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ゴミ箱の中の子供達 第16話

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匿名ユーザー

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ゴミ箱の中の子供達 第16話



「ごめんなさいね、ゲオルグ」

 すまなさそうに謝る姉のイレアナの姿に、ゲオルグは脱力の息を吐いていた。
 姉が倒れたという急報に急いで駆けつけてみれば、姉は自室のベッドの上で穏やかに微笑んでいた。話を
聞くと、どうやら風邪か何かで熱を出し、それでも無理に体を動かそうとしてめまいを起こしたらしい。大事で
なかったことの安堵と、心配が肩透かしで終わったことによる脱力が、ゲオルグに一際大きなため息をつかせた。
もっとも、姉のいくらか上気した顔に、テンポが遅れた受け答えと、体調が悪いことには変わりなさそうだった。

「今日はしっかりと体を休めること」
「分かったわ」

 イレアナが微笑みながらの頷きに、ゲオルグは笑みを返す。
 イレアナとのやり取りを終えたところで、ゲオルグは脇から声をかけられた。声の主はゲオルグをここに呼び出した
張本人であるエリナ院長だ。

「ちょっといいかい、ゲオルグ」

 いったい何だろうか、とゲオルグが視線を向けると、院長は申し訳なさそうに話を続けた。

「イレアナが倒れて手が足りないんだよ。孤児院の仕事を手伝っちゃもらえんかね」

 孤児院の手伝いを院長は願い出る。なんだそんなことが、と考えていたゲオルグに拒否する理由はなかった。

「ああ、構わないが」

 特に深く考えることもなくゲオルグは手伝いを引き受ける。だが、承諾の言葉を最後まで言い終えたところで
ゲオルグははたと気づいた。俺、夜勤明けだ、と。現在の疲れ具合から、ゲオルグは自分の体力の限界を演算する。
計算結果は、そう長くはもたな――いいや、大丈夫だ。芳しくない推測を、ゲオルグは慌てて打ち消した。すでに
承諾してしまった手前、後には引けないというのもあったが、もっと厳しい状態に耐え抜いた経験がゲオルグの
楽観論を後押しした。"子供達"の教育隊にいたころを思い出せ、とゲオルグは過去を思い返す。半年に及ぶ
新兵教育の総仕上げに行った100km行軍と総合攻撃演習、あれは辛かった。重い装備を背負って丸2日都市西部の
丘陵地帯を輪を描くように歩き続け、へとへとになったところで教官相手に戦闘演習だ。100km行軍の方は足にできた
豆が潰れて、後半は一歩踏み出す度に涙が滲み出た。総合攻撃演習にいたっては記憶は殆ど定かではない。ただ、
やけっぱちになって、大声を張り上げながら無我夢中で突撃したことを覚えている。これに比べれば、夜勤明けで
ここの手伝いなど取るに足らないのだ。そう自分に言い聞かせて、ゲオルグは己を奮起させた。

「じゃあ、いってくるよ」
「いってらっしゃい、ゲオルグ。でも無理だけはしないでね」

 ゲオルグを見送る姉の眼差しは、どういうわけかどこか心配そうだった。


 屋上の扉を開ける。太陽光がゲオルグの徹夜明けの目を刺した。吹き抜ける風は清涼感に満ちていて心地いい。
屋上のコンクリートの床面に抱えていた洗濯籠をおろすと、ゲオルグは手で影を作りながら空を見上げた。視界全体を
突き抜けるような青が覆う。雲ひとつない陽気。絶好の洗濯日和だ。沸き起こる開放感にゲオルグは体を伸ばして
関節を鳴らした。
 姉の代わりとして孤児院の仕事を手伝うことになったゲオルグに割り振られた仕事は洗濯物だった。たかが
洗濯といえど、孤児院全体になるため、なかなかの量になる。洗濯機から取り出したばかりの湿った洗濯物を
屋上に運ぶのも、1つや2つなら楽なのだが、実際は輸送を待つ籠が後4つ、稼働中の洗濯機がさらに4つある。
全体を考えると結構な大仕事だ。
 さてやるか、と己を張り切らせるように呟くと、ゲオルグは洗濯物とともに持ってきた洗濯紐を持ち上げた。
屋上に立てられたポールに手際よく洗濯紐を渡していく。全ての洗濯紐を張り巡らせると、ゲオルグは洗濯籠に
詰まった洗濯物に手をつけた。軽く払って皺を伸ばすと洗濯ばさみを使って一つずつ紐にかけていく。
 混在する洗濯物をシャツはシャツ、タオルはタオルとご丁寧に紐ごとに仕分けていくのは中々楽しいものだ。
洗濯する紐に下がったシャツやタオルが風に吹かれてはためく音も、味わい深い。仕事の中に楽しさを見つけ、
上機嫌で洗濯物を干していると、不意に背後の屋上の扉が開く音がした。振り返ってみれば2人の少女が
こちらに向かって駆けていた。

「ローゼにクララ、どうした」

 ゲオルグの前で止まったローゼとクララは、大きな瞳でゲオルグを見上げると言った。

「ゲオルグお兄ちゃん、干すの手伝うよ」
「てつだうよ」

 思っても見なかった支援要請に、ゲオルグの頬はついつい緩んでしまう。期待できらきらと輝くこの眼差しで
見上げられて拒絶などできるものか。

「手伝ってくれるのか。ありがとう。」

 穏やかに微笑んで、ゲオルグは小さな助っ人2人を受け入れた。
 では、何を頼もうか、とゲオルグが考えようとしたところで、ローゼとクララは洗濯籠に向かって駆け出した。
洗濯籠に取り付いた彼女達は中に詰まった洗濯物をそろって掘り返し始める。やがてローゼがクララの手伝いを
受けながら1枚のシャツを掘り起こした。ローゼの手伝いを終えたクララは脇に置いた小箱からハンガーと洗濯ばさみを
拾い上げる。双方手に持つべきものを持ったことを確認すると、そろってゲオルグの所へパタパタと足を鳴らして
戻っていく。はい、と差し出された洗濯物に、ゲオルグは随分手馴れているなと内心で感心していた。

「ありがとう、しかし、いつも手伝っているのか」
「うん、あたし、いつもお姉ちゃんの手伝いしてるの」
「クララもしてるよ」
「そうか、それは偉いな」

 洗濯物を受け取りながら、ゲオルグは2人の言葉に目を細める。1度皺を伸ばすように払っていると、2人は次の便のために
洗濯籠へと向かっていった。その後姿を微笑ましく見送ると、ゲオルグはシャツをハンガーで洗濯紐に吊るした。
 ゆっくりと上っていく太陽に、洗い立ての洗濯物が眩しく輝く。屋上を吹き抜ける風に、洗濯物は気持ちよさそうに
はためいた。今日は洗濯物がよく乾くだろう。


 太陽は天頂に達し、思い思いに遊んでいた子供たちは食堂へと集まっていく。その流れに逆らいながら廊下を
進むゲオルグの手には湯気が立ったスープを乗せたお盆があった。
 姉の部屋の前に立つ。お盆を片手で支えると、ゲオルグは空いた片手でドアをノックした。間を空けずに、どうぞ、と
声が返ってきたので、ゲオルグはドアノブをまわし、部屋に入った。昼の日差しが差し込む明るい室内は桃色の
小物で小奇麗にまとめられており、女性らしい可愛らしさを感じる。朝は感じる余裕がなかったが、女性の部屋に
入っているのだとゲオルグは実感した。
 お盆を持ったままゲオルグはベッドに歩み寄る。ベッドの上の姉イレアナは、上体を起こしてゲオルグを出迎えた。

「体調はどう」
「少し寝たせいか、大分良くなったわ」
「それは良かった」

 イレアナの容態が良くなったことに、ゲオルグはほっとする。朝、上気していた顔も、現在は大分赤みが引いている。
熱も下がっているのかもしれない。
 安堵しながらゲオルグはベッドの脇の化粧台にお盆を乗せた。

「お昼、シモナ姉さんがチキンスープを作ってくれたから」
「持ってきてくれたのね。ありがとう」

 イレアナの笑みにゲオルグは微笑を返す。食事の輸送はこれで終了だ。それじゃあ、と声を交わしてゲオルグは
踵を返す。すると背後から、ゲオルグ、と呼び止められた。何事かと振り返ると、イレアナが口を大きく開けていた。

「あーん」

 食べさせてくれ。そういうイレアナの意図をすぐさま理解したゲオルグは呆れ果てる。いい歳して何をやってるんだ。
 雛鳥のごとく口を開けたままの姉を無視して、ゲオルグは踵を戻す。背を向けると背後から、待ってぇ、と語尾を
延ばした声がゲオルグを引き止めにかかった。不機嫌さを露にしながらも、ゲオルグは再度振り返る。ベッドの上の
姉は先ほどとは打って変わって口を閉じ、悲しげに眉をひそめていた。

「駄目?」

 上目遣いでじっと見つめるイレアナの眼差し。そんなに悲しげな目で見つめられたら、断りきれない。ため息を1つつくと、
ゲオルグは化粧台の椅子に腰を下ろした。心の中でゲオルグは悪態をつく。まったく、女ってずるい。

「今日だけだからな」
「やったぁ」

 花が咲いたような笑顔とともに手を広げて喜ぶ姉にゲオルグは思う。この人は本当に病人だろうか。ともあれ
承諾してしまった手前、もう引っ込みはつかない。全てを諦めて、ゲオルグはお盆に乗せたスプーンを手に取った。
未だ湯気が立ち上るスープにスプーンを入れて、スープを掬い上げる。このままでは熱いだろうと、息を吹きかけて
冷ましてやる。ここまで気が回るのはいったい何の性だろうか。自問自答しながらゲオルグは、だんだん自分が
恥ずかしくなった。だが――
 そろそろ頃合だろう、とゲオルグは息を吹きかけるのを止めて、にこにこと微笑みながら待っている姉に視線を向けた。

「ほら、あーん」

 いたってぞんざいにゲオルグは言う。そんなゲオルグにイレアナは何も言わず笑顔のまま口を開けた。大きく開いた
彼女の口の中にゲオルグはスプーンを差し入れる。程よくスプーンが口内に入ったところでイレアナは口を閉じた。
スプーンを通して伝わる舌の蠕動を感じながら、ゲオルグは閉じた口からスプーンを引き抜く。やや間を空けて、
イレアナは小さく喉を鳴らすと、微笑んで言った。

「美味しい」

 ――イレアナの浮かべる幸せそうな微笑み。それを見ていると、ゲオルグは身に降りかかった不条理全てを許せる気になれた。


 昼食の時間は過ぎ去り、太陽は緩やかに下降を始める。子供達は思い思いに遊びを始め、ゲオルグはそのお守りを
指示された。転んで膝をすりむき泣き出した子供に絆創膏を張ってやり、玩具の取り合いから始まった喧嘩を割って
入って仲裁してやり、足元にまとわり着いて本を読んでとせがまれれば言われるがままに本を読み聞かせてやる。
次々に起こるトラブルと、次々にねだられる子供達の要求をゲオルグは懸命にこなしていく。目が回るような忙しさの中
ゲオルグが気がついたときには午後3時を回っていた。
 3時のおやつというものはこの孤児院でも有効だ。子供達はおやつを食べるべく皆一様に食堂へと向かっていく。
孤児院の幼児用読書室で子供達がいなくなったことの静けさに、ゲオルグはようやく息をついた。
 子供達はおやつの賞味中だ。その配膳と後片付けなどを考えれば30分は戻ってこないだろう。ようやく手に入れた
自由時間。ゲオルグはどこかでゆっくりと体を休めたかった。だが、それよりも気になることが1つあった。疲れた足で
向かったところは孤児院の宿泊棟。人気のない廊下を進んだゲオルグは、程なくある一室の前で立ち止まった。
姉イレアナの部屋だ。昼はかなり調子よさそうにしていたが、体調を崩していることには変わりない。姉の様子が
気になってならなかった。
 入る前の礼儀として、ゲオルグは当然のごとく戸を2度手の甲で軽く叩く。合板が響く軽い音が静かな廊下に響いた。
そのままの体制でしばしゲオルグは待つ。だが、返事は返ってこない。不審に思いゲオルグはドアを再度、やや強めて
ノックする。だが、これも返事が返ってこない。耳を澄ますが物音1つしない。どうしたのだろうか。逡巡したゲオルグは、
程なく失礼を承知でドアノブに手をかけた。そっとドアを押し開いてゲオルグはイレアナの部屋に入る。静まり返った室内を進み
ベッドに歩み寄れば、果たしてイレアナはベッドの上で静かに眠っていた。
 眠っていただけか。イレアナの寝顔にゲオルグは安堵の息を漏らす。途端に、疲労がゲオルグを襲い、体が急に重たくなった。
おぼつかない足取りのゲオルグは、傍の化粧台の椅子に腰を下ろした。大きなため息をついたゲオルグは、そのまま特に
見るものもないので、イレアナの寝顔をぼんやりと眺める。かすかに聞こえる呼吸音を聞きながら、穏やかなイレアナの寝顔を
見ていると、どういうわけかゲオルグもまた穏やか気持ちになれた。ほのかに香るイレアナの香りにかつてその胸元に
逃げ込んでいた頃の記憶が刺激されたのか、どうしようもないほどの眠気がゲオルグを襲う。抗うことを早々に放棄した
ゲオルグは5分だけ、と心の中で言い訳をして、瞳を閉じた。


 眠りの中、ゲオルグはイレアナに抱かれる夢を見ていた。どうしようもない無価値感に苛まれ、イレアナを頼ったころの夢だ。
夢の中でゲオルグは当時と同じ少年に回帰していた。身を包む暖かさに、鼻腔をくすぐる甘い香り。そして何より頭を優しく
撫で上げる手の心地よさ。ゲオルグは至福だった。
 だが、ちょっとまて、何かおかしくないか。どことない違和感が、幸せに浸っていたゲオルグを呼び起こす。辺りに漂う姉の匂いに
問題はない。頭を撫でる手の温もりは確かだ。だか、姉はどこだ。どういうわけだか、傍で優しく抱いてくれているはずの姉が見えない。
途端にゲオルグは理解した。これは夢だと。それから後は早かった。根底が否定された至福の世界はたちまち崩れ落ち、掻き消えていく。
夢は終わり、覚醒へ。掻き消えた夢と入れ替わるようにして視界に光が差し込んでいく。眠りの底から急浮上したゲオルグの意識は、
そのままの勢いで眼を開かせた。
 最初にゲオルグの目に飛び込んできたのは白い布の塊だった。次に感じたものは体の違和感。どういうわけか膝をついた状態で、
柔らかい何かに己は突っ伏している。息とともに吸い込んだ空気は女性特有の甘い香りがする。そして――なでなで。何者かに頭を
撫でられている。

「あら、起きた」

 上から声が降ってきたので顔を上げると、上体を起こしたイレアナが優しげな微笑を浮かべていた。なでなで。ゲオルグの頭を
撫で上げるこの手の主もイレアナのようだ。
 ここまでしてようやくゲオルグは現状を把握した。寝ぼけていたのか、どうやら自分は姉のベッドに突っ伏した状態で眠ってしまった
らしい。そしてどうやら先に起きたらしい姉に頭を撫でられているのだ。姉に恥ずかしいところを見られた。慌ててゲオルグは背筋を
伸ばすと、頭に乗せられた手をふるい落とそうとする。だが、軽く頭を振るうと、イレアナは悲しげに眉をひそめた。

「撫でられるの、嫌?」

 嫌……じゃない。むしろ心地良い。この心地良さを断れない自分がゲオルグは悔しかった。だが、だからといってゲオルグは
自分が、もっとして欲しい、と臆面もなく言える年齢だと思っていない。己の欲求とプライドで板挟みになったゲオルグは、
気恥ずかしさで視線を脇にそらしたが、頭はなすがままに任せた。そんなゲオルグにイレアナは、ふふっ、と楽しげな声を漏らす。

「ゲオルグは頑張り屋さんだもの、ご褒美を上げないとね。でも、その前に――」

 やけに中途半端なところで言葉を止めると、イレアナはゲオルグの頭を撫でていた手のひらの動きを止める。何をするつもり
なのだろうか。イレアナの行動を訝しみながらゲオルグは急に動きを止めた腕を見つめる。イレアナは手のひらをゲオルグの
額まで滑らせると、中指を折り曲げて親指に引っ掛けた。1~2秒溜めて、イレアナは中指を弾いた。弾かれた中指はゲオルグの
額とぶつかり、コツン、と音を立てる。つまりはでこピンだった。しかし、なぜでこピン。やはり、女性の部屋に黙って入り込んだのが
悪かったのか。突然のでこピンに、驚きのあまり硬直するゲオルグに、イレアナは弾いた箇所を指先でさすりながら、唇を尖らせる。


「無理しちゃ駄目って言ったよね、ゲオルグ」

 確かにそんなことを言っていたな、とゲオルグは朝の会話を思い出す。特に気にも留めていなかったが、それが理由で
自分はでこピンされたのというのか。思いもよらぬ理由に唖然とするが、それでも納得がいかず、ゲオルグは食い下がる。

「別に無理なんかしていない」
「嘘、顔に出てた。疲れてる、って」

 そんなに自分は疲れた顔をしていたのだろうか。自分では確認できないところを付かれ、戸惑うゲオルグにイレアナは
言葉を続けた。

「それに、疲れてない人は居眠りなんかしないわよ」

 言いながら、イレアナはゲオルグの額を2~3度突っついた。流石のゲオルグも、これには何も言えなかった。ただ俯いて、
押し黙る。そんなゲオルグにイレアナは笑いかけた。

「疲れたら、疲れたって言っていいのよ。ゲオルグ」

 幼子に言い聞かせるように、イレアナはゲオルグの瞳を覗き込む。イレアナにここまでされれば、ゲオルグは頷くしかなかった。

「分かった」
「良く出来ました。はい、ご褒美。良い子、良い子」

 不承不承頷くゲオルグの頭を、イレアナは満面の笑みで撫でる。イレアナに頭を撫でられながら、ゲオルグは何か
釈然としないものを感じていた。何だろう、男として何か大切なものがなくなった気がする。えもいわれぬ喪失感に、
心の奥底で燻る言葉にもならない不満のような何か。思考の隅でちらつくわだかまりをゲオルグは感じたが、頭を
慰撫する心地良い手のひらの感触と、幸せそうなイレアナの顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
 そのままゲオルグは頭を撫でるイレアナの手のひらに身を任せていた。だが、程なく重要なことを思い出し、
心地良さで細めていた目を見開いた。そうだ、無断進入のことを謝らないと。

「姉さん」
「えっ、何」

 改まった面持ちでゲオルグが顔を上げると、イレアナは驚いたようで、撫でていた手を離した。姉を戸惑わせて
しまったことに罪悪感を深めつつ、ゲオルグは頭を下げる。

「勝手に部屋に入ってすまない」

 俯いたまま待っていると、頭に手のひらの感触が戻る。そのまま――なでなで。頭を撫でられた。はっとして
顔を上げると、イレアナは可笑しげに微笑んでいた。


「そんなことだったの。別に気にしなくていいのよ」

 許されたことにゲオルグはほっと息を吐く。そんなゲオルグにイレアナは、それにね、と言葉を続けた。

「起きたときゲオルグがいて、お姉ちゃん、とても嬉しかったのよ」

 嬉しい?とゲオルグは思わず聞き返す。たとえ姉弟の間柄であれ、イレアナは妙齢の女性に違いないのだ。
勝手にプライベートを侵犯されれば、いい顔なんてしないのでは。そんなゲオルグの当惑にイレアナは笑顔で
返答する。

「うん、嬉しかった。だって、1人っきりで部屋にいるのはとてもとても寂しいもの。そこに誰かいれば、ただいてくれれば、
 それだけで安心出来るのに、でも誰もいない。それってすごく悲しいことだと思うの」

 穏やかに話していたイレアナの声が、悲しげに震える。イレアナの言葉につられるように、この部屋の中でポツンと
1人ベッドに横たわる彼女の姿を想像したゲオルグは、どうしようもなくやるせない気持ちになった。その悲しみは
顔にまで出ていたらしい。ゲオルグの表情の変化に気づいたイレアナは、にっこりと花の咲くような笑みを浮かべた。

「だからね、目が覚めて、すぐ傍でゲオルグが眠っているのを見たとき、お姉ちゃんはね、すっごく嬉しかったの」

 ゲオルグの頭を撫でながら、イレアナは呟く。ありがとね、ゲオルグ、と。イレアナの微笑みにゲオルグは胸の奥で
燃えていたやるせなさが救われた気がした。いや、気ではなく、自分が彼女を救ったのだ。そう実感すると、なんだか
とても誇らしい気分が半分、残り半分はなぜかどうしようもなく恥ずかしかった。だからついついゲオルグは視線をそらす。
するとイレアナはそれが可笑しいのか、ふふっ、と声に出して笑った。何が可笑しい、とゲオルグは不愉快な気持ちをこめて
イレアナを見つめると、イレアナはばつが悪そうに微笑んだ。ゲオルグの頭を撫でる手が優しげなものから、慰撫するようなものに
調子を変える。

「ごめんね、よしよし。でも、別にゲオルグが可笑しくて笑ったんじゃないのよ。」

 どうだか、と心の中で呟いて、ゲオルグは姉をにらむ。イレアナは微笑を浮かべたまま言葉を続けた。

「ただ、ゲオルグって昔と変わらないなぁ、って思っただけよ」

 思っても見なかった言葉にゲオルグは方眉を吊り上げた。自分は昔と変わらない。本当にそうなのだろうか。
己の半生を軽く振り返える。昔は守るべきもののため、ない力を振り絞り、精一杯背伸びをし続けていた。
だが今ではどうだろうか。己の体躯と力は見違えるほど大きくなり、背伸びをする必要がなくなったため、
しっかりと地に足をつけた考えが出来るようになった。つまり成長したのだ。だから、今の自分は過去の
自分とは同じ線上には存在すれど、明確に異なっている。そうゲオルグは思えた。だからゲオルグはイレアナの
昔と変わらないという言葉が理解できなかった。どこが変わらないのか、どこが昔のまま成長していないのか。
訝しむゲオルグに、イレアナは笑いかける。

「覚えてる? 私たちがすごく小さかった頃のこと。ゲオルグはそうね、まだ学校に通っていなかった頃かな」

 記憶の大逆行を迫られ、ゲオルグは当惑する。流石に幼少の頃となれば記憶は大分あやふやだ。無理に
引っ張り出そうとするが、思い出は楽しかった、暑かった、といった漠然とした印象しか思い出せない。いや、あんまり、
とゲオルグが言葉を濁すと、イレアナは少しだけ残念そうに眉を下げた。それでもすぐにイレアナは気を取り直したように
話を続けた。


「じゃあ、そのころお姉ちゃんはとても体が弱くて、何かあるとすぐ熱を出して寝込んじゃう病弱さんだった、
 てことは覚えてる?」

 イレアナの言葉に、記憶の鍵がぴたりとはまったのか、今度はゲオルグも思い出せた。確かに当時のイレアナは
体が弱く、やれ遠足だの、やれ運動会だの、やれテストだの、なにかイベントがあるたびに、体調を崩し寝込んでいた。
テストは別にしても、遠足や運動会は兄姉達がそろって楽しみにしていただけに、可愛そうだと思ったことが印象に
残っている。

「その頃はね、寂しかったし、苦しかった。でもそれ以上に悲しかった」

 イレアナの湛えていた笑みが消える。当時を思い出したのか、その表情は痛々しいほどに悲しげだ。イレアナの
吐露は終わらない。

「同じ部屋の皆は楽しそうに遠足に行ってるのに、私だけ部屋に1人ぼっち。耳を澄ませば、外から弟妹達の声が
 聞こえるけども、それは壁の向こうで全然届かない。まるで私だけ世界から捨てられた気がして、私だけ世界から
 拒絶された気がして、だからお姉ちゃん、すっごく悲しかった」

 当時のイレアナを想像し、ゲオルグもまた悲しい気持ちになった。悲痛に歪むゲオルグの顔に気づいたらしいイレアナは、
それまでの悲しみを打ち消すように顔をほころばせた。

「でもね、そんなとき、いつもゲオルグがきてくれた。それでね、ずっと傍にいてくれた。1日中ずっと。お姉ちゃん、
 すっごく嬉しかったなあ」

 嬉しそうに話すイレアナの思い出を聞きながら、ゲオルグはかつて自分が行った献身的な看病の理由を思い出した。
たまたま当時のゲオルグは保健係であり、それも学校に行かない幼児組の保健係の中で最年長だったため、院長から
イレアナの看病を命令されたのだ。看病とは何をすればいいのか。何も知らぬ当時のゲオルグの問いに院長は答えた。
ずっと傍にいてあげることだよ。当時のゲオルグは愚直さのあまり、それを言葉通り解釈した。かくしてゲオルグは
イレアナが体調を崩すたびに、丸1日彼女の傍に付き添ったのだった。他の兄弟と遊べなくて残念、という当時の
率直過ぎる感想をゲオルグはイレアナに伝えるべきか迷う。逡巡した後ゲオルグは言うのを思いとどまった。
思い出は美しいほうがいい。つまらないことで思い出を傷つけるのは野暮なものだ。


「ありがとうっていうと、恥ずかしそうに目をそらすの。あの頃とちっとも変わらないのね」

 可笑しそうにイレアナは微笑む。記憶にない過去を晒されたゲオルグは、恥ずかしくなって視線をそらした。
これではドツボだ。ゲオルグは思うが、恥ずかしさには耐えれない。ふと、ゲオルグの頭を撫でていたイレアナの
手のひらの動きがまるで慰撫するかのように小刻みなものに変わる。

「恥ずかしかったのね、よしよし。でもねゲオルグ、そんな照れ屋なとこもお姉ちゃんは好きよ」

 微笑とともに投げかけられたイレアナの言葉に、ゲオルグは自分の耳まで熱くなったように感じた。恥ずかしさのあまり
押し黙ったゲオルグに、イレアナはふふっ、と笑いかける。ゲオルグの頭を撫でる手の動きが、また優しく穏やかな
動きに変わった。

「ありがとね、ゲオルグ。いろんなことしてくれて。お姉ちゃんね、ゲオルグにはすっごく感謝してるのよ」
「そんなことない」

 照れ隠しで、ゲオルグはイレアナの言葉を否定する。そんなゲオルグにイレアナは優しく言った。

「ううん、してくれたよ、いろんなこと。頭に乗せたタオルがぬるくなったら取り替えてくれたし、お姉ちゃんが暇だって
 言ったら絵本を持ってきてくれた。ご飯だって食べさせてくれた。それにね」

 イレアナが、ゲオルグの頭を撫でていた手の動きを止める。全てを忘れたかのようにうっとりと微笑んで、
イレアナは続けた。

「ぎゅっ、てしてくれた」
「ぎゅっ?」

 出し抜けに現れた擬態語の意味がわからず、ゲオルグは聞き返す。

「手のひらを手でぎゅっ、て。眠っても調子は悪くなるばかりで、それでもう駄目なんじゃないかって思って、
 すごく不安になるときがあったの。辛くて、苦しくて、とてもとても心細かった。だから、傍にいてくれるだけじゃ
 我慢できなくて、お姉ちゃんね、手を伸ばしてゲオルグに頼んだの。ぎゅってして、って。そしたらゲオルグは
 嫌な顔ひとつせずに手をぎゅって握ってくれた。お姉ちゃん、1人じゃないんだなって思って、すっごく安心したなあ」

 思い出を呟きながら、イレアナは嬉しそうに目を細める。イレアナの幸せそうな顔に、ゲオルグは過去の自分を
褒めたくなった。偉いぞ。心の中で呟いて、ゲオルグもまた頬を緩ませた。動きを止めていた手が、またゲオルグの
頭を撫で始める。その心地よさにゲオルグは目を細めて、イレアナの手の動きに身を任せた。


 イレアナに頭を撫でられゲオルグはこの上なく幸福だった。この時間が永遠に続けばいいのに。柄にもなく
ゲオルグは思う。だが、何気なく覗いた腕時計がゲオルグに現実を教えた。時刻はそろそろ4時になろうとしている。
長居のしすぎだ。己の失敗に心の中で気落ちしながら、ゲオルグは立ち上がる。頭から離れるイレアナの
手のひらが名残惜しい。

「すまない、もう行かないと」

 ゲオルグの言葉にイレアナは、そう、と呟いて肩を落とした。イレアナの残念そうな姿に、ゲオルグも胸を痛める。
そのままゲオルグは別れの挨拶を切り出そうとしたところで、イレアナな顔を上げた。

「じゃあ最後に1つお願い、いいかな」
「何?」

 ゲオルグが聞き返すと、イレアナは手を伸ばした。

「ぎゅっ、てして」

 手を握ってほしい。そんなイレアナの願いにゲオルグは微笑んで頷く。今度はこちらの番だ。今まで貰い受けた
温もりの感謝をこめて、ゲオルグは両手でイレアナの手を包む。するとイレアナは嬉しそうに微笑んだ。

「一緒。あの頃と」

 イレアナの呟きに微笑を返すと、ゲオルグは手に力をこめた。
 ゲオルグにとって過去の自分は弱者の象徴だった。だから成長しなければ、自分を変えていかなければ、と
ゲオルグはいつも思っていた。だが今ゲオルグは思う。変えてはいけないものもある、と。イレアナを想う
この気持ちだけは絶対に変えてはいけない。手のひらを通して伝わるイレアナの温もりを感じながら、
ゲオルグはそう決意するのだった。


 夕日で赤く染まった孤児院の門をゲオルグはくぐる。長かった孤児院の手伝いもようやく終わったところだ。
これからさらに夜勤があることを考え、ゲオルグの気はめいる。だが、落ち込んだ気持ちに気づいたゲオルグは、
しっかりしろ、と自分を鼓舞しながら帰り道を歩いた。
 孤児院の塀に沿ってゲオルグが歩を進めていると、角から現れた2人の人影が声を上げた。

「あ、お兄ちゃんだ」

 上がった声は爛漫そうな少女の声だ。

「モニカと――」

 人影の片方はハイスクールの制服に身を包んだモニカだった。目を輝かせた彼女をそのままに、ゲオルグは
その背後に立つもう1人の人影に視線を向ける。

「――ドラギーチか」

 ドラギーチはゲオルグの視線を嫌がるように半歩後ろに下がった。ゲオルグ達への嫌悪感は未だに健在なようだ。
 ドラギーチのあからさまな拒絶の態度に気づいていないのか、モニカはゲオルグに歩み寄ると口を開いた。

「こんなところでどうしたの」
「ああ、姉さんが倒れたから孤児院の仕事を手伝ってくれと言われてな」
「そうなんだ。朝、大変だったもんね」

 納得したように、モニカは繰り返し頷く。程なくモニカは何かに気づいたように顔を上げた。

「ねえ、お兄ちゃん。あたしが倒れたら、お兄ちゃんはきてくれる?」
「見舞いくらいなら行くが、それがどうかしたのか」

 ゲオルグの言葉にモニカは笑顔を作った。

「ううん、なんでもない。ただ聞いただけ」

 じゃあね、とモニカは別れの挨拶を告げる。ゲオルグもそれにあわせて片手を挙げると2人の脇を抜けて家路に着いた。




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