一番悪い奴は誰だ?(破)

 ◆

                                        血塗られた献身                        
           流離の子                                                 

                                                                ソルニゲル  




                          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   




                                 久遠の赤                                  
 ◆

 ZONE26――『久遠の赤』 

 ――わくわくざぶーんで、超常の力を保有したサーヴァント共が鬼畜の宴に熱を入れているその頃、
実はある一騎が、わくわくざぶーんの施設目掛けて凄まじい速度で向かって行っている事に気付いた者は、誰も存在しなかった。

 施設で行われていた戦いが、凄まじい規模の物だったから混ざりたかったからではない。男は、戦いが三度の飯より好きな戦闘狂の類ではない。
男にとっては戦闘や戦争は常態のそれ。戦争そのものたるこの男には、今更どんな激しい戦闘が隣で起こった所でその心は動かされない。
その施設の近くにいた、ある男。その姿を、自身が有する戦況把握で認識した瞬間、男の理性は沸騰した。

 藤丸立香は、ある意味でこのライダー、『レッドライダー』と呼ばれるサーヴァントの産みの親であった。
このサーヴァントは本来姿形を持たぬばかりか、人格や己の意思すら持つ事がない。何故なら彼の本質は、人類……いや、この世に命が三つ以上あるのなら、
避ける事など先ず不可能な、『戦争や闘争』と言う概念その物。立香は知る事はないだろうが、特異点を股にかけた嘗てない戦争によって、
『戦争』というシステムそれ自体に、莫大な負荷を与えた。人理修復の不安定な状態に、このような負荷が掛かったせいで、
元来地球上の『戦争や闘争』を観測するシステムに過ぎなかったレッドライダーだった何かに、バグが発生。そのバグとは、即ち人格であった。
レッドライダーとは、黙示録にその名の示された、地上の四分の一の人類を戦争によって滅ぼす事が神によって赦されている、恐るべき騎士とは全く関係がない。
この地上で最も新しく、そして最も古い歴史を誇る、存在そのものがイレギュラー、存在そのものが矛盾(とくいてん)そのもののサーヴァントなのである。

 普段からレッドライダーは、状況の観測をしている訳ではない。
サーヴァントとしての使命を忘れている訳ではなく、彼は普段、自身のマスターである『光本菜々芽』の護衛を彼は主な仕事としていた。
と言うのも、戦況の観測は極少量とは言え、魔力を消費してしまうのだ。並のマスターであれば問題にならない程度の魔力消費なのではあるが、
魔術回路の一本も持たない菜々芽には、その少量が後々に影響を齎しかねない。仕方なくこの男は、今の今まで菜々芽に配慮して霊体化を行って過ごしていたのだ。
しかし、全く戦況を把握しようとしないのも、問題である。何せレッドライダーの戦況把握スキルは、例外こそあれどこの冬木全土であれば、
何処で何が起こっているのか容易く彼に理解せしめる反則その物のスキルなのである。これを利用し、サーヴァント達の動向を探っていたその時――彼の瞳は零れ落ちんばかりに見開かれた。

 藤丸立香が、この冬木に招かれていたと知ったのはこの時であった。
堂々とした態度で、見るからに悪辣そうな女狐のサーヴァントに命令を下すその様子は間違いなく、あの藤丸立香であった。
遭いたいと心の底で願っていたが、この世界では会えまいと、心の何処かで諦めていた存在と、同じ世界にいる。
いや、考えてみればあの男がこの世界にいるのは当たり前の事なのかも知れなかった。この冬木は、立香達カルデアの人間が言う所の、特異点とニアリーイコールだ。
ならば、いる可能性もゼロではない。特異点の解決にこの世界に乗り出していた可能性だって、あり得たのである!!

 立香の姿を認識した瞬間、宿題を終えてさあ眠ろうとして微睡んでいた菜々芽を、レッドライダーはベッドから叩き起こし、
服を平時のそれへと早くしろよあくしろよと急かして着替えさせて、半ばキレ気味の菜々芽の目線をガン無視。
二階の窓から道路へと飛び降り、時速七十㎞程の速度で彼女を抱えたまま目的地へと向かおうとしていた。

「戦士(マスター)よ、お前に以前言った藤丸立香……もうすぐ出会えるぞ!!」

「あなたが会いたいだけでしょ……!!」

 全くの正論である。

「そうだ、俺が会いたいだけさ!!」

 開き直り。

「産みの親に会いたくない子供が何処にいようか!! 人は誰しも、己のルーツに触れたくなるものさ!! だがな、戦士。奴に会う事は、少なくともお前にもメリットがある!!」

 レッドライダーの知る藤丸立香は、お人好しの権化のような存在であった。
底抜けのお人好しで、底抜けの善人。そして、悪を赦し、必要とあれば悪と手を結ぶ事も視野に入れる度量と器量の広さを誇る、筋骨の通った一般人/英雄/狂人。
それが、レッドライダーから見た藤丸立香だ。そんな存在である、自分と手を結ぶ事は解り切っていた。それは即ち、立香との同盟だ。
あの男と同盟を組む事をレッドライダー自身が望んでいると言う事も勿論あるが、それ以上に、菜々芽自身の安全も保障される。
立香の事だ。自身よりも遥かに無力で、機転と勇気だけが取り柄のこの少女を彼は守ろうとするだろう。それをレッドライダーは狙っているし、その姿を見たいのである。
レッドライダーの言う事に、嘘はない。藤丸立香と組む事は、寧ろメリットの方が多い。あの男は強い。あの男程、多くのサーヴァントを使役し、多くのサーヴァントと鎬を削ったマスターなど他にいるまい。彼は間違いなく、この冬木の聖杯戦争の優勝候補の一人であった。

 光本菜々芽を御姫様抱っこの要領で抱えながら走り続けるレッドライダー。
ステルス戦闘機を己の宝具で招聘させ、それに乗って一っ飛びしても良かったのだが、魔力消費の観点からそれは取りやめた。逆に言えば、魔力が足りてたらやってた。
もどかしいと思いながらも走り続けるレッドライダーだったが、遂に彼らは冬木大橋に差し掛かった。此処を越えれば、わくわくざぶーんと呼ばれるレジャー施設まで、もう少し。「遂に遭えるのだな、藤丸立香!!」そう思いながら橋の上を駆けようとした、その時だった。百m上空にまで――太陽が降りて来たような、白色の輝きが彼らを照らしたのは。

「――!!」

 慌ててレッドライダーは立ち止まり、菜々芽を庇った。
彼女も慌てて目を閉じるが、突如世界を照らした白光に、網膜を焼かれた。後三~四分は、目を見開かせてもまともに物も見れまい。

 ――見れない方が、良かったかもしれないと、レッドライダーは思っていた。
流石にサーヴァントだ。あの光を目の当たりにしても、視界は明瞭なものであった。だからこそ、よく見える。車の一台も通っていない、冬木大橋の車線の上。
その上に佇む、体高三m、全長四mは優に超すであろう、白く光り輝く機械鎧で鼻先から臀部を隙間なく覆った白い巨馬と、
その上に跨る、同じく白い機械鎧を纏った、白バイザーで顔を覆った赤髪の戦士の姿。この太陽の如き輝きは――馬と騎乗者の肉体や鎧から、そんな生態であるかの如くに発散・放出される、聖光こそがその正体なのであった。

「……ふむ」

 その姿を見て、レッドライダーは軽く、首を縦に振るう。菜々芽を地に下ろし、己の背後に匿った。

「この殻(レッドライダー)を被っているからか。そう言った存在が、人類の未来を記したとされる、黙示録なる書物に登場している事も理解している。だからこそ、問おう」

 白騎士を見上げながら、レッドライダーは言った。

「お前は、『勝利』か?」

 その問に、眼前の存在が答えるまで、一秒の時間を要した。

「……余の真名は、そのような名前ではないが――」

 身体から発散される光輝が、爆発的に強まった。視力を奪われた菜々芽にすら、その強さが指数関数的に跳ね上がった事が伝わる。
光が、肌を刺すように伝わるのである。いや、違う。伝わるのは光ではない。遍く不浄を浄化すると言う万斛の意思の強さと、その聖性であった。

「お前に滅びを齎す存在であると言うのは、事実だ」

「……ハハッ」

 くつくつと笑うレッドライダーの横に生じる、赤い断裂。 
それが、赤黒い火花を散らしながら、大量の血液を刷毛で塗った様に真っ赤な刀身が吐き出され、地面に突き刺さる。
これを引き抜き、その剣尖を、白騎士のバイザーに突き付けた。赤騎士の感情に呼応するように、赤く細い電流が、刀身に螺旋に纏われた。

「貴様に勝利し、戦士(ふじまるりっか)の供物にでもしてやるよ」

 刹那、両名の姿が音もなく掻き消えた事を、光本菜々芽は知らない。

 ◆

 月と、そこに掛かる薄い灰色の浮浪雲。
そして、針で刺した穴の如くに夜の空で小さく瞬く満点の星々。その三つだけが、地上で繰り広げられる魔戦の観客だった。
場所は、冬木大橋の車線上。栄えた地方都市とは言え、田舎の域をまだ出ぬ都市で、もうすぐ深夜を回ろうとする時間だ。行き交う車や通行人は、一人たりともいなかった。
星や雲は、語るであろう。こんな戦いを観る事が出来ない何て、そんな人間もいたものだと。だが、月と違う星は、こう語るであろう。観れなくて、良かったのだと。
このような凄惨で恐るべき戦い、何が起こっているのかを理解出来る程に近い所で見ようものなら、命など、幾つあっても足りはしないのだから。

 音が、聞こえる。
冬木の町の端から端、この地球(星)が纏う空気の鎧の遥か外にまで届かんばかりの、戛然たる戦音は、光によって視力を奪われた光本菜々芽の耳に、
痛い程に響き渡るのである。何が起こっているのか、何を繰り広げているのか。戦っているのは我がサーヴァントであると言うのに、この幼気(いたいけ)でありながら燃える鉄の如き心を宿す少女は、戦う模様を一切知る事がないのである。

 戦いの演者は、二人の戦士であった。騎士(ライダー)、とも換言出来ようか。
一人は、赤い男であった。被る軍帽も、纏っている軍服に似たデザインの服装も、腰に差した刀の鞘も、その髪も――その瞳でさえも。
大きな桶に零れそうな程なみなみと満たした血液、それを頭から被った後のように、彼は真っ赤であった。
きっと、目に見える所だけが、赤い訳ではないのだろう。きっとその心ですら、血で浸されたような褪紅色をしているに相違ない。
それも、死体から流れる不浄の血ではない。凄愴かつ熾烈な死闘、剣林が立ち並び弾雨が降り注ぐ戦場で流れ落ちた戦士の血で浸されているのであろう。
その証拠に、見よ。赤い騎士は、笑っていた。笑いながら、――案の定とも言うべきか――赤い刀身が美しい軍刀を、音を超過する速度で、幾度となく振るっていた。
戦闘自体を楽しんでいるのか。それとも、勝利の美酒の味を妄想しているのか。それは、彼――レッドライダーの心に聞いてみねば解らぬだろう。

 赤騎士と対するは、白い騎士だった。
白だった。その男を表現するのに、余計な修飾など無用。その一言で、全てのカタが付いてしまう。纏うものの全てが、白いのだ。
その身に鎧っている、メカニカルな意匠を凝らした……と言うよりは、機械そのものをその形に拵えた様な、機械鎧も。
騎士が騎乗する、騎乗者と同じく機械の鎧で馬体の覆われた巨馬、馬自体の体表も鬣も、そして当然纏われている鎧の方も。
纏うものの全てが、純白のそれ。墨を垂らそうが、汚泥を投げつけようが。墨は弾かれ、汚泥は汚してはならないと意思を持ったようにこの騎士と馬から逸れてしまおう。
唯一例外なのが、騎士が被っている、やはり白いバイザーが顔面を覆っているデザインの機械兜から伸びる、紅蓮の長髪であった。
月の光の下でもなお、艶やかで美しい事が窺える、その赤髪。兜の下に隠された素顔は、大層な美男子であろうと勝手に連想させるだけの力を、その髪は有していた。
純白のバイザーに阻まれて、白騎士の表情は窺えない。この戦いを楽しんでいるのか、疎んでいるのか。表情は愚か、剣を振う挙措からすらもそれが解らない。
白騎士の心情を忖度する事は、誰の目から見ても不可能だ。だが、確かな事が一つだけある。
音の二倍程の速度で振るわれる、レッドライダーの猛攻を、白の騎士(ホワイトライダー)は余裕綽々で、馬に乗りながら剣で弾いていると言う事だった。そう、この戦い。誰が見ても、白騎士が苦戦しているようには見えないのである。

 ――一撃が遠いな――

 笑みを浮かべながら、レッドライダーは考える。
『私には奥の手があるし、その奥の手を開帳すれば、お前なぞ瞬きの間に粉々だぞ』。暗にそう言っているような、腹に短刀でも隠し持っているような笑みだ。
これは、半分は正解である。確かにこのライダーには、戦争と闘争の具現であり歴史、そしてその嵐を直撃させる、凄まじい切り札を有してはいる。
これを使えば確かに白騎士は打ち倒せよう。だが、この奥の手があると言う言葉。半分は間違いであった。結論を言うと、おいそれと披露出来るものではない。
言うまでもなく、彼のマスターである光本菜々芽のせいであった。強力な宝具程、魔力消費が大きいのはサーヴァントと言う存在全てを貫く黄金律(ゴールデンルール)。
レッドライダーとて例外ではない。魔術回路の一本も持たぬ菜々芽では、白騎士を滅ぼせるレベルでその宝具を開帳してしまえば、自身も消滅しかねない。
それは避けたい。自分の死に頓着する赤騎士ではないが、この世界に藤丸立香がいるとなれば未練も執着もありありだ。顔も合わさず、言葉も交わさず。
無念の内に消滅すると言う事態だけは何としてでも避けたい。本人が思う程有利であるどころか、不利に近い状況であるのに、どうしてレッドライダーは笑ってられるのか?
単純な話だ。この世界に立香がいると言う事実の余韻が消えないのである。要するに、立香が冬木に住んでいると言う事実に、にやけ面を隠せないのだ。馬鹿なサーヴァントであった。

 宝具を使わずサーヴァントを倒したいと言うのであれば、素のステータスによる行動で押し切るしかない。
レッドライダーのステータスはかなり高く纏まっている。並大抵の相手ならば、力技で押し切る事も出来たであろう。
不幸だったのは、相手もまた力技で押し切れぬ程ステータスの高いサーヴァントであった事であろう。

 全く、レッドライダーの攻撃が当たらない。
速度に物を言わせた攻撃も、白騎士の方が反応が速い事と、赤い騎士の攻撃を見切っているように攻撃が放たれた瞬間から防御に移っているせいで尽く弾かれる。
ではと思い、フェイントを交えた攻撃も、こちらの心が見透かされているように白騎士は対応する。
レッドライダーの攻撃が一撃たりとも当たらないばかりか掠りもせず、それ所か巻き上がった埃や塵を鎧に付着させるどころか、
赤い軍刀から迸る赤い電光で鎧に一点の焦跡を産み出させる事すらままならない。そう、白騎士は、全く赤騎士の攻撃を問題にしていないのである。

「余を供物とするには、汝の剣捌き。役が足りぬと見えるが」

 抜身の長剣を振いながら、白騎士は言った。スピーカーのような物を通しているのか、独特の曇りがその声にはあった。男のものである。
歳を経た中年の声音にも聞こえるし、ひょっとしたら十代半ばの若造の声であるかもしれない。いやはたまた、性別すら違って、女のものである可能性もゼロじゃない。
確かなのは、空に輝く恒星を剣身の形に練り固めた様に白く激発する長剣を振う騎士の声音に、一切の焦りも疲れもなく、同時に、赤騎士に対する侮りもないと言う所であった。

「何だ? 望みとあらば、早くその身、腑分けする事も訳ではないが」

 軽い調子でレッドライダーは言った。そう口にしながらも、剣を振う事は止めない。
そして、赤い魔刀の一撃は何一つ、白騎士に届く事がない。騎乗者自身は元より、騎乗している馬自体も、その場から微動だにしない。
白騎士が動かしているのは、万魔を祓う朝の光の如く、白く輝く抜身の曲刀を振う右腕のみ。鎧を断ち、肉を裂く感覚が一向にレッドライダーの腕に伝わらない。剣と剣の衝突した音と、防がれたという虚しい実感だけが、その腕に去来する。

「時間の無駄だと言いたいのだ」

 冷淡に白騎士がそう告げた瞬間、馬と騎士の鎧から、一際強い光が煌めいた。陳腐な言葉だが正に、『太陽』の如し、と言う言葉が相応しい輝きであった。
それがただの光ではない事は、レッドライダー自身がよく理解している。宝具・人は皆戦士なり、故に理性は殲滅に終わる(レッド・ライダー)。
これを持たぬ左腕で、軍服に付けられた紅色のマントを翻し、レッドライダーは光――いや、白騎士の放った『攻性の聖光』を防いだ。
防刃、防弾、耐熱などあらゆる防御仕様を施していたマントだったが、白騎士の放った聖なる光の熱には耐え切れなかった。ガソリンを染みさせた布の如く、面白い様に燃え上がっていた。

「時間の無駄とは、こっちの台詞だ」

 炎上するマントを脱ぎ棄て、レッドライダーが吐き捨てるように言った。
立香に会いに行く用事があると言うのに、それを邪魔しているのは白騎士の方である。そっくりそのまま、レッドライダーは白に対して言い返した。

 レッドライダーから六〇m程前方に、白い騎士は佇んでいた。
聖光を身体から放ち、赤騎士を焼却させようとしながら、後方に移動した事は彼も知っている。だが、その移動の仕方が凄かった。
馬を使って移動した事は間違いないのだが、その時、『馬の脚は一本たりとも動いていなかった』。
レッドライダーの猛速の攻撃を防いでいた状態のまま、馬は身体の何処も動かさず、直立不動の状態のまま地面を滑るように凄まじい速度で下がって行ったのだ。
高速で動くベルトコンベアに乗せられているかのようなその移動法は、第三者の目でみればシュールなそれに見えたろうが、当のレッドライダーには全く笑えない。
本気であの馬が四本の脚を動かし、明白に移動する動作に移行してしまえば、どうなってしまうのか。それを想像するだに、恐ろしくなってしまうからだ。

「悪しき万軍をたった一度の吶喊で焼き祓う、我が白馬の突進。その一撃で、消え失せるがいい。戦争を司る者、平和と人命の簒奪者よ。余が打ち立てる理想界に、末世(カリ)の残滓である汝の存在は欠片も赦さぬ」

「人の本質にして、神の狂気から生まれ出でた気まぐれ。その大いなる要素の一つである私(戦争)を、貴様如きが滅ぼすだと? 思い上がりも甚だしいが、良いだろう。逆に興味が湧いた」

 軍刀を自然体に構え直すレッドライダー。上、中、下段。何れの型にも属さない。
刀を持ってただ自然に直立すると言う構えではあるが、此処から相手を斬り殺す術を、この騎士は幾つも知っている。

「来いよ」

「いざ」

 その一言と同時に、白騎士の馬の前脚が、地を蹴った。カッと、レッドライダーの両目が見開かれた。
あの馬が何かしらの宝具である事は勿論レッドライダーも推察していた、そして今、その推察が確信に変わった。あれは間違いなく宝具だ。
馬が宝具である以上、当然、その移動に何かしらの効果がある事は予測出来る。恐らくは、今白騎士が騎乗する機械鎧を纏う馬は、その効果の一端を見せている。
――加速度が、異常過ぎる!! ただの地面の一蹴りで、時速八〇〇㎞に近い速度を叩き出したといえば、どれだけそれが異常なのかは解るであろう。
この世の物理法則の桎梏の外に、如何やらあの白馬は君臨しているらしかった。重挽用としか思えぬ馬体の大きさでかつ、纏ってしまえば一歩も動けないような重量感の機械鎧を装備してこそいるが、そんな物、あの白馬にとっては何の意味も成さないようだ。

 更に恐ろしい事には、速度がまだ上がる!!
車道を一蹴りする毎に、その速度は100~200km/h程跳ね上がって行き、このまま行けばレッドライダーの下へと到達する頃には音速を超えているであろう!!





「――いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)!!」





 軍靴の踵で地面を蹴り抜きながら、レッドライダーがそう叫ぶと、彼の真正面一m先のアスファルトが、真っ赤に変色。
其処だけ、血で出来た水溜りにでもなったかのようであった。此処から勢いよく、トビウオが水面から急浮上する様に、
円形の何かに、ケルト十字のような物を装着して見せた様な意匠の物体が飛び出して来た。円形の物質も、十字の物質も、人一人を後ろに隠せる程大きい。
赤黒い液体に濡れたそれは、良く見ると藍色とも紺色とも取れる色味に金属光沢を内包しており、少なくとも有機物で構成された物質ではない事が窺える。
その何かが、カッと輝いたと同時に、アクリルに似た透明感の障壁のようなものがレッドライダーの前面に展開され、其処に、白騎士の乗馬が激突。
衝突の際に発生した衝撃波が、冬木大橋全体を橋脚ごと激震させ、衝突の際に生じた大音が、目が一時的に見えなくなった菜々芽から、聴覚すらも奪った。
「ライダー、なにが起ってるの!!」、と言う、悲鳴とも怒号とも取れる叫びが上がったのを、ライダーは果たして、この状況の最中聞けたかどうか。

 ともすれば菓子を包む薄紙よりもなお薄いと見えよう、その透明な壁は、如何にも脆そうな外観とは裏腹に、壊れるどころか亀裂一つ生じてなかった。
兜に包まれた馬の額を、頼もしく壁は防いでいる。強い感情のうねりが光る、巨きい駿馬の瞳は、壁を壊せなかった事への怒りすら感じられた。

「その、壁は」

「私としても使いたくなかったのだがな。使う事もないと誓っていたが……宗旨替えをさせてからに」

 この宝具は、レッドライダーが強く意識する藤丸立香、と呼ばれる青年の傍にいつも寄り添っていた、ある少女の使っていた宝具であった。
長く苦しい旅路の中で、少女は、当初は上手く御す事の出来なかったこの宝具を、オリジナルのそれとはまた違った形にまで昇華させ、
遂には、カルデアと言う組織に所属するサーヴァントの多くが強く頼りにする程の宝具へと完成させるに至った。
レッドライダーは、地球上で過去に起こった闘争や戦争で使われた諸々の兵器を使う事が可能である。
必然、藤丸立香が辿った特異点を巡る『戦い』、これを観測していた赤騎士は、その旅の中で発動された宝具の多くを我が物として使える。
盾は、古の昔戦争や闘争と切っても切られない関係の道具であった。使えない筈がない。例えそれが、立香の頼もしい相棒であった、マシュ・キリエライトの宝具であろうとも。問題なく、レッドライダーは行使する事が出来る。

 とは言えレッドライダーは、この宝具を使いたくなかった。
と言うのもこのライダーは、将来的には嘗てのマシュのポジションに、『自分が収まろう』と考えていたからだ。
言ってしまえばマシュは、レッドライダーにとってのライバルなのである。そのライバルの宝具を使う等、彼のプライドが許さない。
だが今回は、そんな事も言っていられない状況であった為、地球上で過去勃発した戦争、その中で使われた盾の中でレッドライダーが強力だ、
と思えるものを彼は一時的に呼び寄せて行使したのである。――成程、戦士(藤丸立香)が頼りにするのもよくわかる。レッドライダーは使ってみて初めてそう思った。
立香が全幅の信頼を寄せるのも無理からぬ程、この宝具は盾として優れている。流石は、憐憫の獣の放った回帰の光帯を数秒とは言え耐えただけはある。悔しいが、マシュと言う少女は、その宝具も含め、大変有能だったようだ。

 ラウンドシールド部分に取り付けられた、巨大なケルト十字の意匠。その下端部分を、ガッと地面に叩き付けるレッドライダー。
すると、固いアスファルトである筈の地面に、まるでビーチの砂浜のように十字の下部が突き刺さり、其処から火柱めいた物が白騎士目掛けて噴き上がる!!
これを白騎士は、右手に握る白光剣を横薙ぎに一閃。剣先が火柱を掠めた瞬間、レッドライダーの攻撃は一瞬で散り散りになった。
しかし、赤い騎士は怯まない、重量にして三十kgは下らなそうな大盾を構え、勢いよくこれを突き当てる。
瞬間、白騎士の姿が、盾の軌道上から消えた。バッと構えようとするレッドライダーであったが、頭上に清らかな気配を感じた為、バッと其処に顔を向ける。
居た。剣を振り抜いた姿勢のままの白騎士と、マシュの宝具が展開した薄壁に額を押し当てたままの姿勢の馬が。『高度三十m程の所』で、姿勢をそのままに浮遊していた。

 ――厄介な馬だな――

 やはり、あの馬は相当な曲者の様である。
これまで、白騎士が騎乗とする白馬の挙動を見て解った事が一つある。あの馬は、この世の物理法則を無視した軌道と速度で動く事が出来る。
重力、空気抵抗、慣性……凡そ、移動の際に邪魔となる全ての要素を、白騎士が駆る白馬は無視出来ると見て間違いない。
そして、これに騎乗している間は白騎士自身もその恩恵に与れる。だとしたら、極めて厄介である。もしも直線軌道で、上に挙げた三つを無視して加速をし続ければ、
理屈の上では殆ど光速と同じ速度にまで到達出来る事を意味するのであるから。

 空中で白馬が、何かを蹴った。いや、蹴ったのは、何もない『空間』だ。あの馬は、無を蹴る事で、何もない空中でも、宇宙空間の中でも。
地面を蹴って走るが如く、加速度を得る事が出来るのだ。白馬は白騎士を乗せ、空中を、あり得ない軌道で動きまくる。
縦横にジグザグに動く、上下にカーブを描いて動く、上に横にと楕円形に一回転するように移動する。このようなあり得ない、不気味で不可解な軌道で、
亜音速で動いていると言うのだから脅威と言う他がない。レッドライダーは、その攪乱する様な動きに惑わされず、白騎士の姿を追うだけで、かなりの体力を使っていた。
夜空をカンバスに、白い絵の具で一筆描きした様な、光の軌跡となっている白騎士の姿を、堪えず注視する。

 白騎士達が移動した際の残滓である、帯状の光とは違う光輝が、夜空に星の如く煌めいた。
その光目掛けて、マシュが使っていた盾を構えたのは、殆ど反射であった。盾を構えてからゼロカンマ一秒程後に、レッドライダーの腕に伝わる、凄まじい震動と轟音。
己のスキルである戦況把握を用い、何が起っているのか悟ろうとした瞬間、再び先程と同じ轟音と震動。何が起っているのか、漸く理解した。
――俄かに信じ難い話であるが、如何やらレッドライダーは、自分が防いでいるものは『小型のミサイル』であると認識した。
それが本当にミサイルであるのかどうかは、解らない。円筒状の物体が、底部から放たれる光の奔流を推進力に此方に向かって来ている様子から、
ミサイルと形容したに過ぎない。一つ確かなのは、白騎士が放っているこの小型ミサイル上の何かが着弾した際に生じる小爆発は、
サーヴァントであっても大ダメージを負う程の威力と神秘を内包した恐るべき兵器であると言う事だった。

 盾でミサイルを防ぎ続けるレッドライダー。
次第に盾に伝わる物が爆発の衝撃だけでなく、何かの衝突する様な感覚まで混じり始めた。戦況把握を用いているので解る。銃弾や砲弾であった。
機械で鎧った姿からある程度想像は出来ていたが、此処まで近代兵器を駆使する英霊であるとは、さしもの赤騎士も想像していなかった。
とは言え、この攻撃を行っているのは白騎士当人ではない。正確に言えば、白騎士が騎乗している巨馬が、これらの攻撃を行っていた。
白馬が装着している機械装甲の一部がパカリと展開され、其処から無尽蔵とも言える量のミサイルや弾丸が掃射されているのである。
しかも明らかに、鎧の外観からして考えられる搭載数を超越して放たれていると言うのだから、理不尽の極みとしか言いようがない。

 さてどうするか、と思うレッドライダー。誰がどう見たって、今の彼は攻めあぐねている状態以外の何物でもない。
手はある。だが、菜々芽に余波が及ぶ事を考えると、最善手とは言えない。魔力の消費量も然る事ながら、白騎士を本気で滅ぼす手段となると、
攻撃の余波で菜々芽が即死しかねないからである。それ程までの威力の攻撃でなければ、あれは、倒せない。

「賭けるか」

 そう呟き、レッドライダーは、マシュの宝具を頭上に展開させたまま、菜々芽の下まで駆け出し、彼女を左腕で抱き抱える。
突如として訪れた浮遊感と、己の身体が風になったような移動感覚と、ミサイルによる爆撃と砲弾の衝突による衝撃の伝播。
誰だって正気を保つのが難しい三つの要素が、いきなりその小さな体に、盾越しとはいえ伝わって来たのだから、当惑するのも無理はなかった。

「ら、ライダーなの!?」

「無論。お前を守る戦士である」

 その言葉と同時に、レッドライダーは宙に身を投げた。冬木大橋から彼は、菜々芽を抱えた状態で海浜公園の方へと着地。
突如として身体に舞い込んできた、身体の浮遊感に、菜々芽は強く歯を食いしばる。此処まで立て続けに起こるアクシデントの数々に、
全く臆した風も見せない。やはり、本当の意味で戦士であるらしいと、レッドライダーは菜々芽を強く評価する。

 此処にいろ、と、菜々芽を地面に立たせてから、レッドライダーは、遥か頭上で浮遊する、白騎士の方に目線を送った。
今は、レッドライダーを攪乱する為の、滅茶苦茶な軌道の移動は行っていなかった。素の状態だ。その状態のまま、彼の事を見下ろしている。
やはりな、と赤騎士は考える。光本菜々芽を抱き抱えている間、白騎士は『全く攻撃を行ってこなかった』。
言葉の端々から伝わってくる感覚からもしや、と思ったが、これで疑惑は確信に変わる。あの白騎士は、誇り高い性格の持ち主のようだ。
それも、年端の行かない少女を無暗に殺さない程度には、だ。菜々芽を抱き抱えた状態のレッドライダーを、ミサイルやら銃弾やらで攻撃しなかったのは、彼女への被害を勘案して、だったのだろう。どちらにしてもレッドライダーは、『菜々芽を抱いている間は攻撃の手を緩めるだろう』、と言う賭けに、見事打ち勝ったのである。

 そうと解れば、菜々芽を抱いたまま攻撃を、と思われるだろうが、そうは問屋が降ろさない。
その程度の猿知恵で、あの恐るべきサーヴァントと戦うのは愚策も良い所である。即座に対応され、菜々芽に被害が行かないよう、
赤騎士の身体に一撃を叩き込まれるのがオチである。しかも、彼女を腕に抱き抱えている以上、攻撃のパターンも狭められてしまうので、良い事など一つとしてない。
海浜公園に降りたのは、本気で白騎士を迎撃する為である。ただ、本気で迎え撃つだけなら、冬木大橋の上でもする事は出来た。
橋が破壊される事を危惧したのである。そうなると、無力な少女である菜々芽は余波に巻き込まれる事は勿論、橋の崩落で地面なり川なりに叩き落とされ、
そのまま転落死か溺死の運命を辿る可能性が高くなる。それを防ぐ為に、こうして地面へと、レッドライダーは降り立ったのである。

「こうして見ると、まるで太陽の如し、だな」

 空に浮かぶ白騎士を見上げ、誰に言うでもなくレッドライダーは呟いた。
白騎士の身体から発散される光は、地上から四〇~五〇mも離れた所であっても眩しいと感じられる程で、その様子はまるで、人の形をした太陽を目の当たりにしているかのようだった。

「よかろう、太陽を気取る者には、それに相応しい軍勢で答えねばなるまい」

 言って、仰々しい、芝居染みた態度で菜々芽から離れて行き、上空の白騎士に目線を送るレッドライダー。
今から攻撃に移るぞ、と言う合図でもある。だが逆にこの行為は、白騎士の側からも攻撃を放たれる事をも意味する。被害を勘案するべき菜々芽が傍にいないのだから、巻き添えの心配がないのだから。

 レッドライダーは、血に浸した様に赤い軍服の懐から、サラッとした砂状の物を取り出した。
葡萄の表皮に似た紫色のその砂は、この冬木を彷徨っていた、実体化には成功したが宝具を持って来れなかった、サーヴァントの成り損ない。
俗にいうシャドウサーヴァントを斬り殺した際に強奪した、虚影の塵と呼ばれる物であった。これを彼は、奪っておいたのである。
常ならば目もくれぬ様なその砂粒を後生大事に保管しておいたのは、これがサーヴァントの霊基を強めるのに必要な物品である事を、立香を通じて知っていたからである。
即ち虚影の塵とは、それ自体が魔力の集積体だ。魔術回路を持たぬ菜々芽にとっては僥倖の代物、来るべき局面まで温存するべきだとレッドライダーも考えてはいたが、
この手札を今切らねば嘘である。出し惜しみしては本当に葬られかねない。この塵を以って今こそ、レッドライダーは己が宝具の神髄を見せ付けようとしていた。

「これなる軍勢を覚えて逝け。これこそは、太陽を落とした女(テメロッゾ・エル・ドラゴ)の率いる、無敵の艦隊を海の藻屑に変えた狂える悪霊共の群れ」

 マシュの宝具たる、『いまは遙か理想の城』を持たぬ左手に握った虚影の塵を握り潰したその瞬間、レッドライダーの身体に魔力が漲り――。
そして、その充填された魔力が一秒立たずして消失する。ただ、意味もなく失われた訳ではない。彼が望むものの現界と引きかえに、消滅したのである。

 白騎士が驚いていたのか、それとも無反応だったのか。
宙に浮かび、微動だにもしないその姿からは窺うべくもない。だが、意表を突けた事は間違いないとレッドライダーは思っていた。
突けなければ、塵を潰した意味がない。――『未遠川に浮かべられ、白騎士が浮遊している高さと同じ所に現れた、大量のガレオン船』。
これに何も思わぬサーヴァントなど、肝が太いを通り越して最早鈍感の域にあるであろう。

「――ワイルドハントの御目通りだ。蹂躙されて、潰れて死ね」

 この一言と同時に、レッドライダーが現出させた、二十隻から成る大量のガレオン船。
その内の、浮力不明の、空中で揺蕩う七隻。その七隻の中で更に、白騎士を東西南北から取り囲む四席が、船底からマストの上端に至るまで、完全に燃え上がり始めた。
そして、その炎上した状態のまま、空中を滑り、白騎士の下まで四隻が殺到!! これを白馬の騎士は、右手に握った白光剣を、一振りする事で迎撃する。
ただ迎撃したのではない。剣を振った際に生じた刃風、そして衝撃波で、北側と西・東側から迫る、三隻のガレオン船を粉砕させたのである。
白騎士の振う剣の恐るべき衝撃波を受け、三隻は全く同じタイミングで大爆発を引き起こす。残った南側の一隻、あわや白騎士に激突するかと見えた、刹那。
これまで緘黙を貫き、およそ生物らしい動きを一秒たりとも見せず、機械の様に徹していた機械鎧の白馬が、上半身を大きく引き起こさせて嘶いた。
この時、白馬の馬体から超新星爆発染みた極光が迸り始め、それが南側のガレオン船を呑み込んだ。
光に呑まれたガレオン船は、爆発するエネルギーごと、白光が内包した高エネルギーに併呑されたか。塵一つ残さず、音一つ立たせずこの世から消え失せてしまった。

 嘶いた姿勢のままの白馬目掛け、未遠川に浮かぶ十三隻、未だ空中に浮かぶ残り三隻の側面に取り付けられた砲熕が、火を噴いた!!
俗に『カルバリン砲』と呼ばれる大砲である。人体に直撃すれば、如何なサーヴァントとて一溜りもない。
蟻の這い出る隙間もない程の密度で放たれた、カルバリンの砲弾の雨霰。だが、いつまでも大人しくしている白騎士ではなく。
その砲弾が放たれた速度よりも『速く』、弾幕の薄い方角へと白馬が突進。しかし弾幕が薄いとは言え、砲弾そのものがゼロである訳ではない。
この無数の弾丸を白騎士は、神速とすら形容され得る程の速度で剣を振い、そのまま行けば命中が確約されているカルバリンの弾丸だけを、一つ残さず割断。斬り払った。

 弾幕の集中砲火を逃れ切った先は、未遠川に浮かぶガレオン船の内一隻であった。
その一隻目掛け急降下した白騎士は、船体に激突するか、と言うタイミングでカーブを描いて急浮上。
音速を超過する程の速度での移動によって生じた衝撃波で、一隻は無数の破片となり、即座に船としての体を成さなくなってしまった。
完膚なきまでに破壊されたその一隻の両隣の二隻も、衝撃波のあおりを受け、船体の殆ど半分近くが吹き飛んだ。正に、半壊状態であった。

 そのまま急上昇した白騎士は、空中に浮かぶ残り三隻のガレオン船へと向かって行くが、何時までも棒立ちの状態のレッドライダーではない。
彼の回りの空間に突如赤黒い亀裂が走ったと見るや、其処から、ハリネズミのようにカルバリン砲の砲身が伸び始め、白騎士目掛けて砲弾を発射。
事此処に至って、砲口から放たれる弾体が、物質的な質量を伴った砲弾から、黄金色のレーザーに変貌。レッドライダー付近の空間から伸びる砲体から放たれる弾体は皆、
一直線に白騎士へとのびて行くレーザーと変貌した。そしてこれを契機に、ガレオン船のカルバリン砲からも攻撃が発射される。放たれる弾丸は皆、レーザーへと変化していた。

 これを認識した白騎士が、鐙を蹴って跳躍。機械鎧を纏った巨馬から離れ、空中に躍り出た。
レッドライダー達が放った、白騎士に本来ならば当たる筈だった砲撃が皆、この白い戦士の思わぬ行動でスカを喰わされてしまう。
騎手の軛から放たれた瞬間、白馬は、白色の光の軌跡としか映らぬ程の超高速移動を以って、宙に浮かぶガレオンの内一隻に突進。
そのまま船首から船尾までを貫通――貫通された船が、橙色の爆発となって、空に消えた。

 そのまま地面へと落ちて行く白騎士であったが、その間を無防備とレッドライダーは考えたらしい。
引力と重力に従い、未遠川に向かって落下する彼目掛けて、カルバリン砲の照準を合わせた。

「対呼風制御兵装・ヴァーヤヴィヤーストラ、機動」

 白騎士の言葉はレッドライダーには良く聞こえた。そしてその言葉の後に、カルバリンから黄金色の光芒が瞬いた。
何かを仕掛けて来るか、と思ったその時には、相手は既にそれを行っていた。空中を、地上を走るのと全く同じ要領で、白騎士が移動を始めていたのだ。
空中を実際走っているのではない。何かの機構を発動させたのは間違いないだろう。原理不明の浮力を駆使し、まるでトンボかカワセミのような器用さで空中を移動。
そして、放たれたレーザーの合間を縫って白騎士が地上へと向かって行く。ただ、向かって行くのではない。恐ろしく、早い。
今、空に残った二隻のガレオン船の内一隻が行った、船内に積んだ火薬を炸裂させ自爆させてからの特攻を超高速の移動で回避しているあの白馬の速度とは比べるのは酷ではあるが。それでも時速四百㎞程は平気で白騎士は叩き出していた。

 タッ、と船首に降り立った白騎士。先程白馬に騎乗していた際に、衝撃波で半壊させたガレオン船であった。
これを感知した瞬間、半壊した船の何処に、積んであったのか。内部に残留させていた火薬をレッドライダーが炸裂、白騎士を爆殺させようと試みる。
――だが、爆風が、逸れて行く。まるで爆風自体が礼節と言う概念を憶えたが如く、白騎士に迫った瞬間、爆風自体が真っ二つに割れて、彼を害そうともしないのだ。
半壊状態であったから、爆発の威力が弱かったからとかそう言う次元の話ではない。レッドライダーはそう考えた。恐らくは、空中から地上に落ちる時に起動させた、ヴァーヤヴィヤーストラなる機能が影響しているのだろう。

 ヴァーヤヴィヤーストラ……戦争を観測し続けたレッドライダーには憶えがある。
ヒンドゥーの神々が混ざり合う前のインドで隆盛を誇っていた、ヴェーダの神々。その中でも特に強壮な力を持つ風の神・ヴァーユが所持している弓矢であったか。
アグニの力の具現であるアグネヤストラや、創造神ブラフマーが持つ投擲武装ブラフマーストラと同じ、神が認めた者しか扱えぬ神造兵装だ。
レッドライダーがこの武器の事を知っているのは、地球上で勃発した戦争で、このヴァーヤヴィヤーストラが使われた戦いがあった事を知っているからだ。
一度放たれれば、千軍を粉微塵にし、万軍を地殻ごと天空へと巻き上げるこの神矢と同じ名前をした機能――偶然ではなかろう。
恐らくは、あの地からの出身であるサーヴァントなのだろうが……全くレッドライダーには、このサーヴァントに『覚えがない』。
これ程の力を誇る英霊だ。先ず、過去地球上の何処かでその勇名を馳せさせた事は間違いない筈なのに、記憶の何処を洗っても、白騎士が活躍したと言う過去がないのだ。
すわ、物語の中の英霊か、とも考えたがそれにしては実力の濃さが違う。このサーヴァントの正体が全く掴めない。掴めないが、レッドライダーのやる事は一つだ。どうあれ、潰す。これ以外にはない。

 未遠川に浮かぶガレオン船の一つが、恐ろしい程の速度で水面を滑り、空中に浮かぶ白騎士目掛けて特攻。
その際中、ガレオン船が燃え上がり始める。これぞ、『太陽を落とした女』と呼ばれるある英霊が、スペインが誇る無敵艦隊を海底に沈めた戦いであるところの、
アルマダの海戦で用いた、火船と呼ばれる戦法だ。火薬を積んだ船を燃え上がらせ、それを敵艦に突っ込ませるある種の特攻。
だが、レッドライダーの用いるこの戦法は、生前の『彼女』が使った戦法よりもずっと悪辣だ。何せ、積んでいる火薬が当時の性能の低い火薬ではないのだ。
レッドライダーの宝具を使って産み出した、大量のTNT。これを船にギッシリと詰め込ませている。炸裂させれば、サーヴァントであろうとも一溜りがない筈なのだ。そう、それは、命中すればの話。

 白騎士は空中を滑り、迫り来る火船の特攻及び、今も放たれ続けるカルバリン砲の弾丸を回避。
白馬に騎乗していた時に起こした衝撃波で半壊した一隻に着地した同時に、握った光剣を白騎士が一閃。
火薬を炸裂させるよりも早く、半分だけしか船体が残らなかったガレオン船をバラバラに分解させ、炸裂させるだけの力を奪ってしまった。
これと同時に、空中で再び爆発音が響いた。白馬が、空中に残った最後の一隻を、馬体を鎧う機械甲冑から展開させた機銃による弾幕で、蜂の巣にし、爆散させた音だった。
地上に雨の如くに降り注ぐ、火を纏ったガレオン船の破片。これよりも早く、巨馬は地上へと急降下。
だがこれに合わせるように、白騎士に特攻をしかけるも、避けられたままだった火船が、独りでに浮き上がり、物理法則を無視したような速さの初速で白馬目掛けて吶喊!!
白馬はそのまま速度を上げ、迫る火船と、自分に対して放たれているカルバリン砲の雨霰を縫うように回避しながら、無事の状態のガレオン船に着地。
だが、凄まじいスピードの勢いを乗せた着地の影響で、白馬の蹄を受けたガレオン船はバラバラに砕け散り、千々に砕け散った破片が虚空を舞った。
今度は逃がさぬとばかりに、白馬に躱された火船が空中から、船首を下に向けた状態で勢いよく急降下。狙いは勿論、白騎士が駆る白馬であった。

「――対悪賊解脱浄化兵装・羅刹を裁く不滅(ブラフマーストラ)、限定解除」

 宙に浮かびながら、右手に握った剣一本でカルバリンの光線を弾き続ける白騎士が、そう呟いた。その瞬間。
剣を持たぬ左腕、其処を覆う機械装甲のパーツの一つ一つが、音もなくかつ、スムーズに。展開と変形を繰り広げて行き、遂には一つの形に纏まった。
それは、カルバリン砲に似たような、大砲の砲口であった。白鳥や蓮、数珠の意匠を凝らした彫刻が取り付けられたばかりか、
梵語によるマントラが砲身全体に芳一話のように刻み込まれた、白銀の砲口であった。

 白馬目掛けて落下している、炎上したガレオン船の船体の真横を、円柱状の白い光線が貫いた。
それは、白騎士の変形した左腕、つまり、砲身と化した腕から放たれていた。貫かれた所から、内部に搭載していた筈の火薬が引火、誘爆を引き起こし、
そのまま船は、夜の空を染め上げる橙色の光と静寂を切り裂く大音響と化した。

「ブラフマーストラ、か」

 展開させたガレオン船が、二分と経たぬ内に半分以上も潰されて尚、レッドライダーの顔から笑みが消える事はない。
ブラフマーストラ、その名は彼も良く知っている。彼の地で信仰されている創造神・ブラフマーが、世界の秩序を乱す悪しき敵を滅ぼす為に、
人界の英雄に与えるとされる至高かつ究極の武器である。この武器を用いたとされるラーマ、ラクシュマナ、カルナ、そしてアルジュナ。
この四名は嘗てブラフマーストラを振った英傑であり、そしてその何れもが、人理にその名を刻んだ綺羅星の如きトップサーヴァントである。
では目の前のサーヴァントは、この四名の内誰かなのか?その可能性も、捨てきれない。断定は出来ないのだ。
そもブラフマーストラは上に挙げた振るった存在達の名を見れば解る通り、特定の誰かを象徴する武器と言う訳ではない。
その御心に沿った相手に、創造神ブラフマーが貸し与える神造兵装なのである。役目を終えた後、ブラフマーストラは元の創造主の下へと戻る。
つまりは、こう言う事だ。創造神が作り上げたこの兵装を振った英霊の中で突出して有名なのは上の四名であり、『過去彼ら以外にこの武器を駆使した英霊がいた』、
と言う可能性もあると言う事だ。その、名の知れぬ誰かの可能性が、大いにある。レッドライダーですら観測出来なかった所で、世界の平和を脅かす羅刹を撃ち滅ぼした、名もなき英霊の可能性が。

 そもそもあれが真実本当の、創造神謹製の兵装なのか、と言う疑問も当初はあったが、そんな事は瑣末な事であろう。
別行動している白馬共々、カルバリン砲のレーザーを回避しながら、次々にガレオン船を、左腕から放つレーザーで破壊して回る様子を見せられてしまえば。
鎧が変形して出来上がったあれが、ブラフマーストラであると信じてしまおうと言う物だった。

 アルマダの海戦を限定的に模して、あの戦いで使われたガレオン船及び戦術を当世風にアレンジして再現してみせたが、こうまで痛痒を与えられていないと、
怒るとか絶望とかを通り越して最早笑えてくる。いや、レッドライダーは今に至るまで、笑みの気風を白騎士と出会った当初のそれから崩して等いないのだが。

 幾度かの爆音が鳴り響き、アレだけ海浜公園を賑やかせていた砲音も、誰が聞いても明らかな程少なくなっていた。
当然だろう。二十隻あったガレオン船は既に残り四隻を切っているのだから。三秒に一隻、物言わぬ木端と鉄片となっている計算だ。
ブラフマーストラと言う名をした、左腕の砲口で、次々にガレオン船を爆散させる白騎士と、身体から放出させる光や高速度の突進で船体を破壊する白馬。
その光景は、白騎士の味方をする者からすれば、劣勢を一時に挽回させる英雄の輝かしい姿にも映ろう。
だが、白騎士の敵対者からすれば、夢魔が演出する想像する事すら憚られる悪夢そのものとしか映らないだろう。それ程までに圧倒的な、蹂躙の風景であった。
これを見てもなお、レッドライダーは笑みを崩さない。これすらも、このライダーにとっては想定内の出来事であったからだ。
無論理想は、この船で白馬の騎士を殺す事ではあったが、軍刀で打ち合った経験から、それは難しい事だろうと言うのは端から予測が出来ていた。
本命は、これとはまた別に用意していた。そしてそれは、最後のガレオン船を白騎士が破壊した瞬間に、行おうと決めていた。

 瞬きの間に、残りのガレオン船は最後の一隻を数え、その最後の一隻を、白騎士が放ったブラフマーストラが貫いた、その瞬間だった。
マシュの宝具である大盾の後ろで、隠すように取り出していた、一本の槍を、レッドライダーが構えた。
――兇悪な、槍だった。長さにして優に二mをそれは容易く超えるその槍の色が血を吸った海綿の様に赤いのは、きっと赤騎士がそうあるべく作ったからではないのだろう。
きっと、元からこの槍は、見る者に血を想起させる様な赤さであったに相違ない。ある者は、この得物を見てこうも言うであろう。この槍は、呪われていると。
色がそんな物である事もそうである。だが何よりも、その形状がまた、悍ましい。槍を槍足らしめているその穂先は、下手な長剣よりも遥かに長く、
常人は愚か槍術に堪能な者ですら何処を握って良いのか解らない程、ナイフの刃よりも尖った棘が柄全体に生えているのである。
これでは下手に握れば手が切れてしまう為に、槍を振う事は勿論、そもそも柄を握って持ち上げる事すら出来ないであろう。
狂った鍛冶が、持ち手の都合など一切考えずに作ってみせた様な、変態的で悪辣なフォルムのそれを、レッドライダーは握った。
途端に、掌の筋肉が切れ始め、凄まじい痛みが腕全体を伝播する。想像通りの感覚だった。

 ――こんな物をどうやって握っているのだあの狂王は……――

 苦笑いを浮かべながら、この下手物を振っていた本来の担い手の事を思い出すレッドライダー。
この槍を小枝の如く振う戦士は、誰も観測出来なかった幻の英霊である。観測出来なかった理由は、単純明快。『レッドライダーと同じく存在しなかった』からだ。
コノートの女王が聖杯の力を借りて、『在る』事を願った狂える王。刃向う相手を殲滅し、その果てに王となる為だけに存在する魔王。
王になった後の事など、何も考えていない。ただ戦い、殺し尽くす戦闘機械。これが嘗て、光の御子だなと呼ばれていたアルスター屈指の戦士の側面だなどと、
誰も夢には思うまい。当たり前だ、先述の通りこの英霊はそもそも存在しない。こんな側面など、存在すらしないのだ。
言ってしまえばこの槍の担い手は、杯に注がれた麦酒の泡の如く儚い、泡沫の存在なのである。存在の朧さを言えば、幻霊に限りなく近い。
人理焼却を阻止するべく、特異点を旅していた藤丸立香。その彼が五つ目の特異点で観測し、その縁(よすが)を築いた事で、初めて座に登録された英霊。
彼もまた、レッドライダーと同じく最新の英霊としての定義を満たすサーヴァントなのだろう。この狂王と、藤丸立香達の死闘を、戦争と言うシステムであるレッドライダーはしっかりと観測していた。

 そして勿論――彼らの宝具を扱う事も出来るのだ。

「――抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)!!」

 笑みを浮かべ、槍を取り出す事を悟られないように立てさせていたマシュの盾を勢いよく蹴り飛ばしてから、レッドライダーがその槍を投擲した。
ゲイ・ボルク。アルスター伝説が誇る最強の戦士であるクー・フーリンが振う魔槍であり――その英霊が聖杯の力で在り方を歪められた際に、同じくその形状も性質も変化した禍槍。それが、今レッドライダーの握る槍の正体であった。

 槍がレッドライダーの手を離れた瞬間、槍を投げる際に用いた右腕の指先から肩の付け根までが、ズタズタに引き裂かれた。
軍服の袖の布片は空中を舞い、血飛沫に混じって細やかな肉片が空中にスプレー状となって飛び散った。あり得ない程の激痛だ。骨にまで響く。
やはり、本来の担い手の様には行かないかと、笑みを崩さずレッドライダーが考える。この槍を握る方のクー・フーリンですら、このような痛みからは逃れられない。
我が身が自壊し、腕が千切れ飛ぶような痛みとダメージを覚悟で、あの狂王は槍を投擲しているのである。そして、投げた傍からその傷をルーン魔術で回復させている。
それが、この馬鹿みたいな槍を幾度も投擲しても平然としていられる理屈の正体であった。似たような事はレッドライダーも出来なくはないが、あの男程即座に傷の回復を、と言う訳には行かないだろう。ある程度時間を置く事は、覚悟の上か。

 レッドライダーの腕に負わされたダメージを推進力にでもしているかの様に、投げ放たれた槍の速度は凄まじかった。
柄から噴き出る赤黒い魔力を推進力に暴力的な加速を得ているせいか、槍全体が大気圏に突入した隕石めいて赤熱しているのだ。
赤と白の騎士の彼我の距離は、百m以上離れている。槍が二十m程進んだ頃には、既にその速度は音の二倍を越え、半分の五十mを切った頃には、超音速を超える程。
その穂先が白騎士に到達するまで、残り二十m。この破壊的な速度の槍に、正義の体現とすら言われても信じるであろう威容と聖性の持ち主たる騎士が反応。
光の剣を構え、対応しようとしたその時。槍の穂先から柄の石突に至るまで、ゲイ・ボルク自体が砕け散った!!
本来のクー・フーリンも、ゲイ・ボルクをこのような芸当で使う事が出来る。寧ろ彼にとってこの使い方は本当の奥の手、切り札であり、奇を衒った使い方では断じてない。
原理としては手榴弾と同じだ。槍の穂先が砕け散り、その破片が音に倍する速度で相手に向かって飛来する、対軍宝具としての使い方。
これと同じ使い方を、狂った方のクー・フーリンも使う事が出来る。但し、本来ならば穂先『だけ』が分裂するのに対し、狂王のそれは、槍『全体』が砕け散る。
柄から伸びている恐ろしい棘は、伊達でも飾りでもない。これらの棘は、大軍を相手取った際に、効率よく相手を殺戮出来るように取り付けられているのだ。
穂先だけでは、攻撃出来る数が少ない。ならば、柄の方にも、穂先に負けない程の鋭さの棘を付けておけば、炸裂させた際の殲滅効率が高められる。理屈としては理に適っているが、槍の扱い難さと引きかえにする程のメリットではない。だがこれを、本気でやったのがクー・フーリンのオルタなのだった。

 殺到する槍の破片に、白騎士は対応。そして破片は、彼だけにではない。その愛馬たる、白い巨馬の方にも向かって行っている。
空中を浮遊する白馬の方は、何もない空間を一蹴り、その力だけで音の速度を突破し、槍の追跡から逃れようとする。
しかし、破片はそれ自体が誘導弾であるらしく、白馬同様、地上の物理法則など嘲笑うかのようなふざけた軌道を描き、白馬を追跡しているではないか!!
破片を振り切ろうと、異次元染みた軌道を描いての移動と加速を繰り返し続ける巨馬。一方、その主たる白騎士の対応はハッキリとしていた。
簡単だ、抜身の剣で、破片の一つ一つを弾き飛ばして無害化させているのだ。優にその迎撃速度は、極超音速を超える程にまで達し、レッドライダーですら、
肘から先の動きが朧に見える程であった。破片を弾く音が、遥かに遅れて聞こえる程の速度で、白騎士は攻撃に対応を続けて行く。
超音速を超える速度で向かって行く破片に対応出来るのだ。きっと今の彼には、彼以外の全ての動きが、時間が止まっているような程のスローに見えているのだろう。

 達人を超えて、最早怪物の域にある反射神経で、飛来するゲイ・ボルクの破片を弾き飛ばして行く白騎士。
自身に向かって当初飛んで来ていたそれら全てを無力化させた――その瞬間。それまで白馬を追っていた、ゲイ・ボルクの破片が咄嗟にUターン。
なんと背後から、白騎士目掛けて超音速で向かって行く!! バッ、と背後を振り向いたその瞬間、破片は、白騎士の被る兜に取り付けられた白いバイザーに直撃。
ピシッ、と言う音が響いたと同時に、白騎士は頭の向きを破片が迫っている方向と同じ方向に回転させる。
すると破片は、バイザーを突き破って白騎士の顔に命中する事無く、そのままあらぬ方向へと素っ飛んで行く。
直に軌道を修正して、再び白騎士の方に向かって行こうとするも、二度目はない。光を纏った剣で弾き飛ばされて、無害化された。

 今も白馬を追う破片目掛けて、変化した左腕のブラフマーストラを連発。
放たれた純白の光線を命中させ、ゲイ・ボルクの断片を余す事無く消滅させてから、白騎士は、赤騎士の方へと向き直った。
バイザーに、蜘蛛の巣めいた亀裂が走っていた。当初は凹凸のない滑らかさを持ち、汚れもざらつきもなかった事を思い起こすと、酷く不格好なものとなっていた。

「一矢報いた、とは行かんか」

 憮然とした態度でレッドライダーが語る。右腕のダメージと引きかえに、相手に与えたダメージがバイザーの損壊とは、全く以って割に合ってないではないか。
ゲイ・ボルクを投擲した際に損壊した右腕は痛いには痛いが、彼の身体は変化スキルにより可塑性が恐ろしく高い。
肉としての性質を持つ一方で、彼は液体としての性質も多分に有する。治る速度に関して言えば、他のサーヴァントよりも比較的早い。明日になれば、治っている傷だった。

 未遠川の水面に、不思議な力で浮上していた白馬の戦士が、岸に歩み寄り、着地。
それと同時にバイザーに右手を当て、それをベキベキ音を立たせて剥がし取り、バイザー部分を地面へと投げ捨て、その顔を露にした。

「――む? お前は……」

 バイザーを外した白騎士の顔に見覚えがあったらしく、一瞬反応を示すが、直に向かいの白騎士の顔が瑣末な事となる。
単純な話だ。白騎士と一緒に動向を窺っていた光本菜々芽の下に――恐るべき殺意と気風を発散させる、サーヴァントとも異なる『怪物』が迫っていたからだった。

 ◆

 光本菜々芽の視界に、光と色が取り戻されたのは、突如目の前に白色の光が満ちた瞬間から四分経過して漸くと言った所だった。
レッドライダー達が戦っている所から、二百m以上も離れた所。其処が、菜々芽の今いるポイントであった。
視界を奪われ、光を取り戻すまでに、色々な事がこの小さい身体に叩き込まれた。金属と金属が激しく、速く打ち合わされる音。
この戦いが終わったら、難聴になるのではないかと言う程の爆発音と衝突音。身体に舞い込んだ落下の感覚。
そして、戦争映画やドキュメンタリーでもこうは生々しくないと思う程の爆発音と砲音。これらが一体、何を示していたのか。菜々芽は知る事も出来なかったのだ。

 だが、これで漸く戦線を見る事が叶う。
所詮自分が、何の力もない女子小学生に過ぎない事は、菜々芽自身がよく解っている。自分も混じって戦う、などと言う馬鹿はしない。
せめて、何も出来ないのなら、見届けるべきであろう。あの赤いサーヴァントは救いようのない馬鹿なのは間違いないし、
割とノリで暴れ回るじゃじゃ馬なのもさっき知ったが、それと同時に、誠実な性格の持ち主ではある。
ある程度手綱を握りつつ、余計な戦火を広げさせるわけにも行かない。戦争と言うシステムそのものに等しい相手に、
戦略や軍略の素人である自分が細かい指示を飛ばせるとは菜々芽も思ってはいないが、それでも、ある程度動向を見ておかねば確実に、レッドライダーは拙いサーヴァントである。あれを視界に入れ続けると言うのはある種の義務であるのと同時に、戦えない自分が彼に示せる菜々芽なりの誠意でもあった。

 そして、見極めるべきものはもう一つあった。
その名前を、光本菜々芽が通っている小学校であるところの、穂群原で見かけた時は、驚くと同時に、まぁあり得る事だろうとは思った。
この世界の菜々芽のロールを取り巻く人間関係は、不気味な程元の世界での彼女のそれに近しかった。
4年2組と言うクラス自体もそうである、そのクラスにいる多くのクラスメイトが彼女の知っている人物で構成されている事もそうである。
ならば、この世界にもいておかしくはないのだ。天使の姿をした悪魔。蝶を騙った女王蜂。菜々芽の元居た世界の、4年2組と言う箱庭の世界を狂わせたクラスメイト。
『蜂屋あい』。彼女もまた、この世界を構成する小さな歯車の一つであったのだ。だが、この世界に来てすぐに、冬木市及び其処に生きる人物が、
元の世界での自分の人間関係と比較的相似の関係にある事は、菜々芽も気付いてはいた。だが、あくまでも比較的似ていると言うだけ。
この世界の2組にはいじめもなかったし、そもそも故人であった曽良野まりあも生きていた。細かい所で違う所があるらしいが、その細かい所が良い方向に働いている。それだけならば、良かったのだ。

 ――ここ最近、『蜂屋あい』の姿が見えない。不登校らしく、三日程彼女は穂群原に姿を見せていない。
この世界でもあいは成績優秀眉目秀麗の優等生として通っているらしく、ズル休みを行う姿など教員は勿論クラスメイトですら想像出来ない程の『出来た子』だった。
それが、学校に姿を見せないばかりか、教員や学校からの電話にも出ないのだから、誰もが心配に思うのも無理はない。
教師が心配するのは職務上当然の事であろうが、冬木における4年2組でも、蜂屋はアイドルとして通っている。男子のみならず、女子からも気に掛ける声が上がっていた。
風邪か、それともグレたか。良くて皆が想像出来るラインは、此処までであろう。だが、菜々芽は違った。聖杯戦争の関係者である彼女だから、解る。
いきなり彼女が学校に来なくなる、と言う可能性は絶無に近い。彼女にとって学校とは、聖域。通っていて楽しい楽園なのである。来なくなる事はあり得ない。
となれば、考えられる可能性は二つ。聖杯戦争に巻き込まれたか、と言うのが一つ。そしてもう一つ……これが、一番最悪の可能性である。
――『蜂屋あい自身が、聖杯戦争の参加者』か。サーヴァントは見方を変えれば、簡単に人を殺せる力を持った、人間と同等の自由意思を持つ兵器である。
それも、銃やミサイルみたいな、ただの兵器ではない。それ自体が、常人には及びもつかぬ力を持った、だ。
これを、あいが持てばきっと何か、悪い事に使ってしまうだろうと言う確信すら菜々芽にはあった。サーヴァントを従えるマスターになって、あの少女が、大人しくしていると言う可能性。そんな事は、先ずあり得ない。

 蜂屋あいを、見つけねばならない。そして、本当にマスターになっていたのなら、止めなければならない。
今レッドライダーが戦っているサーヴァントのマスターが、あいである、と言う可能性もなくはないのだ。
こちらはこちらで、レッドライダーを注視しながら、あいを探そうか。そう思った、その瞬間。自分の後ろに、只ならぬ気配を感じ取った。
その方向に、バッと振り返る菜々芽。果たして其処には、一人の男がいた。

「……暗いのは怖いか」

 それは、野球のユニフォームをピシッと着こなす、大人の男だった。
黒い野球帽、白いユニフォームに黒のアンダーシャツ。右手に握った金属製のバットは、使い込まれているらしい。新品に特有の輝きがなく、雲っていた。

「誰……っ」

 目深に被った野球帽で、表情は窺えない。
だが、常人の纏う雰囲気ではない。と言うより、常人ではない事は明らかだった。当たり前だ、右手の甲で、紅蓮に光る令呪が輝いていれば。
警戒の閾値が、マックスを振り切るのは、当然の帰結であった。

「俺は『バッター』。穢れた世界を洗い流し、聖法を再び敷かんが為にこの地にやって来た」

 速攻で、これは拙い人間だと思った。狂人である。
凡そ正気の人間が口走る類の言葉ではない。会話自体はこなせるが、その内容は余りにも『イッて』いた。

「……ガーディアン(守護者)が聞いて呆れる。己のエゴの為に、見込みがあればこんな少女も虚無に招くか」

 その抑揚のない言葉に、微かな怒りの念が混じった事に、菜々芽は気付いた。
バッターを名乗る男の顔を見上げる菜々芽。男の瞳と、目が合った。――背筋が凍りつく程、生気を感じさせない、底冷えする様な瞳だった。
感情を司る脳の部位が、死んでいるとしか思えない程、男の顔に感情はなかった。まるで、石で出来た仮面。表情を作る筋肉が、纏めて死んでしまったような男であった。

「せめて痛みもなく、苦しみもなく。明るい所に送ってやろう」

 その一言と同時に、バッターは、そのバットを上段に構え始めた。
彼の言っている事は、菜々芽は全く以って理解していない。だが、確かな事が一つある。バッターは明白に、自分を殺そうとしている。
それだけは間違いない。やられてたまるか、と言わんばかりに逃げ出そうとした、その時であった。
バッターは構えていたバットを、菜々芽の方向に振り降ろした、『のではなく』。
竜巻のような勢いで菜々芽に背を向けるや、そのままあらぬ方向にバットを横にスウィング。……あらぬ方向、と見えたのは一瞬だった。
即座に、バットの真芯が、何かを捉える音が響き渡る。金属と金属がぶつかった音。
すると、殆ど斜め四十五度の角度で、巨大な塊めいた物が素っ飛んで行き、遂には夜空の星と消えたのを、菜々芽は音が響いてから三秒程経過してから漸く気付いた。

 ――少女、光本菜々芽は気付く事は永遠にない。
バッターがその華麗なバッティングで吹っ飛ばした物が、彼女の使役するサーヴァントであるレッドライダーが呼び寄せた、
二次大戦期に大英帝国が運用し、傑作とすら謳われる名機である『戦闘機・スピットファイア』を、遥か上空三〇〇mまで打ち上げた等。
気付く事はなかったし、そもそも気付いた所で、説明した所で、信じろと言う方が無茶であろう。
時速六〇〇㎞弱の速度で迫る、二tを超す鉄の塊を、ゴムボールをホームランする様な感覚で打ち返すなど、幾らなんでも戯画的染みている。
だが、これをバッターはやってのけたのである。身体一つ、バット一本、そしてフォームは一本足。正に、Batter(打者)と言う名前は、比喩でも揶揄でもなかった訳である。

 ……だがそれ以上に、光本菜々芽は気付かなくて幸福だったかも知れない。
バッターが打ち返していたから良かったものの、もしもバッターがスピットファイアのルート上から退避していれば、
この六〇〇㎞/hスレスレの速度で迫る金属塊は、間違いなく菜々芽と衝突。その小さい身体をグチャグチャの挽肉に変えていた事であろう。
レッドライダーとしては菜々芽をバッターから守る為にやった世話焼きだったのかも知れないが、バッターの選択肢次第ではその世話焼きで菜々芽は死んでいたのである。
余りにも馬鹿、いや、馬鹿と言う言葉を使う事すら、馬鹿に対する毀誉褒貶。レッドライダーはこの余りにもあんまりな対応のレベルで、藤丸立香にとってのマシュ・キリエライトのポジションを奪おうとしていると言うのだから、お笑い草と言う他はなかった。

「……」

 バッターがある方向を眺めていると、二つの物影が、急速に此方に迫って行くのを彼は認めた。
一つは、赤熱する――いや、血を塗られたが如く赤い軍刀を、己が手足の如く器用に振う、チグハグな印象を見る者に与える、赤い軍服を纏った男。
一つは、纏っている機械の装甲のみならず、まるである種の生態のように、露出された顔からすらも光を発散させる、後ろ髪を長く伸ばした赤髪の男。
レッドライダーと、白騎士である。彼らは、己が振う得物で打ち合いを続けながら、高速でバッターと菜々芽の方まで接近しているのである。

 バッターが横に飛び退く。その方向に白騎士も移動し、彼の傍に立った。
菜々芽はそのまま動けない。いや、動けないと言うべきか。どちらにしても、彼女を庇うように、レッドライダーが立ちはだかった。
顔に刻まれた笑みは、相変わらず、藤丸立香への逢瀬を期待して、喜んでいるようなそれ。菜々芽を殺しかけた事に対する悪びれ等、何処にもない風であった。

「四騎の『死』、その内の一騎か」

 レッドライダーの方に、目線を向けながら、バッターが言った。

「この世界に貴様の居場所も、果たすべき使命もない。お前が神より与えられた任務を果たすよりも早く、俺達がこの世界を『浄化』するからだ」

 バッターの言葉に、熱はなかった。ただ冷淡かつ単調に、しかしそれでいて、レッドライダーを攻めて立てる意気の混じった言葉を紡ぐだけ。

「奈落の冥府に堕ちる時が来た、赤き騎士よ。聞こえるか。お前の権限で命を落とした戦死者が、冥府でお前を八つ裂きにする事を心待ちにしている、歓喜の声が」

「狂者の譫言、聞くに能わず」

 蔑むような笑みを浮かべ、レッドライダーが言った。赤騎士の目には、野球のユニフォームを纏ったこの男は、筋骨の通った気違いにしか見えていなかった。

「私の真名を知っている事は、まぁ良いとしよう。だが、二つ程、訂正をしておかねばなるまいな」

「……」

「一つに、私は私だ。神など知らん。使命など、狗に喰わせた。私は、私の信ずる信条と情熱のみに従い、その力を奮う」

 「そしてもう一つは」

「此処でお前に命を差し出すような真似はしないと言う事さ」

 レッドライダーが言った瞬間、バッターはバットを構え、白騎士はその身体に微かに力を込めた。

「まぁ、なんだ」

 スタスタと歩き始めるレッドライダー。菜々芽の右横に並ぶや、彼女の肩に手をかけた。

「――逃げるからな」

 言った瞬間、眼にも止まらぬ早業で、光本菜々芽を持ち上げ、肩車にするや、一気に地を蹴り、逃走。
バッターと白騎士。二名が呆気にとられている頃には、レッドライダー達は未遠川を一足飛びにジャンプで飛び越え、深山町方面へと逃げ出していた。

「人界を惑わし乱す要因の一つ、この場で葬れるかと思っていたが、そうも行かぬか」

 白騎士は、去りゆく赤騎士を追う気配を見せない。バッターすら、追えと言わない。
本気で赤騎士を滅ぼそうとなれば、深山町全土が灰燼となる事すら覚悟をせねばならない。これを、二名は控えていた。
だが、己を勇者、救世主と定義している白騎士は、斯様な愚行を犯す事を許さない。本気になれば、この場で赤騎士を葬る事も出来たであろう。
それをやらずに、それまで行っていた攻撃の数々を極めて限定的かつ出力を抑えていた訳は、周囲の被害を勘案したが故であった。

「何れは相見え、浄化する敵だ。今逸る事はない。それより、『もう一方』はどうなっている」

「問題ない。余の駆る駿馬を向かわせた――だが」

 白騎士が全てを言い切るよりも速く、今現在自分達がいる所から、また更に離れた所で、稲妻が閃いた。
場所は、此処よりも一㎞近くも離れた、日本海側。もっと言えば、港の方面。雷鳴が、此処まで轟いてくる。その音の中にあって、白騎士の言葉は、鈴の如くに良く通った。

「相手も強い。余の指示なく、打ち倒す事は出来ぬだろう」

 ◆

                                        血塗られた献身                        
           流離の子                                                 

                                                                ソルニゲル  




                          Fate/Bloody Zodiac ■■海底都市冬木          回帰の白             


                                 物語の王                                  
                                                 餓狼伝                   





 ◆

 ZONE27――『血塗られた献身』 

 無理に宝具を弄り、クラスを詐称したとは言え、彼を彼足らしめる視力の良さは健在である。
弓働きをしていた時のような千里眼は失ったとは言え、遠方を見る程度は全く問題ないようだと。
ランサーのサーヴァント『ラクシュマナ』は安堵した。たかが一㎞先の光景すら目視出来ぬようでは、恐るべき羅刹(アスラ)共との死闘を潜り抜けた戦士の在り方から廃ってしまうと言う物だった。

「見えるか、マスター」

「よゆー」

 額に手を当てる、と言う、如何にも自分は遠くを見ています、と言うようなポーズを取りながら。
ラクシュマナを引き当てた、二十代前半程の女性――『隼鷹』は軽い調子でそう答えた。

 貨物船から降ろした荷物を一時的に保存しておく為の、冬木市の湾港倉庫。その屋根の上であった。
嘗て帝国海軍で運用されていた、軽空母・隼鷹の化身、或いはその魂を宿す女性である『艦娘』。それが彼女、隼鷹であった。
海が、彼女は好きであった。勿論、嫌な思い出だってある。姉妹である飛鷹を、何処を見渡しても島も陸も見当たらない、大海原の真ん中で失った記憶は、消せはしない。
だがそれでも、隼鷹は海が好きであった。戦場としての思い出もあるがそれ以上に、海の上を往く道具である艦船の魂を宿す女性としての宿命であった。
時に無慈悲に、人や艦娘、そして深海棲艦に至るまで。等しく命を呑み込み砕く海ではあるが、海は、仲間の艦娘と喜びを分かち合える、出会いと育みの場所。
そして何よりも、飛鷹や提督と多くの時間を過ごし、時に笑いあえ、時に結束を確かめ合えた場所。嫌いになど、なれる筈がなかった。

 時折、隼鷹は海に来た。艦娘としての習性もあろうし、海が好き、と言う事。どちらも正解である。兎に角、時間があれば足を運ぶ。
冬木の海は、平和だとつくづく彼女は思う。波も穏やかな事もそうである。五月の薫風が運ぶ潮風の心地よさもそうである。
だが何よりも、この世界には深海棲艦がいないと言う事実が、特に素晴らしい。港を行き交いする船は、物々しい砲口を搭載し、
相手を撃滅する為の弾薬や砲弾を積んだ軍艦ではない。ただの交易船・商船だけ。平和な世界ではないか。海を我が物顔で支配する、海賊の如き深海棲艦もおらず、
在るがままの海が広がる世界。艦娘や提督が嘗て取り戻そうとした、平和な海が、この世界には存在するのである。
そう言う世界の海を見ながら口にする酒は、果たしてどれ程美味かったろうか。残念ながら今の隼鷹には、冷えた酒が渇いた喉にぶつかる心地よい感覚を楽しむだけの感受性も、明瞭な頭に酔いと言う名の桃色の雲霞に惑わされる程の知性もない。姉の死から、あれだけ好きだった酒が全然美味くない。それどころか、酒を美味いと思う感覚すら死んでしまっていた。こんな海を、三人で眺めるのが嘗ての夢であったと言うのに。どうしてその夢を、自分だけが叶えてしまっているのか。隼鷹には、その運命が呪わしくてしょうがなかった。

 埠頭に打ち付ける、夜の日本海の静かな波を眺めながら、従業員のいなくなったコンテナ倉庫の立ち並ぶ港を歩くのは、今の隼鷹には好きな行為であった。
昔ならばどんちゃん騒ぎも好きであったが、今は静かに海を眺めていたかった。その心情もラクシュマナも汲んで、彼女の我儘に付き合っていたのである。
――そんな折に、ラクシュマナが遥か遠方一㎞先に、不穏な『気』を感じ、急いで隼鷹を抱えてコンテナ倉庫の屋根の上まで跳躍。
不穏な気配の正体を探るべく、遥か彼方の光景を目視しようとして……見つけたのである。遥か彼方で、激しい光輝を撒き散らし、此処まで響き渡る程の大音声を静かな夜の情緒を崩さんばかりに轟かせながら戦う、サーヴァント達の姿を、だ。ラクシュマナの言った「見えるか」、と言う言葉は、正にその戦いぶりが見えるか、と言う意味でもあった。

 隼鷹は艦娘、つまり戦艦としての力を保有する、人に限りなく近い肉体と意思を持った、ある種の兵器とも換言出来る。
戦艦にとって数百m程度等、離れた内にも入らない。寧ろその程度の距離では、砲弾、空爆用の戦闘機、魚雷の格好の餌食である。
数㎞の距離でも、場合によっては安心が出来ない。それ程までの超ロングレンジで戦う事を余儀なくされる艦娘にとって、視力の良さとは必須のステータスだ。
偵察機での敵探知が重要なのは当然だが、肉眼での目視も疎かにしてはならない。最終的に一番信頼出来るものは、自分の目で見た物。
これは、艦娘の世界にとっても同じ事なのである。普段はちゃらけて軽い雰囲気の隼鷹であるが、一度戦闘となれば、途端に艦娘としての姿を披露する。
遠方を注視する、彼女の瞳のなんと鋭き事か。艦娘の御多分に漏れず、視力が良い。遮蔽物のない殆どない直線距離で、一㎞先の風景やもの・ことを見る事位何て事はない。
だから見る事が出来た。遥か彼方で、戦艦や重巡洋艦をモティーフにした艦娘・深海棲艦の戦いを想起させる様な、大規模な戦いが繰り広げられているのを、だ。

「……ガレオン船?」

 流石に、『艦』娘である。遥か彼方で戦っているものの正体に、一発で勘付いた。
あれは、世界史の区分に於いて中世と呼ばれる時代に活躍し、大航海時代もたけなわの時勢に大いに活躍したとされる船ではないか。
勿論、今は使われていない。隼鷹の元となった戦艦が活躍していた時代ですら、最早旧時代の骨董品、列強と称される国では軍用目的で運用すらされなかった船である。
そんな旧時代の遺物が、戦艦の艦娘の砲撃もかくやと言う程の勢いで砲撃を放ち続けるばかりか、独りでに浮かび上がり、勝手に炎上し、
駆逐艦の最高速よりも遥かに速い速度で空を飛んでいるのだ。自分の見ている光景が、夢魔の織りなす悪夢なのかと疑いたくもなろう。流石の隼鷹も唖然としていた。

 成程、あれがサーヴァントの戦闘。あまりにも戯画的で、一歩間違えればシュルレアリズムの領域に片足を踏み込んでいるあの光景は、この世の物なのだ。
見れて良かった。神話や御伽噺の住民が、伝承通りの身体能力と、あらゆる戦士が憧れた理想の武器を振う幻想譚。それが、サーヴァント同士の戦い。
そうと思っていた隼鷹の思い込みを、一瞬でぶち壊すだけの力が、一㎞先で繰り広げられているあの光景にはあった。
要するに、サーヴァント同士の戦いとは、何でもありなのだと認識するべきなのだ。次に何が出て来るのか、全く予想出来ない戦い。
聖杯戦争とは、要するにそんなイベントなのである。鬼が出るか蛇が出るかは解らないが、解らないと予め理解しているだけでも、次への身の振り方が大分絞られてくる。これは、大きな収穫であった。

「――マスター、見ろ」

 そう言ってラクシュマナは目線を、轟音と爆発の原因と思しきサーヴァントの方から、其処よりもっと手前に移した。
そこに何がある、と思う隼鷹であったが……、直に自分のランサーが、何を言いたかったのかを理解した。

 野球のユニフォームを着た、白人系の男性が、見るからにか弱い少女にバットを構えている。
異常な風景としか、余人には映らないだろう。だが、ラクシュマナと隼鷹にはそうは映らない。
まさかあの男性と少女が、サーヴァント同士が熾烈な死闘を繰り広げ、その余波を蒙らないとも限らない程の距離で、勝手に凶行に及び・及ばれている、
サーヴァントとは全く接点のない赤の他人である訳がなかろう。十中八九、遥か彼方で戦うサーヴァント達のマスターであろう。

 ラクシュマナも隼鷹も、聖杯を狙っている主従である。
サーヴァントは勿論消滅させるし、マスターであっても場合によっては殺す事だって辞さない。
だが本質的に、ラクシュマナも隼鷹も、正義の人である。結局この二名は聖杯戦争に於いて、正義を本質としていながら、己の核となる性格に目を背け、聖杯戦争で人を、
サーヴァントを殺すぞ、と。意気込んでいるだけに過ぎない。だから、年端も行かない子供や、ただ巻き込まれただけの無力な人物に、二名は極めて弱い。
心の底から敬服し、尊崇する偉大なる王・ラーマと共に正義と善の為に戦ったラクシュマナ。
地上に生きる人々が安心して過ごせ、海の上を往けるように力の限りを尽くして提督と一緒に戦った隼鷹。
彼らはラーマや提督と言った人物を強く意識する者達でこそあれ、同時に、民と人の為にある存在でもあった。だから、手に掛けられない。あんな少女であるのなら、猶更だ。

 聖杯戦争に於いてサーヴァントを殺すよりもマスターを殺す方が速いのは当然の理屈だ。
当たり前だ、何せ神秘もマナも薄い現代に生きる人間と、神霊や妖精・幻想種が息吹き根付いていた時代に生きた人間とを比べるのは酷である。
だから、マスターを殺した方が断然早い。魔力の供給元が切れれば、サーヴァントなどこの世に形を保つ事が出来ず、消滅してしまうのであるから。
だがそうと言って、あの少女をラクシュマナも隼鷹も殺せるかと言えば、殺せない。先に言った、無力で、年端も行かない子供の条件を満たしているからだ。
少女のマスターは確かに殺せない。あれは、サーヴァントを葬って無力化させる必要があるだろう。

 ――だが、少女を殺そうとしている、野球のユニフォームのマスターなら、どうか?
普通の人間は、子供を殺そうとする際には良心の呵責に苛まれる。甘いと言う意見もあろうが、それが当たり前なのだ。
あのユニフォームの男には、それがない。殺すのが当たり前であると言わんばかりに、バットを構え、それを振り降ろそうとしている。
聖杯を勝ち取りたい。その為にはマスターを殺した方が速い。だが、無力な少女と、狂的なまでのドグマを裡に秘めているであろう大人の男。
どちらを殺した方が、信義と正義に反さないか? その答えは、最早明らかであろう。

「――勝ち星をあげよっか、ランサー」

「ああ」

 そう言ってラクシュマナは、虚空に向かって腕を横に伸ばす。その瞬間、彼の右手に獲物が握られた。
彼の身長程もある、飾り気のない長槍であった。槍の穂先に、稲妻の意匠と、柄の握り手より少し上の方に、白鳥の羽に包まれた蓮華の彫刻が彫られている所以外に、
目立ったものは何もない。豪華な宝石が付いている訳でもなく、溶かした黄金を纏わりつかせていると言う訳でもない。
これは他の槍とは違うと言う主張は、あくまで最低限。ただそれだけでも、サーヴァントは、ラクシュマナの握るこの獲物が、サーヴァントにとっての切り札。
即ち、宝具であると知るだろう。隼鷹ですら解る。オーラが違う。その飾り気も色気も何もない外観とは裏腹に――この武器が宿す神韻は、筆舌に尽くし難い物があった。悪鬼に対してこの武器を翳そうものなら、それだけで蜘蛛の子散らすが如く逃げ去って行くだろうと言う、言語不能の力強さがそれにはあった。

 距離にして、一㎞と一五m。問題ない。
この距離ならラクシュマナの投げた雷鳴を払う不滅(ブラフマーストラ)は、初速の段階で時速六〇〇㎞を超え、五十m進んだところで、
槍に内包された稲妻の魔力を解放しそれを推進力に更なる加速を得、其処から更に二百mを進んだ所でマッハ三に達し、あの野球のユニフォームを着た男の心臓を穿つ。
勿論反応のしようがない。直撃してしまえば、その時点で勝負あり。貫かれた際の衝撃で即死するだろうし、罷り間違って生き残ったとしても、槍から放電される数千万~数億Vの電気が一瞬で肉体を炭化させる。当たれば死、掠っても死。悪鬼羅刹を調伏する為に神々によって与えられ、その神意に応えるかのように生前多くの悪魔を撃ち滅ぼして来た神器・ブラフマーストラ。それが今、バッターの身体を穿とうとしていた。

 槍を構え、いざ投げんとした――その時である!!

「!!」

 途端に、ラクシュマナの表情が険しくなった。
と見るや、急いで投擲の姿勢を解き、隼鷹の服の襟を引っ掴み、コンテナ倉庫の屋根から跳躍。
「なんなの!?」と、隼鷹が訊ねるよりも遥かに速く、二名が先程まで佇んでいた、湾港倉庫の屋根。其処を、光の筋が貫いて行った。
見えなかった。次第によっては銃弾や弾丸すら肉眼で捕捉せねばならない、人間を超える動体視力を持った隼鷹が、その姿を追う事すら叶わなかった。

 タッ、と。隼鷹を持った状態でラクシュマナは、埠頭の方まで飛び退き、着地。
垂れ目がちで愛嬌のある瞳を、今は鋭く吊り上げ、その顔に険を塗った状態で、彼は上空の方を睨めつけていた。その方向に、隼鷹も目線を送った。
――馬である。そんな物を纏ってしまえば、重さで馬体が潰れてしまうであろうと言う程の重量感がある、機械の鎧を身に纏った、巨大な白馬。
それが、重力と言うこの宇宙のルーラーにも等しい要素を無視して、空中に浮いている。機械製の兜から覗く瞳で、その馬は此方を見下ろしている。
背骨が凍結したような恐怖を隼鷹は憶える。桁違いに、強かった。艦爆を絨毯の様に仕掛けた所で、あの白馬にはどうあっても対抗出来ないと言う確信すらあった。
此方が死を認識するよりも早く、相手は此方に死を与えられる。彼女と白馬との戦闘力には、それ程までの差があった。
一体、どれ程の怪物が、この馬を使役していると言うのか。想像するだに、隼鷹は恐ろしくなった。

「隠れていろ。あの白馬……見た目こそ当世風の技術で拵えた様な鎧で身を覆っているが……香る神韻は、明らかに此方側だ。何処の何様の駿馬やら……神々の駆る騎乗物(ヴァーハナ)にも匹敵するぞこれは……」

 そう言ってラクシュマナは隼鷹を下ろし、適当な所に行けと顎で合図する。
それを受け、隼鷹は足早にその場から去って行く。白馬の方も、用があるのは隼鷹よりもラクシュマナであったらしい。
彼女の事など、眼中にもないとでも言うように、目線をジッと、緑髪の戦士の方に向け続けていた。
「出来る」、とラクシュマナが思った。少しでも意識を隼鷹の方に向けていれば、この烈士はブラフマーストラを投擲、その機装ごと、白馬の首を貫いて殺していたのだから。

「言葉を解さぬ人や羅刹でないのなら、口上など必要あるまい」

 雷霆の力を宿す槍を中段に構えると同時に、白巨馬は、地上に降りて来た。
双方共に、目線が交錯する。改めて見て、恐ろしい程巨大な馬だとラクシュマナは思った。これを手足のように操るサーヴァントとは、果たして誰か?
この馬に相応しい、巨人の如き荒武者か。それとも、細い優男の身体に戦神の力を宿した麗しい戦士か? 解らないが、一筋縄で行く相手ではあるまい。

「――いざっ」

 その言葉と同時に、白馬が地を蹴った。
初速にして亜音速、直撃すれば粉微塵。それだけの威力を内包した吶喊を、白馬はラクシュマナにぶちかまそうとする。
馬体と鎧の重さ、合わせて『トン』は下るまい。それだけの速度での突進に直撃すれば、如何な彼とて一溜りもない。
幸いなのが、直線軌道の攻撃であった事。ラクシュマナはそれこそ、宙を舞う薄紙のようにヒラリと、白馬の突進を回避した。
すれ違いざまに、衝撃波も突風も、彼の身体を叩く事がなかった。あれだけの速度で移動すれば、衝撃波も風圧も不可避の筈。
どうやら、この世の物理法則に囚われないらしい。それが核心に至ったのは、行き過ぎて背後に回った白馬が、亜音速どころか既に音速に達したスピードで、
殆ど直角に折れ曲がるような軌道でラクシュマナの方向にUターンならぬVターンをかまして来た瞬間の事だった。
あれだけのスピードで、此処まで無茶苦茶な軌道で戻って来る事などありえない。しかも当然のように白馬は、海面よりも上を飛行していると来ている。どうやらこの馬にとって、空も陸も、同じような物であるようだった。

 驚異の軌道に、呆気にとられはしたラクシュマナだったが、対応出来ない程ではない。
白馬が此方に向かって来るのと同時に、彼がブラフマーストラの穂先を空に掲げた、刹那。ラクシュマナの周囲に、白色の稲妻が、バリアめいて轟いたではないか!!
これを、埒外の反射神経で認識した白馬が、慣性を無視した急ブレーキをかけ、稲妻の範囲内に突っ込む事を逃れる事で防いだ。
しかし、その止まった瞬間を逃さない。即座に槍の穂先を白馬に向け、その先端から稲妻をレーザー状に束ねて放射する!!
これを巨馬は機械の鎧――いや、身体からだったかも知れない。どちらにしても、その馬体或いは機械鎧から、眼球が潰れんばかりの強さの極光を迸らせ、
稲妻を相殺してきた。出力を絞ったとは言え、ラクシュマナの放った雷は、ヴェーダの神々から讃えられ、羅刹からは畏怖されたインドラのそれ。
これを防いだあの極光の、何と恐るべきエネルギー量か。一目見た時から、神に連なる者の駆る馬であろうとは思っていたが、この馬を操る馬主は、さぞや名高い神の血を引いた英霊である事だろう。

 如何やら白馬が放つ光は、瞬間的にしか放てない物ではないようらしい。
ブラフマーストラから放たれた稲妻を破壊出来るだけの出力とエネルギーを保持したまま、恒常的に放出し続けられるらしい。
成程、厄介だ。厄介だが、策が無い訳ではない。余人の耳には高速でどもっているとしか思えぬ程に、声を小さくそして言葉を速く。マントラを紡ぎ始めた。
小さい梵語が幾つもラクシュマナの周囲を旋回したと見るや、彼は地を蹴り、白馬の下へと接近。十mの距離が、『あ』の一音口にするよりも早くゼロに狭まった。
槍を投げる速度も音を超えるなら、槍を振う速度も、ラクシュマナは容易く音の壁を突破する。一秒の間に十回を容易く超える程の回数、
彼はブラフマーストラを振い続ける。突き、薙ぎ、払い、振り上げ振り降ろし。これらの動きを、巧妙かつ絶妙に身体と腕を動かし秒の間に紡いでみせる。
達人の中の達人、人の技巧の域を超え神域に達した槍の業を、回避し続ける白馬も白馬だ。
首や頭に直接衝撃が来そうな攻撃は、これらの部位を巧みに動かし回避し、直撃こそするが急所に至るような攻撃ではない時は、
衝撃を分散させるように予め身体を動かして攻撃を貰いつつ、ダメージや衝撃を鎧に吸わせる、と言った方法でダメージを防いでいた。

 このやり取りが続く事、十秒程。
埒が明かぬとばかりに、馬は飛び退く。一瞬で三十mもの距離を取る白馬。海面の上を、不可思議な力で浮遊しているようだが、関係ない。
ラクシュマナは槍を振り降ろし、稲妻を束ねた光線を白馬目掛けて発射。海面を割りながら迫るそれを、馬は、攻撃のおこりを見る事で対応。
身体の部位を一切動かす事無く、佇立したままの姿勢で垂直に、エレベーターの様に急浮上し攻撃を回避。
上空五十m程の所まで飛び上がると、巨馬の纏う白い機械装甲のあらゆる部分が、展開。脚部を覆う鎧から、首を覆う所、胴体を防護する所など。
様々な所がパカリと開いて行き、其処から銃口のような物が顔を出す。そしてそれは、真実銃口であった。
銃口は火を噴くや、大量の弾丸を正に驟雨の如き勢いでラクシュマナに掃射。その光景を見て、倉庫に隠れた隼鷹が息を呑む。
あんなもの、艦娘は勿論、深海棲艦の上位種でも防げない。反応すら出来ずに、文字通りの蜂の巣になっている事だろう。
だが、白馬の突進を躱した所からも解る通り、ラクシュマナの反応速度は、艦娘のそれを遥かに超越していた。
槍の穂先で弾を砕き、柄で弾を弾き、いなす。いやそれどころか、放たれている銃弾の内二割から三割を、逆に白馬の方へと弾き飛ばして、
細やかなダメージを蓄積させに行っていると言う、神業と言う言葉ですら生温い芸当を平気でやっている。

 勝てる。
この馬がサーヴァントのものである以上、これは間違いなく宝具かそれに準ずる存在である事は確実であろう。
此処でこれを倒しておけば、本来の持ち主は宝具を失った事になり、致命的なまでの戦力の低下が見込める。
この場で欲張らずに、何処で欲を張れと言うのか。自分に弾丸が効かないと馬が学習し、弾幕を弱めたその瞬間に、槍を放擲して仕留める。
そう考えたその瞬間、弾幕が弱まった――否。弾幕そのものが、『展開されなくなった』。

 好機。誰もがそう思うだろう。だが、実際には違った。ラクシュマナはこれを絶好の機会だと認識しなかった。
……もしかすれば、剣も弓矢も手にした事のない、平和な市井で慎ましげに日常を送る普通の民々ですらが、そうと認識しなかったろう。
背後から、とてつもなく恐ろしい物の気配が近付いて来るのを、ラクシュマナは感じ取ってしまったのだ。相手の顔はまだ見れていない。
だが、桁違いに強い。体中に、毒を塗られた剣を次々刺し込まれて行くような感覚を、彼は肌身で感じ取っていた。感覚化された、強者の気風。ラクシュマナの感じているものは、それであった。この感覚はもしかしたら、生前死闘を繰り広げた恐るべき悪鬼・メーガナーダのそれよりも……。

 位置関係から言って、白馬が真っ先に、近付いてきた者の正体を把握出来る所にいるのだが、白馬の畏まった様子から察するに、如何やら主君が御出ましになったようだ。
主が来たから、攻撃を止めた。理屈としては、道理である。となるとこの後予測出来る展開は、馬に変わって主君自らが。
或いは、主君があの巨馬にのって戦う、と言う道であろうか。二つめの選択肢程怖い未来はない。主の指示がないと言うのに、白い巨馬はあれだけの強さを発揮したのだ。
あれに、馬主の的確な指示と、馬主自身の力が相乗するとなると、想像するのも嫌になろうと言う物だった。

 どちらにしても、振り向かない事には始まらない。
此方が背を向けている状態であると言うのに、相手は全く攻撃する素振りを見せない。
公正明大な勇者の心の持ち主か、それとも、不意打ちを仕掛けるまでもなく余裕で此方を倒せるだけの力があるのか。
どっちにしても、攻撃を仕掛けて来ないのは有り難い。攻撃を仕掛けて来ない意図が解らぬままに、ラクシュマナは背後に振り返り――

 インドラの稲妻で身体を撃たれたようなショックを、その身体に受ける事になる。

「馬鹿……な。あり得ん……!! 嘘だ嘘だ嘘だ!!」

 衝撃を、隠し切れないと言うような、愕然とした表情で、ラクシュマナは言葉を紡ぎ続ける。呼吸と、瞬きを忘れる程、今の彼の身体は驚きに支配されていた。

「貴方であられる筈がない……!! 私が信ずる貴方は、マスターが子供を殺す様子を看過する様な方ではなかった筈だ!!」

 なおも、ラクシュマナは言葉を続ける。

「答えてくれ!! その貌(かんばせ)、その長く伸びたルビーの如き赤髪――」

 そして、叫んだ。

「貴方は、兄上……『ラーマ様』ではないのか!?」

 口角泡を飛ばしながら、ラクシュマナが言った。
白いバイザーを剥ぎ取り、露になった白騎士のその顔は――ラクシュマナが敬愛し、敬服して止まなかった、コサラの聖王。
即ち、ラーヴァナが統率する羅刹(ラクシャーサ)の軍勢を相手に一騎当千の活躍を演じて見せた、二十代半ばの時の『ラーマ』の顔つきに、瓜二つであったからだ。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年11月15日 21:55