先輩とチェンジリング・デイ
――あれはそう、俺が今年になって初めて蝉の声を聞いた日、学園の完全下校時刻が差し迫った夕方も遅くの
ことだった。
ことだった。
教室の窓の桟を磨くのに夢中になるあまり不覚にも時間を忘れていた俺は、見回りに来た週番の教諭に尻を叩
かれながら慌ただしく退出することになった。熱心な運動部員もみな引き上げて、今や生徒で残っているのは俺
くらいのものだという。
俺は玄関のタイルを数回爪先で蹴ってスニーカーの具合を整え、大股で校舎を飛び出した。
外の光景は、地上の光源を差し引いても、予想していたよりいくらか明るい。
梅雨はつい先日にいつのまにやら過ぎ去っていたが、ぬるま湯のような空気は爽やかとは評しがたいものがあ
った。まだまだ気の滅入る季節である。
かれながら慌ただしく退出することになった。熱心な運動部員もみな引き上げて、今や生徒で残っているのは俺
くらいのものだという。
俺は玄関のタイルを数回爪先で蹴ってスニーカーの具合を整え、大股で校舎を飛び出した。
外の光景は、地上の光源を差し引いても、予想していたよりいくらか明るい。
梅雨はつい先日にいつのまにやら過ぎ去っていたが、ぬるま湯のような空気は爽やかとは評しがたいものがあ
った。まだまだ気の滅入る季節である。
(さすがに、指がどうかなっちまうな)
窓枠の細い溝の掃除を手作業でしようとすれば、どうしたって人差し指を酷使することになる。
手首を振って関節をほぐしながら、弾みのない足取りで我が家を目指す。
湿気をたっぷりと吸って万の葉を付けた植木が、視界の端で流れていく。
手首を振って関節をほぐしながら、弾みのない足取りで我が家を目指す。
湿気をたっぷりと吸って万の葉を付けた植木が、視界の端で流れていく。
……じりりりりりりぃぃ……
樹上からざんざんと降り注ぐ喧しい音の正体は、ヤブキリという昆虫の鳴き声だ。このあたりにはそれなりに
多く生息している。バッタの仲間はみな草食だと思いこんでいた小学生時代の俺は、こいつがセミを食い殺すの
を目撃して大いに驚愕したものだ。
多く生息している。バッタの仲間はみな草食だと思いこんでいた小学生時代の俺は、こいつがセミを食い殺すの
を目撃して大いに驚愕したものだ。
「フン」
俺は顎を上げて溜め息を吐き掛けて、深呼吸に変更。少しだけ開いた唇から、空気が滑り出していく。深呼吸
と言いながら行為じたいは溜め息とさほど違いがあるわけではないような気もするが、つまり、これは気持ちの
問題なのだった。
そうしていると、おのずと薄暮の空が視界に入った。
昼の黄金と夜の群青とに漠然と分かたれた瀟洒な天幕。
痩せこけた月が放つ光は、いつもより赤を強く発色しているように思えた。……どうしてだか、あまりそれを
まともに見てはいけない気がした。“ルナティック”という英単語があるが、古来より月と狂気に纏わる御伽噺
は枚挙に暇がない。
と言いながら行為じたいは溜め息とさほど違いがあるわけではないような気もするが、つまり、これは気持ちの
問題なのだった。
そうしていると、おのずと薄暮の空が視界に入った。
昼の黄金と夜の群青とに漠然と分かたれた瀟洒な天幕。
痩せこけた月が放つ光は、いつもより赤を強く発色しているように思えた。……どうしてだか、あまりそれを
まともに見てはいけない気がした。“ルナティック”という英単語があるが、古来より月と狂気に纏わる御伽噺
は枚挙に暇がない。
「……帰るか」
今まさに帰宅中の身で、そんな言葉を口にする。
無意味な独白は、しかし、やかましさに定評のある昆虫たちの喚き声にすっかり掻き消されるはずだった。
無意味な独白は、しかし、やかましさに定評のある昆虫たちの喚き声にすっかり掻き消されるはずだった。
「――?」
そこで違和感を覚える。
俺の発した声が、他のいかなる音とも重ならず、クリアなままで耳まで届いたからだ。
人間など恐れない、あのふてぶてしいヤブキリたちが、一斉に鳴くのを止めていたのだ。俺はこの時点ではま
だ事態をそれほど深刻に考えていたわけではなかったが、それは実際、異様な“変化”だった。
生物の野性は、天変地異の兆しだとかそういったものに対してはよほど敏感だというが。
俺の発した声が、他のいかなる音とも重ならず、クリアなままで耳まで届いたからだ。
人間など恐れない、あのふてぶてしいヤブキリたちが、一斉に鳴くのを止めていたのだ。俺はこの時点ではま
だ事態をそれほど深刻に考えていたわけではなかったが、それは実際、異様な“変化”だった。
生物の野性は、天変地異の兆しだとかそういったものに対してはよほど敏感だというが。
(まさかな)
自分の妄想を鼻で笑いながら、それでも俺は異変を探して視線をさ迷わせる。
――空を見上げると、一粒の光が動いていた。
銀の尾を引いて、月の弓から放たれた矢のように、太陽を失くしかけた空を横切っていく。誇らしげなまでに
煌めきながら。
煌めきながら。
――しかしそれは、流れ星にしては低速すぎ、航空機にしては複雑怪奇な動きをしていた。
あれは、
何だ?
何だ?
――やがて光点は、空中でいくつかに分裂し、それぞれが光線となって縦横に天空を走った。
視聴覚に砂嵐。
光によって描かれた凹凸と曲線の具合は、ジグソーパズルのピースとまったく同じだ。まさか、何者かが、空
をばらばらにしてそれを再び組み立てるなどという、魔神の遊戯に興じているわけでもなかろうが。
しかし、少なくともこれは、自然現象ではない……!
ここからでは光線の展開、その全容は分からないが、地上にも及んでいる可能性はある。全体の規模は、最低
でも都市ひとつを平らげる。
光によって描かれた凹凸と曲線の具合は、ジグソーパズルのピースとまったく同じだ。まさか、何者かが、空
をばらばらにしてそれを再び組み立てるなどという、魔神の遊戯に興じているわけでもなかろうが。
しかし、少なくともこれは、自然現象ではない……!
ここからでは光線の展開、その全容は分からないが、地上にも及んでいる可能性はある。全体の規模は、最低
でも都市ひとつを平らげる。
「……はッ!」
憑き物が落ちたように、俺の認識からノイズが消え去る。
俺のこの場で知り得る限りの範囲においては、特別の異状はないようだった。もっとも、木立に囲まれては、
遙か遠くまでは見渡せないのは当たり前だが。
背後の仁科学園を振り返っても、白亜の偉容は揺るぎない。そのことに安堵を覚えながら、俺は足早に正門を
目指した。
その先に、何が待ち受けているとも知らずに。
俺のこの場で知り得る限りの範囲においては、特別の異状はないようだった。もっとも、木立に囲まれては、
遙か遠くまでは見渡せないのは当たり前だが。
背後の仁科学園を振り返っても、白亜の偉容は揺るぎない。そのことに安堵を覚えながら、俺は足早に正門を
目指した。
その先に、何が待ち受けているとも知らずに。
――そうして、俺たちの“世界”は激変した。ここではないいくつかの世界のピースがまったく出鱈目に嵌め
合わされ、歪つで巨大、そして驚くほど多様な、ひとつの“世界”が創り出されたのだ!
――異なる世界、異なる法則、異なる存在、異なる能力、異なる役割。
――全てを抱き締めて微笑む混沌の世界で、
合わされ、歪つで巨大、そして驚くほど多様な、ひとつの“世界”が創り出されたのだ!
――異なる世界、異なる法則、異なる存在、異なる能力、異なる役割。
――全てを抱き締めて微笑む混沌の世界で、
「――さぁ、きみはどうする?」
つづく