秘神幻装ソルディアン 第二話:「其は昏き水底に眠れど」
雲が、早い。
茜色に染まった視界の端で、わだかまる黒煙が染みのように景観を汚している。だがこの風と夜の到来で、あくる日には消え流れていることだろう。アバドンの襲撃に遠ざかった蝉が、そこかしこで唸り続けるサイレンと競うようにすだき続けていた。
隆一郎は人の群れに眼をやった。
皆、自衛隊の炊き出しを求めて列を為している。帰る家を失った人々の群れ。本来ならば、自分もそっち側にいるはずだったかもしれない。
茜色に染まった視界の端で、わだかまる黒煙が染みのように景観を汚している。だがこの風と夜の到来で、あくる日には消え流れていることだろう。アバドンの襲撃に遠ざかった蝉が、そこかしこで唸り続けるサイレンと競うようにすだき続けていた。
隆一郎は人の群れに眼をやった。
皆、自衛隊の炊き出しを求めて列を為している。帰る家を失った人々の群れ。本来ならば、自分もそっち側にいるはずだったかもしれない。
目的地に直行するはずだったヘリの行く先を、隆一郎は無理を言って変更して貰った。
その先で見たのは、無残に破壊された住宅街だった。言うまでもなく、柊家もその被害を免れることはなかった。
祖母の玉枝が祖父の隆と共に贖った小さな一軒家。母の雪菜と息子の隆一郎を育んだ場所。出来るなら家で死にたいわね、と縁起でもないことを言った祖母の安否は今以て不明で、恐らく悪い想像は当たっていることだろう。
独りにさせてくれ、と言った息子に、父はその通りにさせてくれた。それから隆一郎はしばらく壊滅状態になった住宅街を歩いた。――生まれて十九年行き来した街を歩くのがこれほど苦痛な時が来るとは思いもしなかった。この苦痛を和らげるには心を麻痺させるか、何も見ず聞かずを貫くかのいずれかしかなく――隆一郎はどちらも選ぶことが出来なかった。
だから、知らない内に足早になる。
大学の友人には連絡が着かないままだ。ケータイは完全防水なので海に落とした程度では壊れはしないが、電波は混雑を極めておりしばらく収拾がつきそうになかった。
母校でもある中学校は避難所になっていた。そこで見知った顔たちと出会い、話し合った。何年も合わせていない顔もあったが、誰もが持て余す感情を共有したがっていた。何人かが家を失い、友を失い、更には家族や自分の命をも失っていたことを知った。
嗚咽を抑え切れない少女と、彼女を慰めながらも自らを涙を流すその友人。独りぼっちで所在無く佇む幼い少年。生まれたばかりの娘を亡くし半狂乱の父親――隆一郎は忸怩たる思いでその場を離れた。
もう少し早く力を使えたならば、こんな無力感を味わわずに済んだのに。全ての人を救うのは不可能でも、犠牲を減らすことは出来たはずだ。ペトラや祖母も救えたかもしれないのに――隆一郎は花壇のブロックに腰掛けた。
「はい、リュウイチロウ」
隆一郎は思わず顔を上げる。金髪の美女が笑みを浮かべ、隆一郎に割り箸と食糧を渡した。うどんの入った豚汁の使い捨てカップだ。見覚えがある、父の部下であるらしい二人の美女のうちの片方だ。
「えっと、名前は……」
「ラウラよ。ラウラ・オルツィ。あなたのことはジャックから窺ってるわ」
あの堅物の父が自慢げに息子を語る様子が頭に浮かばず、隆一郎は断念した。しかし、独りにさせてくれって言ったのに。恨み言が喉から出かけたが、鼻腔をくすぐる豚汁の匂いに食欲を刺激され、隆一郎はカップを手に執った。
「俺のことはリュウでいいよ。長いだろ? ……俺たち、炊き出し食っていいのかな?」
「いいんじゃない? 特に、東京をアバドンから解放したあなたにはそれ以上の権利があるはずよ」
ラウラは器用に箸を操り、うどんを啜った。何だかそういう仕草が似合う女性だなと思った。隆一郎も汁を啜った。ネギはたっぷり入っており、味は濃く、火傷しそうなほど熱く、美味かった。夢中になって食べていると、涙が少し滲んだ。
ラウラの懐で「ラジオスターの悲劇」の着信メロディーが鳴る。彼女は携帯電話を取った。恐らく通信機能が強力なのだろう。
「はい。……ええ、分かりました。すぐに」
電話を切る。ラウラは言った。
「リュウ、お祖母さまが生きていたわ」
その先で見たのは、無残に破壊された住宅街だった。言うまでもなく、柊家もその被害を免れることはなかった。
祖母の玉枝が祖父の隆と共に贖った小さな一軒家。母の雪菜と息子の隆一郎を育んだ場所。出来るなら家で死にたいわね、と縁起でもないことを言った祖母の安否は今以て不明で、恐らく悪い想像は当たっていることだろう。
独りにさせてくれ、と言った息子に、父はその通りにさせてくれた。それから隆一郎はしばらく壊滅状態になった住宅街を歩いた。――生まれて十九年行き来した街を歩くのがこれほど苦痛な時が来るとは思いもしなかった。この苦痛を和らげるには心を麻痺させるか、何も見ず聞かずを貫くかのいずれかしかなく――隆一郎はどちらも選ぶことが出来なかった。
だから、知らない内に足早になる。
大学の友人には連絡が着かないままだ。ケータイは完全防水なので海に落とした程度では壊れはしないが、電波は混雑を極めておりしばらく収拾がつきそうになかった。
母校でもある中学校は避難所になっていた。そこで見知った顔たちと出会い、話し合った。何年も合わせていない顔もあったが、誰もが持て余す感情を共有したがっていた。何人かが家を失い、友を失い、更には家族や自分の命をも失っていたことを知った。
嗚咽を抑え切れない少女と、彼女を慰めながらも自らを涙を流すその友人。独りぼっちで所在無く佇む幼い少年。生まれたばかりの娘を亡くし半狂乱の父親――隆一郎は忸怩たる思いでその場を離れた。
もう少し早く力を使えたならば、こんな無力感を味わわずに済んだのに。全ての人を救うのは不可能でも、犠牲を減らすことは出来たはずだ。ペトラや祖母も救えたかもしれないのに――隆一郎は花壇のブロックに腰掛けた。
「はい、リュウイチロウ」
隆一郎は思わず顔を上げる。金髪の美女が笑みを浮かべ、隆一郎に割り箸と食糧を渡した。うどんの入った豚汁の使い捨てカップだ。見覚えがある、父の部下であるらしい二人の美女のうちの片方だ。
「えっと、名前は……」
「ラウラよ。ラウラ・オルツィ。あなたのことはジャックから窺ってるわ」
あの堅物の父が自慢げに息子を語る様子が頭に浮かばず、隆一郎は断念した。しかし、独りにさせてくれって言ったのに。恨み言が喉から出かけたが、鼻腔をくすぐる豚汁の匂いに食欲を刺激され、隆一郎はカップを手に執った。
「俺のことはリュウでいいよ。長いだろ? ……俺たち、炊き出し食っていいのかな?」
「いいんじゃない? 特に、東京をアバドンから解放したあなたにはそれ以上の権利があるはずよ」
ラウラは器用に箸を操り、うどんを啜った。何だかそういう仕草が似合う女性だなと思った。隆一郎も汁を啜った。ネギはたっぷり入っており、味は濃く、火傷しそうなほど熱く、美味かった。夢中になって食べていると、涙が少し滲んだ。
ラウラの懐で「ラジオスターの悲劇」の着信メロディーが鳴る。彼女は携帯電話を取った。恐らく通信機能が強力なのだろう。
「はい。……ええ、分かりました。すぐに」
電話を切る。ラウラは言った。
「リュウ、お祖母さまが生きていたわ」
輸送ヘリのローターが回転し、同心円状の風が慌しく夏の大気を掻き混ぜる。
「やれやれ、公私混同もいいところだな」
ぽつりとジャックが呟いたところに、彼と同じ年頃の士官らしき男が言った。紺色の制服は自衛隊を始めとした日本の公的組織のデザインではない。
「私も柊玉枝三佐から退官以前お世話になったことがあります。それは私だけではない。そんな方であるならば、多少の横紙破りは許されるでしょう」
奇蹟的に柊玉枝は生きていた。怪我の程度は軽いが、昏々と眠り続けたままであるらしい。それでも命には別状はないということだった。
とは言え、半分以上を吹き飛ばされた病院が要求されるだけの機能を果たせる訳もない。公私混同は本来ジャックの忌むところだが、メルやラウラの説得により組織の協力を仰いだのは当然の帰結だった。
ベッドに横たわったまま眠り続ける祖母を、看護士が運び入れるところだった。ずっと彼女の手を握り続けていた隆一郎は祖母に囁いた。
「祖母ちゃん、行って来るよ」
返事はもちろんない。ただ、祖母の手が僅かに動いた。隆一郎は確かにそう感じた。
胸がすっと軽くなった。
「では、よろしくお願いします」
「出来る限りのことはしましょう」
ジャックと男が敬礼を交換した。
ヘリコプターが浮き上がる。同心円状の風が遠ざかり、ヘリコプターが見えなくなるまで隆一郎は見送っていた。
「さて」
こう前置きしたのは、自分の覚悟を再確認するためだった。
問題は、ない。もう腹は据わっている。
「今更だけど――親父やメルさんやラウラさんたちは何者なんだ?」
「知れば後戻りは出来なくなるぞ」
予想通りの父の台詞。隆一郎は言うことになるだろうと思っていた言葉を、やはり言うことになった。
「今更出来るかよ」
「そう……だな」
ジャックは煙草を取り出し、ジッポで火を着けた。隆一郎の視線に気付き、
「吸うか?」
「一応未成年だぜ……煙草、吸うんだな」
「母さんと結婚してからやめたんだ。また吸い始めたのは、今の仕事に就いてからだ。十年前になる」
「十年前――母さんが行方不明になる前? それとも、それ以降?」
「後、だな」
アブラクサス財団の関連する遺跡調査。その際の事故により柊雪菜は行方不明になった。当時九歳だった隆一郎は軽傷を負うのみで発見されたが、雪菜の生死は未だ詳らかではない。
「日本では七年経てば死亡したものと見なされるが、私は雪菜の死を信じていない」
ジャックは遠い目をしながら続けた。
「私は彼女の行方を探した。その際にとある組織と巡りあった。組織の名は〈ゲニウス〉。特別な才能、守護霊、そう言った意味合いの名の組織は、人類文明の守護者たるべく特別な才能を必要としていたんだ。だから、私も雪菜の行方を知るために〈ゲニウス〉に力を貸すことにした」
隆一郎は黙っていた。何と言えばいいのか判断がつかなかったからだ。同時に父が秘めた母への想いの強さを垣間見た気分は、正直複雑と言う他ない。
「リュウ、ここまで聞いたからには、お前には俺と一緒に地獄に付き合って貰う」
「とっくに覚悟は完了してるさ」
「その覚悟ついでに最初の任務がある」
「それ、俺が受けなかったらどうなってたんだ?」
「さてな。で、任務の内容だが――」
「やれやれ、公私混同もいいところだな」
ぽつりとジャックが呟いたところに、彼と同じ年頃の士官らしき男が言った。紺色の制服は自衛隊を始めとした日本の公的組織のデザインではない。
「私も柊玉枝三佐から退官以前お世話になったことがあります。それは私だけではない。そんな方であるならば、多少の横紙破りは許されるでしょう」
奇蹟的に柊玉枝は生きていた。怪我の程度は軽いが、昏々と眠り続けたままであるらしい。それでも命には別状はないということだった。
とは言え、半分以上を吹き飛ばされた病院が要求されるだけの機能を果たせる訳もない。公私混同は本来ジャックの忌むところだが、メルやラウラの説得により組織の協力を仰いだのは当然の帰結だった。
ベッドに横たわったまま眠り続ける祖母を、看護士が運び入れるところだった。ずっと彼女の手を握り続けていた隆一郎は祖母に囁いた。
「祖母ちゃん、行って来るよ」
返事はもちろんない。ただ、祖母の手が僅かに動いた。隆一郎は確かにそう感じた。
胸がすっと軽くなった。
「では、よろしくお願いします」
「出来る限りのことはしましょう」
ジャックと男が敬礼を交換した。
ヘリコプターが浮き上がる。同心円状の風が遠ざかり、ヘリコプターが見えなくなるまで隆一郎は見送っていた。
「さて」
こう前置きしたのは、自分の覚悟を再確認するためだった。
問題は、ない。もう腹は据わっている。
「今更だけど――親父やメルさんやラウラさんたちは何者なんだ?」
「知れば後戻りは出来なくなるぞ」
予想通りの父の台詞。隆一郎は言うことになるだろうと思っていた言葉を、やはり言うことになった。
「今更出来るかよ」
「そう……だな」
ジャックは煙草を取り出し、ジッポで火を着けた。隆一郎の視線に気付き、
「吸うか?」
「一応未成年だぜ……煙草、吸うんだな」
「母さんと結婚してからやめたんだ。また吸い始めたのは、今の仕事に就いてからだ。十年前になる」
「十年前――母さんが行方不明になる前? それとも、それ以降?」
「後、だな」
アブラクサス財団の関連する遺跡調査。その際の事故により柊雪菜は行方不明になった。当時九歳だった隆一郎は軽傷を負うのみで発見されたが、雪菜の生死は未だ詳らかではない。
「日本では七年経てば死亡したものと見なされるが、私は雪菜の死を信じていない」
ジャックは遠い目をしながら続けた。
「私は彼女の行方を探した。その際にとある組織と巡りあった。組織の名は〈ゲニウス〉。特別な才能、守護霊、そう言った意味合いの名の組織は、人類文明の守護者たるべく特別な才能を必要としていたんだ。だから、私も雪菜の行方を知るために〈ゲニウス〉に力を貸すことにした」
隆一郎は黙っていた。何と言えばいいのか判断がつかなかったからだ。同時に父が秘めた母への想いの強さを垣間見た気分は、正直複雑と言う他ない。
「リュウ、ここまで聞いたからには、お前には俺と一緒に地獄に付き合って貰う」
「とっくに覚悟は完了してるさ」
「その覚悟ついでに最初の任務がある」
「それ、俺が受けなかったらどうなってたんだ?」
「さてな。で、任務の内容だが――」
絶えたと思われていた窓外の水泡がにわかに数を増し、遠心力にナイキッシュ・アルバロンの身体は右へ引かれた。スラスターの出力に合わせて照明光も横へ流れると、青黒い水の壁は黒々とした岩肌に転じる。
岩肌を沿いながら潜水艦は前進する。五ノットで進む照明が、奇怪な文様を施した紋章らしきものの形を浮かび上がらせた。
「もうすぐです」
「分かっとるわい」
言わずもがなのことを口にする操縦士へぶっきらぼうに応答し、アルバロンは潜水艦の照明の先を見つめ続けた。
やがて深海の常闇にそれは浮かび上がった。
朧に瑠璃色をした光を放ち続ける巨大遺跡。幅数キロもの門を持つ巨大都市。建造物という建造物はいずれも門に劣らぬ巨大さを誇りながら、それらを構成する線はどれ一つとして整合性を示そうともしない。門を潜るために噴かされたスラスターにより照明が常闇の方へと逸らされたのは搭乗員によって幸いだった。刻々とユークリッドと非ユークリッドとの間を往来する不可思議な建造物の形状は、ともすれば直視する者の遠近感どころか精神にまで異常をきたしかねなかったからである。
ニュージーランドと南米大陸と南極大陸の中間付近の深淵に、海底都市ルリエスは存在する。誰が何のために造ったのかも分からぬこの遺跡を、アブラクサス財団は途方もない金銭を以って重要拠点の一つとしていた。都市機能は復興中だが、いずれは大規模に市民を募る計画が進んでいる。――誰が好き好んでこんな場所に棲みたがるかねェ、とアルバロンは常々疑問を抱いていた。恐らく新技術を試したいハイパーボリア社の発案だろうが、彼らは新遺跡群の中でも最も偉大なルリエスの本当の価値を分かっているのだろうか? 分かっちゃいまいな、分かっていないからこんな提案が出来るのだ。別にいいけど。
奇怪なる構造物の中、明らかに異色で見知った機械が光を放った。その光に誘われるまま潜水艦がルリエスの腹に収められる。
ルリエスの内部は気温も気圧も常に最適な状態に保たれている。潜水艦が発明された当時と殆ど変わらない狭苦しく息苦しい空間から抜け出したアルバロンは正常な空気を肺いっぱいに吸った。
呼び出しのアナウンスも何もないが、自分の目的を心得ているアルバロンと潜水艦の乗組員はここで一旦別れることになる。都市機能は万全とは言いがたいが、それでもアルバロンが知る限り、諸々の欲求を最低限満たすことは適うはずだ。しかしアルバロンがここを訪れたのはそれが目的では、無論ない。
アルバロンは必要な資料を抱えて中枢部に向かう。アブラクサス財団の紋章である鶏頭の神の紋章が彫刻された扉を潜ると、石造りの円卓を囲んで財団の主要な幹部が顔を並べていた。
まぁその殆どが実際はここにいない訳だが、と実体を持っているのが自分を含め二人しかいないことを確認しながらアルバロンは思う。アブラクサス財団の幹部は皆それぞれに立場のある人間ばかりである。処務に日々忙殺される彼らがそうそう辺鄙な海底都市なぞに来れる訳がなく、ホログラムによる合同会議というのはある意味においてはかなり合理的な手段だと言えた。
アルバロンは上座と正面になる自分の指定席に座った。
上座に座るのは無論、アブラクサス財団の総主アリオスト・ヘーゲルである。
もう七十歳に近いはずであるが、その炯々とした瞳は力強く衰えを感じさせず、灰色のマオカラーの簡素な制服をまとった佇まいはカリスマの風情を湛えている。二十年前、緋色の美々しい礼服をまとっていた頃と変わらぬまま。
その右手に座るのは、この場でもう一人の実体を持った人間であるカディエス・フェトルガスだ。長い黒髪を項のところでまとめ、古めかしいデザインのダークスーツを着ている。その顔は知的な端整さが印象深いが、肌は病的に白い。右眼は眼帯に覆われており、やはりそれも黒い。――眼帯も含めて、少なくともアブラクサスではこれ以外の恰好をしたカディエスを誰も見たことがないと噂され、その姿は眼にする人々全てに同様の印象を与える。
魔術師、と。
彼は新遺跡群関連のトップで当然極めて多忙のはずなのだが、合同会議の際は常にルリエスに来ていた。
いつものように挨拶一つなく、総主ヘーゲルは口火を切った。
「カディエス卿、始めよう」
「畏まりました――さて、東京の被害状況は皆さん御存知でしょうが、一応私が説明をば」
カディエスは慇懃に前置いてから、淀みなく東京の状況を述べた。
死者行方不明者は六十万人に上り、被害総額は単純計算だけで数百兆円。帰宅難民は三百万人を越え、警察が機能しない今犯罪や暴動は止むことを知らない。政治の中心部であった永田町も完膚なきまでに破壊され、それらの影響は徐々に地方にも波及していた。
それだけではない。心臓部を破壊された日本経済は近々ほぼ完全に崩壊するだろう。のみならず、信用度の高いジャパンマネーは日本国債の大暴落によって引き上げられ、ニューヨーク株式は大混乱に陥るだろう。そして世界規模でのハイパーインフレーション、果ては資本経済制度の崩壊の危機すら十分ありうる事態である。
「この三日間、人員をフルに稼動して市場中の日本国債を買い集めていますが……人員と資本の追加を要請します」
アメリカで最も古く格式のある銀行の長であるベンジャミン・キタリッジがひどいかすれ声で言った。キタリッジの眼は充血し、肉付きの良い顔の色も蒼白に近く、やつれたように見える。
「こちらは生き残った在京マスコミに報道規制を敷いています。アバドン被災は隠しようもないが、これ以上不安を煽られては最悪の事態になりかねませんからな。その他アバドンやその擁護者に対して大規模なネガティヴ・キャンペーンを展開中です。東アジア、取り分け日本を中心にアバドンによって失われた重要文化遺産や絶滅した動物にスポットを当てて行ないます」
ジャコボ・ティエポロが言った。ヨーロッパ・アジア圏のメディア王であり、日本の多数のテレビ局の大株主である彼は、アブラクサスの有力な広告塔だった。
総主の視線がアルバロンに向けられる。
「して教授、〈ヴァシュタル〉のサンプルは?」
「ここに」
アルバロンは直径五センチメートルほどの立方体の硬化ベークライト樹脂を取り出す。透明なオレンジ色をした樹脂の中心にある一ミリグラムもなさそうな肉片こそ、〈ヴァシュタル〉の細胞だった。
アルバロンは忸怩たる様子を幾許か滲ませるような口調で言った。
「これだけです。貴重なアバドン・ヘッドの大型のサンプルを失い、施設やソルディアンなどの財団の直接の被害総額は余裕で百億を超えます。――まァ、沈みかけた経済船日本号を救うために奮闘してらっしゃるキタリッジ氏のお使いになる額とは恐らく比べようもない少額ではありますが」
キタリッジが鼻白んだ表情でアルバロンを睨んだが、アルバロンは気付かないふりをした。所詮視線は視線でしかないというのがこの男の持論である。
総主ヘーゲルが言った。
「諸君、この悲しい災厄で、我々が得ることの出来たメリットとは?」
ややあって、カディエスが言った。
「平和に慣れた日本国民も、最早アバドンによる危機が対岸の火事ではないことに気付くでしょう。この期に及んでアバドンとの共生を叫ぶ政治家や宗教家やいくつかの自然保護団体も、アバドンが決して人類とは共存できぬ不倶戴天の敵同士だと理解するでしょう。そして何より十一体目のオリジナル・ソルディアンを『彼ら』が所有していたことも判明しました。――収穫と言えば、この程度でしょうか」
総主ヘーゲルが再び問うた。
「カディエス卿、その十一体目のソルディアンについて何か情報は?」
「〈ヴォルカドゥス〉ですな。――『秘神幻想書』第五章第三節に記されたところによれば、龍頭人身、過去のアバドンとの闘いにおいて最も雄々しく闘ったソルディアンである、と」
「その〈ヴォルカドゥス〉について、後で資料を提出するように」
「畏まりました」
「諸君らの件全て了承した。カディエス卿、特にキタリッジ氏への資本提供を強化するように」
「承りました」
ヘーゲルの指示にカディエスはうなずいた。何故彼が本来お門違いであるはずの経済に権限を持つのかは、この際誰も疑問に思わなかった。
「此度の件、我らアブラクサス財団にとっては決してデメリットばかりではない。これにて会議は幕とする。諸君らは各自の任務に引き続き精励するように」
総主ヘーゲルがホログラムを切ったのを見計らって、幹部たちの姿が続々と消えてゆく。二人だけが取り残された空間で、ナイキッシュ・アルバロンは大袈裟すぎる溜息の吐き方をした。
「――総主も手ぬるいことで」
不敵な笑みを浮かべる。
「こう言ってしまえばいいのです。『地球という方舟は七十億人もの人類を乗せるには狭すぎる。いっそ、アバドンに人口を調整して貰えばいい』とね」
「悪くない提案だが、それを総主は決して採択はすまいな」
カディエスが立ち上がりながら応じる。
「その発想は自分が調整する側であるという傲慢から生じる発想だ。安易な優生思想に繋がりかねん。そして、遺伝子プールによる多様性を決して失いたくない――それが組織としてのアブラクサスの選択だ」
「何とも難儀な生き物であることよなァ」
アルバロンはぼやくように言った。
生物学、考古学の天才ナイキッシュ・アルバロン――彼は間違いなく天才であったが、その言動はあまりにも奔放すぎた。思いついたことを口に出さずにはいられないような性格は、同時に敵を作らずにはいられない性格と同義である。随って、彼を受け容れるような場所と言えばアブラクサス財団の研究機関くらいしかなかった。
カディエスはアルバロンに冷たく言い放った。
「それで何をしに来た、アルバロン」
「キミを笑いに来た。そう言えば気が済むのかね?」
「ふん、益体もない」
「つれないこと言うなよカディエス。ボクとキミとはwin-winな関係じゃないか」
「お前がわざわざ私の顔を見るためだけに海の底に来るような男ではないことは知っている」
「じ・つ・は、裏ビデオをキミと一緒に見ようと思ってさ。極秘ルートで手に入れたヤヴァ~い奴」
「内容は?」
アルバロンは薄型プレイヤーを出してディスクをセット。モニタに夜の都市が映し出された。
「さぁ、所は日本列島の最北端の更に北、択捉経済特区。択捉と言えば一月前アバドン一家が腰を据え、無力な市民は泣き暮らすばかり。そこに新入り〈ヴォルカドゥス〉がカチコむ! どうなるかは観てのお楽しみ――BGMはいるかい?」
片手を上げてカディエスは提案を退けた。
岩肌を沿いながら潜水艦は前進する。五ノットで進む照明が、奇怪な文様を施した紋章らしきものの形を浮かび上がらせた。
「もうすぐです」
「分かっとるわい」
言わずもがなのことを口にする操縦士へぶっきらぼうに応答し、アルバロンは潜水艦の照明の先を見つめ続けた。
やがて深海の常闇にそれは浮かび上がった。
朧に瑠璃色をした光を放ち続ける巨大遺跡。幅数キロもの門を持つ巨大都市。建造物という建造物はいずれも門に劣らぬ巨大さを誇りながら、それらを構成する線はどれ一つとして整合性を示そうともしない。門を潜るために噴かされたスラスターにより照明が常闇の方へと逸らされたのは搭乗員によって幸いだった。刻々とユークリッドと非ユークリッドとの間を往来する不可思議な建造物の形状は、ともすれば直視する者の遠近感どころか精神にまで異常をきたしかねなかったからである。
ニュージーランドと南米大陸と南極大陸の中間付近の深淵に、海底都市ルリエスは存在する。誰が何のために造ったのかも分からぬこの遺跡を、アブラクサス財団は途方もない金銭を以って重要拠点の一つとしていた。都市機能は復興中だが、いずれは大規模に市民を募る計画が進んでいる。――誰が好き好んでこんな場所に棲みたがるかねェ、とアルバロンは常々疑問を抱いていた。恐らく新技術を試したいハイパーボリア社の発案だろうが、彼らは新遺跡群の中でも最も偉大なルリエスの本当の価値を分かっているのだろうか? 分かっちゃいまいな、分かっていないからこんな提案が出来るのだ。別にいいけど。
奇怪なる構造物の中、明らかに異色で見知った機械が光を放った。その光に誘われるまま潜水艦がルリエスの腹に収められる。
ルリエスの内部は気温も気圧も常に最適な状態に保たれている。潜水艦が発明された当時と殆ど変わらない狭苦しく息苦しい空間から抜け出したアルバロンは正常な空気を肺いっぱいに吸った。
呼び出しのアナウンスも何もないが、自分の目的を心得ているアルバロンと潜水艦の乗組員はここで一旦別れることになる。都市機能は万全とは言いがたいが、それでもアルバロンが知る限り、諸々の欲求を最低限満たすことは適うはずだ。しかしアルバロンがここを訪れたのはそれが目的では、無論ない。
アルバロンは必要な資料を抱えて中枢部に向かう。アブラクサス財団の紋章である鶏頭の神の紋章が彫刻された扉を潜ると、石造りの円卓を囲んで財団の主要な幹部が顔を並べていた。
まぁその殆どが実際はここにいない訳だが、と実体を持っているのが自分を含め二人しかいないことを確認しながらアルバロンは思う。アブラクサス財団の幹部は皆それぞれに立場のある人間ばかりである。処務に日々忙殺される彼らがそうそう辺鄙な海底都市なぞに来れる訳がなく、ホログラムによる合同会議というのはある意味においてはかなり合理的な手段だと言えた。
アルバロンは上座と正面になる自分の指定席に座った。
上座に座るのは無論、アブラクサス財団の総主アリオスト・ヘーゲルである。
もう七十歳に近いはずであるが、その炯々とした瞳は力強く衰えを感じさせず、灰色のマオカラーの簡素な制服をまとった佇まいはカリスマの風情を湛えている。二十年前、緋色の美々しい礼服をまとっていた頃と変わらぬまま。
その右手に座るのは、この場でもう一人の実体を持った人間であるカディエス・フェトルガスだ。長い黒髪を項のところでまとめ、古めかしいデザインのダークスーツを着ている。その顔は知的な端整さが印象深いが、肌は病的に白い。右眼は眼帯に覆われており、やはりそれも黒い。――眼帯も含めて、少なくともアブラクサスではこれ以外の恰好をしたカディエスを誰も見たことがないと噂され、その姿は眼にする人々全てに同様の印象を与える。
魔術師、と。
彼は新遺跡群関連のトップで当然極めて多忙のはずなのだが、合同会議の際は常にルリエスに来ていた。
いつものように挨拶一つなく、総主ヘーゲルは口火を切った。
「カディエス卿、始めよう」
「畏まりました――さて、東京の被害状況は皆さん御存知でしょうが、一応私が説明をば」
カディエスは慇懃に前置いてから、淀みなく東京の状況を述べた。
死者行方不明者は六十万人に上り、被害総額は単純計算だけで数百兆円。帰宅難民は三百万人を越え、警察が機能しない今犯罪や暴動は止むことを知らない。政治の中心部であった永田町も完膚なきまでに破壊され、それらの影響は徐々に地方にも波及していた。
それだけではない。心臓部を破壊された日本経済は近々ほぼ完全に崩壊するだろう。のみならず、信用度の高いジャパンマネーは日本国債の大暴落によって引き上げられ、ニューヨーク株式は大混乱に陥るだろう。そして世界規模でのハイパーインフレーション、果ては資本経済制度の崩壊の危機すら十分ありうる事態である。
「この三日間、人員をフルに稼動して市場中の日本国債を買い集めていますが……人員と資本の追加を要請します」
アメリカで最も古く格式のある銀行の長であるベンジャミン・キタリッジがひどいかすれ声で言った。キタリッジの眼は充血し、肉付きの良い顔の色も蒼白に近く、やつれたように見える。
「こちらは生き残った在京マスコミに報道規制を敷いています。アバドン被災は隠しようもないが、これ以上不安を煽られては最悪の事態になりかねませんからな。その他アバドンやその擁護者に対して大規模なネガティヴ・キャンペーンを展開中です。東アジア、取り分け日本を中心にアバドンによって失われた重要文化遺産や絶滅した動物にスポットを当てて行ないます」
ジャコボ・ティエポロが言った。ヨーロッパ・アジア圏のメディア王であり、日本の多数のテレビ局の大株主である彼は、アブラクサスの有力な広告塔だった。
総主の視線がアルバロンに向けられる。
「して教授、〈ヴァシュタル〉のサンプルは?」
「ここに」
アルバロンは直径五センチメートルほどの立方体の硬化ベークライト樹脂を取り出す。透明なオレンジ色をした樹脂の中心にある一ミリグラムもなさそうな肉片こそ、〈ヴァシュタル〉の細胞だった。
アルバロンは忸怩たる様子を幾許か滲ませるような口調で言った。
「これだけです。貴重なアバドン・ヘッドの大型のサンプルを失い、施設やソルディアンなどの財団の直接の被害総額は余裕で百億を超えます。――まァ、沈みかけた経済船日本号を救うために奮闘してらっしゃるキタリッジ氏のお使いになる額とは恐らく比べようもない少額ではありますが」
キタリッジが鼻白んだ表情でアルバロンを睨んだが、アルバロンは気付かないふりをした。所詮視線は視線でしかないというのがこの男の持論である。
総主ヘーゲルが言った。
「諸君、この悲しい災厄で、我々が得ることの出来たメリットとは?」
ややあって、カディエスが言った。
「平和に慣れた日本国民も、最早アバドンによる危機が対岸の火事ではないことに気付くでしょう。この期に及んでアバドンとの共生を叫ぶ政治家や宗教家やいくつかの自然保護団体も、アバドンが決して人類とは共存できぬ不倶戴天の敵同士だと理解するでしょう。そして何より十一体目のオリジナル・ソルディアンを『彼ら』が所有していたことも判明しました。――収穫と言えば、この程度でしょうか」
総主ヘーゲルが再び問うた。
「カディエス卿、その十一体目のソルディアンについて何か情報は?」
「〈ヴォルカドゥス〉ですな。――『秘神幻想書』第五章第三節に記されたところによれば、龍頭人身、過去のアバドンとの闘いにおいて最も雄々しく闘ったソルディアンである、と」
「その〈ヴォルカドゥス〉について、後で資料を提出するように」
「畏まりました」
「諸君らの件全て了承した。カディエス卿、特にキタリッジ氏への資本提供を強化するように」
「承りました」
ヘーゲルの指示にカディエスはうなずいた。何故彼が本来お門違いであるはずの経済に権限を持つのかは、この際誰も疑問に思わなかった。
「此度の件、我らアブラクサス財団にとっては決してデメリットばかりではない。これにて会議は幕とする。諸君らは各自の任務に引き続き精励するように」
総主ヘーゲルがホログラムを切ったのを見計らって、幹部たちの姿が続々と消えてゆく。二人だけが取り残された空間で、ナイキッシュ・アルバロンは大袈裟すぎる溜息の吐き方をした。
「――総主も手ぬるいことで」
不敵な笑みを浮かべる。
「こう言ってしまえばいいのです。『地球という方舟は七十億人もの人類を乗せるには狭すぎる。いっそ、アバドンに人口を調整して貰えばいい』とね」
「悪くない提案だが、それを総主は決して採択はすまいな」
カディエスが立ち上がりながら応じる。
「その発想は自分が調整する側であるという傲慢から生じる発想だ。安易な優生思想に繋がりかねん。そして、遺伝子プールによる多様性を決して失いたくない――それが組織としてのアブラクサスの選択だ」
「何とも難儀な生き物であることよなァ」
アルバロンはぼやくように言った。
生物学、考古学の天才ナイキッシュ・アルバロン――彼は間違いなく天才であったが、その言動はあまりにも奔放すぎた。思いついたことを口に出さずにはいられないような性格は、同時に敵を作らずにはいられない性格と同義である。随って、彼を受け容れるような場所と言えばアブラクサス財団の研究機関くらいしかなかった。
カディエスはアルバロンに冷たく言い放った。
「それで何をしに来た、アルバロン」
「キミを笑いに来た。そう言えば気が済むのかね?」
「ふん、益体もない」
「つれないこと言うなよカディエス。ボクとキミとはwin-winな関係じゃないか」
「お前がわざわざ私の顔を見るためだけに海の底に来るような男ではないことは知っている」
「じ・つ・は、裏ビデオをキミと一緒に見ようと思ってさ。極秘ルートで手に入れたヤヴァ~い奴」
「内容は?」
アルバロンは薄型プレイヤーを出してディスクをセット。モニタに夜の都市が映し出された。
「さぁ、所は日本列島の最北端の更に北、択捉経済特区。択捉と言えば一月前アバドン一家が腰を据え、無力な市民は泣き暮らすばかり。そこに新入り〈ヴォルカドゥス〉がカチコむ! どうなるかは観てのお楽しみ――BGMはいるかい?」
片手を上げてカディエスは提案を退けた。
――これより十時間ほど遡る。
択捉はロシアより経済特区と認定されて以降、日本、ロシア、朝鮮、中国等の民族が流れ込んだ。結果として人口密度は加速度的に膨れ上がり、今や香港に次ぐほどの人口密度を誇っていた。繁栄の副産物としてビルが立ち並び、夜には夏の満天の星すら霞む電飾を輝かせていた。
その不夜城の一区画に、黒い染みのように電力の完全に絶えた場所がある。
アバドンである。林立するビルの間を縫う大通りの一本に、大輪の花の蕾が咲いていた。全長にして五十メートルの蕾である。枝葉はなく、幅の広い銀色の花弁は刃物を思わせる鋭利さである。アバドン特有の眼球は花弁に隠れて見えなかった。
〈アバドン・ヘッド〈ギベリオス〉だ。あの花弁が〈メジャー〉〉
ジャックが刃の蕾を差して言う。ラウラとメルがそれに付け足した。
〈正式には〈ギベリオス・マヨール〉と呼ぶんだけどね〉
〈小型のは〈マイナー〉もしくは〈ミノール〉ね〉
〈ギベリオス・マヨール〉は他のアバドン・ヘッドのように小型のアバドンを従えない。だが一ヶ所に根差し、やがて一メートルサイズで自立歩行のための節足を持つ〈ギベリオス・ミノール〉を無数吐き出し始める。〈マヨール〉にも〈ミノール〉にも川や海を渡る能力はないが、こうやって都市部を占拠される形になれば厄介だった。
「しかし、だ、親父」
ソルディアン〈ヴォルカドゥス〉の頭部操縦席『機主の座』に収まった隆一郎がマイクに向けて言った。『機主の座』には今までなかったものが導入されている。通信機器である。通信機器はあの軟らかくも硬くもない材質に吸収され、完全に『機主の座』の一部と化しており、事実問題なく動いていた。
「本当に住民は皆避難してるのか?」
〈ギベリオス〉の定住により避難勧告が出され、半径二キロに及んで住民は退避している。それら全てを破壊していい、と言われれば男の子としては何となく心浮き立つものがあるのだが、それ以上に不安が先に立つ。
〈そのあたりはアブラクサスが徹底しているはずだ。それにこの付近のビルの多くは老朽で近々解体される予定だった。市民のためにも更地にしろ〉
「了解」
隆一郎はこの件について心配するのをやめた。どうせ己が出来ることと言えば破壊だけ。なら、人のためになる破壊をしたいと思ったからだ。
〈時間だ〉
ジャックが告げた。
隆一郎は無言で〈ヴォルカドゥス〉を正面の〈ギベリオス〉に向けて直進――疾走させる。姿勢は低く、アスファルトに触れるか否かという程度の高度を保ちながら、全長二十五メートルの龍頭の魔人は自重すら無視して宙を滑る。
たちどころに距離は詰められる。隆一郎が初撃の口火を切ろうとした、その直前。
「――ッ!」
隆一郎は前方に違和感を感じた。
〈ギベリオス〉の前方の空間が強い風の吹き去った水面のように歪んだと見るや、夜の闇を斬り裂く青白い光の矢が迸る。
荷電粒子砲――放たれた光条を、すんでのところで〈ヴォルカドゥス〉は回避した。荷電粒子の束は発射されて間もなく急速に冷却され、虚空に溶けて消えた。
「あっぶねえ……!」
皮膚の汗腺から幾分かいつもとは成分比率の異なる汗を分泌させてうめくのも束の間、〈ギベリオス〉がぽつりぽつりと空間に歪みを生じさせ、光の矢を立て続けに撃ち出した。雨というにはやや不足だが、まさにビームの弾幕である。
「ちぃッ! ディフ・シルド!」
隆一郎はこれ以上の前進を諦め、〈ヴォルカドゥス〉を空中に静止させて不可視のシールドを展開。空間湾曲によって生じた障壁にビームが弾け、拡散しながら減殺されてゆく。減殺も拡散もされないまま流れた光の矢玉がビルに突き刺さり、ガラス混じりの瓦礫が飛び散った。
「……こいつ、二つのことは一度に出来ないんだよなぁ。そういうところは何で俺に似るか」
シールドでビームを凌ぎながら隆一郎はぼやいた。
〈ヴォルカドゥス〉は絶大な火力を誇るが、その絶大な火力のために二つのことは一度に出来ない――魔道素<<クリプトン>>のキャパシティーの問題という弱点を抱えているのだった。簡単に言えば、エネルギー容量は決して低くないし回復も早いが、それ以上に燃費が大きいのである。だから〈ヴォル・ファイア〉と〈ヴォル・ファランクス〉を同時に使うことは出来ないし、空中を浮遊しながら〈ディフ・シルド〉を展開し、攻撃を受け続けた状態で前進するという真似も不可能だった。
隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉をゆっくりと地に降ろす。二千トンもの質量を引き受けたアスファルトが大きく陥没した。
身動きもままならない集中砲火の中、不可視の障壁の一点が破綻した。――ビームのため? 否、そうではない。ついで肩口に走る激痛。動じることなく隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉のコンディションを確認――右肩に損傷。状態を把握する間に、左肩も同様に深々と抉られていた。
〈ギベリオス〉は〈ヴォルカドゥス〉を高々と持ち上げる。
持ち上げているのは、蔦――合金のワイヤーが何本も絡み合ったような質感の蔦だった。その尖端はドリルのように回転して〈ヴォルカドゥス〉の防御障壁と装甲を貫き、その巨躯を頭上百メートルにまで持ち上げたのだった。
隆一郎は身動きの制限される今の状態からの脱出を図ろうとした。だが金属の蔦は〈ヴォルカドゥス〉の運動エネルギーを相殺するが如くにうねり、行動を許さない。のみならず、振り回し、ビルに叩きつけた。言わば二千トンのハンマーとなって〈ヴォルカドゥス〉は幾つものビルを薙ぎ倒し破壊した。
「――くッ!」
装甲にダメージが蓄積される。無視出来ぬ損傷はやがて致命的な亀裂に変わりかねない。
「ゼオ・ソード!」
隆一郎の叫びと共に剣状に変形する腕部装甲。鋭利を極めた刃が金属の触手を断ち落とす。〈ヴォルカドゥス〉の巨体は大きな放物線を描いて投げ出されたが、自由落下に任せるまま、隆一郎は攻撃に移る。
「ヴォル・ファイア!」
口腔から放たれた白い焔が大気と共に瓦礫を煮やす。慣性制御で〈ヴォルカドゥス〉を両足から地上に着地させつつ、〈テイル・ハーケン〉を放った。項から伸びる金属節の「尾」――その尖端で回転する三つ爪の銛はしかし、硬い音を立てて弾かれた。
花弁の表面を煤けさせてはいるが、〈ギベリオス・マヨール〉はほぼ無傷のまま鎮座していた。
金属の蔦が襲いかかる。ただし、二本どころではない。十本や二十本でも利かなさそうな数が一斉に〈ヴォルカドゥス〉を攻め立てた。それ自体が蠕動する金属の蔦の波――おぞましい想像に身の毛をよだたせた隆一郎の声は殆ど悲鳴のようだった。
「そういうのは美少女にやれ!」
第一陣を〈ゼオ・ソード〉で切り払いながら、空中に逃げる。触手は上空千メートルまでなら届くらしいが、それが限界のようだった。
だがそこまでだ。〈ヴォルカドゥス〉の遠距離攻撃は〈ギベリオス〉の硬い花弁に弾かれてしまう。
〈ギベリオス・マヨール〉の心臓部を確実に抉るには、どうしても近づけなければならないのだ。
〈リュウ、奴の花弁だ〉
ジャックの声が聞こえた。
〈奴の花弁の表面には、空間歪曲障壁――〈ヴォルカドゥス〉の〈ディフ・シルド〉と同じ作用が働いているようだ。そいつを無効化しなければ、こちらの攻撃は心臓部には届かんぞ〉
「だけど、〈ヴァシュタル〉の時は〈テイル・ハーケン〉でぶち抜けたぞ?」
〈〈ヴァシュタル〉は鱗に直接障壁を展開していた訳ではなかったわ〉
隆一郎の反駁に答えたのはメルだった。
〈しかも〈マヨール〉の花弁は細胞レベルで蠕動し、回転によるエネルギーを相殺しているみたいなの。〈テイル・ハーケン〉だけでは貫くことは、多分不可能よ〉
「……じゃあ成す術なしって訳かい」
悔しさを滲ませながら隆一郎が吐き出す。
〈――そうでもないわ〉
「ほう?」
勿体ぶった返事に少し苛立ったような、その続きを求める隆一郎の声。メルは答えた。
〈〈テイル・ハーケン〉の質量だけでは不可能――つまり、分かるわね、リュウ?〉
それってつまり――口にするより早く〈ギベリオス〉の荷電粒子砲が束となって〈ヴォルカドゥス〉を襲った。右に旋回しながら機体を降下させた。兎にも角にも近付かなければ〈ギベリオス〉に致命傷は与えられない。接近するしか道はない。
〈ギベリオス〉の放つビームは点で線を描く如く〈ヴォルカドゥス〉を追った。隆一郎はビルの隙間を縫いながらビームをかわしてゆく。
逃げ回っても、それが可能なのは半径二キロ圏内だ。それ以上は住民を巻き込むことになってしまう。故に逃げるにしても遠からず限界が来る。
「だから――逃げるのはもうやめだ!」
ビームによる溶融孔だらけになったビル群が我先とばかりに瓦解してゆく。鉄筋コンクリートが叫ぶ耳を聾する轟音が十秒以上続いた後には、ビルの瓦礫がうずたかく積まれた。
突如、衝撃が掠め過ぎ、〈ギベリオス・マヨール〉の花弁の一枚をもぎ獲って行った。同時にその衝撃は眼球状をした心臓部の外殻を掠め、青い血を弾けさせた。
〈ギベリオス〉はその蔦を衝撃が掠め過ぎた方向に向ける。
衝撃の正体は言うまでもなく〈ヴォルカドゥス〉である。隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉を〈ギベリオス〉と向き直らせることはしなかった。〈テイル・ハーケン〉の尖端をドリルのように回転させながら、〈ギベリオス〉に目掛けて最大戦速で突っ込んだ。
〈テイル・ハーケン〉の質量のみでは〈ギベリオス・マヨール〉の花弁による鉄壁の防御を打ち破るのは不可能である。
だから隆一郎は〈テイル・ハーケン〉の攻撃に〈ヴォルカドゥス〉の二千トンの質量を加算した。
〈ギベリオス〉の花弁に〈テイル・ハーケン〉が撃ち込まれる。花弁の蠕動と三爪銛の回転が拮抗するその一瞬の間、二千トンの巨体が音速で銛を垂直に踏む。ただし、足の裏には〈ディフ・シルド〉を展開して。
するとどうなるか。まず、花弁の空間歪曲障壁が飽和し、破綻する。蠕動が意味を失うほどに深く銛が食い込み、眼球状の外殻を貫き、心臓部を食い破った。勢いを失わず、青い血に塗れて〈ヴォルカドゥス〉はそのまま〈ギベリオス・マヨール〉を貫通し、瓦礫に埋もれた都市に深々と穴を穿った。そこを中心として震度三ほどの地震が択捉で計測された。
心臓を破壊された〈ギベリオス〉は無音のまま数十の蔦を天に向けて一瞬硬直すると、盛大な破裂音を上げて四散した。その破片の中にいくつかの袋のような物体を隆一郎も確認していた。
〈〈マイナー〉の卵嚢だ、逃がすな!〉
ジャックの指示より早いか否か、隆一郎の反応も迅速だった。
「ヴォル・ファランクス!」
「親」の最期に応じて飛び散らんとした〈ギベリオス・ミノール〉の卵嚢を焼き尽くす炎の魔弾。夜天をまばゆく焦がす花火を、択捉の住人は見ていた。
その不夜城の一区画に、黒い染みのように電力の完全に絶えた場所がある。
アバドンである。林立するビルの間を縫う大通りの一本に、大輪の花の蕾が咲いていた。全長にして五十メートルの蕾である。枝葉はなく、幅の広い銀色の花弁は刃物を思わせる鋭利さである。アバドン特有の眼球は花弁に隠れて見えなかった。
〈アバドン・ヘッド〈ギベリオス〉だ。あの花弁が〈メジャー〉〉
ジャックが刃の蕾を差して言う。ラウラとメルがそれに付け足した。
〈正式には〈ギベリオス・マヨール〉と呼ぶんだけどね〉
〈小型のは〈マイナー〉もしくは〈ミノール〉ね〉
〈ギベリオス・マヨール〉は他のアバドン・ヘッドのように小型のアバドンを従えない。だが一ヶ所に根差し、やがて一メートルサイズで自立歩行のための節足を持つ〈ギベリオス・ミノール〉を無数吐き出し始める。〈マヨール〉にも〈ミノール〉にも川や海を渡る能力はないが、こうやって都市部を占拠される形になれば厄介だった。
「しかし、だ、親父」
ソルディアン〈ヴォルカドゥス〉の頭部操縦席『機主の座』に収まった隆一郎がマイクに向けて言った。『機主の座』には今までなかったものが導入されている。通信機器である。通信機器はあの軟らかくも硬くもない材質に吸収され、完全に『機主の座』の一部と化しており、事実問題なく動いていた。
「本当に住民は皆避難してるのか?」
〈ギベリオス〉の定住により避難勧告が出され、半径二キロに及んで住民は退避している。それら全てを破壊していい、と言われれば男の子としては何となく心浮き立つものがあるのだが、それ以上に不安が先に立つ。
〈そのあたりはアブラクサスが徹底しているはずだ。それにこの付近のビルの多くは老朽で近々解体される予定だった。市民のためにも更地にしろ〉
「了解」
隆一郎はこの件について心配するのをやめた。どうせ己が出来ることと言えば破壊だけ。なら、人のためになる破壊をしたいと思ったからだ。
〈時間だ〉
ジャックが告げた。
隆一郎は無言で〈ヴォルカドゥス〉を正面の〈ギベリオス〉に向けて直進――疾走させる。姿勢は低く、アスファルトに触れるか否かという程度の高度を保ちながら、全長二十五メートルの龍頭の魔人は自重すら無視して宙を滑る。
たちどころに距離は詰められる。隆一郎が初撃の口火を切ろうとした、その直前。
「――ッ!」
隆一郎は前方に違和感を感じた。
〈ギベリオス〉の前方の空間が強い風の吹き去った水面のように歪んだと見るや、夜の闇を斬り裂く青白い光の矢が迸る。
荷電粒子砲――放たれた光条を、すんでのところで〈ヴォルカドゥス〉は回避した。荷電粒子の束は発射されて間もなく急速に冷却され、虚空に溶けて消えた。
「あっぶねえ……!」
皮膚の汗腺から幾分かいつもとは成分比率の異なる汗を分泌させてうめくのも束の間、〈ギベリオス〉がぽつりぽつりと空間に歪みを生じさせ、光の矢を立て続けに撃ち出した。雨というにはやや不足だが、まさにビームの弾幕である。
「ちぃッ! ディフ・シルド!」
隆一郎はこれ以上の前進を諦め、〈ヴォルカドゥス〉を空中に静止させて不可視のシールドを展開。空間湾曲によって生じた障壁にビームが弾け、拡散しながら減殺されてゆく。減殺も拡散もされないまま流れた光の矢玉がビルに突き刺さり、ガラス混じりの瓦礫が飛び散った。
「……こいつ、二つのことは一度に出来ないんだよなぁ。そういうところは何で俺に似るか」
シールドでビームを凌ぎながら隆一郎はぼやいた。
〈ヴォルカドゥス〉は絶大な火力を誇るが、その絶大な火力のために二つのことは一度に出来ない――魔道素<<クリプトン>>のキャパシティーの問題という弱点を抱えているのだった。簡単に言えば、エネルギー容量は決して低くないし回復も早いが、それ以上に燃費が大きいのである。だから〈ヴォル・ファイア〉と〈ヴォル・ファランクス〉を同時に使うことは出来ないし、空中を浮遊しながら〈ディフ・シルド〉を展開し、攻撃を受け続けた状態で前進するという真似も不可能だった。
隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉をゆっくりと地に降ろす。二千トンもの質量を引き受けたアスファルトが大きく陥没した。
身動きもままならない集中砲火の中、不可視の障壁の一点が破綻した。――ビームのため? 否、そうではない。ついで肩口に走る激痛。動じることなく隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉のコンディションを確認――右肩に損傷。状態を把握する間に、左肩も同様に深々と抉られていた。
〈ギベリオス〉は〈ヴォルカドゥス〉を高々と持ち上げる。
持ち上げているのは、蔦――合金のワイヤーが何本も絡み合ったような質感の蔦だった。その尖端はドリルのように回転して〈ヴォルカドゥス〉の防御障壁と装甲を貫き、その巨躯を頭上百メートルにまで持ち上げたのだった。
隆一郎は身動きの制限される今の状態からの脱出を図ろうとした。だが金属の蔦は〈ヴォルカドゥス〉の運動エネルギーを相殺するが如くにうねり、行動を許さない。のみならず、振り回し、ビルに叩きつけた。言わば二千トンのハンマーとなって〈ヴォルカドゥス〉は幾つものビルを薙ぎ倒し破壊した。
「――くッ!」
装甲にダメージが蓄積される。無視出来ぬ損傷はやがて致命的な亀裂に変わりかねない。
「ゼオ・ソード!」
隆一郎の叫びと共に剣状に変形する腕部装甲。鋭利を極めた刃が金属の触手を断ち落とす。〈ヴォルカドゥス〉の巨体は大きな放物線を描いて投げ出されたが、自由落下に任せるまま、隆一郎は攻撃に移る。
「ヴォル・ファイア!」
口腔から放たれた白い焔が大気と共に瓦礫を煮やす。慣性制御で〈ヴォルカドゥス〉を両足から地上に着地させつつ、〈テイル・ハーケン〉を放った。項から伸びる金属節の「尾」――その尖端で回転する三つ爪の銛はしかし、硬い音を立てて弾かれた。
花弁の表面を煤けさせてはいるが、〈ギベリオス・マヨール〉はほぼ無傷のまま鎮座していた。
金属の蔦が襲いかかる。ただし、二本どころではない。十本や二十本でも利かなさそうな数が一斉に〈ヴォルカドゥス〉を攻め立てた。それ自体が蠕動する金属の蔦の波――おぞましい想像に身の毛をよだたせた隆一郎の声は殆ど悲鳴のようだった。
「そういうのは美少女にやれ!」
第一陣を〈ゼオ・ソード〉で切り払いながら、空中に逃げる。触手は上空千メートルまでなら届くらしいが、それが限界のようだった。
だがそこまでだ。〈ヴォルカドゥス〉の遠距離攻撃は〈ギベリオス〉の硬い花弁に弾かれてしまう。
〈ギベリオス・マヨール〉の心臓部を確実に抉るには、どうしても近づけなければならないのだ。
〈リュウ、奴の花弁だ〉
ジャックの声が聞こえた。
〈奴の花弁の表面には、空間歪曲障壁――〈ヴォルカドゥス〉の〈ディフ・シルド〉と同じ作用が働いているようだ。そいつを無効化しなければ、こちらの攻撃は心臓部には届かんぞ〉
「だけど、〈ヴァシュタル〉の時は〈テイル・ハーケン〉でぶち抜けたぞ?」
〈〈ヴァシュタル〉は鱗に直接障壁を展開していた訳ではなかったわ〉
隆一郎の反駁に答えたのはメルだった。
〈しかも〈マヨール〉の花弁は細胞レベルで蠕動し、回転によるエネルギーを相殺しているみたいなの。〈テイル・ハーケン〉だけでは貫くことは、多分不可能よ〉
「……じゃあ成す術なしって訳かい」
悔しさを滲ませながら隆一郎が吐き出す。
〈――そうでもないわ〉
「ほう?」
勿体ぶった返事に少し苛立ったような、その続きを求める隆一郎の声。メルは答えた。
〈〈テイル・ハーケン〉の質量だけでは不可能――つまり、分かるわね、リュウ?〉
それってつまり――口にするより早く〈ギベリオス〉の荷電粒子砲が束となって〈ヴォルカドゥス〉を襲った。右に旋回しながら機体を降下させた。兎にも角にも近付かなければ〈ギベリオス〉に致命傷は与えられない。接近するしか道はない。
〈ギベリオス〉の放つビームは点で線を描く如く〈ヴォルカドゥス〉を追った。隆一郎はビルの隙間を縫いながらビームをかわしてゆく。
逃げ回っても、それが可能なのは半径二キロ圏内だ。それ以上は住民を巻き込むことになってしまう。故に逃げるにしても遠からず限界が来る。
「だから――逃げるのはもうやめだ!」
ビームによる溶融孔だらけになったビル群が我先とばかりに瓦解してゆく。鉄筋コンクリートが叫ぶ耳を聾する轟音が十秒以上続いた後には、ビルの瓦礫がうずたかく積まれた。
突如、衝撃が掠め過ぎ、〈ギベリオス・マヨール〉の花弁の一枚をもぎ獲って行った。同時にその衝撃は眼球状をした心臓部の外殻を掠め、青い血を弾けさせた。
〈ギベリオス〉はその蔦を衝撃が掠め過ぎた方向に向ける。
衝撃の正体は言うまでもなく〈ヴォルカドゥス〉である。隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉を〈ギベリオス〉と向き直らせることはしなかった。〈テイル・ハーケン〉の尖端をドリルのように回転させながら、〈ギベリオス〉に目掛けて最大戦速で突っ込んだ。
〈テイル・ハーケン〉の質量のみでは〈ギベリオス・マヨール〉の花弁による鉄壁の防御を打ち破るのは不可能である。
だから隆一郎は〈テイル・ハーケン〉の攻撃に〈ヴォルカドゥス〉の二千トンの質量を加算した。
〈ギベリオス〉の花弁に〈テイル・ハーケン〉が撃ち込まれる。花弁の蠕動と三爪銛の回転が拮抗するその一瞬の間、二千トンの巨体が音速で銛を垂直に踏む。ただし、足の裏には〈ディフ・シルド〉を展開して。
するとどうなるか。まず、花弁の空間歪曲障壁が飽和し、破綻する。蠕動が意味を失うほどに深く銛が食い込み、眼球状の外殻を貫き、心臓部を食い破った。勢いを失わず、青い血に塗れて〈ヴォルカドゥス〉はそのまま〈ギベリオス・マヨール〉を貫通し、瓦礫に埋もれた都市に深々と穴を穿った。そこを中心として震度三ほどの地震が択捉で計測された。
心臓を破壊された〈ギベリオス〉は無音のまま数十の蔦を天に向けて一瞬硬直すると、盛大な破裂音を上げて四散した。その破片の中にいくつかの袋のような物体を隆一郎も確認していた。
〈〈マイナー〉の卵嚢だ、逃がすな!〉
ジャックの指示より早いか否か、隆一郎の反応も迅速だった。
「ヴォル・ファランクス!」
「親」の最期に応じて飛び散らんとした〈ギベリオス・ミノール〉の卵嚢を焼き尽くす炎の魔弾。夜天をまばゆく焦がす花火を、択捉の住人は見ていた。
ナイキッシュ・アルバロンのVTRは、あくまで客観的に〈ヴォルカドゥス〉と〈ギベリオス〉の戦闘を映したものである。当然隆一郎やジャック達の会話などは含まれていない。
だというのに、カディエス・フェトルガスが口にしたのはこんな言葉だった。
「機体の動きに感情が乗りすぎているな。素人丸出しだ」
みっともない、と言わんばかりのカディエスは、別の事柄についてアルバロンに確認した。
「何故会議中にこれを出さなかった?」
「誰かがVTRの提出を要求したら出すつもりだったけど――東京のは撮影無理だったし、どうせ動画サイトに流れてるでしょ――本当にあの人たちったらオリジナル・ソルディアンには興味ないのね。あ、もちろん総主には提出したよ。ナッシュもいれば良かったのに」
アルバロンの愚痴に似た独り言には付き合うことなく、カディエスは独りごちるように自らに確認した。
「択捉か……確か今日の今頃アグニたちがアバドン掃討作戦を行なうはずだったな」
一ヶ所に根付いたアバドンの場合、その掃討作戦は予告こそするが、実行される日程は民衆には知らされない。予告から実行に移されるまで最短で二十四時間以内、最長で三ヶ月と幅広い。その間に戦闘予定区域に足を踏み入れた者が(例え不慮の事故によって)犠牲になっても、法外な金額で財団と契約する顧問弁護士団によってほぼ全ての訴えは退けられる、という仕組みになっている。
問題は、どうやって「彼ら」がアブラクサスに先んじ得たのか、という点だ。日程は実行部隊には直前になるまで知らされない。カディエスもアルバロンも知ろうと思えば知ることは出来るし実際知っている立場だが、それを差し引いても日程の情報を知り得る人間は限られる。となれば考えることは一つだけだった。
「情報が漏洩しているな。モンマスシャーに怠慢はないのか?」
「言われなくても分かってますがな。あとモンマスシャーを責めないで! あの子もあの子なりにがんがってるんだから。その結果がこれ」
と、アルバロンは画面を指差す。カディエスは取り付く島のない冷徹さで首を振った。
「どうせ今日明日中には手に入る情報だった」
「あァん?」
「お前も分かっているだろう、これはアブラクサスへの挑戦だ。いや、挑発と言うべきだな」
「モンマスシャーも言ってたわね、情報局も同じ結論に達したと。で、カディエス」
「何だ。勿体ぶるな」
「キミはこの挑発にどう応じる? このソルディアン〈ヴォルカドゥス〉は攻撃力(ちから)自慢のようだが?」
カディエスは静かに微笑し、窓の近くに歩み寄った。透明な窓ガラスに指を触れると、窓越しに見える常闇の深海に、忽然として巨大な質量が出現した。一瞬で水が全く別種の分子に変換され、その分子が凝結し、像を創り上げた――そんな異様な錯覚を覚えさせる出現の仕方だった。
常闇の深遠で二つの光が睨み据えるように輝いた。まだ見ぬ敵手を虚空に探すように。意思あるものがそう振る舞うように。
「このカディエス・フェトルガスと〈クドゥラボロス〉は人類圏最強の一対だ。目覚めたばかりの機主とソルディアン如きに遅れを取る理由が見当たらぬ」
カディエスは口元に笑みを、右眼に強烈な自負を、それぞれ湛えて言った。
アルバロンの眉が跳ね上がった。同時に口元がきゅっと吊り上がる。
「頼もしい! さっすがアタシのヒーロー!」
だというのに、カディエス・フェトルガスが口にしたのはこんな言葉だった。
「機体の動きに感情が乗りすぎているな。素人丸出しだ」
みっともない、と言わんばかりのカディエスは、別の事柄についてアルバロンに確認した。
「何故会議中にこれを出さなかった?」
「誰かがVTRの提出を要求したら出すつもりだったけど――東京のは撮影無理だったし、どうせ動画サイトに流れてるでしょ――本当にあの人たちったらオリジナル・ソルディアンには興味ないのね。あ、もちろん総主には提出したよ。ナッシュもいれば良かったのに」
アルバロンの愚痴に似た独り言には付き合うことなく、カディエスは独りごちるように自らに確認した。
「択捉か……確か今日の今頃アグニたちがアバドン掃討作戦を行なうはずだったな」
一ヶ所に根付いたアバドンの場合、その掃討作戦は予告こそするが、実行される日程は民衆には知らされない。予告から実行に移されるまで最短で二十四時間以内、最長で三ヶ月と幅広い。その間に戦闘予定区域に足を踏み入れた者が(例え不慮の事故によって)犠牲になっても、法外な金額で財団と契約する顧問弁護士団によってほぼ全ての訴えは退けられる、という仕組みになっている。
問題は、どうやって「彼ら」がアブラクサスに先んじ得たのか、という点だ。日程は実行部隊には直前になるまで知らされない。カディエスもアルバロンも知ろうと思えば知ることは出来るし実際知っている立場だが、それを差し引いても日程の情報を知り得る人間は限られる。となれば考えることは一つだけだった。
「情報が漏洩しているな。モンマスシャーに怠慢はないのか?」
「言われなくても分かってますがな。あとモンマスシャーを責めないで! あの子もあの子なりにがんがってるんだから。その結果がこれ」
と、アルバロンは画面を指差す。カディエスは取り付く島のない冷徹さで首を振った。
「どうせ今日明日中には手に入る情報だった」
「あァん?」
「お前も分かっているだろう、これはアブラクサスへの挑戦だ。いや、挑発と言うべきだな」
「モンマスシャーも言ってたわね、情報局も同じ結論に達したと。で、カディエス」
「何だ。勿体ぶるな」
「キミはこの挑発にどう応じる? このソルディアン〈ヴォルカドゥス〉は攻撃力(ちから)自慢のようだが?」
カディエスは静かに微笑し、窓の近くに歩み寄った。透明な窓ガラスに指を触れると、窓越しに見える常闇の深海に、忽然として巨大な質量が出現した。一瞬で水が全く別種の分子に変換され、その分子が凝結し、像を創り上げた――そんな異様な錯覚を覚えさせる出現の仕方だった。
常闇の深遠で二つの光が睨み据えるように輝いた。まだ見ぬ敵手を虚空に探すように。意思あるものがそう振る舞うように。
「このカディエス・フェトルガスと〈クドゥラボロス〉は人類圏最強の一対だ。目覚めたばかりの機主とソルディアン如きに遅れを取る理由が見当たらぬ」
カディエスは口元に笑みを、右眼に強烈な自負を、それぞれ湛えて言った。
アルバロンの眉が跳ね上がった。同時に口元がきゅっと吊り上がる。
「頼もしい! さっすがアタシのヒーロー!」
全能者ならざる二人は知らなかった。同じ頃、タイのホテルの一室で同じVTRを観ている者が存在していた頃に。
「何だよこれ……」
彼には一つの癖があった。激しく動揺すると、左手の親指の爪を噛んでしまうのだ。幼い頃から指摘された癖であるが、二十歳も間近の今なお直らない癖である。
そして彼は今左手の親指の爪を噛んでいた。
彼の眼はVTRに釘付けになっていた。動揺は興味に変わり、興味はやがて苛立ちに変わってゆく。口元から親指を離し、彼は立ち上がった。
――そして苛立ちは怒りに変わった。
「許せねええええええええええええええええええッ!!」
彼の知る由ではなかったが、TPOをわきまえない絶叫は幸運にもタイ国最高レベルの防音用建材によって吸収された。尤も彼にとっては、絶叫が誰かの迷惑になろうがなるまいが知ったことではなかった。
「俺の獲物だぞ! 久方ぶりの世紀末、もとい戦争! こンのトカゲ頭に獲物を横取りされるほどこのアグニ・ドゥートはお安くねえぞ!!」
激昂しながらドアを開け、外へ出る。ドアマンたちが驚きと怪訝の視線を向けるのも完全に無視して、彼――アグニはホテルの外に出、ホテルに面した海に向かった。
「やめだ! 実家に戻るのはやめ!」
今は夜の零時を過ぎ、海岸や砂浜には誰もいないはずだ。いるとすれば薬の売買人かジャンキーかカップルか本気でタイ式輪廻転生を信じた馬鹿くらいであろうから、何があっても問題はないし良心が咎めることもない。
「何だよこれ……」
彼には一つの癖があった。激しく動揺すると、左手の親指の爪を噛んでしまうのだ。幼い頃から指摘された癖であるが、二十歳も間近の今なお直らない癖である。
そして彼は今左手の親指の爪を噛んでいた。
彼の眼はVTRに釘付けになっていた。動揺は興味に変わり、興味はやがて苛立ちに変わってゆく。口元から親指を離し、彼は立ち上がった。
――そして苛立ちは怒りに変わった。
「許せねええええええええええええええええええッ!!」
彼の知る由ではなかったが、TPOをわきまえない絶叫は幸運にもタイ国最高レベルの防音用建材によって吸収された。尤も彼にとっては、絶叫が誰かの迷惑になろうがなるまいが知ったことではなかった。
「俺の獲物だぞ! 久方ぶりの世紀末、もとい戦争! こンのトカゲ頭に獲物を横取りされるほどこのアグニ・ドゥートはお安くねえぞ!!」
激昂しながらドアを開け、外へ出る。ドアマンたちが驚きと怪訝の視線を向けるのも完全に無視して、彼――アグニはホテルの外に出、ホテルに面した海に向かった。
「やめだ! 実家に戻るのはやめ!」
今は夜の零時を過ぎ、海岸や砂浜には誰もいないはずだ。いるとすれば薬の売買人かジャンキーかカップルか本気でタイ式輪廻転生を信じた馬鹿くらいであろうから、何があっても問題はないし良心が咎めることもない。
劫初の夜に不滅の炎星が輝く時
黒き女神は手に千の藁を靡かす
六臂の剣と縄と魔杖を打ち棄て
貌無き闇を貪れ、兇獣を為す炎
黒き女神は手に千の藁を靡かす
六臂の剣と縄と魔杖を打ち棄て
貌無き闇を貪れ、兇獣を為す炎
「爆ぜよ、赫奕と――〈ギルクトゥーガー〉!!」
脳裏に浮かぶ口訣を、脳髄の赴くままに叫ぶ。
途端、海上に炎が燈った。赫奕と燃える有様は夜の太陽を思わせる。炎は紙の中心を燃やすが如く空間を食い破り、やがて一つの像を成す。
人身獣頭の神像を。
獣人の手がアグニを掬い、頭部の『機主の座』に収める。
「さぁ行くぜ兄弟! トカゲ頭野郎に一丁泡吹かせてやろうじゃねえか!!」
咆声一つを星空に響かせ、炎のオリジナル・ソルディアン〈ギルクトゥーガー〉は夜の海に衝撃波の航跡を曳きつつ、遥かな場所へと向かった。
脳裏に浮かぶ口訣を、脳髄の赴くままに叫ぶ。
途端、海上に炎が燈った。赫奕と燃える有様は夜の太陽を思わせる。炎は紙の中心を燃やすが如く空間を食い破り、やがて一つの像を成す。
人身獣頭の神像を。
獣人の手がアグニを掬い、頭部の『機主の座』に収める。
「さぁ行くぜ兄弟! トカゲ頭野郎に一丁泡吹かせてやろうじゃねえか!!」
咆声一つを星空に響かせ、炎のオリジナル・ソルディアン〈ギルクトゥーガー〉は夜の海に衝撃波の航跡を曳きつつ、遥かな場所へと向かった。
――アグニ・ドゥートが己の向かうべき方向の詳細について初めて思考を巡らせたのは、およそ千秒の後である。
老人の握手は力強かった。まだまだ若い者には負けぬ、とばかりの握力の強さに、隆一郎はやや気圧された。
老人、と言っても体格は良く肌や声には張りがあり、身長は一八〇センチ近い。色の濃いサングラスや手に持った杖から盲目と知れたが、その挙動は常人と何ら変わりなかった。
「君がジャックの息子か。似ていないこともないな」
隆一郎は反応に困りながら、父親に関する発言は求められない限りしないことにした。
「柊隆一郎と言います。あなたがミスタ・ウォルター・ラザルスですね?」
隆一郎は英語の読み書きは不得手ではない。大学では英文学専攻、自宅でも長らく祖母によって英語の教育は受けていたこともあり、こう見えて英検一級を取得している。しかしネイティヴな発音には慣れていないから、丁寧な口調に聞こえるように注意を払う必要があった。
「そう、私がウォルター・ラザルスだ。親しいものはオールド・ラザルスと呼ぶ。御大でもいいぞ、リュウイチロウ君。あと、私に堅苦しい言葉遣いは不要だ」
「お心遣い感謝します。あと、俺もリュウで結構ですよ」
握手を解く。老人――オールド・ラザルスはジャックに顔を向けた。ジャックは踵を合わせて折り目正しい敬礼をした。
「ジャック・フェルトン、戻りました」
「ご苦労だった、ジャック。ところでメルとラウラがいないが?」
「別の任務です」
ここはアメリカにいくつか存在するラザルスの私邸――その自家用飛行機の発着場だった。場所はアーカンソー州ポーク郡、実はジャックの生家はそれほど遠くないところにある。隆一郎が初めて聞く話であったが、父はそれについて言葉を濁したままだった。
ここに来る際二度飛行機を乗り継いでおり、二度目で彼女たちとは別れていた。ジャックが何か指示を出しているのが眼に入ったが、内容は聞こえなかった。
「ふむ、それは残念だ。若い女性のエネルギーは何よりも私の活力なのだが……」
独り言にしては大きすぎる声でラザルスが言った。彼は隆一郎の視線に気付いたのか、そちらに首と話題を振る。
「リュウ、私が〈ゲニウス〉の元締めであることは知ってるかな?」
「飛行機の中で窺いました」
「では何故私がそんな面倒な、もとい大それた役割を仰せつかったか話そう……と思ったが、まずは風呂に入り汗と垢と血と涙と疲れを流したまえ。随分な強行軍だったはずだ」
最後に入った風呂はすっかり遠い記憶だった。実際には四日前か五日前だったか? その間はシャワーも一応浴びていたのだが、バスタブいっぱいの湯を浴びない限り風呂に入った気がしない。そういうところでは、日本人の遺伝子は隆一郎の中にしっかり息づいているらしかった。
「風呂の後は食事だ。〈ゲニウス〉に関する話はその際にでもしよう。――その前にクローディア、隠れてないでこっちに来なさい」
少しの間。
やがておずおずと少女が物陰から姿を現す。年齢は十四、五歳くらい、身長は一五〇センチ強と言ったところだろうか。色の淡い金髪にマリンブルーの眼、透き通るような白皙の肌。基本的に隆一郎でさえ息を呑むような美少女だった。――街行くだけで男に皆振り向かせるような美女はざらにいるらしいが、彼女ならば息を呑ませるだろう。
何となくそんな予兆を感じて、将来が楽しみだ、と隆一郎は口の中で呟いた。
ただ、硬い。眼は挙動不審に小刻みに揺れ、右手と右足、左手と左足が同時に出たりと明らかに挙動不審である。
「く、クローディア・クロムウェルです……」
少女――クローディアはそう言って物陰に引っ込んでしまった。
老人、と言っても体格は良く肌や声には張りがあり、身長は一八〇センチ近い。色の濃いサングラスや手に持った杖から盲目と知れたが、その挙動は常人と何ら変わりなかった。
「君がジャックの息子か。似ていないこともないな」
隆一郎は反応に困りながら、父親に関する発言は求められない限りしないことにした。
「柊隆一郎と言います。あなたがミスタ・ウォルター・ラザルスですね?」
隆一郎は英語の読み書きは不得手ではない。大学では英文学専攻、自宅でも長らく祖母によって英語の教育は受けていたこともあり、こう見えて英検一級を取得している。しかしネイティヴな発音には慣れていないから、丁寧な口調に聞こえるように注意を払う必要があった。
「そう、私がウォルター・ラザルスだ。親しいものはオールド・ラザルスと呼ぶ。御大でもいいぞ、リュウイチロウ君。あと、私に堅苦しい言葉遣いは不要だ」
「お心遣い感謝します。あと、俺もリュウで結構ですよ」
握手を解く。老人――オールド・ラザルスはジャックに顔を向けた。ジャックは踵を合わせて折り目正しい敬礼をした。
「ジャック・フェルトン、戻りました」
「ご苦労だった、ジャック。ところでメルとラウラがいないが?」
「別の任務です」
ここはアメリカにいくつか存在するラザルスの私邸――その自家用飛行機の発着場だった。場所はアーカンソー州ポーク郡、実はジャックの生家はそれほど遠くないところにある。隆一郎が初めて聞く話であったが、父はそれについて言葉を濁したままだった。
ここに来る際二度飛行機を乗り継いでおり、二度目で彼女たちとは別れていた。ジャックが何か指示を出しているのが眼に入ったが、内容は聞こえなかった。
「ふむ、それは残念だ。若い女性のエネルギーは何よりも私の活力なのだが……」
独り言にしては大きすぎる声でラザルスが言った。彼は隆一郎の視線に気付いたのか、そちらに首と話題を振る。
「リュウ、私が〈ゲニウス〉の元締めであることは知ってるかな?」
「飛行機の中で窺いました」
「では何故私がそんな面倒な、もとい大それた役割を仰せつかったか話そう……と思ったが、まずは風呂に入り汗と垢と血と涙と疲れを流したまえ。随分な強行軍だったはずだ」
最後に入った風呂はすっかり遠い記憶だった。実際には四日前か五日前だったか? その間はシャワーも一応浴びていたのだが、バスタブいっぱいの湯を浴びない限り風呂に入った気がしない。そういうところでは、日本人の遺伝子は隆一郎の中にしっかり息づいているらしかった。
「風呂の後は食事だ。〈ゲニウス〉に関する話はその際にでもしよう。――その前にクローディア、隠れてないでこっちに来なさい」
少しの間。
やがておずおずと少女が物陰から姿を現す。年齢は十四、五歳くらい、身長は一五〇センチ強と言ったところだろうか。色の淡い金髪にマリンブルーの眼、透き通るような白皙の肌。基本的に隆一郎でさえ息を呑むような美少女だった。――街行くだけで男に皆振り向かせるような美女はざらにいるらしいが、彼女ならば息を呑ませるだろう。
何となくそんな予兆を感じて、将来が楽しみだ、と隆一郎は口の中で呟いた。
ただ、硬い。眼は挙動不審に小刻みに揺れ、右手と右足、左手と左足が同時に出たりと明らかに挙動不審である。
「く、クローディア・クロムウェルです……」
少女――クローディアはそう言って物陰に引っ込んでしまった。
これが二人の出会いだった。
〈第二話 了〉
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