仕方なく、そうだなと相槌を打つ。

「ゆっ! コップさんは、ゆっくりできる人?」

「うん、ゆっくりできるよ!」

コップ(あいつ)からの返事を聞いて、さらにれいむは表情をはじけさせてはしゃいでいる。
ううむ、ここまで嬉しそうなれいむも久しぶりだな。この様な一面を見させてくれたという意味では、あいつは場を読んでくれたのかな。

「ゆぅ~、コップさん! れいむはれいむ! よろしくね!」

「私はコップ! よろしくね!」

「コップさんは、どうしてコップさんなの?」

「それはね、私がコップだからだよ!」

「ゆぅっ! 凄いね、コップさん!」

まるで教育番組にでも出てきそうな口調と声色、やりとりに思わず笑ってしまったのだが、あいつにキッと睨まれてしまったためごほんと咳をして誤魔化した。

「ゆぅ、コップさん! れいむ、コップさんと友達になりたいな!」

「うん、いいよ! 私もなりたい!」

「ゆぅ~♪」

れいむは嬉しそうにコップに近付き、仲良しになった印か頬擦りを始める。
その際にコップのひんやりした感触がれいむにはやや冷たかった様で、始めは少し苦そうな顔をしていたがすぐに気持よさそうに目を細めた。かわいい。

「…ごめんね、私。時間が来ちゃったみたい。もう、行かなきゃ」

「ゆっ? コップさんはコップさんだから、ずっとここに居るんじゃあないの?」

「ふふ。そうなんだけど、私はあなたと話すために特別に命を吹き込まれたコップなんだ」

「…?? れいむと話すために?」

「うんっ。だから、今日はこれでお別れ。後ろのおにーさんから嫉妬めいた目線も感じるしね」

あいつがなんだか妙な事を言い出すかられいむから嫉妬めいた目線が要塞の様に飛んで来た。どうしてくれる!

「そんな、やつ当たりは良くないよ。おにーさんだって、あなたが私とばかり話しているから淋しいのよ」

「ゆうぅ~ん…、そっかあ。ごめんね、おにーさん!」

れいむがしっかり俺の方を向き、ぺこりと頭を下げて立っている俺のお腹に顔を埋めてすりすりしてきた。
可愛いなあ、お前は! ただ、どちらかと言えばあいつの方が絵になるんだろうな。

「じゃあ、またねっ! …そんな、淋しそうな表情をしないで。わからないけど、きっと会えるわ」

「ゆっ、コップさん! またね~!」

れいむが振り向き大声で返事を返す。しかし、コップ(あいつ)から返答が返ってこなく、疑問に思ったれいむがコップにすりすりするなどスキンシップを試みたが、反応も無くれいむは目に涙を浮かべ始めた。

「…れいむ。コップさんは、コップさんと話したいと思ったれいむのための特別なプレゼントだったんじゃあ無いかな」

「…ゆうっ」

れいむが悲しそうに目を伏せる。正直な話、俺はコップさんの正体を知っているから何を言ってもまぬけにしか聞こえないのだが…。
それでもれいむを抱き締める事でれいむの気が楽になるのなら、俺は何回だって抱き締めよう。きゅっと、れいむを包む様に抱き締める。

「…どうしたのですか、れいむ。そんな悲しそうな目をして」

「…゛お゛ね゛ー゛さ゛ん゛っ゛!゛」

あいつが何食わない顔付きで、まさに今来ましたよと言わんばかりにぬっと現れた。
れいむがその声を聞いてか、抱きつく俺の腕からぴょんと跳ねてあいつの胸の中に涙を流してうずくまる。ちくしょう、どーせ俺はむさ苦しい男ですよ、魅力なんてありませんよーだ!
れいむはあいつの服が色々な液体でびしょびしょになる位に泣いている。俺でもためらう位だが、あいつは優しく微笑みかけてれいむを抱き締める。
凄いな、あいつは。好い人なのか大物なのか。

「…れいむ。別れとは、必然です」

「…゛ゆ゛っ゛?゛」

「例えば、友達と別れる時だって、それは別れです。なら、どうせだったら笑い話にしませんか? こういう事があったんだよって、話し掛けてくれませんか?」

「…」

「…ね?」

「…ゆうっ! れいむね、今ね! コップさんと話してたんだよっ!」

「へえ、コップさんと。それは凄いですね!」

れいむが先程の悲しそうな表情から打って変わって、さっきあった出来事を急いで伝えようと笑顔であいつに話しかける。
あいつも、その相槌に表情を驚かせたり笑ったりと、まるでその出来事を知らなく、興味を持っているかのように話を聞いている。
…あいつ、あんな表情も出来るのか。今日は発見が多く、とても良い事だ。
まあ、とは言っても除け者にされている俺としては面白くない訳で。
二人の話のきりの良い所で、俺は二人に呼び掛ける。

「うぉっほん、二人とも。冷蔵庫にキンキンに冷えたプリンがあるのだが、小腹も減ってきた事だし食べないか?」

「ゆうっ、あまあまっ! れいむ、食べたいよ!」

「本当ですかっ!? いやあ、実はと言うと子供の頃から一度も、ほんっとうにい、ち、ど、も! 食べた事が無いんですよ~! やったあ~!!」

一人異様に喜んでいるやつがいないような気もしないが、まあ些細な事か。
喜んでくれる事はいい事だ。俺は、今か今かと待ち構えているれいむに呼び掛ける。

「れいむ、プリンを食べるために食器棚からスプーンとお皿を持ってきてくれないか?」

「ゆゆっ! ゆっくりわかったよ!」

れいむが眉を強ませてぽよんぽよんと食器棚のある台所まで跳ねて行く。
その様子は相変わらずとても愛苦しく、見とれてしまう程だが一応尋ねる事があるので俺はあいつに振り返る。

「ん~ふふ~♪ プッリッン~」

「お前はいつまで喜んでいるんだ…。服、どうするか?」

「だって、嬉しいのですもの。服はそうですね、良ければシャツを貸して貰えますか?」

「あいよ、…ほら。その服は一緒に洗濯するから洗濯機の中に入れておけ」

タンスから無地の白シャツを一枚取り出し、あいつの頭に向かって放り投げる。

「あふ、ちょっと! 手渡しでも良いのでは無いですか!? 
…まあ、いっか。ちゃっちゃと着替えるから、覗いても良いのですよ?」

「何を言うかお前は」

一応あいつも恥じらいはあるのか、風呂場で今着ている今時のファッション? 正直、俺は流行というものに疎いからよく分からないのだが。
何やら黒のかっこいい服を脱いでそれを洗濯機に入れ、無地の白シャツを見に纏った。
うーん、くやしいがあいつは何を着ても絵になるな。

「…ちょっと。何、ずっと私を見ているのですか」

「…え、あ! うわわわ! ごめん、無意識の内に見入ってた!」

「…まあ、いいですけど」

あいつがジト目で俺を見る。
悪かったと思いつつ、俺はれいむに視線を変える。あいつもれいむを見出した様で、れいむの様子はというと一生懸命お皿を取ろうとする可愛らしいものだった。

「…ふふ。可愛らしいですね。私の計らいに喜んでくれたようで、何よりです」

「ああ。全くだ」

全くお前は大物だよ、と心の中で噛み締めてあいつをチラと見る。
あいつは自分の緑色の長く整って綺麗な髪を、片手でかきあげながられいむを見て微笑んでいた。
その様子に、思わず見とれてしまった事は誰にも内緒にしておこう。

「…そんな、見つめないでくださいよ。プリン、楽しみにしてますよ? おにーさんっ」

「お前なあ、調子いいんだから…、あ」

そういえば前にまとめ買いして冷蔵庫に入れて置いたプリンだけれども、じわりじわりと減って行って、昨日の時点で残り二つになったんじゃ無かったっけ…?

「ゆうっ、おにーさん! れいむだけじゃあ冷蔵庫開けられないよ、手伝ってね!」

「はいはい、お呼びでござんすか…。ほいっと、あ! …やっぱり」

案の定目の前に広がっている現実は、残されたプリンが後二つしかないといった事実だった。
俺は扉が開いた冷蔵庫の前でがくりとうなだれながら、れいむに過酷な現実を伝える。

「…すまない、れいむ。このプリンを食べるには、三人でじゃんけんをする必要がありそうだ」

「ゆがーん!?」







「「「じゃんけん、ほい! あいこで、ほい! …おっしゃあ~!」」」

「ゆう~! れいむも、プリンにありつけるんだよ!」

「そんな、そんな! プリンが、プリンがああああああ~!」

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最終更新:2009年03月14日 10:20