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何より君想ふ…1

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何より君想ふ







 「比奈っ! お前はまたどじを踏んで!」

「もっ、申し訳ありません!」


 台所のそばの廊下を歩いていると、中から怒号が飛び出してきた。それに驚いて、眼鏡をはめて背筋をまっすぐに伸ばした賢そうな青年、氷上格は足を止めた。


「本当にどうしようもない愚図だねえ、呆れるよ」

「申し訳……ありませんーーー」


 小さくため息をつくと、格は台所の戸口から顔をのぞかせた。


「一体どうしたんですか? 廊下まで筒抜けですよ」


 入り口の側で怒る女中頭と怒られている女中を見比べ、次に二人の足下で見事に割れている皿に目をやると、格は全てを悟った。


「ああ、格様。うるさくして申し訳ございません。比奈がまた皿を割ったものですから……」


 眉間にしわを寄せる女中頭のシノは腰に手を当てて、困ったように比奈と呼んだ女中を見た。


「まあまあ、そう大声でしからなくてもいいでしょう。比奈もわざと割った訳ではないんでしょうし。それに陶器なのですからいつかは割れます」


 格が苦笑しながら比奈を庇うと、シノはますます深いしわを眉間に作って大げさにため息をついた。


「もう。旦那様も奥様も格様も、比奈に甘うございます」


 ビクリと肩をすくめる比奈に、シノも降参といったふうに首をうなだれると、


「比奈、急いで片付けて買い物に行くんだよ。それと、頼むから今月はもうこれ以上皿やら茶碗やらを割らないでおくれ。いくら旦那様達がお優しいからって、割って良い訳じゃないからね!」

「はい」

「それでは格様、失礼いたします」


 シノは頭を下げると、台所から出て行った。


「……あのっ、ありがとうございました、格様っ!」


 深々と頭を下げる比奈に、格は屈んで割れた皿の破片に手を伸ばしながら笑った。


「本当に君はそそっかしいな。先月は父の大事にしていた花器を割っただろう?」

「あわわっ、格様、そんな傷口に塩を塗るような事おっしゃらないでください……って! 駄目です! 割れているのに触っては危険です! 怪我されたらどうするんですかっ!?」


 格の前に立ちはだかる比奈に、思わず吹き出してしまった。


「ぷ! 本当に君は面白いな」


 奇麗に整った顔で心底おかしそうに笑う格に一瞬見蕩れ、比奈は顔を赤くしながらすぐに皿を片付け始めた。


「もうっ、自分が鈍い事くらい百も承知です」


 確かに比奈はそそっかしいところはあるが、決して仕事ができない訳ではない。むしろよく気が利くし、誰からも好かれる。先ほど怒っていたシノも、もちろん失敗すれば怒るが比奈の事を気に入っている。

 目の前でぶつぶつと呟きながら慣れた手つきで床を奇麗にして行く比奈に、格は何とも形容しがたい感情を抱いた。


 由緒正しい武家の長男と女中。


 簡単に結ばれない関係である事は十分理解しているつもりだ。それに自分には親が勝手に決めた許嫁もいる。だが、格には今目の前にいる比奈以外に必要だと思えなかった。

 表面上許嫁と結婚して、妾として比奈を側に置いておく事もできだろう。でもそれは格の性格上許されない事で、何より許嫁にも比奈にも失礼だ。

 お互い口に出した事はないが、互いに対して好意を抱いていることは間違いないと、格は思っている。

 格と同じ年である比奈は、十歳の時からこの氷上家の女中として働いている。八年間一緒に暮らすうちに、比奈の明るくて優しい性格に惹かれて行った。いや、初めて氷上家の門をくぐって来た比奈を見た時からきっと好きだった。

 いささかどじではあるが、比奈の見せる笑顔も怒った顔もその全てが愛しく、格の疲れを癒してくれる。

 格の両親も比奈を気に入っていて、役人仲間の家を訪問する際、世話係として連れて行く事もあった。訪問先でもそのかわいらしさを気に入られ、女中として引き取りたいと頼まれた事は一度や二度ではない。もちろんそれは全て丁重にお断りしている。


「格様?」


 ぼんやりと考え事をしていた格を心配そうに見上げる比奈に、慌てて格は居住まいを正すと小さく咳払いをした。


「比奈、買い物に出かけるなら僕も一緒に行こう。君一人では心配だ」

「え? でも格様、今日は……」


 そこまで言って比奈は言葉を切ると、じっと格の顔を見た。


「比奈?」


 比奈の揺らめく瞳に見つめられ、格は顔が火照ってくるのを感じた。心臓も心持ち速くなる。と、そこで比奈の言わんとしている事に気づいた。


「あ……」


 そう、今日の夕方は格の許嫁が父親と共に氷上家を訪れる事になっていた。すっかり忘れていた格は急に冷めた自分の気持ちに苦笑いをする。


「そうだったな、忘れていたよ」

「格様はお部屋で本でも読みながらお待ちください……先ほどは庇ってくださってありがとうございました。それでは行って参ります」


 少し悲しそうに、それでも笑顔でそう言うと比奈は頭を下げた。

 比奈が出て行った勝手口をしばらくの間見つめて、格は大きなため息とともに肩を落とした。


 僕はなんて弱虫なんだーーー











 許嫁である小野田千代美は、格達の住む町を治める羽ばたき城の家老の長女で、真面目で努力家で働き者と評判だ。少し口うるさいのが玉に傷だが、女性でありながら勉学にも武芸にも熱心で、格は幼い頃に何度かあった事もあった。父親同士も仲が良く、当人の知らぬところで去年勝手に結婚を決められていた。しかもそれを知ったのはごく最近だ。

 別に格は千代美の事が嫌いな訳ではない。とても好感の持てる女性だと思っている。だがやはり、比奈に対して抱く感情と千代美に対して抱く感情は違うのだ。

 夕刻、格は客間で何とも居心地悪く座っていた。

 見事な料理の並ぶ樫の木の食卓には、格の両親、格、向かい合わせて千代美の父、千代美。そして何故か部屋の入り口のすぐ脇に女中頭のシノと比奈が座っていた。

 格は気づかれないようそっと比奈の様子をうかがった。

 静かに座っているが、心なしか浮かない表情をしているようだ。


「いや、今日は良く来てくださいました。大したもてなしは出来ませんが、どうぞゆっくりして行ってください」


 格の父親の挨拶に、千代美と小野田は頭を下げた。


「いつもおいしい料理を食べさせてもらって、こちらとしては招待してもらうのが楽しみですよ、なあ、千代美」

「はい、お招きありがとうございます」

「こちらこそ、そう言っていただけると嬉しゅうございます。さあさあ、どうぞ召し上がってください。比奈、小野田様にお酒を注いで差し上げなさい」

「はい、旦那様」


 比奈は小野田の隣に座り、頭を下げて挨拶をした。


「比奈でございます。どうぞよろしくお願いいたします」

「おお、この子が比奈ですか。うん、千代美と上手くやってくれそうだ」


 小野田の言葉に格は眉をひそめ、父親の顔を見た。


「比奈は少しそそっかしい処もありますが優しいし気も利きます。年も格や千代美様と同じですし、気兼ねなく使っていただけると思います」


 一体何の話をしているのだろうか。


「初めまして、千代美様。比奈でございます……」


 比奈は千代美の隣で頭を下げている。


「比奈、よろしくお願いしますね」


 比奈に向かって微笑む千代美を横目に、格は父親に堪らず尋ねた。


「父上、一体どういう事ですか?」


 格の問いに父は一瞬動きを止め、すぐに笑った。


「おお! そうか、お前にはまだ話していなかったな。これからお前と千代美様が結婚したら隣に新しく家を建てるつもりなんだ。そこで比奈をお前達夫婦専用の女中にしようと思ってな。つまり新しい女中頭だ」

「な……」


 まだ千代美と結婚する事に承諾などしていないというのに、両親は勝手に話をそんな先まで進めていたのだ。

 このままでは本当に結婚させられてしまう。

 格が反論しようと口を開きかけた所で、比奈が両手をついて言った。


「格様、どうぞよろしくお願いいたします」


 その声がかすかに震えていた事に、格だけが気づいた。

 比奈のその言動に反論するきっかけを失った格は、そのまま部屋を出て行ってしまった比奈をまた追いかけられなかった。






                 続く… 




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